〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月21日 『雨と泥との闘い』

豪雨の中の会議シュガーローフ宮古島の日本軍

米軍の動向

雨と泥との闘い

5月21日、米第10軍が首里市内に進出しはじめようとした時、戦線一帯はひどい豪雨に見舞われた。その結果、道路が押し流され、米軍は補給路を絶たれた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》

f:id:neverforget1945:20210521090215p:plain

トラックが別のトラックを追い越そうとしている。左側は深いぬかるみで立ち往生したトラックで、右側が通り抜けようとしているトラック。

One truck tries to pass another. The one on the left is stalled and the other is trying to get by in the deep Okinawa mud.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月21日、天気が悪くなり、雨が降りだした。初めは小雨だったのが、夜更けには土砂降りになった。それが10日間続いた豪雨の始まりだった。冷たい雨が地を叩き、あたり一面、泥のぬかるみになった。山道を進もうにも、一足ごとに滑って転ぶありさまだった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 372-373頁より》

 

首里に迫る米軍

f:id:neverforget1945:20210521091046p:plain

Chapter 08 | Our World War II Veterans

f:id:neverforget1945:20210521090330p:plain

日本軍のトーチカを攻撃する海兵隊第15砲兵連隊の105ミリ榴弾砲(1945年5月21日撮影)

105mm Howitzers of the 15th Marine Artillery Regiment shown in action against a Nip pillbox.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

安里(あさと)・真嘉比(まかび) : シュガーローフ(52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘/タカムイ/神田川ムイ)

前日の20日夜遅く、日本軍は450〜500人規模で米軍を攻撃、激しい戦闘は深夜まで続いた。

『朝日がのぼると、K中隊の周囲は、海兵隊員や日本兵死体、飛び散った肉片などで、食肉処理のような様相を呈していた。「泥の上に散らばったり、谷間の壁の岩に張りついたり、人間の肉片は、あたり一面に散らばっていた」と海兵隊員は語った。体が真っぷたつになった男、切断された腕や脚、取れた頭部などがゴロゴロしていた。G中隊の海兵隊員…がこの場所にやってきたとき、手をのばせば、どこにでも砲弾の破片があり、前夜の砲撃の凄まじさに息をのんだ。…死体を踏まないように、前を歩く兵士の足跡に、注意ぶかく自分の足をかさねながら進んでいった。泥のかたまりのなかの武器の部品、弾薬ベルト、それに未使用の手榴弾などが肉片のなかに散らばっていた。こうした肉片は、どちらの陣営のものか識別できなかったが、どうやら日本兵のもののようだった。』(360頁)

『日本軍が首里防衛線の西翼を突破されることをいかに恐れているかは、今回の攻撃の規模と激しさが物語っていた。戦死していた日本兵は、正規兵で沖縄の義勇兵ではなかった。死体の一体は、身分証を所持しており、階級が海軍の2等水兵であった。また死体の山のなかから見つかった一体は、1等水兵の階級章と、海軍整備科の所属を記載した郵便貯金の通帳を所持していた。のちの捜査で、独立歩兵第1大隊をしめす身分証や、さまざまな海軍の身分証が見つかった。これは、日本兵の多くが那覇近辺の管理支援部隊から掻き集められていることをしめしていた。』(362-363頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 360、362-363頁より》

f:id:neverforget1945:20210521091552p:plain

Crescent Hill held out until 21 May. Troops of the 4th Marines, 6th Division, crossing open ground to Crescent were under constant observation and fire from Japanese positions on Shuri Heights to the east

US Army PTO 11 Okinawa: Chapter 13: The May Attack on the Shuri Defenses

5月21日の深夜、雨がふたたび激しさを増していた。このため、戦闘要員の輸送と、臨時物資集積所への補給は泥沼で身動きがとれなくなってしまった。「第6海兵師団の新たな攻撃計画にとって、最大の障害は日本軍守備隊の激しい抵抗ではなく、勢いの衰えない土砂ぶりの水で急変した沖縄南部の泥の海であった」と、海兵隊沖縄戦史研究家は書き記している。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

f:id:neverforget1945:20210521091803p:plain

泥にはまり立往生する米軍車輌 (撮影日時不明)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 安里(あさと)川: (首里の南東、弁ガ岳方面から那覇を東西に横断するように流れる)

5月21日、第6海兵師団はふたたび攻撃を実施した。この日の目標は安里川上流への到達であった。攻撃の中心は第4海兵連隊で、第22海兵連隊は前進にあわせて支援攻撃を実施する計画になった。…第4海兵連隊第1大隊(C中隊が連隊の予備で抜けていた)がシュガーローフの南側斜面を下り、ホースショアの東の端にむけて攻撃の中心をになった。進撃速度は遅く戦闘は激しく、A中隊、B中隊とも川に到達するために苦戦していた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 363頁より》 

5月21日、第4海兵連隊は安里川の線にそって攻撃をつづけていった。彼らは安里タカムイや神田川ムイのほうに、250メートルほど前進したが、首里の高地から撃ち込んでくる日本軍の猛烈な砲火や迫撃砲弾を浴びて、クレセントを完全に占領することは不可能であった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362頁より》

f:id:neverforget1945:20210521092024p:plain

北側の土手から安里川にかけられた橋。日本軍破壊部隊によって壊された元の橋、沖縄の至るところでみられるような防波堤の構造形態に注目。

The bridge over the Asato Kawa from the north bank. Note the original bridge and the results of its demolishment by the enemy. Note the construction of the seawall, typical throughout Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

雨は、朝から午後遅くまで、絶え間なく降りつづけた。砲弾で穴だらけの地面は沼のようになり、滑りやすく、補給は困難になった。海兵隊は川に向けて、点在する多くの日本軍の防御拠点だけではなく、天候とも戦いながら、さらに180メートルほど前進をこころみた。第3大隊は、ホースショアの内側の窪地を攻撃した。この場所の日本軍は、もはや以前のように地形に防御されることはなかった。火炎放射班と、爆破班が日本軍の迫撃砲陣地からの抵抗を一掃した。K中隊とL中隊は昼さがりに攻撃を停止し、ホースショアと安里川の中間に防衛線を構築した。ホースショアの窪地にあった日本軍の迫撃砲陣地は無力化された。師団の左翼側では、第4海兵連隊第2大隊が、首里からの激しい砲撃をうけたため、ほとんど前進できなかった。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 頁より》

大名(おおな)

攻撃は、21日にも続行された。戦況は、ますますひどく、進展状況は前日よりもおそい。ここでも、これまで何回も行われてきたように、米軍は特定の陣地を大砲や手榴弾、ダイナマイトなどで、一つ一つ、たんねんに撃滅しなければならず、そのために、進撃度は遅くならざるをえなかった。

第2大隊は、大名高地にナパーム弾を撃ち込んで焼きはらった。このため日本軍は外に逃げまどい、米軍迫撃砲のもとにさらけだされる仕末になった。こんどはバズーカ砲やライフル、手榴弾、その他、幾百もの白燐手榴弾をもって、丘陵裏側の洞窟を攻撃した。日本軍の迫撃砲と銃火が激しく、海兵隊は墓や岩かげを見つけては、そこに、身をひそめた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/83-04-1.jpg

首里城をめぐる攻防戦で、大名丘陵を確保すべく前進する第1海兵師団の兵士たち。(1945年 5月21日撮影)

Marines of the First Marine Div. moving up to secure Wana Ridge in the fight for Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第3大隊は荒廃した丘の上を、25メートルほど前進したと思うと、夜になると、今度は、また元の陣地まで追い返された。 

こうして攻防戦を幾度かくりかえしたが、5月21日の午前零時をすぎてまもなく、およそ200人からなる日本軍が、第1海兵師団を大名丘陵前面から駆逐しようと襲いかかってきた。彼らはロープや十字鍬、ハシゴを使って反対側の険しい崖をよじのぼり、小道を通って海兵隊の陣地に斬り込んできたのである。

これを迎え撃ったのが第2、第3大隊のあいだにいたC中隊で、ただちに機関銃やライフルで応戦したが、なかでも、この至近戦で効果的だったのは、榴弾であった。海兵隊は腕も折れんばかりに手榴弾を投げつけ、迫撃砲手は集中砲撃を浴びせて、日本軍の逆襲は阻止された。この日の朝、C中隊は4人の戦死者を出し、26人の負傷者を出したが、日本軍もまた、140人の戦死者を出した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 362-363頁より》

f:id:neverforget1945:20200516224104p:plain

第1海兵師団の歩兵。首里城決戦でワナリッジにある日本軍施設を攻撃

(1945年 5月21日撮影)

Infantrymen of the First Marine Div. Firing at Jap installations on Wana Ridge in the fight for Shuri Castle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月21日から小やみなく降りつづいた豪雨は、大名峡谷を泥沼にも似た濁流の海に変えた。戦車はぬかるみにはまり、水陸両用のアムトラックさえ泥沼を乗りきることはできなかった。前線の環境は痛ましいほど劣悪だった。物資の補給と死傷者の後送が深刻な問題になった。食糧、水、弾薬も底をついてきた。タコ壺はたびたび水をかき出さなくてはならなかった。兵士の服もブーツも足も体も、つねにずぶ濡れだった。睡眠をとることも不可能に近く、心身両面のストレスが海兵隊員をむしばみはじめていた。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 378頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p368b.jpg

豪雨で道路が流されたため、物資や負傷兵の移送は海兵隊員が手で担いで行なった

1st Division marines resort to hand carrying of supplies and wounded as roads are washed out by torrential rains.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

f:id:neverforget1945:20210521092824p:plain

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

5月21日、L中隊がまだ〝犬歯山〟付近ではげしい戦闘にはいっているころ、一方では、I中隊とF中隊が、コニカル・ヒルの方向からシュガー・ヒルを攻撃していた。米軍は、峰づたいに地歩を固め、機関銃や迫撃砲を撃ちまくり、その後、戦車隊を先頭に洞窟やトーチカを攻撃していった。60ミリ迫撃砲や重機は、的確に日本軍陣地を攻撃し、歩兵の動きについて峰から峰へ進んでいった。F中隊は右翼からシュガー・ヒルに進撃し、散兵線をしいたが、〝犬歯山〟からの猛烈な砲火で、そこに1週間も釘づけにされてしまった。だが、同中隊は、21日の夜、奇襲攻撃を試みて50人もの日本兵を倒し、一方、I中隊はなんなくシュガー・ヒル東部を占領し、G中隊も増援にきた。

この日の進撃で、381連隊は56人もの戦死者を出したが、日本軍には403人の損害を与えた。コニカル・ヒル東斜面は、いまや全面的に米軍の手中にはいり、第7師団は右翼では少しも妨害されることなく与那原海岸の道路を進撃できた。しかし、コニカル・ヒルの西側と〝犬歯山〟の背部はまだ日本軍が確固と守っていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 393-394頁より》

『米第96師団は、コニカル・ヒルと、その南端のシュガー・ヒルの東側斜面を確保した。一方、与那原から馬天方面にいたる街道は、進撃にそなえてきれいに片づけてあった。ひとたび中城に面した街道を通って与那原に出て、さらに進撃すれば、米軍は背後から首里を襲うことができる。そうすれば日本陸軍の主力をうまく包囲することができるのである。これが米第24軍団が5月21日、日が暮れるとともに開始しようとしていた作戦計画であった。』(406-407頁)

5月21日の午後7時0分、コニカル・ヒル北部のふもとにあたる西原村我謝丘陵に隊伍をととのえて進撃することになったが、その進撃は夜の静寂になかを、忍びこむようにして粛々と行うことになった。』(407-408頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406-407、407-408頁より》

 

 

米軍嘉手納基地の運用

f:id:neverforget1945:20210521082550p:plain

指令のため嘉手納飛行場に降り立った第83魚雷中隊指揮官スチュワート海軍少佐とTBF、F4U操縦士と乗組員(1945年5月21日撮影)

TBF's and F4U's with pilots and crewmen on Kadena airfield, Okinawa, planes were led by Lt. Cdr. H.A. Stewart commanding officer of torpedo squadron 83 and landed at airfield for briefing.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210521082839p:plain

食事に列を作る海兵隊員。明け方の朝食後、発進前に機内でコーヒーを楽しむ第83魚雷中隊の乗組員(1945年5月21日撮影)

Marine personnel lined up for chow at Kadena airfield, Okinawa. Aircrewmen of Torpedo Squadron 83 enjoying coffee after pre-dawn breakfast aboard ship before take off.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210521083407p:plain

米国海軍: Officers of Air Group 83 squadron, before a tomb near Kadena airfield, Okinawa.

嘉手納飛行場近くの墓の前でたたずむ第83飛行部隊の将校達。1945年 5月21日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向 

軍司令部 - 豪雨の中の会議

沖縄戦が始まって2か月が過ぎようとしていた。沖縄の32軍は、組織的に戦闘を続けることが難しくなっていると考えていた。

5月21日首里の日本軍司令部に八原高級参謀をはじめ、各兵団の参謀長が集まっていた首里で「玉砕」覚悟の最後の戦闘を続けるか、南部に撤退しあくまで持久戦を続けるのか。司令部に梅雨の激しい雨の音が鳴り響く中、協議は夜まで続いた。

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 146頁より》

この頃、守備軍首脳は、首里で玉砕する腹づもりをしていた。しかし八原作戦参謀は、一般的戦況を考慮しつつ南部の喜屋武半島地区への撤退を考えていた。彼は、部下の長野参謀に守備軍さいごの布陣の策定を命じた。長野参謀は高級参謀の意を汲んで次の三案を立案しそれぞれの利害得失を明らかにして参謀長に選択決定させることにした。

一、喜屋武半島に撤退する。
二、知念半島に撤退する。
三、首里複郭陣地に拠る。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 138頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Yahara_Hiromichi.jpg

第32軍高級参謀 八原 博通(やはら・ひろみち)陸軍大佐

Hiromichi Yahara - Wikipedia

  

シュガーローフの寄せ集め部隊

安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)

『日本軍の大規模の兵力を動員した攻撃は粉砕された。第4海兵連隊が、陣地の正面で集計した日本兵の死体は494体にものぼった。それ以外にも16体が、砲撃や銃撃をうける手前で死んでいるのが発見された。さらに第22海兵連隊の担当区域でも40体の死体が確認された。「日本軍の軍服は、比較的新しく、きれいだった。中には、米海兵隊のヘルメットや弾薬ベルトを着用した日本兵の死体も見うけられた」と米軍の情報分析報告書には記されている。』(362頁)

『陸軍の正規部隊ですら寄せ集めの状態で、新たに投入された海軍部隊の大半は戦闘経験のない管理支援部隊や、民間人からの義勇兵、それに、大田海軍少将指揮下で、ほとんどが戦闘訓練をうけたことすらない、地元の沖縄県民による飛行場設営部隊で構成されていた。

しかしながら、これらの部隊は小禄半島にあった補給処と、飛行場に散らばっていた航空機の残骸などから回収した豊富な自動火器と弾薬を装備していた。このうち、とくに第3大隊は「巌部隊」と呼ばれており、2個中隊からなる415名の兵士に、28梃の機関銃、258梃の小銃、27門の擲弾筒、191個の地雷に、1744発の手榴弾を所有していた。これらの3個大隊は第32軍の増援のために組織されたものであった。』(341頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 341、362頁より》

 

大名(おおな)

…米軍は、しつように大名の岩山地帯を攻撃、大砲や手榴弾、ダイナマイト、ナパーム弾などあらゆる砲火でひとつびとつ守備軍陣地をつぶして5月21日、ついに大名高地の台上を確保した。沢岻と大名を結ぶ丘陵地帯が陥ちると、首里の守備軍本陣の運命は決まったも同然だった。少なくとも首里の陥落は、もはや時間の問題でしかなかった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 134-135頁より》

運玉森(うんたまむい)

f:id:neverforget1945:20210521082112p:plain

与那原北方にある「ラブ・ヒル」近くの、戦闘が行われた地域。丘の中腹に見えるおびただしい数の壕は、日本軍によって掘られたもの。(1945年5月21日撮影)

Aerial of terrain near ”Love Hill”, north of Yonabaru on Okinawa, where fighting took place. Thousands of Jap caves dug in hillside.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

形勢は、日本軍にとって、危急の様相を見せてきた。運玉森が、5月21日、米軍の手に陥ちた。米軍の第一線は、与那原の北外れから運玉森、弁ガ岳を経て石嶺、真嘉比、那覇市の北縁に及んでいた。日本軍は、なお、最後の一兵になるまで戦いをつづけたが、苦戦は言語に絶した。つぎつぎに戦死傷者が出るが、その補充をすることはできなかった。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 265頁より》

f:id:neverforget1945:20190521212856p:plain

与那原町民平和の日(5月21日)

1945年5月21日、米軍は与那原町のシンボルとして知られる運玉森の東側を占領、街中を攻撃していました。

与那原町民平和の日(5月21日)沖縄県与那原町観光ポータルサイト「与那原ナビ」

 

宮古島の日本軍陣地 - 軍隊内のリンチ

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20210513/20210513090837.png

総務省  宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

銃でなぐりつけないまでも、手でなぐる時、並ばせて二十人までは連続ビンタをはるのだが、あとは腕がつかれるのか、革の帯かくでなぐりつける。それが反対側の方向に巻きつき、それを引くと転倒させられる。なぐった方は忘れても、なぐられっぱなしになった者達は今でもその手きびしいリンチは忘れん。大浦部落南のフジ峯あたりも皆日本軍の陣地になっていた。そこに鈴木という中尉がいた。体は大きく顔の小さい男だった。

部下の衛生兵が隣の島尻部落に転向していた部隊にマラリアにかかった兵隊に投薬しに行った。ものすごい雷雨の夜、苦しがる兵に投薬してこの雨にぬれたら自分も病気になると思ってたのか、そこで一泊して帰隊したという。連絡がなかったという理由で部隊逃亡の罪を着せて、その中尉は、半殺しになるまでなぐりつけた上、個人壕に入れて、水も飲まさず、食も与えず、上からカンカン箱をかぶせて、生きうめ状態で殺してしまった。泣きわめく声が部落にまで聞えていたが、だんだんその声が弱くなり、あとは聞えなくなってしまった。

マスパリの部隊に入隊していた頃、満州(中華人民共和国東北地方)義勇軍から召集されて来たという若い、名前は分らないが上等兵がいた。衛生兵だった。体が丈夫でなく、暑さにやられて、くたくたになっていた。なまけているといわれ、食もろくに与えず、それでも休養幕舎には入れてあった。鏡原にあった野戦病院は傷病兵でいっぱいだったから各中隊に幕舎が作られていた。その中で検温に来た衛生兵の渡した体温計をとり落してそのツノ(体温計水銀溜の部分)を切ってしまった。補給のない島で、体温計をこわした理由で、五年兵の兵長だったその衛生兵は、めちゃくちゃにその病人をなぐりつけた。その夜、なぐられていた若い兵が姿を消した。一週間後に探し出され、引っぱられて来た。宮古も戦地扱いになっていて三日間、行方が不明だと死罪になるといわれていた。中隊長がまるで豚を屠殺するかの様に棍棒でなぐっている。隊長幕舎の方から、ガーパガーパと棒のにぶい音が手にとる様に聞えてくる。次の日も、又次の日の夜も。湯のみの半分くらいの握り飯を一コ、塩で味をつけて与えられ、三日後には、眼は全然見えず、顔中着くはれあがり、此の世の人とは思えない形相のふらふらの人に、兵舎の前の岩盤の所を、チッタ(石のみ)で掘れという。目が見えなくなっているから金槌で手を打ち、血だらけになった手で、自由のきかなくなった体で掘り続けていた。軍隊のおそろしさを目のあたりに見せつけられ、映画、テレビで戦争ものが出たら、今でも見る気がしない。戦時下を体験しない子供たちは見たがるが。

西原の伊志嶺酒屋の前に、当時西原部落一帯に駐屯していた部隊の衛兵所があった。初年兵教育期間を終えて、待ちに待った休暇の日が来た。公用腕章を渡され喜び勇んで家に帰った。家に行ったら、何か喰べるものを持ってこいと、上級の兵隊にいわれて。そこの衛兵所の前まで来た時、呼び止められる。…(中略)… 公用腕章を見せると、衛兵所の前を通る時は、必ず歩調をとり、敬礼してから通るんだと、さんざん難ぐせをつけて、しかられ、敬礼すると、今度は頭布の上から敬礼とは何事かとしかられる。その後、昭和二十年の六月には伊良部島から、移動して来た通称、碧部隊といわれていた西原に兵隊がいたが、別名、ハダシ部隊といわれていた。下士官以上の階級しか軍靴もはけず、下級兵ははだしで歩いていた。こちらは初年兵ながら靴が支給されていたから、それも、米軍が上陸して来たら、島出身の若いわれわれが、最前線に立たされる事になっているためであろうとは思ったが、上等とはいえないまでも、軍靴だけははいていた。前にさんざんしぼられた場所だけに、そこの衛兵所に気をくばりながら、敬礼しようとすると、一瞬向うの衛兵たちがいっせいに立ち上って敬礼するではないか。びっくりして背すじに寒気を覚えながら、うしろから又呼びとめられるのではないかと背中をぞくぞくさせながら、その路を通りすぎた。「路を歩く」と云う事が敵機空襲の危険だけでなく、軍隊のいる島では緊張しなければならなかった。…(中略)…

マラリア死ぬ人が続出し、ある家では、一家全員が、高熱におかされ、ヤドーリ(家倒れ一家根絶)しそうになった。来る日も、来る日も、人が死ぬので、棺桶を作る板もなくなり戸板にのせて運んでいた。
沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

「現地召集兵の証言」戦争証言 宮古島 ( 1 ) - Battle of Okinawa

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■