〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月23日 『片手に手榴弾、片手に白い布片』

戦闘神経症大田昌秀平安座収容所

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 与那原飛行場

米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20の小飛行場を建設し、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

与那原飛行場

[日本陸軍] 東飛行場(西原飛行場・小那覇飛行場)➔ [米軍] 与那原飛行場 (1959年に返還)

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LST's waiting to be unloaded at Beach at Yonabaru.

与那原の浜で陸揚げを待つ戦車揚陸艦(1945年7月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

7月19日久手堅収容所で敗残兵に襲撃された男性の証言から

7月20日に米軍の病院に百名病院から運ばれてきた。百名からコザまで私たち家族三人だけアムブランス(患者輸送車)で運ばれたが途中窓越にみた道の周辺はすっかり変りつつあったことに驚いた。知名二区今の海野から与那原までの海岸地帯がすっかり港湾施設をつくっていた。岩をコンプレッサーで破砕する騒音、岩石の粉煙が周囲に立ちこめ、この白いゴミの中を私たちのアムブランスは通り抜けていった。海には破砕された石で突堤がつくられ佐敷の仲伊保海岸まで数ヵ所の突堤ができていた。与那原海岸は円い穴のあいた鉄板カリバートが砂の上に一面に敷きつめられてあって、軍需物資が一杯おろされていた。西原から泡瀬までの海岸平地は飛行場となり数条の滑走路が構築されていた。 

 

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The brain of the Air Defense on Okinawa, Ryukyu Retto, was enclosed in a sand-bag revetted building where the Air Defense Control Center was located. Wires leading into the building carried the plot from the radar units and also carried information out to the AAA and searchlight batteries. The Air Defense Command for the island was operated by the 2nd Marine Division.

航空守備軍管制センター用地内にある砂袋で覆われた航空守備軍の中枢部。内部につながる電線はレーダーでキャッチした敵の位置を受け、その情報を高射砲及びサーチライト砲兵隊へ送る。この島では航空守備軍は第2海兵師団のもと機能している。沖縄。(1945年7月23日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦闘疲弊症 (combat fatigue)

沖縄戦はまたおびただしい PTSD (心的外傷後ストレス障害) を生み出した。米軍は、第一次世界大戦の経験を踏まえ、激増する戦闘疲労症に対し沖縄に精神科医を送り込んで対応にあたった。兵士は旧日本軍の兵舎跡に建てられた米軍の第87野戦病院に送られた。

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて
撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ところが45年5月10日前後から、海兵師団は南部戦線に投入され、これと前後して「戦闘神経」問題が真剣に議論されるようになってきた。すなわち5月5日、第82野戦病院の病院長が、第3海兵師団医療部のモリソン大佐 (Cap. Morrison)、第1海兵師団医療部のキンブロウ大佐 (Cap. Kimbrough)、さらに2人の副官と協議し、海兵隊員の「戦闘神経症」患者については第82戦闘病院に転送し治療する行為が得られた。 それを裏付けるかのように、5月10日を前後して、シュガーローフヒルの戦闘において多数の「戦闘神経症」患者が発生し、野戦病院に運ばれることになった。

海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてその占領から確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A view of one of the wards in the U.S. Tenth Army's neuropsychiatric center at 82nd Field Hospital on Okinawa. 

第82野戦病院の第10軍神経精神科センターの病棟 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第96歩兵師団第381連隊E中隊で5月、おそらくは運玉森の戦いで後方に送られた兵士の場合

沖縄で何が起こったのかについて、私が耳にしたのは『強烈で忘れがたい』とだけだった。父が、沖縄について話をするのはほんのわずかで、その時いつも彼は遠くを見ていた。彼の小隊で、7人しか生き延びれなかったことが、 彼に大きな影響を与えていた。不幸にも、父は沖縄での恐ろしい砲火と、戦闘によって悪影響を受けた。彼は、精神がバラバラになってしまい、それが 原因で恐怖の前線から離脱した。1945年6月5日、父は、戦闘疲労症 (combat fatigue)に苦しみながら沖縄を離れた。その後、一連の治療が施された。彼は、複数の軍病院で治療を受け、1945年9月25日、インディアナ州キャンプアタブリーにある回復病院を退院した。彼は、国家から多大な犠牲を強いられた。それは、彼が亡くなるまで続いた

戦争は、父に精神障害者という烙印を残した。母によれば、父が退院し、 駅で父と再会したとき、父の顔はずっと老け込み、振る舞いも以前と変わっており、かろうじて夫だとわかったと言う。数週間も彼は、毎晩床の上でゴロ寝して、恐ろしい夢を見た。オハイオ州を出た青年は、傷ついた老人になって戻って来たとも話していた。もし彼が、自分に何が起こったかを話が出来たら、また彼に取り懇く如何なる悪魔とも平和に共存できたならば、おそらく彼は、もっといい人生を過ごすことが出来ただろうに。それはまた、私たち全てが望むことでもあったが。

《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002) p. 37. 》

1000ヤードの凝視四肢が痙攣し歩行が困難になる症状も典型的なものであった。

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital. 戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

陸軍と海軍との神経精神病者の病識を直接比較するのは困難であるが、これら海兵隊員が陸軍病院に入院した折には、治療が非常に困難であると報告されている。さらに海兵隊員の原隊復帰は、難しいとも言われている。その理由は陸軍と海兵隊との基本的な軍事哲学の差にあるとするのが一般的な考えである。海兵隊精神分析について、次のような報告がなされている。

「ある種、海兵隊は、困難な戦闘では、どちらかといえば精神が不安定になるように思われ、そのため一度防衛線を破られると、ある種の統合失調症的なパーソナリティが出現してくる。断固たる行動をとる考え方に支配されているので、彼らは、沖縄地上戦動画後半になってごく当たり前になったように長期にわたるる苦痛な地上戦闘のため精神的にもがき苦しむ自分たちを見出したようである 。催眠療法 (Hypnoanalysis = 催眠下での人工的葛藤の誘導や無意識の内容の表出等) により、ある海兵隊員はついにはおびただしい数の罪を見せたが、そのとは海兵隊員が持つべき確固たる自意識の完璧な感情が損壊してしまうことに関連していることが分かった。精神科医はこれら若き兵士たちは、自分たちが決して恐れを見せてはならず、戦闘状態で何らかの恐怖心が顕現したら、完璧に個人的な名誉を損なうとの考え方が (海兵隊で) 植え付けられてきたからだと報告書で付け加えている」

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A combat fatigue patient is made to re-live his experiences in combat while completely hypnotized. Maj.Lindsay E.Beaton of Enaston, I11., prods his patient's memory of a rain of ack-ack under which he was caught. 

催眠術にかけられて戦闘での経験を思い出させられている、疲労した患者。ビートン少佐が高射砲の雨の下で保護された時の患者の記憶を呼び起こしている。(1945年6月 9日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

師範鉄血勤皇隊 - 命じられた遊撃戦

6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。後に沖縄県知事を務めた鉄血勤皇隊大田昌秀が投降したのは10月23日のことだった。

7月も半ばを過ぎると、米軍は戦術を代えたのか、毎日のように、朝から舟艇を海岸寄りに浮かべ、神経戦を始めてきた。これ聞こえよがしにスピーカーから数々の懐かしいメロディを流すのだ。それが朝風に乗って容赦なく岩穴の奥まで伝わってきた。妙なる音楽の調べほど孤独な敗兵たちの胸をかきむしるものはあるまい。米兵め、うまい手を考えついたものだ。なじみ深い旋律が、空になった臓腑の隅々にまで、しびれを催すほどしみ込んでくると、私は物狂わしいほどの切なさに大声をあげて飛び出したくなる。

音楽の合間合間には流暢な日本語で、「皆さん。岩の下にかくれている皆さん。もう戦争は終わりました。今さら逃げ隠れしても何の役にも立ちません。早く出てきなさい。明るいうちに白い標識を掲げて、海岸を喜屋武の方へ歩いていきなさい。向こうでは、親切にしてくれます。米軍は決して危害は加えません。明るいうちに安心して出てきなさい」と透き通る声が朗々と岩山の上に放送されていった。そして再び明るいのどかなメロディが流れた。同じことを、米兵は毎日毎日繰り返すようになった。

時折り、大きな輸送船が、甲板に溢れるほどの投降者をのせて、これみよがしに航行してゆくのが見えた。太陽がさんさんとその上に輝き、一見しただけでは、平時と何ら異ならない風景だった。

「奴ら、あんなうまいことをいって。みろ、出て行ったが最後、あの船に乗せてどこへ連れていくかわかったもんじゃない」

近くの方で敗残兵同士が話し合っている声が聞こえた。しかし、どうやら敵の計画は成功したらしい。彼らは、戦車でやってきては、煙草や菓子類を海岸に置いて行った。そして例の舟艇からの誘導作戦で釣っていった。初めのうちは、毒が入っているかも知れないと疑って置土産に手もつけなかった敗残兵たちも、勇敢な者が毒味した結果無害だと知ると、争って食べるようになったばかりか、敵の来るのを待ちかねるようにさえなった。あげく、続々と手をあげて出ていく者がふえた。

餌物を前にした人間は弱いものである。私たちも片手に手榴弾を握り片手に白い布片を求める心苦しい日々が続いた。日に日に殖えていく投降者を見ても、ふんぎりがつかなかった。いや、そのことに考えが及ぶのを極力さけたのだ。

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 195-196頁より》

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While the prisoner in the background holds a loudspeaker over his head, First Lieutenant Frederick H. Van Brunt, of 1141 Mountain Avenue, Los Angeles, Calif. Who lived 17 years in Japan, listens carefully to the words of the second prisoner who is asking his former comrades to surrender.

後方にいる捕虜が拡声器を掲げている。手前の捕虜がかつての仲間に投降を呼びかけるのを注意深く聞くヴァンブラント中尉(カリフォルニア州出身)。中尉は日本に17年間住んでいた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄県知事大田昌秀は19歳で学生部隊「鉄血勤皇隊」に動員され、摩文仁で戦った。終戦を知り投降したのは10月23日だった。

いっぱい亡くなりました。私たちは銃1丁と120発の銃弾と手榴弾2個を持たされて、戦場に出されたわけです。そのときに「絶対、捕虜にはなるな」「捕虜になるんだったら、この手榴弾1個は敵に投げつけ、もう1個で自決しろ」と言われていました。学友たちがその結果、たくさん死にましたよ。

「捕虜になるなら自決しろ」元沖縄県知事・大田昌秀さんに渡された手榴弾 | ハフポスト

生死のはざまで何度も学友に助けられたという大田昌秀さん証言

(摩文仁から) 僕も飛び込みました。そしてそのまま2日ぐらい記憶を無くしていました。気がつくと、私は砲弾の破片で足を怪我して歩くこともできず、死体がごろごろしている摩文仁の海岸で横たわっていました。そのような状況で2~3日が過ぎたころ、「大田じゃないか?」という声がするので見たら、学友の一人が立っていました。彼は、「俺はこれから“斬り込み”に行くから、おまえにこれをやる」と言って、かつおぶし1本と靴下に詰めてあった玄米を私に渡し、「元気でがんばれよ」と言い残して行きました。私は全てを諦めて寝ころんでいたのですが、地下足袋ともらったお米を交換してもらい、やっと立ち上がり歩くことができたのです。

マガ9沖縄アーカイブス(4)大田昌秀さんに聞いた(マガジン9編集部) | マガジン9

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少年兵、鉄血勤皇隊として経験した、あの沖縄戦摩文仁の丘の激戦。125人のうち生き残ったのはわずか37人。「なぜこういう事態に陥ったのか。もし生き延びることができたら、明らかにしたい」。戦後は研究者として沖縄戦と戦後史を研究。平成2年には沖縄県知事となり、米軍基地の整理・縮小に取り組んだ。「二度と沖縄を戦場にしてはならない」。

2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿 - ~その時、沖縄は~

 

そのとき、住民は・・・

平安座収容所 - 与勝諸島の収容所

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米軍は12の民間人収容所地区を設置した。

米軍は4月7日に与勝諸島に到達、6月には与那城村屋慶名住民の一部と宮城、伊計両島の住民を平安座島に強制収容、平安座収容所に7千人余りが収容された。

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Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands  6-11 April 1945

十・十空襲後、民家や学校に駐屯していた部隊は引き揚げて、島には友軍は一人もいなくなりました。友軍は、島の高台のあちらこちらに、松の木を切り倒して、擬装大砲を設置してありましたので、「こんなもんをおいていかれたら部落が爆撃されて、村民が殺されてしまうだけだ」ということになり、警防団の人たちで、取りこわしてしまいました。ですから、宮城島には、日本軍の陣地はなくなったわけで、アメリカ軍の艦砲射撃を受けることはありませんでした。しかし、津堅島には、日本軍の強固な陣地がありましたので、むこうは相当たたかれました。

戦争証言「日本軍に抗議」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

日本軍はダミーの飛行機や砲座を数多くつくらせた。

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米国海兵隊: OROKU PENINSULA--View of a dummy anti-aircraft emplacement in the vicinity of the trench shown in photograph #245. Numerous dummy emplacements were noted in the area lying generally southwest of Naha airfield.
小禄半島--写真245に写っている塹壕近くにある疑似対空砲座。那覇飛行場のほぼ南西に広がるこの地域には疑似砲座が多数あった。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 6月、突然に強制収容が始まる。過密状態で慢性的な食糧不足が続く。

我々の本当に苦しい生活がその日から始まった。たいして農作物のない島に沢山の住民が住むようになったわけですから、みんなひどい目にあいました。

戦争証言「伊計島守備隊」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

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平安座島 - Wikipedia

平安座島を車で走ると、石油コンビナートがたくさんあることに気付きます。海中道路はもともと産業用に平安座島と本島をつなぐ目的で建設されたもので、観光用の道路ではありませんでした。これらの石油コンビナートはアメリカの大手石油会社であるガルフ社が建設し、後に日本の石油会社が買い取ったという歴史があります。平安座島~本島間は、干潮時には徒歩で往復できるほど遠浅な海域。

沖縄本島から車で行ける離島、平安座島についてご紹介 – skyticket 観光ガイド

食糧を求めて島を越境する女性達を米兵が狙う。

私らは、女性ばっかりでしたので、こわくなって、みんな一緒に、木の繁みの中へ逃げ込んで様子をみていました。アメリカ兵三人のうち、一人が上半身、はだかになって、銃は持ったまま、娘を追いかけ回わして、つかまえては、また歩けと背をついて娘が逃げだすと、また銃を置いて、追いかけ回わしてはつかまえるということをくりかえしておりました。二人のアメリカ兵は、丘の上の方から、それをじっとみつめていました。その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨン(お母さん、お母さん!)」と泣き叫びながら、逃げまわっておりましたので、私は、それをきくと助けてあげたいが私たちもみんな女ばっかりだからどうにもならないでしょう、と心の中でそういいました。私たちが、ひそんでいるところからは、見えないところへ追い込んだかと思うと、突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、娘を強かんするつもりで、あんなに追いかけているものと思っていたら、殺してしまったんだと思い恐ろしくなって、島の東側の海岸近くにある「グスク(城跡)」の方へ逃げて、夕暮れまで、みんな隠れていました。

戦争証言「ある娘の虐殺事件」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

… 実際の戦時下の平安座島住民の戦争体験は、他のどの戦闘と比較しても悲惨で残酷なものであった。島の住民のほとんどは、沖縄戦の直前に沖縄本島疎開し、働き盛りの男子は徴用・徴兵され、各部隊に配属された。幸いにも、同島に日本兵がいなかったため、地上戦は戦われなかったものの、米軍は近隣の島々の住民を同島に移動させ、平安座島に大収容所を建設している。そのため、人口は最大12,000人にまで膨らみ、平安座市と一時は呼ばれるまでになっている。平安座島の住民が経験した沖縄戦は、他の沖縄住民の戦争経験と少しも違わず、重い戦争体験をしたのである。

《保坂廣志『沖縄戦のトラウマ: 心に突き刺す棘』(2014年) 紫峰出版 pp. 40-41. 》

父は、口グセのように「海アッチャーヤ、ヤードーラダョ (宮城島では、漁業に専念する者は、成功しないという意味) 」といっていました。それで私は、(農業を大切にし) 農業のあいまに海へは行っていました。しかしそれも1967年以来の、ガルフ石油進出に伴う土地闘争が始まって以来、海にも出るひまがなくなり、クリ舟も売り払ってしまいました。

戦争証言「日本軍に抗議」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

 
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