〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月22日 『死ぬまで戦う運命』

1000ヤードの凝視 / 第32軍 南下の決定 / 変わり果てた姿

 

米軍の動向

首里に迫る米軍

米軍は左右からも首里に迫り、沖縄戦は終盤にかかっていると思われた。

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

5月も3週目の終わりになると、戦争は首里防衛線の本陣内で行われた。

5月22日から29日にかけて、場所によってはいくらか進出できたが、だいたいにおいて日本軍陣内では、これといった進出はみられなかった。日本軍の防衛線には、いささかのゆるぎもなかったのだ。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 395頁より》

 米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。…誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。… 情報将校のルイス・B・エリィ大佐は、… 22日の夕方に開かれた幕僚会議でも、与那原街道を第7師団が通過したとき、さして強い抵抗がなかったことについて、「これはジャップが、首里にたてこもったことを意味するのだ」と、彼の見解を裏づける材料として解釈していた。さらにバックナー中将も、「私は日本軍の第一戦線部隊は、全部首里にいると思う。退いていくようには見えない」といっていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421頁より》

 

ハーフムーンの戦闘

安里(あさと)・真嘉比(まかび): クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

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《ジェームス・H. ハラス『沖縄 シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間』 光人社 (2007年) p. 413》

この5日間にわたるハーフムーン一帯の不毛な戦闘で、シェファード将軍は首里高地からの砲撃がつづくかぎり、ハーフムーンの占領はむずかしいとの結論にたっしていた。そのため、第1海兵師団が首里の攻略に成功するまで、ハーフムーンの攻略は見合わせることにした。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 368頁より》

米国海兵隊: View of Cresent Hill from the southeast showing the slope defended by the enemy. Note the caves and compare to Sugar Loaf. Also note the relation of the elevation of the hill to the figure at the extreme right.
日本軍によって防御された“クレセント・ヒル”の斜面を南東側から望む。壕に注目して、“シュガーローフ”と比較してみるとよい。また、右端の地形と丘の高さとの関係性にも注目。1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

…日本軍は米軍にこの丘を渡すまいとして頑強に抵抗し、裏側の斜面を完全に支配していた。クレセント高地が日本軍の手の中に確固としてあるかぎり、第6海兵師団は首里包囲作戦を遂行することはできない。東方進撃が不可能だったからである。いろいろな状況を考慮したあげく、師団はむりにクレセントをおとすことはやめ、そのかわり針路を那覇国場川の方向にとったのだが、左翼後方を守備するためにも、また東側にいる第1海兵師団との連絡維持のためにもクレセント高地北側には、そうとう強力な守備隊を残しておく必要があった。米陸軍右翼(西側)の主力は那覇の方に向けられ、首里はしばらく攻撃を見合すことになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 401-402頁より》

安里(あさと): (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

5月22日海兵隊員たちは安里川の護岸にむけて散発的で軽微な抵抗の中を前進した。第3水陸両用軍団の情報部は「日本軍の重火器拠点を攻略すると、死体は遺棄されていたが、わずかなライフル以外の武器は発見できなかった。自動火器や、多用されている擲弾筒などの重火器は、これらの重要拠点が維持できなくなると、後方に向けて運び出されている模様である」と報告した。

偵察隊は、日本軍の散発的な銃撃がはじまる前に川を渡ると、180メートルほど前進して、那覇市の郊外に達した。…1100時までに対岸までの強固な渡河ラインを構築した

ガイガー将軍は、第1海兵師団との境界線を右に移動させて第4海兵連隊第2大隊と接近させ、第6海兵師団の左翼側と、第4海兵連隊の橋頭堡の防御をより強固にさせた。この間、激しい降雨により、安里川は胸の高さまで水深があがり、濁流と化していた。工兵隊は、第4海兵連隊の突破口を押しひろげるために、渡河器材の搬送を急いだ。』(369頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369頁より》

安里川の橋は日本軍によって破壊されていたが、米軍はベイリーブリッジを敷設した。

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南(那覇側の土手)から安里川にかけられた橋。浅瀬、流れの様子、そして古い橋と防波堤の構造形態が見られる。日本軍の破壊部隊によって壊された橋に注目。

The bridge over the Asato Kawa from the south (Naha Bank) again showing the shallowness and nature of the stream and the construction of the old bridge and seawall. Note the results of the enemy's demolition efforts on the bridge.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

与那原(よなばる)・運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

米軍はコニカル・ヒル (運玉森) の東部斜面を占領した。ここから街道を南下して与那原に進軍しチェスナット高地 (雨乞森) に向かった。

進撃開始時刻は、5月22日の午前2時、それまで兵は防水外套に身をくるんで、砲兵隊の予備砲撃の音に耳を傾けていたが、重苦しい砲弾の音は、雨の中ではかえって大きく、また近く聞こえてくるのだった。しばらくして中隊は縦隊になって、鬼気迫るような闇夜を、しのつく雨や泥土の中を南に進撃していった。与那原にくると廃墟の中を2人の日本兵がひらりと身をかわして物陰にかくれた。だが、米軍は発砲しない。ただ黙って進んでいくのみである。午前4時15分、中隊はやがて廃墟と化した村落の十字路まできた。前方には、すぐ目の前にスプルース高地(上与那原の俗称、上の森)がある。この丘に進撃すべく1小隊を先頭に隊伍をととのえたが、ここでの進撃で事故ひとつなかった。こうしてG中隊はスプルース高地の峰の上につくと、今度はE中隊に、チェスナット高地(雨乞森)に進撃を試みるよう信号弾を打ち上げて合図した。

E中隊が、与那原の南東1千メートルの地点にある高さ約130メートルほどの雨乞森についたのは陽も上がってからであった。空はあいかわらず重苦しく、暗灰色に曇っていた。(408頁)

第3大隊は与那原を通過して第2大隊につづき、雨乞森や、その南西につづく連丘ジュニバー(大里村役所跡後方)やバンブー・ヒル高嶺)の方に進んでいった。雨乞森を、第184連隊としては、第32連隊がぶじ与那原街道を通過して首里の背後に迫るようにするためには、前もって占領しておく必要があった。(409頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 395、408、409頁より》

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廃墟となった与那原

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦前の与那原駅周辺と鉄道の駅

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《AIでカラー化しています》

与那原町立綱曳資料館/歴史/昭和(戦前)

第184連隊が、与那原の雨乞森からその西方の高嶺森に至る線を確保し、左翼と後方を守っているあいだに、第32連隊のほうでは、那覇ー与那原線道路をまっすぐ西に向かって進んでいくことになった。首里を南部と切断するためである。

米軍の首里包囲作戦の全計画の成否は、じつにこの第32連隊の計画を遂行できるか否かにかかっていた。5月22日、第184連隊が南進しているとき、第32連隊のF中隊はコニカル・ヒルの南端、与那原のちょうど西にいて、そのあたり一帯を守っていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 410頁より》

 

1000ヤードの凝視 - 戦闘神経症

戦闘疲労症:「1000ヤードの凝視」とは、戦闘ストレス反応によって神経が麻痺し、眼の瞳孔が開いたまま、うつろで焦点の定まらない戦闘疲労症の典型的な症状である。

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(左) 1944年2月、マーシャル諸島エニウェトクの戦いでの2日間にわたる戦闘で戦闘疲労症の典型的な表情をみせる海兵隊員 (右)「2000ヤードの凝視」を描いた従軍画家トム・リーの作品 (1944)

1000ヤードの凝視 - Wikipedia

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アーチー・モリソンの回想録『1000ヤードの凝視のむこうに』(2002年)

 Archie Morrison, Just Like Me: Beyond the Thousand-Yard Stare, June 13, 2002.

第7師団の歩兵アーチー・モリソンは、1945年に沖縄で戦傷を負った。彼は1年以上心理的に患い退院後、彼は歯科で博士号を取得。彼はシアトル地域で36年間開業した。彼はPTSDカウンセリングに参加している。 (June 13, 2002)

 5月22日の戦闘で、83人の兵士が死傷した。スカイライン (浦添村牧港地区) の戦闘では、31人いた仲間も、今では10人だけになってしまった。昨日のバンザイ攻撃では、戦友のクックとジェークを含め、さらに3人の命が奪われてしまった。(生き残った) 誰もがジェークが持っていた日本兵の金歯と耳が入った袋がどうなったかについて聞こうともしない。我々は、部隊司令官が『ジェークは、多くの日本兵を倒したため、死後は銀星賞が与えられるだろう』と耳にしたが、私は『ジェークは、本当は自殺したことを知っている』。

その後、モリソン一等兵は、隣の場にいた戦友のリィーを誤って自分が射殺したのではないかという自責の念にかられ、その場で自分を喪失し、気が付いたのは5月26日、野戦病院の中だった。ちなみに、手記の中に出てくるジェークとは、彼の戦友であるが、名うての敵の金歯収集家であり、死体損壊者でもあった。彼が持ち歩く革製の袋の中は、日本兵の金歯であふれ、その中のあるものは、まだ骨がそこにくっついており、モリソンはそれを見て、「吐き気の波が、何度も自分に襲ってきた」と述懐している。

その後モリソン一等兵は、記憶喪失し戦場を彷徨しているとき、救出され、野戦病院に転送されることになった。病院で記憶回復し、原隊復帰(那覇在)を遂げるも、6月、再度幻覚や幻聴・幻視に苦しみ野戦病階送りとなってしまった。45年8月まで、沖縄にて治療を受けるも、「戦争神経症と診断されグアム島の米海軍病院に転送され、さらにハワイのスコッツフィールド兵雪に後送されている。モリソン一等兵は、「戦闘神経症」により戦後も長期にわたる治療を受けた後、長年の念願であった医療の道を志し、歯科医として成功を遂げている。もっとも彼は、生涯を通してうつ病の症状に書しみ、アルコール中毒を回復中のところ、2004年に死亡している。享年78歳4か月であった。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (October 1, 2017) pp. 172-173.》

米軍は5月19日から10日間のシュガーローフの戦闘で2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症者をだした。こうした大量の患者に対応し、精神的患者だけを収容する第82野戦病院が設立された。

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米国陸軍通信隊: Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて  1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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Prayers in the Smoke of Battle
硝煙の中、戦死したアメリカ兵たちに祈りを捧げる (1945年5月22日)

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戦闘疲弊症 (combat fatigue)

沖縄戦はまたおびただしい PTSD (心的外傷後ストレス障害) を生み出した。米軍は、第一次世界大戦の経験を踏まえ、激増する戦闘疲労症に対し沖縄に精神科医を送り込んで対応にあたった。兵士は旧日本軍の兵舎跡に建てられた米軍の第87野戦病院に送られた。

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて
撮影日: 1945年

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ところが45年5月10日前後から、海兵師団は南部戦線に投入され、これと前後して「戦闘神経」問題が真剣に議論されるようになってきた。すなわち5月5日、第82野戦病院の病院長が、第3海兵師団医療部のモリソン大佐 (Cap. Morrison)、第1海兵師団医療部のキンブロウ大佐 (Cap. Kimbrough)、さらに2人の副官と協議し、海兵隊員の「戦闘神経症」患者については第82戦闘病院に転送し治療する行為が得られた。 それを裏付けるかのように、5月10日を前後して、シュガーローフヒルの戦闘において多数の「戦闘神経症」患者が発生し、野戦病院に運ばれることになった。

海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてその占領から確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A view of one of the wards in the U.S. Tenth Army's neuropsychiatric center at 82nd Field Hospital on Okinawa. 

第82野戦病院の第10軍神経精神科センターの病棟 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第96歩兵師団第381連隊E中隊で5月、おそらくは運玉森の戦いで後方に送られた兵士の場合

沖縄で何が起こったのかについて、私が耳にしたのは『強烈で忘れがたい』とだけだった。父が、沖縄について話をするのはほんのわずかで、その時いつも彼は遠くを見ていた。彼の小隊で、7人しか生き延びれなかったことが、 彼に大きな影響を与えていた。不幸にも、父は沖縄での恐ろしい砲火と、戦闘によって悪影響を受けた。彼は、精神がバラバラになってしまい、それが 原因で恐怖の前線から離脱した。1945年6月5日、父は、戦闘疲労症 (combat fatigue)に苦しみながら沖縄を離れた。その後、一連の治療が施された。彼は、複数の軍病院で治療を受け、1945年9月25日、インディアナ州キャンプアタブリーにある回復病院を退院した。彼は、国家から多大な犠牲を強いられた。それは、彼が亡くなるまで続いた

戦争は、父に精神障害者という烙印を残した。母によれば、父が退院し、 駅で父と再会したとき、父の顔はずっと老け込み、振る舞いも以前と変わっており、かろうじて夫だとわかったと言う。数週間も彼は、毎晩床の上でゴロ寝して、恐ろしい夢を見た。オハイオ州を出た青年は、傷ついた老人になって戻って来たとも話していた。もし彼が、自分に何が起こったかを話が出来たら、また彼に取り懇く如何なる悪魔とも平和に共存できたならば、おそらく彼は、もっといい人生を過ごすことが出来ただろうに。それはまた、私たち全てが望むことでもあったが。

《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002) p. 37. 》

1000ヤードの凝視四肢が痙攣し歩行が困難になる症状も典型的なものであった。

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital. 戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

陸軍と海軍との神経精神病者の病識を直接比較するのは困難であるが、これら海兵隊員が陸軍病院に入院した折には、治療が非常に困難であると報告されている。さらに海兵隊員の原隊復帰は、難しいとも言われている。その理由は陸軍と海兵隊との基本的な軍事哲学の差にあるとするのが一般的な考えである。海兵隊精神分析について、次のような報告がなされている。

「ある種、海兵隊は、困難な戦闘では、どちらかといえば精神が不安定になるように思われ、そのため一度防衛線を破られると、ある種の統合失調症的なパーソナリティが出現してくる。断固たる行動をとる考え方に支配されているので、彼らは、沖縄地上戦動画後半になってごく当たり前になったように長期にわたるる苦痛な地上戦闘のため精神的にもがき苦しむ自分たちを見出したようである 。催眠療法 (Hypnoanalysis = 催眠下での人工的葛藤の誘導や無意識の内容の表出等) により、ある海兵隊員はついにはおびただしい数の罪を見せたが、そのとは海兵隊員が持つべき確固たる自意識の完璧な感情が損壊してしまうことに関連していることが分かった。精神科医はこれら若き兵士たちは、自分たちが決して恐れを見せてはならず、戦闘状態で何らかの恐怖心が顕現したら、完璧に個人的な名誉を損なうとの考え方が (海兵隊で) 植え付けられてきたからだと報告書で付け加えている」

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A combat fatigue patient is made to re-live his experiences in combat while completely hypnotized. Maj.Lindsay E.Beaton of Enaston, I11., prods his patient's memory of a rain of ack-ack under which he was caught. 

催眠術にかけられて戦闘での経験を思い出させられている、疲労した患者。ビートン少佐が高射砲の雨の下で保護された時の患者の記憶を呼び起こしている。(1945年6月 9日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

牛島司令官、南部への撤退を決断

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ひめゆり平和祈念資料館 PDF

戦闘が始まってから50日余りたった昭和20年5月22日、牛島は首里にあった司令部壕を放棄して、島の南部に撤退することを決めました。

WEB特集 沖縄戦 「非道な命令」下した司令官の孫として | 首里城火災 | NHKニュース

5月22日の夜、雨が首里城の廃墟を激しくたたきつけるなか、牛島中将は作戦会議を招集した。首里防衛線には亀裂が生じており、西翼では、シュガーローフの三角防御網が第6海兵師団に遂に突破されてしまい、海兵隊はいつでも首里を側面から攻撃できる位置にいた。東翼では、陸軍の第96歩兵師団がコニカヒル(運玉森)で突破口をひらき、米第24軍団は、この裂け目に第7歩兵師団を投入した。いまや日本軍の第32軍は、首里要塞が包囲される危機に瀕していた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 369-370頁より》

5月22日…夜、第32軍参謀全員と各師団の参謀らが軍司令部に集まり撤退案をめぐって討議した。第62師団の上野参謀長は、首里での玉砕を主張、第24師団の木谷参謀長は撤退案に賛成、混成旅団の京僧参謀は知念案を支持、軍砲兵隊の砂野高級部員が撤退案に賛同、海軍はとくに意見はなかった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138-139頁より》 

玉砕を主張したのは第62師団だけだった。もう戦おうにも武器弾薬がない首里周辺の洞窟には「後送するにも余力はなく、また集積した軍需品を輸送する手段もない。重傷者を見捨てて後退するのは、情として忍びない。師団は戦友将兵の大部分が戦死した現戦線で玉砕したい」と訴えた。後退と決定したら、動けない重傷患者は自らの手で殺してしまわなければならないのだ。それが日本軍であり、「虜囚の辱め」を受けさせないためである。

八原高級参謀はこうした意見を聞いたあと、長参謀長に対して、首里を放棄して喜屋武半島へ後退すべきことを進言した。すぐにでも玉砕したがっていた参謀長だったが、本土決戦を少しでも有利にするために、できるだけ長く抵抗すべきである、という意見には賛成しないわけにはいかなかった。それが沖縄守備軍・第32軍に課せられた最大の任務だったからである。

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 78、80頁より》

第32軍司令官 牛島満 (うしじま・みつる) 陸軍中将 / 第32軍参謀長 長勇 (ちょう・いさむ) 陸軍中将 / 第32軍作戦参謀 八原博通 (やはら・ひろみち)

牛島中将は決断をせまられていた首里で玉砕するか、知念半島へ撤退するか、あるいは20キロメートル南に位置する、多くの洞窟点在する八重瀬岳・与座岳まで撤退するかである。この場所には第24師団が北の首里に移動したさいに、武器や弾薬の補給物資をそのまま残していた。

すでに6万人以上の将兵が戦死していた。歩兵第62師団、歩兵第24師団、独立混成第44旅団ともに、ボロボロになっており、首里防衛線は崩壊の危機に瀕していた。

首里の防衛拠点が縮小していくなか、最後の決戦にために大規模な撤退作戦が計画された。生存している5万名もの将兵が、直径数キロ円内に押しこめられた場合、自滅は必至である。いったん包囲されてしまえば、圧倒的な火力をほこる米軍に前に日本軍の将兵は、格好の餌食にされてしまう。

最善の解決策、かつ、もっとも戦闘をひきのばす策を、牛島中将は選んだ。生き残った将兵を南部の八重瀬岳・与座岳方面へ撤退させることである。背後は海であり、彼らはここで死ぬまで戦う運命となった。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 370-371頁より》

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第32軍司令部壕

すでに多くの住民が南部に避難していたため、軍民入り乱れての戦いとなり、多くの人が犠牲になりました。沖縄で亡くなった県民はおよそ12万人。死亡した場所や時期が分かっているのは8万2000人で、少なくともこの半数余りにあたる4万6000人が首里撤退後の1か月で亡くなったとされています。
南部撤退がどういう結果をもたらすのか、祖父は知っていたはずだと貞満さん (牛島司令官の孫) は考えています。住民が避難していることも、そして米軍の兵力が圧倒的であったことも知っていたからです。

WEB特集 沖縄戦 「非道な命令」下した司令官の孫として | 首里城火災 | NHKニュース

撤退準備

日本軍の独立混成第44旅団本部は、5月22日の夜から23日にかけて、首里から識名に移動していた。南部から守るための軍の指揮につごうがよいからである。彼らは那覇を放棄して南側の高台地や、その向こう側に半円形の高地に陣地をつくった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 405頁より》

安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)

日本軍の撤退作業が進んでいた。満州での夜間移動訓練をつんだ輜重第24連隊は、残されていた車輌で5月22日に物資と負傷兵の搬送をはじめた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 390頁より》

 

そのとき、住民は・・・

母と子

私は、右の手のひらに負傷、(浦添村) 前田部落の壕に入り、桑原衛生軍曹からガスエソ予防の注射を受けた。この日(5月22日)は、私の父の命日であった。いましがた、猛烈な砲撃を受けた洞窟の奥をのぞいた。子供を抱えた女がいる。「早く南に逃げろ」と声をかけたが、ぼんやりしている。女のそばへ寄って、よくわかるように話をした。地獄のような洞窟のなかで、わが子を守る必死の母の姿に胸をつかれていた。ところが、女は、異様な声で笑い出した。いきなり、子供を投げ出し、砲煙の中に飛び出して行った。私は、子供を抱き上げようとして身をかがめた。プーンと死臭をつく、両の目は、穴になっており、ほおは、愛撫のためだろう、白骨が出ていた。婦女子のまじる戦争とは、こんないやなものなのか。全身をうちのめされたような疲労感を覚え、私はしばらくその場に立ちつくした」

《「七師団戦記 あゝ沖縄」北海タイムス1965年5月17日》

 

座間味島 - 阿真の収容所

米軍は座間味島の阿真地区に加え阿佐に収容所を拡大した。また五月の下旬になってはじめて米軍は住民に「集団自決」の遺骨収集を許可した。

そして五月の下旬になって、米軍から遺骨収集の許可が出され、住民たちは変わり果てた肉親との約二ヶ月ぶりの対面を行った。部落民の「自決」現場となった壕や大勢の部落民が亡くなった谷間では、この世の光景とは思えないほどの凄惨な場面が展開されていた。

《『座間味村史上巻』(1989年) 378頁》

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Major Gustaf in charge of Military Government on Zamami Shima, Kerama Retto. Holding one of Mayor's children.

軍政担当のグスタフ少佐。慶良間列島座間味島にて。村長の子どもを抱いている様子。(1945年5月22日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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