〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月27日 『地獄から天国にきた気分』

ハワイの捕虜収容所女たちの苦しみ

 

米軍の動向

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第316軍隊輸送群のダグラスC-47輸送機から担架に乗せられた患者を降ろす。これらの輸送機は伊江島からの往復便である。読谷飛行場。(1945年7月27日撮影)

Okinawa, Ryukyu Retto - Litter patients being unloaded from a Douglas C-47 of the 316th Troop Carrier Group. These planes were shuttle-running from Ie Shima, Yontan Strip.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ダグラスC-54スカイマスターから降ろされる郵便物。この郵便機はグアムから6時間かけて飛来しており、帰りは傷病者を乗せて行く。読谷飛行場。(1945年7月27日撮影)

Mail being unloaded from a Douglas C-54 ”Skymaster”. This mail is coming from Guam, a 6 hour flight, and will take wounded patients back on the return trip. Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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着陸準備に入り、読谷飛行場上空を低空飛行する第35戦闘機群所属の3機のノース・アメリカンP-51マスタング(1945年7月27日撮影)

Three North American P-51 ”Mustangs” of the 35th Fighter Group, buzzing Yontan Airstrip in preparation for landing. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本本土への空爆 B-24 

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日本での任務のため読谷飛行場から離陸する第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。(1945年7月27日撮影)

Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, 7th Air Force, taking off Yontan Airstrip for a mission somewhere over Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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日本での任務のため読谷飛行場から離陸する第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。港の戦艦を見よ。この場所から米軍は上陸を開始した。(1945年7月27日撮影)

Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, 7th Air Force, taking off from Yontan Airstrip, for mission somewhere over Japan. Note ships in the harbor. Here, American forces made their initial landing on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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九州トゴシマ[カゴシマであろう]鉄道操車場への空襲を終えてきたばかりコンソリデーテッドB-24リベレーター、バグズ・ボンビーJr.の乗組員。第7空軍第11爆撃群第42爆撃中隊。沖縄。(1945年7月27日撮影)

Crew of the Consolidated B-24 Liberator ”Bugs Bomby, Jr.”, just in from a raid over Togoshima Marshalling Yards, Kyushu, Japan. 42nd Bomb Squadron, 11th Bomb Group, 7th Air Force. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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管制塔から見る読谷飛行場の滑走路と舗装駐機場、そして警備員。もともとこの基地は作戦基地として日本軍によって建設されたものである。(1945年7月27日撮影)

A view from the control tower showing Yontan Airstrip itself with taxiways, hardstands and alert crews. This base was originally constructed by the Japanese as one of their operational fields. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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泡瀬飛行場を改築している様子。沖縄本島にて。(1945年7月27日撮影)

Reconstruction of Awase Airfield, Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 - ハワイに送られた捕虜 ④

1945年7月7日ごろ、屋嘉収容所にいた捕虜たちの一部は、米軍のトラックに乗るよう指示され、たどり着いたのは、嘉手納の海岸だった。その後、沖に浮かぶ米軍の艦船に乗せられた捕虜たちは、甲板で海水のシャワーを浴びるよう命じられた。ところが、乗船した船が異なると、扱われ方が極端に違った。貨物船に乗せられた捕虜は家畜にように扱われ(証言 ①)、客船に乗せられた捕虜は、人道的な扱いを受けた(証言 ②)。両者とも食事は1日2回であったと証言するも、貨物船に乗せられた捕虜はパンや水が入ったバケツを与えられ、客船に乗せられた捕虜は、米軍の野戦食が配られた。(1945年7月8日参照)

証言①

2週間目にはじめて島が見えた。それはグァム島だとのみんな話であった。グァム島だとはっきり分かったのは、その日の夕方、はじめて米軍(2世)の下士官が船艙に下りてきて「グァム島についた。諸君はこれからハワイに連れて行く、沖縄は未だ戦闘が続いて危ない、ハワイに行けば危険は全くなく安全だ」と発表したからである。

沖縄の収容所にいたころ、日本軍の特攻隊の爆弾が収容所内に落ちたりしていたのを思い出した。この話を聞き、みんなはホッとした表情になった。何処かの無人島に連れて行かれ、殺される、と憶測していただけに、その喜びは格別であった。』(73頁)

『それから1週間目にハワイの真珠湾に到着した。到着した日の前日の夕方に、全員シャワー(海水で)をさせられた。これでひげを剃れと、安全カミソリの刃を持ってきた。ひげだけでなく、両脇の毛、局部の毛まできれいに剃れとのことだった。交替で毛剃りした後、きれいに剃れたかと、ひとりびとり検査された。

翌朝は早く起され、食事を終えた後甲板に全員出された。そこには乗船のとき、われわれが脱いだ服が山積されていた。…その中からひとりずつ何か一つ取れ、とのことであった。米軍の大きな上衣とだぶだぶのズボン、それから日本軍の軍服などがあった。バンドは一切なかったので、私は大きなズボンを前に結ぶようにして、裾はぐるぐる巻いて着けた。…上陸のときには、列車のような大きなトレーラーが船に横着けされ、はしごがかけられた。われわれは裸足のまま、はしごから直接トレーラーに乗せられた。

トレーラーに乗せられたわれわれは、真珠湾近くにあったカマボコ型の体育館みたいな建物に運ばれた。その中で整列し、人員点呼を終えた後、水を飲まされた。ホースに、ひとりびとり口をつけ、腹一杯のんだ。水がこんなにおいしいと思ったことはなかった。上陸したその日は7月の27日か28日だったと思う。したがってハワイまで約3週間近くも要したことになる。

…米軍将校がきて、数人の名前を呼んだ。私も呼ばれて前に出された。名前を呼ばれた者は別の兵舎に連れて行かれた。そこで、米海軍用の作業衣、帽子、肌着、靴、靴下に至るまで全部新品を与えられた

そして、ひとりびとり職歴などを聞かれた。私は戦時中…に勤務していたということで、その確認をし、更に写真もとられた。調査が済んだ後、幕舎に連れて行かれた。幕舎といっても、ピラミッド型で、板張りの床もあって、入り口には階段もつけたちゃんとしたものだった。中には6つの野戦用寝台があって、マットも置かれ、シーツも敷かれてあった。しかも掃除が行き届いて清潔であった

そこでしばらく休んでいなさい。君たちは、戦時中特殊な勤務についていたから、そのことについて2、3日したら調査があるから正直に答えるように---、と将校は言った。

そのとき、他の連中のことを聞いたら、山の方にある陸軍の兵舎跡の幕舎に連れて行かれたとのことだった

夕食は5時に出た。米のめし、肉、それにスープもついていたのにはおどろいた。ミルクもコーヒーものみ放題。朝食の場合はパン、タマゴ、チーズ、ミルク、ミカンなどがでた。午後3時になるとお菓子と煙草をくれた。それは1人1日、必ず8本と決っていた。…衣、食、住とも充分過ぎるほど充分で、それに、もう殺されるような心配も全然なくなったので、正に地獄から天国にきた気分であった。』(73-74頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 73、73-74頁より》

http://www.hawaii.edu/malamalama/wp-content/gallery/honouliuli-camp/historic2.jpg

ハワイの日系人収容所

Prisoners of war and interned men and women of Asian and European ancestry lived in wooden buildings and tents at the 120-acre site.

An internment/POW camp in University of Hawaii-West Oahu's backyard | Malamalama, The Magazine of the University of Hawai'i System

証言: ②

『沖縄を出て何日たったであろうか船のスピーカーがサイパン到着を報じた。船の機関が停止した。間違いないサイパン。はやる心を押さえて私はそれを見たさに午後4時の食事の残り屑をすてる使役を希望した。デッキに出ると…サイパンテニアン島が指呼の間に横たわり、輸送船や艦船群が船体を休めていた。…その翌日午前10時頃、例によってデッキに出ると、見渡す限り大海原で島影は視界から消えていた。同じような日々が2、3日続いた後、突然、全員デッキに集合の命令が出た。急いで出てみると船は丁度湾の入り口に差しかかるところであった。すぐ真珠湾だと直感した。

間もなく桟橋に接岸した。アメリカの兵隊たちが物珍しそうにわれわれを眺めていた。すぐ目についたのは湾の中に島のようなものがあり、飛行場には飛行機がぎっしり詰まり、見覚えのあるポートシコルスキーやグラマン機が翼を休めていた。艦船群もひしめきあっていた。その物量の豊富なことは一驚するばかりであった。それを見て、日本は全く無茶な戦争を仕掛けたものだと思った

上陸して最初は海軍の収容所に連行された。みんな5、6列縦隊に並ばされた。その列の先頭には米将校が1人ずつ立ち、流暢な日本語で、ひとりびとりじん問した。例えば、名前、兵隊の兵科、職務の内容、部隊名、兵隊になる前はどこで何をしていたか、といった調子であった。軍需工場にいた者などはピックアップされて別に連れて行かれた。私は防衛隊で弾薬運びをしていたと答えたらスムーズにすんだ。一通りすむまでには夕方近くになっていた。

そこの収容所には前から残留しているものがおり、彼等は米食、パン、肉類を食器に盛って食べていた。食べたくてたまらなかった。あの白いごはんは今でも忘れることができない。彼等は、食器を洗ってテントに戻ろうとしていたとき、アメリカ兵がパン30枚くらいをわれわれの頭上めがけてなげるとわれ先にパンに殺到したパンは踏みつけられ土まみれになって千切れていた。それを見て米兵らは手を叩いて喜んだ。悲しい光景だった。

…われわれは、電車の形をしたトレーラーのようなものに乗せられて海軍収容所を後にした。ある所に到着したときは日もどっぷりと暮れていた。一列縦隊に並べられ、ひとりひとり四つん這いになってぢの検査があり、それを終わると衣服、洗面具、寝台(折りたたみ式)、食器が支給された。済んだ者から米兵が食堂に案内する。そこでも列ができて食べ終えるのを今や遅しと待っている。

いよいよ食堂に入って肉類の罐詰1個を渡されると食器にめしを自分で押し付けて入れた。めしはいくら食べてもよいとのことで、餓鬼になっていたわれわれは、貪るようにのどにつかえるほど詰めこんだ。食べ終わると気が一ぺんに抜けたようになってぼんやりしていると、後がつかえている早くのけのけと、せきたてられ幕舎に連れて行かれた。幕舎は6人と10人用があった。みんなが就寝したのは明方になっていたように思う。』(81-82頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 81-82頁より》

http://www.hawaii.edu/malamalama/wp-content/gallery/honouliuli-camp/historicclose.jpg

ハワイの日系人収容所

An internment/POW camp in University of Hawaii-West Oahu's backyard | Malamalama, The Magazine of the University of Hawai'i System

 

「地獄谷」とよばれたホノウリウリ日系人収容所

第二次世界大戦中、ホノウリウリ日系人収容所に捕らえられた人々の多くは、コミュニティのリーダーや先生、教職者、日系人社会の有識者でした。

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国への忠誠を表す為に、アメリカ軍に入隊する若者も多かった 

(by State Archives of Hawaii )

本土に住んでいた12万人もの日系人は収容所に送られましたが、ハワイでの日系人は総人口の約三分の一を占めていたため、一部の日系人の収容に留められました。ハワイでは日系アメリカ人の労働力がなければ、生活が成り立たなかったからです。

…何の罪もない民間人が、自国政府からこのような仕打ちを受けたホノウリウリ日系人収容所。1988年、ロナルド・レーガン大統領はこの事実を謝罪し、2015年2月バラク・オバマ大統領は、ホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定しました。

今だから考えたい、日系人収容所ホノウリウリから学ぶこと。『戒厳令の怖さ』 | ハフポスト

  

捕虜になった日本兵 - 八原高級参謀の捕虜訊問

第32軍高級参謀の八原大佐は、米軍の記録によると7月15日に参謀として確保されたことになっているが、手記によると、身柄を拘束されたのは24日、身元がばれたのは26日としている。→ 7月18日参照。

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アメリカ軍のCIC「対諜報機関」の特別尋問センターは、65年前の今日7月27日に八原高級参謀へ「沖縄作戦」についての基礎尋問を始めます。

アメリカ軍上陸の際に、なぜ日本軍は、アメリカ軍艦船に攻撃しなかったのか?】

八原「長将軍は大本営の会議に出席し、アメリカ軍上陸の際には米艦船に攻撃するな、と命令を受けた。大本営は神風特攻隊と海上挺身隊が、アメリカ海軍に大損害を与えるのだと主張し・・・」

沖縄守備軍の作戦の内容や戦況、攻撃を受けた時の状況など、この日の尋問のほかに、アメリカ軍は8月6日に13ページに及ぶ尋問調書を作成。この時点でも八原高級参謀は、日本本土への脱出の機会を伺っていたのでした。しかし「ポツダム宣言」の拒否で、日本は広島、長崎という人類が体験したことのない悲劇へ向かい始めたのです。

65年前のきょうは1945年7月27日(金) – QAB NEWS Headline

 

そのとき、住民は・・・

女たちの苦しみ

浦添村経塚27歳の女性の証言

夫は、幸い軽傷で済みましたが、息子と娘の死体を見つけた私は「ああー、どうして死んでしまったの」と大声をあげて泣き叫びました。
そのようにして、数時間も泣いている私に、直撃弾を受けながらも、奇跡的に生き残っていた、宜野湾出身の少年兵が「おばさん、もうこの戦争は負け戦だし、おばさんも、おじさんもまだ年若いので、子供達のことは不幸であるが、どこまで逃げても、必らず生きのびる気持を持ちなさいよ」と力づけてくれました。しかし、私はその少年兵に、「いや、どうせ死ぬ運命です。だから死ぬ時は子供と一緒の方がよいので、私はここで死にます」と言いました。
すると、その少年兵は、「そんなことしてはだめですよ。逃げられるだけは逃げて、守るだけは、命は守ったほうがいいですよ」と言って、隣に建っていた物置き小屋の天井装に、私と夫をかつぎあげて隠してくれました。それから、タンスの引出しを持って来て、息子と娘の遺体をそれに入れ、安置してくれました。その頃からは、いくぶんか気も取り直していたので、改めて子供の遺体を見てみると、実章は頭をやられていて、頭蓋骨は握りコブシが入るくらいあいていました。そのため、抱きかかえている私の体に血がタラタラ流れ落ちてきました。娘の和子は、背中が半分以上やられていてやっとのことで、胴体がつながっているという有様でした。…(中略)…

その後、私達は山原の(収容所の) 方へ移りました。その頃からは、夫も一緒に生活していました。八月十五日に私は山原の収容所で男の子(実盛)を産みました。実盛が産まれる以前までは、南部で長男と長女を失なったショックで、放心状態になり、その苦しみから逃れるために死ぬことばかり考えていました。しかし、実盛が産まれると、その子が愛しくなり、「もし、私が死ぬとその子も死んでしまう。だから、その子の命を守るために私も生きなければならない」と決心しました。そして、実章や和子の霊に「私は、今まであなたがたを失った悲しみで、毎日死ぬことばかり考えていました。しかし、八月十五日に実盛が生まれました。もし、私が死ぬとその子も死んでしまうので、その子を丈夫に育てていく決心をしました。だから、実章も和子もお母さんのことは心配しないで、迷わず極楽浄土に行って下さい」と祈りました。

子供二人が爆死して以来、この時まで私はほとんど放心状態で過ごしてきておりました。子供達から流れ出た血と糊の入り混った異様なにおいが、永い間身体にこびりついていました。身体を洗っても落ちませんでした。そのにおいは、一、二か月経っても、夕暮れ時、ぼんやりしていると漂ってきました。そしてまた子供達のことを思い浮べて、涙を流してしまうという状態が続いていたのです。

…(中略)… このように、私達沖縄住民がこの大戦で体験した苦しみは、現在の知識人らが戦争映画やその他の方法で、その苦しみを表現しようとしたとて、私達が体験した十分の一、百分の一の表現しかできないでしょう。

沖縄戦証言 首里 (1) - Battle of Okinawa

首里市大名出身25歳女性の証言

主人が死んでからは死にたい、死にたいとその事ばかり考えていました。ふと気がつくと私も相当やられているし、抱いている子供の頭から背中から全身血でまっ赤になっていたので子供もやられたと思い、調べて見てもどこといってけがもしてなくて、私の頭から流れた血でした。子供を殺して私達も死のうといって私の母も手にしたカマを、首のところまで持ってきていました。…(中略)…

作薬に行く時は班長として「赤帽」と呼ばれていた私達のめんどうをみてくれる人が一緒でしたが、アメリカ兵が女達をおいかけまわして大変でした。私達は顔にすみや泥をぬっていてもごまかせずに海にいても畑にいてもおいかけてくるので一人では何も行動しませんでした。班長といっても、捕虜の身ですから何も出来ないので、金や物で女達を自由にしようとするアメリカ兵におびえ通しでした。私達の身を守る為についてくれる男はせいぜい一~二人でしたから、どうにもならず、棒をブンブンふっては逃げるよりしかたありませんでした。

その時分でしたが玉城村でいもほり作業をしていた主婦が、黒人兵につかまえられたのを助けようとした人が、その黒人兵に射殺されるという事件がおきていました。沖縄の女性は何か月もの長い間、爆弾の恐怖から逃げ回りやっとの思いで解放されたら今度はアメリカ兵から身をまもるのに必死にならなくてはならず、本当に苦労の連続でした。…(中略)…

もうメイドをしてからでも何十年になりますが、今では娘も結婚して孫まであるし、毎日が楽しく、幸せだと思っていますが、(ブログ註=本土復帰後) 自術隊が沖縄に入って来ていていろいろの話を聞いたりすると、やはりあの悲惨な思い出がよみがえって来て不安になります。「あの戦争だって本土をまもる為にとこの小さな沖縄に兵隊が一杯入ってきて、その為にあんなにも激しい戦いになったのですから、そしてこの私だって戦争さえなかったら主人と不自由なく暮せただろうし、ケガもする事なく又あんなにみじめな思いをしたり見たりする事もなかったのにと自分をふり返ってみるといつも、戦争の一番の被害者は女だと思っているのです。

沖縄戦証言 首里 (2) - Battle of Okinawa

 

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  1. 沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所史――ホノウリウリからサンドアイランドへ――秋山かおり