〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月19日 『首里に迫る米軍』

戦闘疲労症晩発性PTSD

米軍の動向

首里に迫る米軍

米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。…誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。

5月19日に開かれた第10軍の幕僚会議で、情報将校のルイス・B・エリィ大佐は、日本軍は、首里で死ぬまで戦うだろうといった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421頁より》

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ハンネス軍曹が榴弾砲の記章を磨いている間待機している第3水陸両用軍団155ミリ榴弾砲大隊砲兵中隊の兵士たち(1945年5月19日撮影)

Gun crew members of a III Phib Corps Artillery 155 M.M. Howitzer Battalion stand by as Sergeant D.J. Hannes, of 6 Emerson Place, Buffalo, New York, brightens up the insignia on the shield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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戦場からの報道で紹介されることは決してないが、最前線の部隊のすぐ後方にはいつも海兵隊の「フリット・ガン・スカッド」(殺虫スプレー隊)がいる。彼らはDDTで害虫と戦う。左からクライン一等兵、チャプマン二等兵、クィンラン一等兵、パフマン伍長(1945年5月19日撮影)

THE ”FLIT GUN SQUAD” - Never mentioned in battle dispatches but always close behind the front line troops are the Marine ”flit gun squads”. They wage a war against insects with a repellant spray (DDT). In this group are (from L to R) Pfc. Marvin M. Klein; Pvt Jimmie W. Chapman; Pfc. Jerome Quinlan and Cpl. William J. Puffman.

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シュガーローフと戦闘疲労症者

安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

5月19日、第4海兵連隊は、疲れきった第29海兵連隊と交替した。シュガー・ローフの攻撃は、そして、その占領から確保まで至る10日間の戦闘で、第6海兵師団は、じつに2662人の戦死傷者を出し、1289人の戦闘疲労症者をだしていた。

海兵隊の第22連隊および第29連隊では、3大隊とも大隊長を失い、11個中隊がいずれも中隊長を死傷させた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

海兵隊員の野戦病院への転送が決まると、今度は病院が患者で溢れかえる現場が出てきた。すなわち、「シュガーローフの攻撃、そしてそのから確保に至る十日間の戦闘で、第6海兵師団は、実に2662人の戦死傷者をだし、1289人の戦闘疲労症を出した。(中略) 非戦闘病者はおびただしい数になった。その多くが神経精神病、つまり『戦闘疲労』であった。この種の患者は、海兵2個師団 ( 第1、第6)で、6315人、陸軍4個師団(第7、第27、第77、第96)で7762人を数えた」という。

《『沖縄戦のトラウマ ~ 心に突き刺す棘』保坂廣志、紫峰出版 (2014) 沖縄戦と米兵の戦闘神経症 (pp. 242-243) 》

2) 精神科医療組織の詳細

第31野戦病院と第69野戦病院には、移動精神科医チームから1人を派遣する。第36野戦病院は、第77師団に分属し、精神科治療を行う。各精神科医療施設には、6人の専門的知識をもつ衛生兵と最小限50床を持つ病棟を完備すること。しかし、この計画は、沖縄戦での多数の精神病患者(psychiatric patient)の発生により、不十分なものだった。その当時、各病院には、200人以上の患者が収容されていたからである。病院内には、レクリエーション施設が設けられ、赤十字職員が配置され、集団療法が行われた。また催眠剤使用よりは、精神療法、集団療法が準備されていた。ここで使用された諸技術については、本報告書の関連箇所で述べることとする。さて、沖縄戦での大量の精神病患者の発生により、精神的患者だけを収容する単独の野戦病院の設置が勧告された。第24師団の軍医であるLawrence A Potter大佐がそれを提案し、第82野戦病院の設立が決まった。
《保坂廣志「沖縄戦参戦米兵と戦争神経症 - Moses R. Kaufman Report及び Oscar B. Markey Report の抄訳を通して」 (2005年)》

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Patients of 82nd Field Hospital play games with nurses, relax in reading room, etc.
看護婦とゲームをしたり読書室でくつろいだりしている第82野戦病院の患者

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Patients of 82nd Field Hospital play games with nurses, relax in reading room, etc.
看護婦とゲームをする第82野戦病院の患者

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1945年5月、米陸軍省は戦時プロパガンダ映画の一つとして戦闘疲労症に関する映画を制作したが、それは長らく非公開とされ、1981年の公開時にも陸軍省によりフィルムを没収された。

1945年5月、米陸軍省ジョン・ヒューストン映画監督に依頼し、戦時プロパガンダ映画の一つとして「ノイローゼの回復」という映画を制作することにした。ヒューストン監督は、同年5月からニューヨーク州ロングアイランドにあるマッソン総合病院に米通信隊映画班とともに3ケ月に及ぶ長期ロケを敢行し、戦争神経症の治療とその回復過程を記録映画としてフィルムに納めた。ヒューストン監督の手になる記録映画は、後にLet there be light(|汝光あれ」=筬言24罪人を迷いの道から引き戻す人は、その魂を死から救い出し、多くの罪を背負う者である。転じて死地に引かれゆく者を助け出すこと)と題し、1時間映画に完成した。記録映画に出てくる兵士たちは、ほとんどが沖縄戦で傷ついた将兵ばかりで、彼らは精神病棟で個人的・集団的治療を受け、徐々に精神が回復していっている。ヒューストン監督は、映画の中で治療室や治療スタッフ、患者に対するインタビュー等も行っている。

《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」2002年》

youtu.be

 

 

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南西の傾斜地からシュガーローフヒルの頂上を眺める。爆撃による猛攻撃を受け、ほとんど木の根っこも残っていない

The crest of Sugar Loaf Hill as seen from the southwestern slope. Notice the extent to which the soil of the hill has been pounded by bombardment and the few remaining tree stumps.

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5月19日の攻撃は、第4海兵連隊第2大隊と第3大隊が担当し、第29海兵連隊と交代するとともに5月18日の掌握地域をより強固にすることになった。この間、シュガーローフ上の海兵隊員たちは、依然として攻撃をうけつづけていた。丘は米軍の手にあったものの、すぐ西側に位置するホースショアからの激しい砲撃がつづいていた。とくに海兵隊側の攻撃がきかないホースショアの遮蔽陣地からの迫撃砲射撃は深刻であった。

このため、1630時、ロブ中佐はF中隊にたいして、ホースショアの高台を掌握するよう命じた。結果論として、このロブの命令は見通しがあまいものだった。まだ相当数の日本兵がシュガーローフからホースショアにかけての一帯や、ホースショア自体にも残っていた。そのため攻撃を開始したF中隊はすぐに立ち往生してしまった。先導小隊がシュガーローフとホースショアの間の谷間にさしかかるやいなや、海兵隊員たちは背後からの機関銃射撃をうけはじめた。…メイビー大尉は爆破班と、火炎放射手に丘を降りて、この日本兵に対処するよう命じた。彼はさらに戦車隊にたいして、戻って地下陣地の入り口に砲弾を撃ち込むように要請した。』(329頁)

『F中隊の兵士たちは、手榴弾を使った接近戦を制しながら、ホースショアの窪地の淵にむけて進んでいた。』(330頁)

『日本軍の最初の組織的な攻撃は2300時ころにはじまった。暗闇のもとで、叫び声や矢つぎばやに指示を出す声が聞こえ、日本軍の迫撃砲弾が海兵隊の陣地に落下しはじめた。砲弾には黄燐弾もふくまれていたが、多くの海兵隊員は、日本軍がこの種の砲弾を装備していたのを初めて知った。』(332頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 329、330、332頁より》

 

大名(おおな)

『第6海兵師団は、5月10日いらいの大名丘陵戦線で、1千人以上もの死傷、行方不明を出したが、のちに首里高地攻略戦参加という名目で、この戦闘で大統領から部隊勲章を授けられた。しかし、19日、ついに第1海兵師団と交替した。

…大名高地ー55高地方面では、戦況もいくぶん進展していたが、これが大名丘陵方面でも同じように感じられるようになった。

戦車隊とMI7型自動操縦砲、それに砲兵隊が丘陵の裏側にある高地を、徹底的に砲撃した。それにもかかわらず、首里の日本軍砲兵陣は、まだ完全に大名丘陵付近の支配権をにぎっていたし、さらにまた丘陵の上部のほうでは、60メートルにわたって頑強な日本軍陣地があって、ほとんど近づき難いものにしていた。』(361頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 361頁より》

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首里大名の丘陵

Wana Ridge.

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大砲迫撃砲による砲撃、艦砲射撃空爆・・・目の前の大名峡谷と左手の大名高地を標的にしたわれわれの猛攻は続いた。日本軍の抵抗もすさまじく、戦場のあらゆる人間、あらゆるものに攻撃を加えつづけた。攻勢に出る戦車・歩兵部隊は残らず砲火にさらされた。それでも火炎放射戦車を含む合計30輌の戦車から放たれた砲弾が谷間に炸裂し、大地を焦がした。それからふたたび敵陣めがけて地海空の総力を結集した砲撃・爆撃が仕掛けられ、その轟音と衝撃たるや、静寂という言葉の存在すら忘れてしまうほどだった。われわれはペリリュー島でも相当の修羅場をくぐり抜けてきたが、大名での激闘はその規模といい、継続日数といい、まったく別次元と言ってよかった。耳を聾するわが軍の攻撃は何時間も、何日間も、いつ果てるともなく続いた。日本軍の反撃もやむことはなかった。私はしつこい頭痛に悩まされた。延々と続く砲火の轟きに頭がしびれ、なかば朦朧となってしまう。こんな経験は生まれて初めてだった。

これほどの喧騒と混乱の真っ只中に昼も夜もなく投げ出されて、平気な人間がいるとは思えなかった。それでも、砲声の大部分はわが軍のものだったし、われわれは手ごろな壕にも恵まれていた。日本兵はこんな猛攻にいったいどうやって耐えていたのだろう。彼らはじっと洞窟の奥に立てこもり、こちらの攻撃が小休止するとうじゃうじゃ出てきて、すかさず反撃に転じる。ペリリューのときと同じだった。こちらの戦法としては、砲撃と空爆で洞窟をつぶすか、周到に固められた守備陣形を切り崩すしかなかった。』(366-367頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 366-367頁より》

石嶺(いしみね)丘陵

5月19日、日本軍は石嶺丘陵奪回のため、全総力を傾注してくるようにみえた。…日本軍は数回にわたって攻撃してきた。そしてそのたびに、撃退はだんだん難しくなっていた。…1小隊ほどの兵力の日本軍が攻撃してきたが、米軍の迫撃砲や機関銃、および4個砲兵大隊のタイムリーな集中砲撃によって退散させた。しかし、なおも、日本軍の砲弾は落下しつづけ、米軍の損害もしだいに多くなっていった。夜になったら交替をよこすという連絡が、その日の午前中にE中隊のもとにきた。ところが、正午ごろになって、無電はしだいに弱くなり、ついに連絡は不能となってしまった。日はしだいに暮れていった。

救援隊をさし向けるとの連絡はあったが、5月19日の夜、9時ごろになっても、それらしいものは見えなかった。まもなく後方で激しい銃声がした。なにかが起こった証拠だ。夜10時ころ、やっと第306連隊第3大隊のL中隊がきた。うるしを流したような暗闇のなかを、各兵はすばやく陣地を交替した。』(371-372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 371-372頁より》

 運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

『第381連隊第3大隊指揮官ダニエル・A・ノーラン中佐は、5月19日コニカル・ヒルの砲兵陣地を殲滅させるため、ワルシー少尉以下15人の爆破隊を送った。

隊は日が暮れてから、急斜面をよじ登り、 まず手前の機関銃陣地を殲滅したが、そこからはコニカル・ヒル背面の日本軍陣地がまる見えだったので、執拗な日本軍の反撃を巧みに撃退して、ついに陣地を確保した。』(392頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

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コニカル(円錐型)・ヒル

南部東海岸の与那原を見下ろす円錐型の丘に、迫撃砲や機関銃、砲撃、爆撃による被害が見られる。小さな白い斑点は地上軍が降りしきる雨を避けるためにたこつぼ壕の上に立てた携帯テントである。

CONICAL HILL WAS THE KEY TO SHURI DEFENSES - Conical Hill, overlooking Yonabaru on the east coast of southern Okinawa showing damage caused by Mortar, machine gun and artillery fire and bombing. Small white patches are ground forces pup tents pitched over foxholes to keep out the almost incessant rain.

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第32軍の動向

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ウィルソン丘陵で行き止まった日本軍戦車。那覇戦線にある“安波茶ポケット”で海兵隊が日本軍を掃討した後、ウィルソン丘陵の日本軍陣地側の高台で発見された日本軍戦車。ほとんど到達不可能なこの場所までいかにして戦車が到達できたかは日本軍兵士のみが知っているが、彼らは皆戦死した。戦車の傍らに日本兵の死体がある。(1945年5月19日撮影)

JAP TANK PERCHES ON WILSON'S RIDGE--This Jap tank was found high in the enemy-held side of ”Wilson's Ridge” after Marines wiped out the Japs in ”Awacha Pocket” on the Naha front. How the tank got into the almost impossible position only the Japs know and

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安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)

5月19日那覇北方地区の米軍の攻撃は比較的ゆるやかであったが、52高地が米軍に占領されたため、安里からその西方崇元寺町方面にわたって陣地占領中の独立混成第15聨隊第2大隊は右翼からの攻撃をうけ苦戦に陥り、損害も多くなった。しかし、独立混成第15聨隊の健闘は軍首脳の感嘆するところであった。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(372-373頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 372-373頁より》

 

アブチラガマの負傷兵

糸数分室 (アブチラガマ)

大城知善先生に引率されて 生徒十五名が 南風原から糸数分室に配置替えになったのは五月一日です。今のアブチラガマです。大城軍医、西平軍医、看護婦一人と衛生兵、それに屋富祖医師と私達のたった二十名位で七百名前後の患者の看護をしていたのですよ。ガマの中はいつも悪臭が漂っていてそれこそたいへんだったんですよ。治療や看護の出来ない状態でした。手術の時の兵士達の断末魔の叫び声は今でも耳にこびりついているんですよ。地獄そのものでしたよ。麻酔薬も充分にありませんから 本当に気休め程度しかうってくれないんです。

患者は「もういい殺してくれ軍医殿殺してくれ!」と叫ぶんです。軍医は「貴様日本軍人だろう!これぐらいのことが我慢出来なくてどうするんだ!」といって叱るんですよ。

五月中旬になると患者達の傷の悪化は非常に目立ってきました。すべての患者達は 身体中がウミとウジだらけになっていましたね。脳症患者破傷風患者も次第に増えていきました。

脳症患者は頭がいかれていますから 大変なんですよ。重傷で寝ている人の上を平気で歩き回って暴れるのです。「こいつを何処かへ連れて行って!」と騒ぐんです。看護兵が来て壕の奥へ奥へと連れて行くんです。「何処へ連れて行くんですか。」ときいても返事はしないんですよ。

破傷風患者は手足が痙攣し終いには 口が開かなくなるんです。そうなるとおも湯も喉に通らないんです。そんな患者は隔離室に移されるわけです。戸板で囲われた狭い所に入れられて 助けてくれと訴えるように目だけを キョロキョロ させていましたよ。

また ひもじさのあまり兵隊達はわめくんのです。「曹長の手があっただろう。足があっただろう。それを煮てくれよ。焼いてくれよ!」切断した手足のことです。本当に恐ろしい光景です。これが戦争なんですね。

ひめゆり平和祈念資料館

 

そのとき、住民は・・・

逃げまどう住民

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail15_img.jpg

沖縄戦の絵】「墓の中に避難」

昭和20年5月中旬ごろ、那覇市でも米軍の攻撃が激しくなり、糸満市摩文仁に向けて避難した。父、母、それに3歳の弟と、家族4人だった。壕という壕は避難者で溢れていたが、南風原町でようやく横幅5メートルほどの亀甲墓を見つけ、中に入れてもらった。沖縄に伝わる亀甲墓は中に人が入れるほど広い。中では、子どもやお年寄りなど10人ほどが身を寄せ合っていた。しかし半日ほど身を潜めたとき、隣の墓が空から攻撃された。攻撃を恐れて再び墓を出て南に逃げた。墓さえも狙われることに…絶望的な思いを抱いたという。

墓の中に避難 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

第6海兵師団の元伍長の証言:

「沖縄では何度も民間人を見ました。私たちが見た民間人は、皆おびえていましたアメリカ軍は残酷で女性は強姦して殺す、といった噂があったようです。ある時、2人の女性と遭遇したのですが、2人は目の前で手首と喉を自ら切って自殺しました。ものすごく苦しんで死んでいきました。でもどうすることもできませんでした。私たちは、民間人を傷つけず保護する方針で上官からも厳しく言われていたのに、なぜあんなことをしたのか、全く理解できませんでした

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 100-101頁より》

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怪我をした地元女性を前線から離れたところへ案内する海兵隊員。狙撃兵が攻撃を続ける中、ひどいぬかるみを通り抜けての案内。また、前景に見えるのは、前線へ向かう兵隊(1945年 5月19日)

Marine guiding a wounded native woman back to the rear of our lines, thru terrific mud and under continued sniper fire. Also shown in foreground are troops moving up to the front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国海軍: Natives on Okinawa, Ryukyu Islands.
地元民。 沖縄本島にて。1945年 5月 19日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦と心の傷 -  晩発性PTSD

youtube からアクセスしてご覧ください。⤵

沖縄県民の4人に1人が犠牲となった地上戦から67年。いま沖縄県内各地で、戦争で生き残った高齢者に対し、「精神状態の聞き取り調査」が行われています。
調査のきっかけは、高齢者の間で、原因不明の「身体の痛み」や「不眠」を訴える人が増えてきたこと。みな地上戦の体験者であることから、「遅発性のPTSD(戦争トラウマによるストレス障害)ではないか」と考える医師や研究者もいます。
なぜ、67年前の戦争で受けた心の傷が、今になってよみがえるのか――その背景には、沖縄で、一般住民を巻き込んだ大規模な「地上戦」が行われたこと。そして、その地上戦から端を発する「基地との隣り合わせの戦後の生活」が影響していたことが、調査を進めるうちに見えてきました。

NHK【ETV特集】沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査

「(トラウマ記憶は)実は時限爆弾のように、一応静まっているだけなんです。自分の老いだとか、自分の身近な方々が亡くなるとか、喪失の体験が出てくる。そうすると、それがひとつの引き金になって、寝ていたものが起きてくる」

戦後70年 遠ざかる記憶近づく足音「戦争トラウマ」心の傷 今なお深く – QAB

沖縄戦で受けた心の傷、沖縄戦PTSDについて考える公開講座が13日に西原町で開かれ、南風原町出身の女性が、家族で壕にいて日本兵に追い出された体験を語りました。

内原つる子さん(83)「父は、すぐ土下座をして、『今日1日でようございますから、壕の片隅に置いてください、お願いします』と頭を土に下げた」「(日本兵曹長は)『天皇陛下の命令に背くつもりか、この非国民め、叩き切ってやろうか』と脅した。姉が『お父さん、すぐ出よう』と言った」

今回、初めて公の場で体験を語った内原つる子さんは、「全てを失い、真っ赤な血に染まった沖縄の大地を忘れることは出来ないが、今も居座るアメリカ軍基地や、集団的自衛権のことを考えると、『世界の平和のために尽くせ』と、生かされたと思う」と話していました。

「父は土下座して…」沖縄戦PTSDを考える – QAB NEWS Headline

 

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