〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月16日 『沢山のブリキの兵隊』

沢山のブリキの兵隊 / 五二高地の白兵戦 / 嘉間良の孤児院

 

米軍の動向

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設に専念した。日本軍が接収した土地は、県民が沖縄戦あるいは米軍の民間人収容所に送られているあいだに、米軍によってさらに拡張され、ローラーで敷きならされた。

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左は日本軍が沖縄島に構築した飛行場。右は米軍が沖縄戦の年に建設した飛行場。米軍は日本軍基地を接収し整備拡大して米軍基地を建築し始めた。(map: wikipedia 沖縄の米軍基地)

伊江島飛行場

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パワーショベルによる石炭岩採掘現場。 採掘された石炭岩は飛行場の滑走路や道路の建設に使用される。 伊江島/1945年5月16日撮影)

General view of a coral pit, in which power shovels are excavating coral which will be used in the construction of airport runways and roads. Ie shima

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

嘉手納飛行場

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建設中の滑走路の表面を大きなローラーで平らにする第1878工兵航空大隊(1945年5月16日撮影)

Heavy rollers operated by men of the 1878th Engineer Aviation Battalion, flatten the surface of a runway under construction on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

総攻撃6日目、シュガーローフの戦い

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Chapter 08 | Our World War II Veterans

シュガーローフの戦い: 安里(あさと)・真嘉比(まかび)

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

シュガーローフ (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

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高層住宅が次々に建設されるなど、急速に発展している那覇市新都心地区、その街並みを一歩外れたところに、戦争遺跡「シュガーローフ」があります。 シュガーローフは、アメリカ軍が、攻撃目標としてつけた呼び名で、現在は給水タンクが目をひく、すり鉢の形をした丘で、標高は46メートルあります。… 小さな丘をめぐる戦闘は、昭和20年5月12日からおよそ1週間続きました。日本軍の犠牲者はわかりませんが、アメリカ軍だけで2600人あまりが戦死したり、けがをしたりしました。シュガーローフ一帯は、アメリカ軍に接収され、兵士やその家族の住宅となりました (ブログ註: 米軍基地「牧港住宅地区」)。全面返還されたのは、昭和62年 (1987年) になってからでした。頂上にある那覇市水道局の白い給水タンクが目印で、丘の上まで登ることができます。

沖縄県那覇市 シュガーローフ|NHK 戦争証言アーカイブス

「沢山のブリキの兵隊」

第6海兵師団は直面する多くの問題にたいし、混乱したまま建て直しが不能な状態におちいっていた。第10軍司令官バクナー中将のたてた理解に苦しむ作戦計画と、地形的な制約が相まって、海兵隊側は大規模な戦力投入ができなくなっていた。(232頁)

大きな地図や部隊の駒など司令部の空気とは無縁な海兵隊のシュガーローフ最前線の兵士たちは、何度も何度も際限なく繰り返される死の恐怖の渦に飲み込まれていた。消耗しきった兵士たちは、まるでロボットのようだった。…「俺はあの場所に、ただ存在しただけだった」…「まるで、沢山のブリキの兵隊みたいにね。…ただ、前進して、前進して、前進してただけだよ」(233-234頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 232頁より》

日本兵は夜、長い棒を取り出し、それに銃剣をくくり付けるのです。そして私たちのいる場所の目と鼻の先を匍匐(ほふく)する。その音が聞こえました。そうこうするうちに、連中の何人かが、夜、匍匐している日本兵と鉢合わせになったこともありました。私はよく言ったものでした。「暗い中を出て行くなんて、よっぽど度胸があるのだろう」と。感情はあるはずなのに。つまり、怖いものは無いのか、ということです。彼らだって恐怖心はあるはずです。今になって分かったのですが、彼らは死ぬことを恐れていなかったんじゃないでしょうか。話し合ったことはないから分からないですが。彼らは私と同じように人生を大切に考えていたのでしょうか。私は、死にたくなかったです。また家に帰りたかったです。それに多くの戦友は、帰還を果たせなかったのです。だが人は皆、違う感じ方をするものです。… (中略) ... 彼らは、彼らの将校の命令に従っただけですし、私は、私の将校の命令に従いました。新兵だった私たちはある意味で、洗脳されていました。海兵隊では、命令に従う訓練を徹底的におこないます。来る日も来る日も。右へならえ、左へならえ、右へならえ、後ろ向け後ろ・・・質問することさえ許されません。… (中略) ... 平均年齢が何歳ぐらいだったのかは知りませんが、私の部隊では、年配者はとても少なかったです。ほとんどが10代から20代でした。年配の者はほとんどいませんでした。

チャールズ・レパントさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米国海兵隊: Sugar Loaf Hill as seen from its western base. Marines stormed this hill by attacking up this slope and attempting to hold the crest under an unceasing rain of enemy grenade discharge and mortar fire. The hill itself was so pounded that its soil constantly shifted, often burying people who had dug holes in it for the night.
西側のふもとから見た“シュガーローフ・ヒル”。絶え間ない日本軍の手榴弾攻撃と迫撃砲火にさらされながら、海兵隊は丘の斜面を猛攻撃し頂上を攻略しようとした。この丘自体も多くの砲弾を浴び、地表は絶えず崩れた。夜間に壕を掘っていた人が埋まることもよく起きた。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

海兵隊は5月16日午前8時30分にシュガーローフへの攻撃を再開し、5日連続の押したり引いたりの戦いが続いた。第29連隊はハーフムーンを部分的に拡大したが、第22連隊はシュガーローフに焦点を当てました。29日からの援護射撃の支援を受けて、海兵隊大隊は午後遅くにシュガーローフの左側を取り囲み、斜面を駆け登ろうとしたが、首里高原からの砲撃を含む壊滅的な敵の砲撃に遭遇し、左側面と後部を攻撃した。海兵隊はシュガーローフの頂上を獲得するために4回に分けて突進し、4回に分けて撤退した。

戦闘特派員エルヴィス・レーンはシュガーローフでの大虐殺を見て、「灰色の泥だらけの風景に死体が散らばっている。切断された腕や足が多数あります。そして時々頭。私以外に死者を見ないようにしてる人が何人いるだろうか。死体の中にはニヤニヤしているように見える人もいる。頭蓋骨から肉が腐って歯がむき出しになっている。私が見つめていると、にやにや笑っている死者の一人がこう尋ねるのではないかと心配です。「あなたは私たちの仲間ではないのですか?」そして別の人は、「戦争はまだ終わっていない!」という恐ろしい予言をするかもしれません。あなたももうすぐ私たちに加わりますよ!」 

Sugar Loaf Hill Survival: U.S. Marines in the Okinawa Campaign

 

この間、師団の攻撃の右翼では第22海兵連隊第1大隊が、第3大隊にたいして支援射撃をおこなうため配置につこうとしたさいに、崇元寺集落周辺からの激しい自動火器の銃撃に見舞われていた。崇元寺の一帯はホースショアの西側に位置しており、これまでは日本軍の動向は確認されていなかった。日本軍はシュガーローフへの側面からの攻撃を防ぐために、増援部隊を送りこみ新たな防衛ラインを構築したようであり、崇元寺付近からの攻撃にくわえ、シュガーローフやホースショアからも攻撃をうけたため、第1大隊は所期の目的である近辺の高地の確保を達することができなくなった。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 271頁より》

日本軍がここに陣地を集結させていることは、いまやまったく明らかになった。シュガー・ローフに登った海兵隊も、近くの丘から砲火をあびては進撃もできず、またその丘にいる海兵隊は、今度はシュガー・ローフの砲火をうけて進撃を阻まれていた。作戦は遂行不可能になった。シュガー・ローフの峰周辺では、猛烈な接近戦を演じたのち、前夜の前線まで後退せざるをえなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 347頁より》

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交替後、前線から離れる第6海兵師団第29連隊ドッグ中隊。(1945年5月16日撮影)

Dog Company, 29th Marines, 6th Marine Division coming off the lines after being relieved.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

攻撃はさらに敢行しなければならないが、ここにきて第22海兵連隊の戦闘能力の低下が深刻な状況におちいり、翌日の攻撃に支障をきたす状況になっていた。このため、第29海兵連隊との統制線を西に移動させ、シュガーローフは第29海兵連隊の担当となった。連隊同士で、さらなる調整をおきない、翌日のハーフムーンとシュガーローフへの同時攻撃の準備をととのえた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 285-286頁より》

  

大名(おおな): Wana Ridge

…4門の自動操縦砲と、12輌の戦車が、16日、日本軍陣地に直撃弾を与えるためにやってきた。海兵隊歩兵に守られながら、戦車隊がぞくぞくと大名岩山の下の低地帯に集結、そこから高台へ向けて砲撃を開始した。

米軍が発砲したとみるや、日本軍はただちに47ミリ対戦車砲で応戦、戦車2輌を擱座させ、そのほかにも迫撃砲弾を撃ち込んで、多数の死傷者を出した。海兵隊は損害を出したまま引き退った。だが、ついに観測隊が、日本軍の対戦車砲陣地2つを発見、その日の午後、戦艦コロラド号の主砲で、この陣地を破壊させた。こうして、戦車と自動操縦砲MI7型は、その日のうちに大名岩山に進出することができた。(359頁)

5月16日、第7海兵連隊の第1大隊は、この大名丘陵の陣地を探らせるため、偵察隊を派遣した。ところが、偵察隊の後について海兵隊歩兵が前進をはじめたとき、日本軍が一連の反撃を開始して、海兵隊を大名丘陵北のふもとに追い返してしまった。(360-361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 359、360-361頁より》

幸地(こうち)・石嶺(いしみね)・石嶺丘陵

5月16日、まもなく日が暮れるというその少し前、第307歩兵連隊のE中隊長セオドル・S・ベル中尉は、山の上にある第2大隊の観測地点に、各小隊長を集めた。南のほうおよそ千メートルほ彼方に、夕闇にまぎれて石嶺丘陵がかすかに浮かんで見えた。ベル中尉はその山を指しながら、「中隊はあの山に夜間奇襲をせよ、との命令を受けている」といった。

… 暗くなるまでの数分間を利用して、将校たちは地形の研究をした。H中隊から、重機隊を1隊、C中隊から、ライフル1個小隊が、それぞれE中隊に配属された。この増援部隊の兵隊は、ほとんどがこれまで実戦に参加したことのない者ばかりであった。だが、そのまま銃に弾丸を装塡し、安全装置をし、つけ剣をして進撃するよう、命令を受けた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 364、365頁より》

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

米軍は、5月16日、ふたたび攻撃を開始した。この日も攻撃は失敗に終わった。小隊が石嶺の大石森の峰の上までさしかかると、日本軍は迫撃砲や機関銃で猛然と反撃してきた。このため米軍はまたも退かざるを得なかった。この日、第3大隊は、4回も頂上征圧を試みたが、そのたびに北部斜面のほうに撃退されてしまった。

一方、第2大隊は、チョコ・ドロップ頂上や、裏側陣地にたてこもっている日本軍を攻撃すべく丘陵側面から進撃したが、一小隊は午後おそくなって撃退された。しかし、別の一隊は、チョコ・ドロップ東側にある低地帯に陣地を確保することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 378-379頁より》

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

チャーリー高地とキング高地攻略作戦の一環として、近くの不毛の小高い丘ーラブ高地に対する攻撃が開始された。これはチャーリー高地の日本軍を一掃するとともに、L中隊の弾薬補給路を確保するため、キング高地の西端におくのがねらいだったのである。

ラブ高地を奪れば、ここからはコニカル・ヒルの南西も攻撃でき、また第382連隊のオーボー攻略も支援することができるのだ。ところが、実際はそうはいかなかった。単なる小高い丘と思っていたのが、ラブ高地の防備は実に固く、攻撃は失敗したばかりでなく、チャーリー高地の南傾斜面での進撃も、いっこうにはかどらなかった。そこには巨大な洞窟が無数にあり、なかには優勢な日本軍がいたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p354a.jpg

CONICAL HILL and the adjoining enemy positions to the north and west

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

C中隊の攻撃には戦車隊も加わったが、日本軍との激しい砲弾戦で弾薬つきて後退し、C中隊の一小隊にはラブ高地をはじめコニカル・ヒル、オーボー高地、キング、チャーリーの各高地の50梃ほどの機関銃から撃ち出されるものすごい弾幕に、ほとんど全滅状態におちいってしまった。その夜、帰ってきた兵は6人、しかも彼らは全員負傷していた。残りの20人は目的地に向かったまま、ついに帰ってこなかった

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386-387、391頁より》

 

第32軍の動向

五二高地の白兵戦

米軍がシュガーローフと呼んだ場所を日本軍は「五二高地」と呼んだ。

第32軍司令部

5月16日、牛島は、大本営と、台湾にいる直轄の第10方面軍司令部にたいして緊急電文を送った。この電文では、戦況は逼迫しており最後の予備部隊を投入することになり、首里防衛戦は日に日に消耗していると書かれていた。

彼はまた、2万5千名分の武器(沖縄県民の義勇軍のものか、あるいは陸軍兵士への不足分かは言及されていない)と、数個大隊の空挺降下による増援があれば、さらに戦闘を継続することができるとし、また沖縄沿岸の米国艦隊にたいする総力をあげた航空攻撃で、バクナーの第10軍の補給を遮断できるはずだと述べた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 286頁より》

安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ) 

…日本軍の消耗も激しかった。第32軍は5月15日から16日の夜に独立混成第15連隊の裂け目にたいして、特設第1旅団*1から予備部隊を増援として投入していた。この増援は緊急を要するものだった。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

陸軍の沖縄守備隊第32軍司令部は、小禄の海軍から無理に供出させた*2 少ない虎の子の陸戦部隊をそのままシュガーローフに斬込み隊として送り込んだ。

16日も米軍は、2コ連隊の大兵力で強襲をしてきた。52高地をアリのように米兵が葡い上がってくる。頂上にたどりつくのを、姿を現した日本兵が、蹴落す。しかし、ついに頂上を占領された。すぐさま、日本軍は、猛然と立ち上がって白兵戦。米軍の手から頂上を奪い返す

52高地を直接防備していたのは、小禄の海軍部隊から派遣された山口海軍大尉の指揮する大隊であった。巧妙に、陣地を丘の非敵側(敵に面しない側)につくってあるので、大砲や艦砲では攻撃できない。戦車が52高地の西に回り、そこから攻撃しようとしたが、日本軍の対戦車砲の集中射撃を受けるので近よれない。とうとう、2コ連隊が、全力を傾けながら、それ以上どうしようもないうちに損害続出し、敗退した。

「16日の戦闘が、沖縄戦で一番苦しかった。どう手の打ちようもなかった」と、かれらはいう。しかし、日本軍も、惨たる被害をうけ、山口大尉以下ほとんど戦死してしまった。(残存者は負傷者の22名だけ

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261-262頁より》

地元から防衛隊として召集された兄は、日本兵が戦死したため生きて逃れることができた。

両軍による攻防は、1945年5月12日から1週間続いた。丘の上に設置された説明板には、1日のうちに4回も頂上の攻守が入れ替わったことや、米軍だけで2662人が死傷し、1289人が精神を病んだと記されている。日本側の死傷者は記録がない。戦車を前面に進攻する米軍。旧日本軍は砲撃や手りゅう弾で応戦する。「武器が違う。食料も足りない。太刀打ちできなかったと兄は話していた」。行動を共にしていた兵士が死に、兄は戦場を離れることができたという。姉は解散命令が出るまで残った。「姉によると、撤退する際、衛生兵は負傷兵に『痛み止め』と言って青酸カリを配ったそうです。連れて行かないのかと尋ねたら『おまえが背負って行くか?』と」。姉は残された負傷兵の最期は見届けていないという。中村さんは「戦えない者は切り捨てる。捕虜になる前に口封じですよ」と語る。姉と兄は戦後、シュガーローフの話をすることを嫌がった。特に姉は「世話をした負傷兵の顔が浮かぶ。声が聞こえる、ってガタガタ震えていた」。

「『痛み止め』と言って青酸カリを…」沖縄戦で16歳の姉が見た惨状|西日本新聞

 

そのとき、住民は・・・

キャンプ・コザ - 嘉間良の孤児院

4月2日、米軍は嘉間良に海軍宣撫隊本部を設置し住民を収容。4月4日には胡屋に野戦病院が設置された。また孤児院も併設された。

当時14歳の少女の証言 (中城村仲順出身)

八名家族のうち、沖縄戦を生き延び、米兵に助け出されたのは順子、八歳の妹洋子、十カ月の弟邦雄の三名だけとなった。順子は久志の野戦病院へ収容され、その後、宜野座村福山にあった収容所へ連れていかれた。洋子と邦雄は、越来村嘉間良の孤児院に送られた。そこで、乳飲み子は別の部屋に分けられたため、二人は別の部屋に入れられた。洋子によると、二曰後に乳飲み子部屋を身に行くと、弟の姿はなかったという。六十年たった今でも、邦雄の生死は分からない。「弟は、骨と皮になり、泣くこともできなかった。生き永らえることができなかったのでは」。弟への思いを断ち切るために順子はそう考えてきた。

《川平成雄「収容所の中の住民と生活の息吹」琉球大学経済研究(76): 1-25 (2008-09) p. 19.》

A native nurse feeding one of the patients at the AMG Hospital on Okinawa.

米軍政府病院で患者に食事をさせる地元沖縄の看護婦 (1945年5月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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*1:輸送業務、飛行場や陣地構築の任務にあたる。

*2:小禄の海軍はもともと飛行場建設のための基地であり陸上戦部隊ではない。大田少将は11日「残る兵力は重火器を使用する能力なく 槍を主体とする烏合の衆となる」と渋った。