〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月12日 『今帰仁村と渡野喜屋の住民虐殺』

シュガーローフの戦いが始まる日本軍の住民虐殺

米軍の動向、総攻撃2日目

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Chapter 08 | Our World War II Veterans

 

シュガーローフの戦い (5月12日-18日)

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The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Assault on Shuri)

安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ (52高地)

那覇市北部の天久と呼ばれた地域、1953年に軍政府により「土地収用令」として強制接収され米軍基地「牧港住宅地区」となっていたが1987年に返還され、現在は新都心おもろまちとして再開発が進む。

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1945年5月12~18日 地獄の丘、シュガーローフの戦い - Battle of Okinawa

沖縄戦の激戦地。字安里(あざあさと)の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間チージでの攻防は、1945年 (昭和20) 5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
 それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。

慶良間チージ(シュガーローフ) : 那覇市歴史博物館

海兵隊がはじめて首里の東側、真壁との間にある高地シュガー・ローフの日本軍に遭遇したのは、5月12日であった。第22海兵連隊のG中隊は、戦車11輌を先頭に、安里川のほうに向けて南進していた。目ざすはまっすぐシュガー・ローフである。ここには強固な陣地がある。米海兵隊が近づくにつれ、日本軍の小銃による応射がしだいに激しくなってきた。…ちょうどシュガー・ローフについたとき、かなりの数の日本兵が、急に逃げだした。それが計略だったのか、あるいは米軍がとつぜん現れたので、驚いて逃げ出したのかは、わからない。丘の頂上で、海兵隊の4名の兵と隊長が、夢中になって電話で援軍を求めたが、すでに多くの損害を出していたので撤退するようにとの命令をうけていたのだ。

米軍がひきはじめたとき、日本軍は、今度は猛然と砲火をあびせてきた。戦車3輌がたちまちやられ海兵隊はゆっくりひきさがったが、その途中でもひどくやられ、夜までには、G中隊はその全兵力が75名にまで減ってしまった。』(341頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 341頁より》

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SUGAR LOAF HILL, western anchor of the Shuri defenses, seen from the north.

/USMC/V/USMC-V-II-8.html

『第22海兵連隊G中隊を壊滅させた丘は、複数の丘が相互連携する構造により強固な陣地が構築されていた。この仕組みを海兵隊が完全に理解するまで、さらに四日間もの期間が必要であった。この後〝シュガーローフ〟と呼ばれる、この不規則な長方形の塊のようなかたちの丘は、東側の首里高地のかげに隠れてあまり重要視されていなかった。戦前、地元の沖縄では、その頂上から西に24キロはなれた慶良間諸島が一望できることから「慶良間チージ」と呼ばれていた。日本軍は単純にこの丘を「52高地」とよんでいた。

高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないため、1個中隊の兵員で大混乱する程度の広さしかなかった。赤土が積みあがり岩が露出した貧相な丘の外観は、その重要性と反比例していた。この丘は牛島中将の首里防衛ラインの西の要衝として、洞窟やトンネルで強固に要塞化され、三角形の相互防衛システムの一点として機能していた。

シュガーローフの南東、約400メートルには、後に、そのととのった形から〝ハーフムーン(半月)〟と呼ばれる別の丘があった。この二つの丘の谷間には軽便鉄道が走っており、曲がりくねりながら、那覇へとつづいていた。…さらにシュガーローフの南180メートルには、のちに〝ホースショア(馬蹄)〟と呼ばれる別の丘があった。』(117-118頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 117-118頁より》

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夜間攻撃に備えて、前線で道路と石壁の裏に塹壕を掘る準備をする第29海兵連隊第1大隊。(1945年5月12日撮影)

Marines of the 1st Battalion, 29th Marines, prepare to dig in on front lines for the night, behind road and stone wall.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

沢岻(たくし)

『第7海兵連隊は、5月12日になって、その前線を沢岻まで展開し、第1大隊が丘陵争奪で、激しい戦闘にはいった。

沢岻丘陵では、日本軍は例のように反対側の丘腹に有利な地歩を占めていたので、ここを攻撃するということは至難なことだった。…海兵が4人、手榴弾をいっぱい持って、ひそかに丘のいただきにしのび寄ろうとした。これは失敗した。…海兵隊は手榴弾弾幕にあって後退を余儀なくされ、かわって爆破隊が出撃、180キロの爆薬を陣地下方にしかけた。…それにもかかわらず、効果はあまり上がらなかった。

一小隊が中型戦車1輌と火炎砲戦車2輌をもって、窪地に出撃し、丘の裏側を攻撃できるところまで進出した。そして、戦車が75ミリ砲や機関銃を撃ちまくっているあいだに、火炎砲は全斜面を焼きつくした。これがすむと同時に、海兵は頂上を攻めたて、たいした苦労もなく、そこを占領することができた。第6海兵師団は日暮れまでに沢岻高地一帯に確たる地歩を築いた。

ところが、まさに午前零時になろうとするところ、日本軍が海兵第2大隊に反撃を試みてきた。…米軍は、中隊と思われるこの日本軍を撃退し、約40人を倒したが、そのうちの2人は将校で、同地域一帯の詳しい作戦地図をもっていた。この地図のおかげで、戦車と歩兵の共同作戦は、13日に沢岻全域を占領することができたのである。』(355-356頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 355-356頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

5月12日、第306連隊は前線にとどまって、両翼にいる友軍の進撃をたすけた。まず第2大隊は、戦車1小隊を出して、第96師団に右翼を固めさせ、第1大隊は、第305連隊が容易に進撃できるようにした。この連隊は、第5号線道路の西側で、砲弾のために大穴のあいた地面にぶつかって、進撃に四苦八苦していた。

日本軍はこのあたりでは、大きな、しかも堅固に防備された洞窟内に陣取っていたが、その洞窟は日本製の2トン半トラックが二台もはいるようなものだった。』(375頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 375頁より》

 

第32軍の動向

5月12日、大攻勢をかけてきた第6海兵師団に、まず天久台が、大部分を占領される。…沢岻高地も、ものすごい争奪戦を繰り返したあげく、夕刻になると高台上の大部分が占領されてしまう。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 259頁より》

軍司令部

5月12日午後、牛島軍司令官は、悲壮な電報を発した。

「敵は安謝付近に海兵隊第6師団を投入、我が左翼を席捲し、首里に近く迫り、全師団、我れに見参せり。我れは後方部隊の大部を前線に投入、接戦格闘中なるも、敵また苦戦に喘ぎあるもののごとし。彼我勝敗の岐路はまさに今明日中にあり。陸海連合の全力を速急に本島周辺に投入し、勝敗を一挙に決せらるることを切望す。敵後方船団の動静に鑑み、ここ数日間の勝機は断じて逸すべからざるものと確信す」』(256頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 256頁より》

天久(あめく)・安里(あさと)

12日西方の天久台及び安里正面は戦車を伴う強力な米軍の猛攻を受けた。安里北側52高地に突進してきた米軍を不意急襲し、多大の損害を与えて撃退した。天久台上の大部分は米軍の占領するところとなった。

独立混成第44旅団長は、右地区隊(独立混成第15聨隊)強化のため、旅団予備であった独立混成第15聨隊第1大隊(野崎大隊)を右地区隊に増加した。

(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(115頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 117-118頁より》

八原高級参謀の回想:

『独立大隊が、敵に蹂躙された後、天久国民学校北側丘阜に陣した機関銃、速射砲を中心とする北村大尉の戦車撃滅隊は、実によく戦った。激闘2日間の後、ついに衆寡敵せず全滅するに至った。

天久台は立派に耕作された、緩徐な波状の台地で、艦砲射撃に暴露するとともに、敵戦車群の行動はすこぶる自由であるが、他面洞窟陣地の構築、組織が至難な地形である。したがって、遺憾ながら旅団主力は天久台の台上を放棄し、その後端の線、すなわち真嘉比東南側高地、安里北側52高地、崇元寺高橋町、各北側高地の線に拠るのほかはない。

軍首脳部はもちろん、旅団長も、今の調子では一気に天久台から突き落とされ、那覇市に侵入されるのではないかと憂慮した。』(302頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 302頁より》

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米国海兵隊: Jap anti-tank gun knocked out--This Jap 47mm anti-tank gun, which had held up the Marine encirclement of the enemy in Awacha Pocket, was knocked out by a flame throwing General Sherman tank, which fired high explosive shells as it advanced on the position. One Jap, his helmet blew off, was burned to a crisp. The half torso of another Jap is beside the gun. The weapon was emplaced on the reverse side of Wilson's Ridge. Note its shell torn gun shield. (over)
破壊された日本軍の対戦車砲--この日本軍の47ミリ対戦車砲は、“安波茶ポケット”で海兵隊による包囲を阻んでいたが、進軍してきて榴弾を発射したシャーマン型火炎放射戦車によって破壊された。ある日本兵はヘルメットを吹き飛ばされ、黒焦げになった。別の日本兵の胴体の半分が大砲の横に転がっている。この大砲は“ウィルソン丘陵”の反対斜面に設置されていた。砲弾が貫通した防盾に注目。1945年 5月12日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)

『ここは、安里と真嘉比の間にあって、小さな三つの丘が、ジェット機のような、平べったい三角形をなしている。日本軍の陣地づくりの巧妙さが発揮され、三つの丘が、それぞれ射撃できるように銃座を置いて、それを後方の砲兵陣地から、さらに射撃できるように計画してある。』(259頁)

5月12日、米1コ中隊が、戦車11台を先頭に攻めつけたが、戦車3台がたちまちやられ、退却。夕方までに、米中隊は75名に減る。』(260頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 259頁より》

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第6海兵師団が沖縄戦で熾烈な戦闘を繰り広げたシュガー・ローフの丘を南方向に望む

Looking south toward Sugar Loaf Hill where the 6th Marine Division saw some of the toughest fighting in the Okinawa operation.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沢岻(たくし)

『かくて、有川旅団は、正面より猛攻撃を受けるのみならず、天久台に敵が進出するや、旅団の左翼は暴露して危険となった。今や旅団司令部と独立歩兵第15大隊は沢岻において、また独立歩兵第21、第23の両大隊は、経塚において、それぞれ完全に包囲馬乗り攻撃をうけている。』(318-319頁)

『さて、有川旅団司令部は、5月12日には、完全に包囲馬乗り攻撃を受け、旅団長自ら手榴弾を投じつつ、戦闘するといった悲境である。これを見殺しにするか、あるいは重囲を突破して後退させるか、重大な問題になってきた。』(320頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 318-319、320頁より》

 

小禄半島の海軍司令部 - 前線への派兵

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

首里戦線への出動命令を受けた翌12日、佐鎮宛て次の要旨の電報を発信している。

「11日の32軍命令によって、一部で小禄を守り、主力の5個大隊約2千名を本職が直接率いて、16日16時までに首里南東地区に進出する予定であった。しかし、その後の情勢の急迫により、12日夕、1個大隊を与那原方面に出し24師団の指揮下に、1個大隊首里南西地区に出し独混44旅団の指揮下に入れることになった」

軍司令部は同日、沖根にさらに2個大隊の抽出と、斬込隊20組の派遣を命じた。斬込隊は各組3〜5人編制で、首里攻防戦が終わるまで総数約100組が投入される。正に「秋水ヲ払ヒテ」の死闘だった。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 387-388頁より》

 

警察特別行動隊の脱出計画

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

沖縄県の荒井警察部長は前日11日に8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものであり、そのためには、米軍に気付かれないよう沖縄から脱出し、東京へ向かう必要があった。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。

『8人は壕内がまだ寝静まっていた…12日午前4時ごろ、1人、また1人とひそかに警察部壕を抜け出した。肩章と記章をはいだ制服上着、戦闘帽、カーキ色の作業ズボンに巻脚半を巻き、地下足袋を履いた所属不明の服装だった。…隊員は先ず、海上突破用の舟を調達してもらう必要から豊見城の海軍司令部壕へ向かった。…隊長が海軍側に連携方法、脱出に使う舟、食糧などについて具体的な話し合いを申し入れたが、海軍側は…精鋭約2500人を第一線に持っていかれた善後策に追われていたのか、心ここにあらずの様子で、…最初から相当な温度差を感じた。

…「我々も指示は受けていますが、貴官らと共同歩調を取るまでの準備は、残念ながらまだ進んでおりません」「戦闘任務を持つ我々としては兵員の減少が目立つ中で、兵を他に転用するのは非常に難しい現状にあります」など、…で、…その後、海軍壕へ数回通ったのだが…共同行動の話は、会うたびに怪しくなり…先ず脱出用の舟を確保する余裕がない、次いでこの戦況では海軍は計画から脱落するかもしれない、との悲観的な返事になり…結局、行動時の食糧として携帯口糧(海軍の大型乾パン)5ケースは快く提供…。県に友好的な海軍がこれでは、陸軍の暁部隊に相談しても無駄だろうと、…隊長は警察の自力決行を決心。

隊員は南部の玉城村糸数、次いで同村親慶原の自然洞窟を拠点に、脱出用サバニ(沖縄の伝統的なクリ舟漁船)を確保する班と携帯口糧を運ぶ班との二手に分かれ、行動を開始した。

一旦は東隣の知念村で、駐在所の警官の口ききでサバニを1隻入手するのに成功、海岸の防潮林に隠しておいたが、もう1隻を確保しようと奔走するうち何者かに持ち去られてしまった。そこで「仮にサバニが2隻確保出来ても、敵艦がウヨウヨする南部からの海上突破は無理」と判断、2名ずつの4班に分かれ、陸路敵陣を縫って北上、北部東海岸の久志村に集結し、そこから脱出することに決めたが、行く手には死の影が待ち構えていた。』(305-306頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 305-306頁より》

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄本島の地元民。前線から北へ逃げている様子。(1945年5月12日撮影)

Native people seen on Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #210. People moving north away from front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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米国海軍: Jap natives in Shimabuku, Okinawa, Ryukyu Islands. Child playing in ruins.

住民、島袋にて。廃墟で遊ぶ子供。1945年4月10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

今帰仁村の住民虐殺 - 日本兵が持っていた殺害リスト

運天港、海軍特殊潜航艇隊 (渡辺大尉) 、謝花喜睦と平良幸吉の殺害

今帰仁村運天港には海軍部隊の第二蛟龍隊(特殊潜航艇隊・鶴田伝大尉指揮)、および第27魚雷艇隊(白石信治大尉指揮)が沖縄戦の前年から配置されていたが、米軍上陸前にことごとく船舶・基地もろとも破壊され、いずれも4月初旬には八重岳を管轄する宇土部隊の配下に入り、陸戦に移行した。

問題の渡辺大が所属する第二蛟龍隊(総勢約150人)は、昭和19(1944)年8月下旬から沖縄に入り運天港に秘密基地を構築していたが、最後に残った二艇の甲標的(小型特殊潜航艇)と基地を自ら破壊して陸に上がり、4月6日の夜に遊撃戦に移った。さりとて陸戦の経験もなく、米軍に応戦するだけの装備もない。こうして海軍兵は早くから目的を失い、欠乏と恐怖の中で生存本能だけに支配され、住民を脅し脅し略奪を繰り返す輩も増えてきた。そのため、『沖縄県史』をはじめとする文献に記録された北部の住民の証言の中には「海軍は怖い」というものが散見される。特に、白石大尉、渡辺大尉は「スパイリスト」を手に集落に度々現れたという証言が複数残っている。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

本部半島の北端を占める今帰仁村は、4月1日、米軍上陸と同時に、全村民は、裏手の山の壕に避難した。村役場は、付近の壕に連絡員を置き、各避難所と連絡した。…本部半島地区の、戦闘らしい戦闘は、…4月20日までに終わりを告げた。米軍は、山中の住民に「早く山を降りて、生産に従事せよ」と命じた。5月2日、ついに米軍は、各部落の区長達を玉城区の民家に集め、村の生産と復旧の計画を建てさせ、一日もそれを急ぐようにと命じた。その頃、運天港にいた海軍特殊潜航艇隊の渡辺大尉は、数人の部下と共に、夜になると米軍の目を逃れて、部落へやってきた。山中に匿れている兵隊は、大抵、住民の着物をつけ、藁の帯をしめていた。渡辺は陸戦隊の黒い庇帽を被り、日本刀を吊っていた。彼は村民に、喰物をせびって歩いていた。そして、「米軍に通じる奴は、国賊だ。生かしてはおけぬ」と脅し文句を吐いては、山へ引き上げていった。5月12日の夜だった。警防団長をしていた謝花喜睦の家族は、庭先で、謝花を呼ぶ大尉の部下らしい声をきいた。謝花は誘われるままに連行されていったが、遂に帰らなかった。翌朝彼は、畑の中に死体となって、転がっていた。死体は、日本刀で斬られた痕があった。次いで、村の通訳を務めていた平良幸吉が、同様に、何者かのために斬殺された。戦闘が終わり、ようやく、ホッとした村民にとって山中の日本兵が、今度は、新しい恐怖の的となりはじめた。渡辺は村民の殺害リストを作って持っていた。彼の姿は、米軍と日本軍兵隊との間に板挾みとなって苦しむ住民を尻目に、毎夜のように住民地区へ現れた。

終戦も間近い7月16日、同村玉城区出身与那嶺静行と彼の妻と、弟静正が呼び出されて斬殺された。つづいて長田盛徳、玉城長盛の二人が、依然として彼の殺気を帯びた日本刀につけ狙われたが、間もなく米軍の手によって、村民が羽地、久志に収容されたために、二人はやっと難を逃れることができた。渡辺の殺害リストには、5月2日、米軍の命令で開かれた区長会議に連なった人々の名前が並んでいた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 321-322頁より》

 

 

大宜味村「渡野喜屋の住民虐殺」- 住民35人の殺害

独立混成第44旅団第2歩兵隊、国頭支隊 (宇土武彦大佐)

5月12日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵10人が、住民35人を殺し、15人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者4、5人を連れて山に戻った。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

渡野喜屋[とのきや]避難民虐殺事件。1945年5月、大宜味村渡野喜屋には中南部から避難してきた約90人の一般住民が米軍に保護されて一時収容されていたが、ある夜、山中に立てこもっていた日本兵約10名が集落におりてきて、避難民の中から男たち数名を山中に連行して軍刀で惨殺、残りの老幼婦女子4、50人は塩屋湾の浜辺に集められて、隊長(軍曹)が「きさまら夫や息子に恥ずかしいと思わんか」などと訓示したあと、隊長の号令で、避難民を取り囲んでいた約10名の兵隊たちが一斉に手榴弾を投げつけてきた。猛烈な炸裂音のあとに数十名の死体の山ができた。夜が明けて負傷した人たちが水を飲みに元の空家に戻ってみると、兵隊たちが避難民の荷物から米軍配給の食料品をぜんぶ抜き取って山中に去ったあとだった。

株式会社 高文研

遺族の証言

 夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。
 父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
 男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
 幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
 父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

 父は別の場所で、首に短刀を突き刺されて殺された。両ひざは丸くくりぬかれ、「日の丸だ。勲章だ」と日本兵が持ち帰ったという。血の海に浮かぶ遺体を見つけた母と兄は、あまりのむごさに気絶した-。

 これが、仲本さんが二十歳の時、兄から打ち明けられた話だ。三カ月後、兄は心を患い、入院した。

 「渡野喜屋はスパイ集落」という密告が事件のきっかけだった。「私たちがスパイだなんて殺す言い訳だ。戦争は悪魔を生む。人間を信じられない私は、今も暗闇の中にいる」。仲本さんは苦しみを明かす。

 事件の正式な調査は行われていない。県史編集委員の大城将保(おおしろまさやす)さん(75)は、真相を知ろうと証言を集め、「飢えに苦しんだ日本兵が、食料強奪のために集落を襲った。スパイへの過剰な警戒もあった」と結論づけた。少なくとも死者は30~40人と推測する。

《東京新聞:4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇》

宇土部隊の東郷隊に所属した元兵士の証言

那覇近辺から10数日をかけて北部の指定町村にたどりついた避難民集団は、食料は得られず、衣服は破れ、老人は落伍し、病人は薬もなく行き倒れとなりました。背に腹はかえられず、食べ物を求めて村は荒らされ畠は掘り返され、山羊などの家畜は盗まれました。集団に後(おく)れ、杖をついて山道を急ぐ老人男女は道端にうずくまり、そのまま死んでいきました。道に迷った幼児も栄養失調で動けなくなりました。赤ん坊を背負った上に、幼児の手を引き、毛布や鍋やゴザなどを持つ若い母親は、ツワブキなどでは乳が出なくなり、乳呑児より先に息絶えました。

当時北部戦線を守備していたのは第32軍第44旅団第2歩兵隊長宇土武彦大佐のひきいる国頭支隊(約3千名)、通称宇土部隊である。八重岳の戦闘(4月13-18日)で敗れた宇土部隊は国頭(くにがみ)の山中にもぐり地域住民の食糧を強奪しながら潜伏活動を続けていた。

5月10日、渡野喜屋部落の避難民は米軍から食糧を支給されスパイを働いているとの地域住民からの密告を受けた宇土部隊の東郷隊長は2人の兵士(藤井兵長、松尾兵長)を調査に向かわせた。2人を案内したのは地元の少年である。ところが渡野喜屋部落で兵士たちは米軍につかまり連行される。その報告を少年から受けた部隊は避難民が彼らを米軍に売ったと理解し、米軍の来襲に備えた。

5月12日夜間、不安と恐怖にさいなまれた宇土部隊は渡野喜屋部落を襲撃し3人の男たちを連行、さらに近くの浜辺に残りの避難民家族を集め手榴弾を投げ込み、35人を殺害し15人に負傷を負わせた(そのほとんどが女性と子どもである)。…

こうして12日夜、東郷隊は下野と私ともう1名(名前忘失)の3名を残して渡野喜屋避難民を襲い、翌早朝、3人の「捕虜」を後手に縛って連れてきた。下野と私は凄愴の気を漂わせて厳命する曹長らから「捕虜」を受け継ぎ、慶佐次川右岸の珍しくその辺りだけ広い河原で、3人を監視することになった。その監視は早朝から昼過ぎまで続けられ、その間に1人ずつ隊長の訊問が河原の奥深くにある隊長宿舎で行われた。

《森杉多『空白の沖縄戦記 : 幻の沖縄奪還クリ舟挺身隊』昭和出版、1973年》

 注・その後、この3人の住民「捕虜」も惨殺された。

 

 

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