米軍の動向、総攻撃2日目
シュガーローフの戦い (5月12日-18日)
The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Assault on Shuri)
安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ (52高地)*1
沖縄戦の激戦地。字安里(あざあさと)の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間チージでの攻防は、1945年 (昭和20) 5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。
日本軍の反斜面陣地が米軍の進軍を迎え撃つ。
ここは、安里と真嘉比の間にあって、小さな三つの丘が、ジェット機のような、平べったい三角形をなしている。日本軍の陣地づくりの巧妙さが発揮され、三つの丘が、それぞれ射撃できるように銃座を置いて、それを後方の砲兵陣地から、さらに射撃できるように計画してある。(259頁)
5月12日、米1コ中隊が、戦車11台を先頭に攻めつけたが、戦車3台がたちまちやられ、退却。夕方までに、米中隊は75名に減る。(260頁)
海兵隊がはじめて首里の東側、真壁との間にある高地シュガー・ローフの日本軍に遭遇したのは、5月12日であった。第22海兵連隊のG中隊は、戦車11輌を先頭に、安里川のほうに向けて南進していた。目ざすはまっすぐシュガー・ローフである。ここには強固な陣地がある。米海兵隊が近づくにつれ、日本軍の小銃による応射がしだいに激しくなってきた。…ちょうどシュガー・ローフについたとき、かなりの数の日本兵が、急に逃げだした。それが計略だったのか、あるいは米軍がとつぜん現れたので、驚いて逃げ出したのかは、わからない。丘の頂上で、海兵隊の4名の兵と隊長が、夢中になって電話で援軍を求めたが、すでに多くの損害を出していたので撤退するようにとの命令をうけていたのだ。
米軍がひきはじめたとき、日本軍は、今度は猛然と砲火をあびせてきた。戦車3輌がたちまちやられ、海兵隊はゆっくりひきさがったが、その途中でもひどくやられ、夜までには、G中隊はその全兵力が75名にまで減ってしまった。
SUGAR LOAF HILL, western anchor of the Shuri defenses, seen from the north.
第22海兵連隊G中隊を壊滅させた丘は、複数の丘が相互連携する構造により強固な陣地が構築されていた。この仕組みを海兵隊が完全に理解するまで、さらに四日間もの期間が必要であった。この後〝シュガーローフ〟と呼ばれる、この不規則な長方形の塊のようなかたちの丘は、東側の首里高地のかげに隠れてあまり重要視されていなかった。戦前、地元の沖縄では、その頂上から西に24キロはなれた慶良間諸島が一望できることから「慶良間チージ」と呼ばれていた。日本軍は単純にこの丘を「52高地」とよんでいた。
高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないため、1個中隊の兵員で大混乱する程度の広さしかなかった。赤土が積みあがり岩が露出した貧相な丘の外観は、その重要性と反比例していた。この丘は牛島中将の首里防衛ラインの西の要衝として、洞窟やトンネルで強固に要塞化され、三角形の相互防衛システムの一点として機能していた。
シュガーローフの南東、約400メートルには、後に、そのととのった形から〝ハーフムーン(半月)〟と呼ばれる別の丘があった。この二つの丘の谷間には軽便鉄道が走っており、曲がりくねりながら、那覇へとつづいていた。…さらにシュガーローフの南180メートルには、のちに〝ホースショア(馬蹄)〟と呼ばれる別の丘があった。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 117-118頁より》
夜間攻撃に備えて、前線で道路と石壁の裏に塹壕を掘る準備をする第29海兵連隊第1大隊。(1945年5月12日撮影)
Marines of the 1st Battalion, 29th Marines, prepare to dig in on front lines for the night, behind road and stone wall.
12日西方の天久台及び安里正面は戦車を伴う強力な米軍の猛攻を受けた。安里北側52高地に突進してきた米軍を不意急襲し、多大の損害を与えて撃退した。天久台上の大部分は米軍の占領するところとなった。
独立混成第44旅団長は、右地区隊(独立混成第15聨隊)強化のため、旅団予備であった独立混成第15聨隊第1大隊(野崎大隊)を右地区隊に増加した。
(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 117-118頁より》
Looking south toward Sugar Loaf Hill where the 6th Marine Division saw some of the toughest fighting in the Okinawa operation.
第6海兵師団が沖縄戦で熾烈な戦闘を繰り広げたシュガー・ローフの丘を南方向に望む
沢岻(たくし)
第7海兵連隊は、5月12日になって、その前線を沢岻まで展開し、第1大隊が丘陵争奪で、激しい戦闘にはいった。沢岻丘陵では、日本軍は例のように反対側の丘腹に有利な地歩を占めていたので、ここを攻撃するということは至難なことだった。… 小隊が中型戦車1輌と火炎砲戦車2輌をもって、窪地に出撃し、丘の裏側を攻撃できるところまで進出した。そして、戦車が75ミリ砲や機関銃を撃ちまくっているあいだに、火炎砲は全斜面を焼きつくした。これがすむと同時に、海兵は頂上を攻めたて、たいした苦労もなく、そこを占領することができた。第6海兵師団は日暮れまでに沢岻高地一帯に確たる地歩を築いた。
ところが、まさに午前零時になろうとするところ、日本軍が海兵第2大隊に反撃を試みてきた。… 米軍は、中隊と思われるこの日本軍を撃退し、約40人を倒したが、そのうちの2人は将校で、同地域一帯の詳しい作戦地図をもっていた。この地図のおかげで、戦車と歩兵の共同作戦は、13日に沢岻全域を占領することができたのである。
かくて、有川旅団は、正面より猛攻撃を受けるのみならず、天久台に敵が進出するや、旅団の左翼は暴露して危険となった。今や旅団司令部と独立歩兵第15大隊は沢岻において、また独立歩兵第21、第23の両大隊は、経塚において、それぞれ完全に包囲馬乗り攻撃をうけている。(318-319頁)
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 318-319、320頁より》
石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺
5月12日、第306連隊は前線にとどまって、両翼にいる友軍の進撃をたすけた。まず第2大隊は、戦車1小隊を出して、第96師団に右翼を固めさせ、第1大隊は、第305連隊が容易に進撃できるようにした。この連隊は、第5号線道路の西側で、砲弾のために大穴のあいた地面にぶつかって、進撃に四苦八苦していた。
日本軍はこのあたりでは、大きな、しかも堅固に防備された洞窟内に陣取っていたが、その洞窟は日本製の2トン半トラックが二台もはいるようなものだった。』(375頁)
第32軍の動向
5月12日、大攻勢をかけてきた第6海兵師団に、まず天久台が、大部分を占領される。…沢岻高地も、ものすごい争奪戦を繰り返したあげく、夕刻になると高台上の大部分が占領されてしまう。
軍司令部
5月12日午後、牛島軍司令官は、悲壮な電報を発した。
「敵は安謝付近に海兵隊第6師団を投入、我が左翼を席捲し、首里に近く迫り、全師団、我れに見参せり。我れは後方部隊の大部を前線に投入、接戦格闘中なるも、敵また苦戦に喘ぎあるもののごとし。彼我勝敗の岐路はまさに今明日中にあり。陸海連合の全力を速急に本島周辺に投入し、勝敗を一挙に決せらるることを切望す。敵後方船団の動静に鑑み、ここ数日間の勝機は断じて逸すべからざるものと確信す」
小禄半島の海軍司令部 - 前線への派兵
沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)
…首里戦線への出動命令を受けた翌12日、佐鎮宛て次の要旨の電報を発信している。
「11日の32軍命令によって、一部で小禄を守り、主力の5個大隊約2千名を本職が直接率いて、16日16時までに首里南東地区に進出する予定であった。しかし、その後の情勢の急迫により、12日夕、1個大隊を与那原方面に出し24師団の指揮下に、1個大隊を首里南西地区に出し独混44旅団の指揮下に入れることになった」
軍司令部は同日、沖根にさらに2個大隊の抽出と、斬込隊20組の派遣を命じた。斬込隊は各組3〜5人編制で、首里攻防戦が終わるまで総数約100組が投入される。正に「秋水ヲ払ヒテ」の死闘だった。
警察特別行動隊の脱出計画
沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)
沖縄県の荒井警察部長は前日11日に8人の部下を選抜し、警察特別行動隊(警察別動隊)を編成した。彼らの任務は、内務省に沖縄県民の現状を直接報告するというものであり、そのためには、米軍に気付かれないよう沖縄から脱出し、東京へ向かう必要があった。舟や食糧は、海軍が協力する手はずになっていた。
8人は…12日午前4時ごろ、1人、また1人とひそかに警察部壕を抜け出した。肩章と記章をはいだ制服上着、戦闘帽、カーキ色の作業ズボンに巻脚半を巻き、地下足袋を履いた所属不明の服装だった。…隊員は先ず、海上突破用の舟を調達してもらう必要から豊見城の海軍司令部壕へ向かった。…隊長が海軍側に連携方法、脱出に使う舟、食糧などについて具体的な話し合いを申し入れたが、海軍側は…精鋭約2500人を第一線に持っていかれた善後策に追われていたのか、心ここにあらずの様子で、…最初から相当な温度差を感じた。
…「我々も指示は受けていますが、貴官らと共同歩調を取るまでの準備は、残念ながらまだ進んでおりません」「戦闘任務を持つ我々としては兵員の減少が目立つ中で、兵を他に転用するのは非常に難しい現状にあります」など、…で、…その後、海軍壕へ数回通ったのだが…共同行動の話は、会うたびに怪しくなり…先ず脱出用の舟を確保する余裕がない、次いでこの戦況では海軍は計画から脱落するかもしれない、との悲観的な返事になり…結局、行動時の食糧として携帯口糧(海軍の大型乾パン)5ケースは快く提供…。県に友好的な海軍がこれでは、陸軍の暁部隊に相談しても無駄だろうと、…隊長は警察の自力決行を決心。
隊員は南部の玉城村糸数、次いで同村親慶原の自然洞窟を拠点に、脱出用サバニ(沖縄の伝統的なクリ舟漁船)を確保する班と携帯口糧を運ぶ班との二手に分かれ、行動を開始した。
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 305-306頁より》
そのとき、住民は・・・
Native people seen on Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #210. People moving north away from front.
沖縄本島の地元民。前線から北へ逃げている様子。(1945年5月12日撮影)
米国海軍: Jap natives in Shimabuku, Okinawa, Ryukyu Islands. Child playing in ruins.
住民、島袋にて。廃墟で遊ぶ子供。1945年4月10日
今帰仁村の住民虐殺 - 日本兵が持っていた殺害リスト
運天港、海軍特殊潜航艇隊 (渡辺大尉) 、謝花喜睦と平良幸吉の殺害
今帰仁村運天港には海軍部隊の第二蛟龍隊(特殊潜航艇隊・鶴田伝大尉指揮)、および第27魚雷艇隊(白石信治大尉指揮)が沖縄戦の前年から配置されていたが、米軍上陸前にことごとく船舶・基地もろとも破壊され、いずれも4月初旬には八重岳を管轄する宇土部隊の配下に入り、陸戦に移行した。
問題の渡辺大尉が所属する第二蛟龍隊(総勢約150人)は、昭和19(1944)年8月下旬から沖縄に入り運天港に秘密基地を構築していたが、最後に残った二艇の甲標的(小型特殊潜航艇)と基地を自ら破壊して陸に上がり、4月6日の夜に遊撃戦に移った。さりとて陸戦の経験もなく、米軍に応戦するだけの装備もない。こうして海軍兵は早くから目的を失い、欠乏と恐怖の中で生存本能だけに支配され、住民を脅し脅し略奪を繰り返す輩も増えてきた。そのため、『沖縄県史』をはじめとする文献に記録された北部の住民の証言の中には「海軍は怖い」というものが散見される。特に、白石大尉、渡辺大尉は「スパイリスト」を手に集落に度々現れたという証言が複数残っている。
ヤンバルでは村の有力者28人で、国頭支隊秘密戦機関「国士隊」が結成されて いた。国士隊の任務は反軍・ 反官的、反戦・厭戦の意識を持つ人、戦争に対する決意が低い人、不平不満の言動をなす者等を探し出し日本軍へ報告するなど、いわゆる防諜活動が主だった。 … 国士隊がどこまで日本軍と密に関わっていたのかは不透明だが、ヤンバルでは白石部隊が、住民が関与したと考えられるスパイ容疑者リストの手帳を持ち、住民虐殺を行っていた。
本部半島の北端を占める今帰仁村は、4月1日、米軍上陸と同時に、全村民は、裏手の山の壕に避難した。村役場は、付近の壕に連絡員を置き、各避難所と連絡した。…本部半島地区の、戦闘らしい戦闘は、…4月20日までに終わりを告げた。米軍は、山中の住民に「早く山を降りて、生産に従事せよ」と命じた。5月2日、ついに米軍は、各部落の区長達を玉城区の民家に集め、村の生産と復旧の計画を建てさせ、一日もそれを急ぐようにと命じた。その頃、運天港にいた海軍特殊潜航艇隊の渡辺大尉は、数人の部下と共に、夜になると米軍の目を逃れて、部落へやってきた。山中に匿れている兵隊は、大抵、住民の着物をつけ、藁の帯をしめていた。渡辺は陸戦隊の黒い庇帽を被り、日本刀を吊っていた。彼は村民に、喰物をせびって歩いていた。そして、「米軍に通じる奴は、国賊だ。生かしてはおけぬ」と脅し文句を吐いては、山へ引き上げていった。5月12日の夜だった。警防団長をしていた謝花喜睦の家族は、庭先で、謝花を呼ぶ大尉の部下らしい声をきいた。謝花は誘われるままに連行されていったが、遂に帰らなかった。翌朝彼は、畑の中に死体となって、転がっていた。死体は、日本刀で斬られた痕があった。次いで、村の通訳を務めていた平良幸吉が、同様に、何者かのために斬殺された。戦闘が終わり、ようやく、ホッとした村民にとって山中の日本兵が、今度は、新しい恐怖の的となりはじめた。渡辺は村民の殺害リストを作って持っていた。彼の姿は、米軍と日本軍兵隊との間に板挾みとなって苦しむ住民を尻目に、毎夜のように住民地区へ現れた。
終戦も間近い7月16日、同村玉城区出身与那嶺静行と彼の妻と、弟静正が呼び出されて斬殺された。つづいて長田盛徳、玉城長盛の二人が、依然として彼の殺気を帯びた日本刀につけ狙われたが、間もなく米軍の手によって、村民が羽地、久志に収容されたために、二人はやっと難を逃れることができた。渡辺の殺害リストには、5月2日、米軍の命令で開かれた区長会議に連なった人々の名前が並んでいた。
大宜味村「渡野喜屋の住民虐殺」- 住民35人の殺害
独立混成第44旅団第2歩兵隊、国頭支隊 (宇土武彦大佐)
5月12日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵10人が、住民35人を殺し、15人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者4、5人を連れて山に戻った。
渡野喜屋[とのきや]避難民虐殺事件。1945年5月、大宜味村渡野喜屋には中南部から避難してきた約90人の一般住民が米軍に保護されて一時収容されていたが、ある夜、山中に立てこもっていた日本兵約10名が集落におりてきて、避難民の中から男たち数名を山中に連行して軍刀で惨殺、残りの老幼婦女子4、50人は塩屋湾の浜辺に集められて、隊長(軍曹)が「きさまら夫や息子に恥ずかしいと思わんか」などと訓示したあと、隊長の号令で、避難民を取り囲んでいた約10名の兵隊たちが一斉に手榴弾を投げつけてきた。猛烈な炸裂音のあとに数十名の死体の山ができた。夜が明けて負傷した人たちが水を飲みに元の空家に戻ってみると、兵隊たちが避難民の荷物から米軍配給の食料品をぜんぶ抜き取って山中に去ったあとだった。
遺族の証言
夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。
父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。
父は別の場所で、首に短刀を突き刺されて殺された。両ひざは丸くくりぬかれ、「日の丸だ。勲章だ」と日本兵が持ち帰ったという。血の海に浮かぶ遺体を見つけた母と兄は、あまりのむごさに気絶した-。
これが、仲本さんが二十歳の時、兄から打ち明けられた話だ。三カ月後、兄は心を患い、入院した。
「渡野喜屋はスパイ集落」という密告が事件のきっかけだった。「私たちがスパイだなんて殺す言い訳だ。戦争は悪魔を生む。人間を信じられない私は、今も暗闇の中にいる」。仲本さんは苦しみを明かす。
事件の正式な調査は行われていない。県史編集委員の大城将保(おおしろまさやす)さん(75)は、真相を知ろうと証言を集め、「飢えに苦しんだ日本兵が、食料強奪のために集落を襲った。スパイへの過剰な警戒もあった」と結論づけた。少なくとも死者は30~40人と推測する。
宇土部隊の東郷隊に所属した元兵士の証言
那覇近辺から10数日をかけて北部の指定町村にたどりついた避難民集団は、食料は得られず、衣服は破れ、老人は落伍し、病人は薬もなく行き倒れとなりました。背に腹はかえられず、食べ物を求めて村は荒らされ畠は掘り返され、山羊などの家畜は盗まれました。集団に後(おく)れ、杖をついて山道を急ぐ老人男女は道端にうずくまり、そのまま死んでいきました。道に迷った幼児も栄養失調で動けなくなりました。赤ん坊を背負った上に、幼児の手を引き、毛布や鍋やゴザなどを持つ若い母親は、ツワブキなどでは乳が出なくなり、乳呑児より先に息絶えました。
当時北部戦線を守備していたのは第32軍第44旅団第2歩兵隊長宇土武彦大佐のひきいる国頭支隊(約3千名)、通称宇土部隊である。八重岳の戦闘(4月13-18日)で敗れた宇土部隊は国頭(くにがみ)の山中にもぐり地域住民の食糧を強奪しながら潜伏活動を続けていた。
5月10日、渡野喜屋部落の避難民は米軍から食糧を支給されスパイを働いているとの地域住民からの密告を受けた宇土部隊の東郷隊長は2人の兵士(藤井兵長、松尾兵長)を調査に向かわせた。2人を案内したのは地元の少年である。ところが渡野喜屋部落で兵士たちは米軍につかまり連行される。その報告を少年から受けた部隊は避難民が彼らを米軍に売ったと理解し、米軍の来襲に備えた。
5月12日夜間、不安と恐怖にさいなまれた宇土部隊は渡野喜屋部落を襲撃し3人の男たちを連行、さらに近くの浜辺に残りの避難民家族を集め手榴弾を投げ込み、35人を殺害し15人に負傷を負わせた(そのほとんどが女性と子どもである)。…
こうして12日夜、東郷隊は下野と私ともう1名(名前忘失)の3名を残して渡野喜屋避難民を襲い、翌早朝、3人の「捕虜」を後手に縛って連れてきた。下野と私は凄愴の気を漂わせて厳命する曹長らから「捕虜」を受け継ぎ、慶佐次川右岸の珍しくその辺りだけ広い河原で、3人を監視することになった。その監視は早朝から昼過ぎまで続けられ、その間に1人ずつ隊長の訊問が河原の奥深くにある隊長宿舎で行われた。
注・その後、この3人の住民「捕虜」も惨殺された。
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