〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月23日 『片手に手榴弾、片手に白い布片』

戦争神経症

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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《AIによるカラー処理》航空守備軍管制センター用地内にある砂袋で覆われた航空守備軍の中枢部。内部につながる電線はレーダーでキャッチした敵の位置を受け、その情報を高射砲及びサーチライト砲兵隊へ送る。この島では航空守備軍は第2海兵師団のもと機能している。沖縄。(1945年7月23日撮影)

The brain of the Air Defense on Okinawa, Ryukyu Retto, was enclosed in a sand-bag revetted building where the Air Defense Control Center was located. Wires leading into the building carried the plot from the radar units and also carried information out to the AAA and searchlight batteries. The Air Defense Command for the island was operated by the 2nd Marine Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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 航空防衛軍の戦闘機管制センター情報局。沖縄。(1945年7月23日撮影)

Fighter Control Center Information Room of the Air Defense Wing on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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AIによるカラー処理》与那原の浜で陸揚げを待つ戦車揚陸艦(1945年7月23日撮影)

LST's waiting to be unloaded at Beach at Yonabaru.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦闘疲弊症 (combat fatigue)

沖縄戦はまたおびただしい PTSD (心的外傷後ストレス障害) を生み出した。当時は戦争疲弊症とよばれ、彼らは旧日本軍の兵舎跡に建てられた米軍の第87野戦病院に送られた。

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて
撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ところが45年5月10日前後から、海兵師団は南部戦線に投入され、これと前後して「戦闘神経」問題が真剣に議論されるようになってきた。すなわち5月5日、第82野戦病院の病院長が、第3海兵師団医療部のモリソン大佐 (Cap. Morrison)、第1海兵師団医療部のキンブロウ大佐 (Cap. Kimbrough)、さらに2人の副官と協議し、海兵隊員の「戦闘神経症」患者については第82戦闘病院に転送し治療する行為が得られた。 それを裏付けるかのように、5月10日を前後して、シュガーローフヒルの戦闘において多数の「戦闘神経症」患者が発生し、野戦病院に運ばれることになった。

海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてその占領から確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労症』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A view of one of the wards in the U.S. Tenth Army's neuropsychiatric center at 82nd Field Hospital on Okinawa.  第82野戦病院の第10軍神経精神科センターの病棟
撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital.
戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて
撮影日: 1945年

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Battle fatigue patients at the 82nd Field Hospital. 戦場神経症の患者たち。第82野戦病院にて
撮影日: 1945年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

陸軍と海軍との神経精神病者の病識を直接比較するのは困難であるが、これら海兵隊員が陸軍病院に入院した折には、治療が非常に困難であると報告されている。さらに海兵隊員の原隊復帰は、難しいとも言われている。その理由は陸軍と海兵隊との基本的な軍事哲学の差にあるとするのが一般的な考えである。海兵隊精神分析について、次のような報告がなされている。

「ある種、海兵隊は、困難な戦闘では、どちらかといえば精神が不安定になるように思われ、そのため一度防衛線を破られると、ある種の統合失調症的なパーソナリティが出現してくる。断固たる行動をとる考え方に支配されているので、彼らは、沖縄地上戦動画後半になってごく当たり前になったように長期にわたるる苦痛な地上戦闘のため精神的にもがき苦しむ自分たちを見出したようである 。催眠療法 (Hypnoanalysis = 催眠下での人工的葛藤の誘導や無意識の内容の表出等) により、ある海兵隊員はついにはおびただしい数の罪を見せたが、そのとは海兵隊員が持つべき確固たる自意識の完璧な感情が損壊してしまうことに関連していることが分かった。精神科医はこれら若き兵士たちは、自分たちが決して恐れを見せてはならず、戦闘状態で何らかの恐怖心が顕現したら、完璧に個人的な名誉を損なうとの考え方が (海兵隊で) 植え付けられてきたからだと報告書で付け加えている」(28)

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

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A combat fatigue patient is made to re-live his experiences in combat while completely hypnotized. Maj.Lindsay E.Beaton of Enaston, I11., prods his patient's memory of a rain of ack-ack under which he was caught.  催眠術にかけられて戦闘での経験を思い出させられている、疲労した患者。ビートン少佐が高射砲の雨の下で保護された時の患者の記憶を呼び起こしている
撮影日: 1945年 6月 9日

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

八原高級参謀のその後 ④

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。八原大佐は、その後も数回、軍作業に出た。

7月23日ごろの夜、冨祖崎村の労務掛りの沖縄青年が駆けつけ、あなたは今夜CICの事務所に出頭するようアメリカ軍から命令が出ていますと告げた。私はぎくりとした。身分が暴露したのではないか、と不安になってきた。念のために、村の配給主任に様子を聞くと、彼は笑いながら、「心配することはありません。いよいよ市民も国頭へ移転することになりましたので、他府県人は一応調査されるのです。現に某氏の如きも、簡単に調査されて、直ぐ放免になりました」と力づけてくれた。

私は事務所に出頭するのをサボって翌24日の朝を迎えた。』(477頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 477頁より》

  

「解散命令」後の学徒たち

6月18日、第32軍は最後の命令を出した。それは、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。しかし、学徒の中には解散命令を受けた者もおり、遊撃戦は、学徒各々に託された。

鉄血勤皇師範隊 - 大田昌秀

大田昌秀の体験談: 大田が解散を言い渡されたのは、6月19日 投降は10月23日のことだった。

7月も半ばを過ぎると、米軍は戦術を代えたのか、毎日のように、朝から舟艇を海岸寄りに浮かべ、神経戦を始めてきた。これ聞こえよがしにスピーカーから数々の懐かしいメロディを流すのだ。それが朝風に乗って容赦なく岩穴の奥まで伝わってきた。妙なる音楽の調べほど孤独な敗兵たちの胸をかきむしるものはあるまい。米兵め、うまい手を考えついたものだ。なじみ深い旋律が、空になった臓腑の隅々にまで、しびれを催すほどしみ込んでくると、私は物狂わしいほどの切なさに大声をあげて飛び出したくなる

音楽の合間合間には流暢な日本語で、「皆さん。岩の下にかくれている皆さん。もう戦争は終わりました。今さら逃げ隠れしても何の役にも立ちません。早く出てきなさい。明るいうちに白い標識を掲げて、海岸を喜屋武の方へ歩いていきなさい。向こうでは、親切にしてくれます。米軍は決して危害は加えません。明るいうちに安心して出てきなさい」と透き通る声が朗々と岩山の上に放送されていった。そして再び明るいのどかなメロディが流れた。同じことを、米兵は毎日毎日繰り返すようになった。

時折り、大きな輸送船が、甲板に溢れるほどの投降者をのせて、これみよがしに航行してゆくのが見えた。太陽がさんさんとその上に輝き、一見しただけでは、平時と何ら異ならない風景だった。

「奴ら、あんなうまいことをいって。みろ、出て行ったが最後、あの船に乗せてどこへ連れていくかわかったもんじゃない」

近くの方で敗残兵同士が話し合っている声が聞こえた。しかし、どうやら敵の計画は成功したらしい。彼らは、戦車でやってきては、煙草や菓子類を海岸に置いて行った。そして例の舟艇からの誘導作戦で釣っていった。初めのうちは、毒が入っているかも知れないと疑って置土産に手もつけなかった敗残兵たちも、勇敢な者が毒味した結果無害だと知ると、争って食べるようになったばかりか、敵の来るのを待ちかねるようにさえなった。あげく、続々と手をあげて出ていく者がふえた。

餌物を前にした人間は弱いものである。私たちも片手に手榴弾を握り片手に白い布片を求める心苦しい日々が続いた。日に日に殖えていく投降者を見ても、ふんぎりがつかなかった。いや、そのことに考えが及ぶのを極力さけたのだ。』(195-196頁)

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 195-196頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/99-04-3.jpg

後方にいる捕虜が拡声器を掲げている。手前の捕虜がかつての仲間に投降を呼びかけるのを注意深く聞くヴァンブラント中尉(カリフォルニア州出身)。中尉は日本に17年間住んでいた。

While the prisoner in the background holds a loudspeaker over his head, First Lieutenant Frederick H. Van Brunt, of 1141 Mountain Avenue, Los Angeles, Calif. Who lived 17 years in Japan, listens carefully to the words of the second prisoner who is asking his former comrades to surrender.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄県知事大田昌秀は19歳で学生部隊「鉄血勤皇隊」に動員され、摩文仁で戦った。終戦を知り投降したのは10月23日だった。

いっぱい亡くなりました。私たちは銃1丁と120発の銃弾と手榴弾2個を持たされて、戦場に出されたわけです。そのときに「絶対、捕虜にはなるな」「捕虜になるんだったら、この手榴弾を1個は敵に投げつけ、もう1個で自決しろ」と言われていました。学友たちがその結果、たくさん死にましたよ。

沖縄戦終結から72年 「捕虜になるなら自決しろ」元沖縄県知事・大田昌秀さんに渡された手榴弾 | ハフポスト

 

そのとき、住民は・・・

米軍野戦病院: 宜野座

沖縄戦末期から終戦にかけて、宜野座村に仮設された米軍野戦病院には本島・南部から傷ついた多くの民間人が運ばれてきた。戦禍が進むにつれ、負傷者の数も増えていった。』(21頁)

『病院内は異臭を放っていた。むし風呂のようなテントの中で、顔がやけただれ手当てを待つもの、ウジ虫が傷口からわいている者、ベッドの上で用をたす者、「ウーウー」と言葉にならない声の中をハエが飛びかっていた。

…真夏の日差しを受けた緑色のテントの中は暑く、身動きの取れない負傷者は汗だくとなる。着のみ着のまま、汗をかいても思い通りに洗濯さえもできない。テントのすそをめくり、テント内に風を送り込む。風は入るが日光がじかに患者を照らした。

病院での食事は1日朝と夕の2食。朝8時ごろにピンポン玉を大きくしたようなにぎり飯と塩水のようなスープが出る。夕方は5時ごろ、おにぎりとか大豆を煮たものが配られる。2食合わせても1食分に足りなかったという。』(23-24頁)

『…簡単な手当てさえも受けられず息を引き取る人は後を断たず、中には運ばれる途中でなくなった人もいた。次々と死んでいく人は、病院近くの雑木林に埋葬され、やがてゴミのように捨てられていった。』(21頁)

看護の手伝いをした女性の証言:

『「オーベーブーブーだったさー(ハエが飛んでいた)」

…「暑くて、ひもじくて、臭くて大変でしたよ

…「背中がただれた人やひきつけを起こしベッドから落ち、もがき苦しんでいる人。きのうまでいた人がきょう見てみると死んでいる。死に対する恐怖がなくなっていたんでしょうね。『あの人はあしたまでだな』なんて考えていましたから。こわい時代です」 

…「でも今だから、暑かったとか、臭かったとか思い出せるんで、あのころは、そんな事はあまり感じませんでした。ただ、おなかがすいていたのは今でもはっきり覚えています」

…「あんなに大けがをしているのに、言う言葉はいつも『おなかがすいた』。おなかがすくと痛くなくなるのですかね。不思議でした」』(23-24頁)

宜野座野戦病院いた沖縄県の人口課長の回想:

『朝、目がさめる。私は食事のことしか考えなかった。夜中にふと目がさめる。やはり食べ物のことを考えていた。(中略)傷口のまわりを押えるとウミが噴き出した。痛くて我慢のしようのないほどだった。しかしその痛みも食事をとったあとのしばらくの間だけで、いつの間にか消えていた。(中略)人間が無我夢中で空腹に耐える間、その人間の全神経は空腹と対決するために集中するらしい。』(24頁、著書『沖縄かく戦えり』からの引用》

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 21、23-24頁より》

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《AIによるカラー処理》Native woman treated and bandaged for shrapnel wound in an outdoor AMG hospital Okinawa, Ryukyu Is., by Lt. (jg) N.A. Christensen, (MC) USNR, (with cap) assisting is charles Webber, HA1c.
榴散弾で負った傷を手当てして包帯を巻いてもらう地元の女性。治療にあたるのは海軍予備役(衛生兵)のクリステンセン中尉(着帽)で、ウェーバー衛生兵が助手を務めている。軍政府の野戦病院にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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