〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月18日 『まるで臭い生ゴミの山』

シュガーローフ震洋

 

米軍の動向

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためだ。

『沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。』(444頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 444頁より》

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木を切り倒す第1878工兵航空大隊の隊員。この場所に新しい採石場を作る(1945年5月18日撮影)

Personnel of the 1878th Engineer Aviation Battalion falling trees. This area is being cleared for new stone quarry on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

一号線 (現在の国道58号線) の構築

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激しい雨のため、頻繁にぬかるみだらけになった1号線円滑な交通を維持するため、車列を進めながら工兵隊員はブルドーザーを使って深い溝を平らにならした。 (投稿者注: 1号線とは、現在の国道58号線)

Highway Number One, Okinawa, USA, was often a mass of mud due to heavy rains. Traffic had to keep rolling, so the engineers worked with their bulldozers while the traffic moved by, leveling the deep ditches.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

総攻撃8日目

5月18日、海軍長官のジェームス・フォレスタルはワシントンでの記者会見で、沖縄戦が始まって以来、海軍の支援艦隊乗組員の戦死傷者数が4720名に達したと発表した。この中には、900名の戦死者と2746名の負傷者、それに107名の行方不明者がふくまれていた。フォレスタルは「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償ともなうものであることをアメリカ国民の皆さんに知っていただきたい」と話した。この発表には、バクナーの前進が遅いことへの暗黙の批判がこめられていた。

バクナーは上層部からのプレッシャーを感じていた。彼は、第10軍の前線における進撃が遅いとの苛立ちをかくさず、軍団の指揮官たちに攻撃のスピードを速めるようにせかした。』(314頁)

『第10軍が総攻撃を開始した5月11日の一日だけでも、カミカゼ特攻により4隻の艦船が甚大な被害をうけていた。この中には、空母バンカーヒルの、戦死364名、負傷264名がふくまれていた。』(315頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 314、315頁より》 

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ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタル(James Vincent Forrestal)

第47代アメリカ合衆国海軍長官および初代アメリカ合衆国国防長官。

ジェームズ・フォレスタル - Wikipedia

 

シュガーローフ

安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘)

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Various general views of ”Sugar Loaf” Hill on left flank of 22nd Marines' lines. Hill was under assault by 29th Marines at the time photos were taken. Tanks can be seen closing in on right side of Hill.
第22海兵連隊戦線の左側に位置するシュガーローフ・ヒルの眺望。撮影時、第29海兵連隊は、この丘を攻撃していた。丘の右側に近づく戦車が写っている。(1945年 5月18日)

5月18日、第6海兵師団の第29海兵連隊のD中隊は、巧妙な協同作戦により、これまでに得た有利な地歩を利用して、ついにシュガー・ローフ陣地の徹底的な攻撃に成功することができた。D中隊指揮官メイビー大尉は、18日の朝、シュガー・ローフ北側の低くなったところに兵を回し、砲兵隊が目標に猛烈な予備砲撃を加えた。それが終わると同時に、戦車3輌がシュガー・ローフの東斜面に回り、日本軍が予定どおり反撃を加えようと、洞窟から飛び出そうとするところを待ち構えて、激しく撃ちまくったのである。』(349頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 349頁より》

『0830時、総勢80人からなる突撃小隊が前進をはじめた。…殺戮がつづいたシュガーローフは、まるで肥溜のような状態になっていた。D中隊の…一等兵は、腐敗した肉塊の堆積物の横を通過していた。2日前まで、このうち何人かは友達だったはずだが、いまは黒く膨張して誰だかわからなくなってい

「…5月18日に俺たちが突撃したとき、死体を踏まずに丘をのぼるのは不可能だった。…まるで臭い生ゴミの山をのぼるような感じだったからね」砲撃でズタズタになった丘の上にころがる腐乱死体の上を急いで乗り越えながら、…小隊は、丘の頂上部に到達できた。』(322-323頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 322-323頁より》

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《AIによるカラー処理》Marines pinned down on ridge approaching ”Sugar Loaf” Hill.

シュガーローフ・ヒルに接近している海兵隊員が、高台で足留めを食らっている。(1945年 5月18日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『安里の北部丘陵シュガー・ローフの洞窟から、日本軍が2隊にわかれ爆雷をかかえて米軍戦車をめざして飛びだしてきた。戦車隊はこれを撃ち倒したのち、後にしりぞいた。メイビー大尉はロケット弾を猛射せよと命令、ロケットを積んだトラックが低地のところまで進撃してきた。ここでミサイルを発射して、やっと日本軍の砲火からまぬかれることができた。海兵隊は再度前進を試みた。すると日本軍はまたもや猛烈な砲火で応酬してきた。

そこで1小隊は、ふもとからそのまま隊を断ちきられぬように西側から丘を登っていき、一方、別の1小隊がまっすぐ北斜面を進撃して、両隊はほとんど同時に頂上をきわめた。その後、丘の向こう側にかくれている日本軍陣地を撃滅しようと進撃をつづけた。シュガー・ローフの日本軍陣地は、午前9時40分、ついに海兵隊の手に落ちた。…まもなくメイビー中隊の全中隊も峰の上まできて、ひるごろまでには負傷兵も後方に移送され、前線は完全に確保されたのである。』(349-350頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 頁より》

『1時間にわたる激しい戦闘をへて、D中隊はようやく丘の周辺部を掌握した。日本軍の抵抗は弱まっており…日本軍の銃砲撃がおさまりだすと、スミス少尉は前方にいる兵士に手をふって合図し「丘を下って周囲を掃討しろ」と叫んだ。』(326頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 326頁より》

youtu.be

アメリカからみた【沖縄 シュガーローフの戦い(Sugarloaf)】第二次世界大戦 - YouTube 

『第29海兵連隊の戦闘能力は1週間にわたるシュガーローフの戦闘で、いちじるしく衰えていた。第10軍が攻撃を開始した5月10日以来、第6海兵師団は2662名の戦死傷者と、1289名の非戦闘死傷者を出していた。この被害のほとんどは第22および、第29海兵連隊だった。

このため、作戦を続行するには新たな部隊の投入が急務であった。1830時、ガイガー少将は第3水陸両用軍団の予備部隊であった第4海兵連隊の投入をきめ、シュガーローフの占拠を命じた。第29海兵連隊は師団の予備部隊となり、第3水陸両用軍団の指揮下に入った。』(328-329頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 328-329頁より》

『…F中隊のほうは〝馬蹄ガ丘〟(安里のタカムイと神田川ムイ)の一部を占領、そこに陣取っていた日本軍を徹底的に攻撃し、さらにそこからクレセントの北部斜面を確保したのである。

夜11時ごろ、海兵隊シュガー・ローフで日本軍が喚声をあげたのを聞いた。それと同時に迫撃砲弾がしだいにはげしく降りだしてきた。午前2時30分、残った日本軍が、総力をあげて、タカムイ、神田川ムイに陣取った海兵隊めがけて突進してきた。シュガー・ローフ西側で、真壁道が切れているところを、日本軍は、道路沿いに進撃してきて、海兵隊を射撃できるところに1梃の機関銃をすえた。

海兵隊の機関銃が、これを撃ちまくって射手を倒したが、相手はなおも射手を替えて射撃してきた。ついに海兵隊2個小隊は後退したが、小銃隊のほうが丘陵戦術に出て、このシュガー・ローフ奪回をねらった少数の日本軍を攻撃し、33人を倒した。こうして未明までに海兵隊は、どうにかシュガー・ローフでもちこたえた。』(350-351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 350-351頁より》

 

大名(おおな)

『…戦車と自動操縦砲が、75ミリ砲弾、105ミリ砲弾を7千発も撃ち込み、また工兵隊はダイナマイトや火炎放射器で、大名丘陵の低斜面にある日本軍陣地を破壊した。』(360頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 360頁より》

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洞窟内の日本兵に掃討をかける工兵隊爆破分隊

Engineer demolitions squad destroys Japs in cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

石嶺(いしみね)丘陵

『タコ壺のなかに身をひそめていたE中隊の兵は、5月18日の朝、万難を排して踏みとどまれ、との命令を無線でうけた。…兵は最後の塹壕に運命を託した。手榴弾は尽き、機関銃も迫撃砲も破壊され、生き残った兵は、死んだ友軍の弾薬帯から、1発の弾丸もあまさず抜きとり、使える銃を集めては、装塡し、銃剣をつけて、敵襲にそなえた

日本軍の攻撃は昼になるにつれ、ますますはげしくなる一方であった。手榴弾を避けて、穴から穴に逃げまわるうち、数人の米兵が近くから銃弾をうけて戦死した。日本軍は8門の迫撃砲でもって、2門ずつ同時に絶え間なく砲撃してきた。友軍の砲兵隊は、攻撃してくる日本兵を撃退することはできたが、防備の固い迫撃砲陣地を撃滅することはできなかった。』(369頁)

午後になって、第307連隊は、この孤立した部隊に救援隊をさし向けた。C中隊から出た部隊は、石嶺丘陵北側の広場を渡ってE中隊に合流しようとしたが、無事にたどりついたのは指揮官と5人の兵だけだった。かれらは、ころげ込むようにしてタコ壺にはいったが、指揮官は中隊本部にかけ込むとき、頭部を射抜かれて即死し、身体ごと、どーっと指揮所のなかに落ち込んだ。

しかし、その日の午後おそく、担架を用意した80人からなる友軍が、夕方には救援にくるとの情報がはいり、一同ほっと安堵の胸をなで降ろした。…暗くなってから、日本軍の砲火も、大分しずまってきた。夜8時ころ、第1回目の担架隊がやってきた。ただちに負傷兵の後方輸送がはじまり、…18人の負傷者が2時間半のうちに後方に運ばれ、…退避していった。』(370頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 369、370頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『つづく二日間は、米軍は陣地強化に専念するとともに、わずかながら戦線を延ばしていった。チョコ・ドロップ周辺の丘にいる日本軍を殲滅することはそう簡単にはいかない。南のほうにまだまだ日本軍の強固な陣地があるので困難をきわめている。乱戦の中で3人の米兵が、かなりの重傷を負って、救援隊がくるまでの2日間、チョコ・ドロップの南で横たわっていた。この3人は、救出されたとき、すでに2人は死亡、他の1人は精神錯乱になって、まだ日本軍と戦っていると思い込み、手がつけられず、ついに腕ずくで引行していかなければならない仕末であった。』(379-380頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 379-380頁より》

 

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

『ハワイ出身のレオナード・K・ワーナー少尉は、5月18日、第381連隊のK中隊から1小隊をひきつれて、コニカル・ヒル2番目の丘陵の重機陣地を爆薬で攻撃し、さらに進んで3番目の丘を攻め落とした。この3番目の丘にきたとき、ワーナー小隊は、1番目の丘と2番目の丘のあいだにある陣地地帯から、猛烈な砲火を浴びていたが、ちょうどそのとき中隊長から無電で連絡があり、シュガー・ヒルまで進撃できるかどうか聞かれた。

「行けることは行けるんですがね」と、ワーナー少尉はいった、「ジャップの野郎どもが、後方から撃っているのをみると、どうも、ずうっとつけられそうですよ」

コニカル・ヒルでいちばん高いところと、このシュガー・ヒルのあいだに、犬歯のように三角形にとがった山があって、ここからの銃火もまた激しく、ワーナー小隊は苦境におちいり、煙幕にかくれて退却せざるをえなくなった。戦車隊も攻めていったが、知念半島からも猛烈に砲撃されて、ついに退却した。』(392頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-48.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

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The engineers did a great job in building a bridge across the Asatokawa into Naha. Marines crossing bridge.
(米軍)工兵隊によって安里川にかけられた那覇へ続く立派な橋とそれを渡る海兵隊

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アメリカ軍は泊高橋方面から那覇に侵入。安里川の中之橋付近を野戦用の橋をかけて渡るアメリカ軍の様子が映し出されています。抵抗を続ける第32軍でしたが、首里の組織的防御力の破綻はもう目の前に迫っていました。

65年前のきょうは1945年5月18日 – QAB NEWS Headline

 

第32軍の動向 

シュガーローフ

安里(あさと)・真嘉比(まかび)・52高地 (シュガーローフ)

『17日には、来攻する米軍を撃退できたが、18日には、ついに52高地の頂上を米軍が握るにいたった。日本軍は、その夜半、猛攻を加えて、いったん米軍を頂上から追っ払ったが、味方の死傷が多く、高地を維持できず、19日、高地は完全に米軍の手に陥ちた。』(263頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 263頁より》

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多くの日本兵が隠れていると思われる壕を掃討する第29海兵連隊第2大隊の兵士。(1945年5月18日撮影)

Men of the 2nd Bn. 29th Marines flushing caves where many Japs are believed to be hiding.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

陸軍の混成大隊に歩兵として配属された、海軍所属の兵士の日記』(315頁)
5月18日  我が軍には、戦闘機もおらず、戦艦もおらず、戦車もない。我々は見捨てられたのだ。死ぬまで抵抗する以外に道はない。これまで死んだ陸軍の指揮官も皆同じ事をいっている。我が軍の山砲も破壊され、もはや1門も残っていない。この部隊に配属されてから、食事は1日2回に制限されている。腹が減ったこの不毛な島で死ぬのだろうか無事に故郷に戻りたい。』(317頁)

『安里東側の52高地地区は、18日早朝から猛烈な砲迫の集中砲火と戦車を伴う米軍の攻撃を受け勇戦したが、1000ころには52高地頂上付近は米軍に占領された。同高地守備の独立混成第15聨隊第1大隊(野崎大隊)は18日夜ー奪還逆襲を行い、19日0230ころには米軍を52高地頂上付近から撃退したが、死傷者続出し奪回は不成功に終わり、大隊は19日黎明安里北側大地に後退する状況となった。

眞嘉比地区の独立混成第15聨隊第3大隊も米軍の強圧を受けながら、眞嘉比南側地区の陣地を保持した。同大隊は18日夜包囲下にある聨隊砲陣地の救出攻撃を実施し、聨隊砲中隊、速射砲中隊の両中隊長以下の救出に成功した。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)』(339頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 315、317、339頁より・日記内容は英文からの翻訳》

 

与那原海上特攻隊 (震洋)

重砲兵第7連隊(球4152部隊)兵士の証言:

『「…4月1日米軍が上陸したとき、 私は与那原の兵舎(本部300人)に通信兵として通信室に残り、他の大部分 の兵は壕に入るため出て行きました。しかし、米軍上陸し1カ月くらいは第2戦陣地で比較的平穏でしたが、上陸して第62師団(石兵団)の前線まで米軍が来た5月から戦闘が本格的になり、司令部の首里も危なくなりました。通信隊は有線も無線もなく、重砲連隊 の通信兵は小銃がないので榴弾を4発くらいを持って切り込みに出ました。

ですが、第62師団や第24師団 (山兵団)の歩兵が前線で戦う。我々重砲隊は歩兵教育を受けていないので、歩兵が前線に出て、我々はその後についていく(海軍を含め)。歩兵が切り込みに失敗したら我々の番ですが、突っ込む前我々は100〜200メートル前で準備しているのだが、爆雷を持って突っ込む訓練は受けていない。

歩兵が切り込みに行くが成功率は少なかった。米軍は南方、サイパンなど南洋諸島や比島などで、日本軍の万歳突撃に懲りているから警戒を厳重にしていました。ピアノ線に引っかかるし、照明弾が逆三角形に打ち上げられ、夜間が昼間のように明るくなるから、日本軍の姿が敵からもよく見える。その上に米軍は特に目標なく盲滅法に弾幕を張っているから、突っ込んで来る日本兵は蜂の巣のようになって戦死してしまいました。

大里城陣地で切り込みを行なったとき、敵との間隔は100メートルくらいまで近づいた。第1線は各中隊の小銃分隊、小銃の無い通信や本部などは第2線でした。守備担当の独立混成44旅団司令部(知念地区支隊)から「何月何日、切り込み隊何名準備せよ」の命令がある。通信・暗号・観測・指揮は5〜60名、これが第2線グループです。そのグループから何名出せと命令がある。各部隊から選抜されて出る海軍記念日とかの時を期してでありました。各部隊は一斉に行動、突撃をして米軍の第1線を突破はしましたが半分以上が犠牲となり、切り込みは中止となりました。

首里を守るための戦闘は第62師団が中心となり、 海軍の特攻機は各飛行場を攻撃しました。米軍の弾幕 は花火のようでした。艦船に対しても突っ込んで行きました。与那原には海上特攻隊震洋)があり、山からレールで海岸へ降ろして、海上を船舶目掛けて特攻するのを、我々は山から見ていましたが、ローソクが燃えるようにくるくる回り、やられてスーツと海中に消えて行く。』

《「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf ) より》

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A Jap suicide boat found on beach of Okinawa in the Ryukyus. U.S. personnel giving it a careful examination, Jap pill boxes in right background. Pontoon causeway at left.
沖縄本島の海岸で発見された日本軍の特攻艇。それを念入りに調べる米兵。後方右側には日本軍のトーチカ、左側には浮桟橋が見える。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Back view of Jap Suicide Boat.
日本軍の特攻艇。後方から (1945年 5月 1日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Captured Japanse suicide boat in an amphibian tractor (LVT-3). Eighteen feet long-chevrolet marine engine-carried. 550 lbs of picric acid an explosive. Now used as U.S. Marine speed boat.
捕獲され、水陸両用トラクター(水陸両用装軌車-3)に積まれた日本軍特攻艇。船体の長さ18フィート、シボレー船舶エンジン搭載。爆発物は550ポンドのピクリン酸であった。現在は米海兵隊のモーターボートとして使われている。(1945年 5月 6日)

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『*震洋はベニア板張りの小艇舳に爆薬を仕掛けてあり、艦艇に体当たりする特攻艇であるが敵艦に近づく前に沈没させられたり、障害物 (丸太など)を流してあるので特攻艇は、敵艦まで近づけなかったようである。』

《「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館 /

http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf) より》

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Explosive Head of Jap Suicide Boat.
日本軍特攻艇の爆弾をしかけた船首 (1945年5月1日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

捕虜になった日本兵

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日本兵捕虜。慶良間列島座間味島にて。捕虜収容所にて。1945年5月18日。

Jap POWs at Zamami Shima, Kerama Retto. In stockade. 18 May 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

座間味島(ざまみじま)

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座間味島の地元民。(1945年5月18日撮影)

Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 朝鮮半島から連れてこられ慰安婦にされた女性たち

f:id:neverforget1945:20200503162731p:plainNatives on Zamami Shima, Ryukyu Islands. Geisha girls.
座間味島の地元民。芸者ガールズ。
撮影地: 座間味島 (1945年 5月 18日)

 

伊江島

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米軍監視のもと浜辺で洗濯する捕虜となった伊江島住民(1945年5月18日撮影)

Cleanup Hour in Ie Shima Refugee Camp

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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伊江島捕虜収容所での調理場の風景(1945年5月18日撮影)

Cooks' Corner in Ie Shima Refugee Camp

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