〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月31日 『米陸軍と米海軍』

「恥辱」という嘘、ドナルド・キーン

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 海軍から陸軍へ

陸海軍の共同作戦としておこなわれた米軍による沖縄進攻作戦は1945年7月初めには完了し、7月31日をもって、陸海軍の統合作戦は終了することとなった。その前の7月21日から23日にかけて海軍太平洋艦隊司令部と陸軍太平洋軍司令部、つまり陸海軍の会議がグアムで開催された。統合参謀本部から、オリンピック作戦の準備と実施を促進するために、太平洋艦隊と陸軍太平洋軍は、琉球の米軍支配地域の管理、第10軍を含む琉球に位置する全米陸軍部隊、米軍支配位置の防衛の責任、現在太平洋艦隊に委ねられている陸軍航空隊に関連する責任を、8月1日より遅くない、可能なかぎり早い日に、陸軍太平洋軍に移管するように調整せよとの指令が出されたからである。沖縄攻略作戦は海軍のニミッツ提督が最高司令官を務める太平洋方面軍の指揮下に陸海軍が入って陸軍の統合作戦として実施されたが、それが終わり沖縄は陸軍に委ねられることになったのである。

《「暴力と差別としての米軍基地  沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 88-89頁より》

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ニミッツ海軍元帥。グアムの前衛艦隊司令部にある彼の執務室にて。(1945年7月撮影)

Flt. Adm. Chester W. Nimitz in his office at Advanced Fleet hdqtrs., Guam. July 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

太平洋艦隊は、琉球におけるすべての海軍と海軍航空施設の管理とその展開計画、海軍部隊の移動とその地域への補給、そのための港と荷揚げ施設についての責任を、両者の相互の合意にしたがって、維持するものとするとされ、琉球におけるすべての海軍部隊の管理は太平洋艦隊の管轄におかれると指令された。

ただし現在の作戦にできるだけ支障がないように陸海軍の活動が地理的に分けられた。たとえば、海軍が港湾の浚渫作業を担当し、那覇は45年11月までに完成させること、読谷飛行場建設にあたっている海軍建設部隊は8月15日までに現在のプロジェクトを完成させること、読谷のボロ飛行場の海軍建設部隊は、そのまま10月1日まで活動を継続し、その代わり陸軍の建設部隊を海軍に提供すること、南北道路については、金武からコザまでは海軍が、コザから港川までは陸軍が担当することなど陸海軍の間での分担を取り決めた(Advance Headquarters, The Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Pacifc Ocean Areas, "Control of U.S.-held Areas in the Ryukyu," 23 July 1945.,0000111466, RG77/Entry305J/Box10)

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 89頁より》

那覇小禄半島の占領と基地化 - 廃墟になった那覇

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Naha, the capital of Okinawa, was completely destroyed by Naval and aerial shellings. The area on the left was a city of 66,000 people. Debris has been cleared away to accomodate supplies.

海と空からの爆撃によって破壊された人口6万6千の那覇市。建物などの残骸は供給物資を運び入れるために一掃された。(1945年7月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

本部半島の軍事拠点化

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91st Photo Reconnaissance Wing Headquarters area located near the Motobu Strip. The wing arrived in early July and was set up immediately. In upper left, can be seen the Service Command; lower center, wing Headquarters; upper right, Photo Tech. Squadron

本部滑走路近くの第91上空写真偵察航空団司令部。航空団は7月上旬に入ってきた。写真左上は空軍司令部、中下は航空団司令部、右上は写真中隊。(1945年7月31日撮影)

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沖縄島と伊江島の基地展開計画

…1945年10月23日に沖縄基地司令部が作成した「基地展開計画」が戦後最初のまとまった計画になる(Headquarters 5223rd Engineer Construction Bridge, "Okinawa Base Command Historical Report" 21 March 1946, 沖縄市史編集室所蔵資料)。ただこの計画は、6月20日付の陸軍太平洋軍の指示に対応して作成された計画であり、戦時中の計画の延長線上にある計画という性格もある。

沖縄に7つの飛行場伊江島に1つの飛行場を軽・中・重の航空機の作戦を支援するために展開すること牧港飛行場は総合補給廠に転換する)爆弾及び地上弾薬庫については、2万5千トンの爆弾の保管のための167個の標準掩体施設と起爆装置および火工品の保管のための1万平方フィート(929平方メートル)の防護された倉庫、1万2千トンの地上弾薬を保管するための10個の標準野戦貯蔵設備と起爆装置および火工品の保管のための1万平方フィートの防護された倉庫が計画されている。さらに通信施設として、15の電話交換施設、陸軍通信センター1か所、陸軍航空隊の通信システムなど、補給廠としては倉庫と店37万2千平方フィート、野外貯蔵施設770万平方フィート、冷蔵施設25万2千平方フィートが挙げられている。

《「暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地ー基地形成史の共通性」(林 博史/かもがわ出版) 92-93頁より》

牧港飛行場 - 現在の牧港補給地区

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The completed runway of Machinato airfield located on the southwest part of Okinawa just north of Naha City. 7th Air Force planes are parked on the hardstands and are receiving a check up after returning from a bomb run over Kyushu. Work was still going on at several parts of the hardstands and taxiways but the runway started by the 874th EAB and 1906th EAB on June 1st, and took about seven weeks to complete this 6000 feet coral surfaced strip from the hilly scrub-covered terrain. Okinawa, Ryukyu Retto, Machinato.

本島南西、那覇の北に完成した牧港飛行場。九州への爆撃を終え舗装駐機場で第7空軍航空機が点検を受ける。駐機場と誘導路の一部は建設途中だが、6000フィートの石灰岩仕上げの滑走路は低木で覆われた丘を切り開いて第874及び第1906工兵航空大隊によって6月1日から7週間で完成した。(1945年7月31日撮影)

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泡瀬飛行場

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Awase Airstrip receiving its finishing touches from rollers and scrapers of the 36th Navy Construction Battalion, while the hardstands and taxiways are being made ready to handle the Navy land and carrier based planes by the 20th Navy Construction Battalion on 31 July 1945. Site of this Navy strip is on the east coast of Okinawa, midway down the island, and construction was started on 1 May 1945. The strip has a coral base and surface is 5000 feet long with over 30,000 feet of taxiway to handle the 500 Marine planes which were expected there by November 1, 1945.

第36海軍建設大隊のローラーとスクレイパーで最後の仕上げにかかる泡瀬飛行場。一方1945年7月31日に第20海軍建設大隊が海軍陸上機と艦載機用に使う舗装駐機場と誘導路は準備が整っている。東海岸の海軍飛行場建設は5月1日開始。石灰岩の表面で、3万フィートの誘導路と長さ5,000フィートの滑走路は11月1日には500の海兵隊航空機を受け入れる予定(1945年7月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

読谷渡具知海岸は巨大な兵站基地となった。

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An aerial view of supply depots along Route #6 in the Purple Beach area, Okinawa, Ryukyu Retto. Supply areas are coral topped to keep supplies away from mad. Note rollers used in separating supplies into different classes.

沖縄本島、パープル・ビーチ付近の6号線沿いに広がる補給地区。補給所は物資を泥から守るためにサンゴで覆われている。物資を分類するためにローラーが使われている。(1945年7月31日撮影)

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第32軍の敗残兵

「捕虜」という恥辱 - 徹底された情報操作

陸軍省制定の戦陣訓 (1941年)

恥を知る者は強し。常に郷党きょうとう家門の面目を思ひ、愈々いよいよ奮励ふんれいしてその期待に答ふべし、生きて虜囚りょしゅうはずかしめを受けず、死して罪過の汚名を残すことなか

《『戦陣訓』「本訓 其の二」》

沖縄戦で戦闘情報収集課 (CIC) に所属したドナルド・キーン中尉の回想

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沖縄戦中、捕虜に訊問するドナルド・キーン

ドナルド・キーンさんの秘めたメッセージ|サイカルジャーナル|NHK NEWS WEB

これがいつ始まったのか知りませんが、日本の国民は絶えずある思想を吹き込まれていたのです。しかも、それは誤り、いや偽りでした。一つは日本人は絶対、捕虜になったことはない、捕虜となるのは日本人にとって最悪の恥辱というものです。これがあらゆる兵士の思考に染み込んでいました。この偽りに全ての兵士が洗脳されていました。やがて、私はハワイで日本の捕虜に会うのですが。捕虜たちは恥辱に満ちた思いで、最悪の事態に陥ったとか、家族はどう思うかと案じていました。そこで、私はハワイ大学の図書館に出向き、過去の大戦を調べる中で、日露戦争において多くの日本人が捕虜になったと知りました。捕虜となった日本人の将校は収容所の待遇の悪さをジュネーヴ条約に訴えたり将校なら自分もロシア将校と同じロシアのウォッカを飲める筈だとか、そんな記録を発見したのです。そして、冬には自分たちも池でスケートをしたい、と書かれた手紙も残っています。そんな彼等が帰国した後に日本で責められたという記録は全くありません。要するに捕虜となるのは恥辱という話はウソだったんです。何度も何度も同じウソを言い続けるひどい情報操作です。日本人が捕虜になったことは一度もないとか、それは神武天皇の頃から今に続く伝統であるとか、捕虜になるぐらいなら玉砕せよとか。そして、それが信じられていたのです。私は最初の玉砕の場を実際に見ました。アッツ島では方々に死体が散乱していました。人々は手榴弾を自分の胸に当てて絶命したのです。本当に恐ろしい光景でした。

ドナルド・キーン、小池政行『戦場のエロイカ・シンフォニー』(2011) 28-29頁》

ハワイに送られた沖縄の捕虜サイパンなどを経由してハワイに向かった。

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海兵隊: PRISONERS OF WAR -- Japanese troops captured on Okinawa are shown preparing to board a transport which will take them to a Pacific base. On the same ship were Marines who had fought against these Japanese prisoners in the Ryukyus campaign. The prisoners were amazed at the American installations on this island where they stopped enroute to a POW camp.
捕虜たち - 沖縄で捕虜になった日本兵たちが太平洋基地に向かう輸送船の乗船を待つ。同じ船には、彼らと沖縄戦で戦った海兵隊員たちが乗っていた。 捕虜収容所への途中で立ち寄ったこの島の米軍施設に驚く捕虜たち。撮影地: サイパン 1945年7月11日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

捕虜になる - 語られない恐怖の背景

沖縄に送りこまれた第32軍の部隊の多くは中国から転進してきた。

日本兵のいくつかの体験談 (中国での) を紹介したが、彼らが特殊なのではない。彼らの話を聞いた範囲だけでも、強盗、強姦、虐殺は中国戦線の日本軍にとって日常茶飯の出来事だったことが窺える。敵に捕まったらどうなるか――。その怖さを、多くの日本軍将兵たちは中国での加害体験により、すでに知っていた。「我々が中国でやってきたことだから、我々が (米軍に) 捕まれば当然同じ目に遭うと思っていた」と元兵士たちは証言する。実際に自分たちが戦場で行なってきた経験から、沖縄の住民に対しても捕虜になったら「犯される」、「殺される」ということを実感をもって伝えたのだった。沖縄住民は、日本兵たちのその誤信を刷り込まれ、投降という選択肢から遠ざけられてしまっ た。住民の前にはもう、「死」という道しか残されていなかった。… また、それと同時に、中国人に向けたのと同じような「沖縄人への差別感情」が、日本軍 による「壕の追い出し」「スパイ、処刑」「自決強要」を助長させていった。 

《國森康弘『証言沖縄戦日本兵: 60年の沈黙を超えて』岩波書店(2008年12月) 119-120頁 》

伊江島の女性の証言

… 負けたらどんなに惨めなことになるか、と自分たちの中国大陸での体験を引きあいに出して話していました。その内容は、今でも口にしたくないのですが、とにかく、この兵隊たちは中国の人たちにたいして、ずい分とひどいことをしてきたのですね。それをとくとくと話しながら、負けたらこうなるのだ、だから、もし、万が一負けるようなことにでもなれば、婦女子を殺して、自分たちも死ぬのだ、などといっているのです。そのとき、私は、兵隊たちの中国での体験談にたいして、もう止してくれ、それが人間のすることか、そんな話は聞きたくない、といってやりました。

沖縄戦証言「子どもたちをかかえて」 伊江島 - Battle of Okinawa

平安座島の女性の証言

… というのは、中国大陸から帰ってきた在郷軍人の人たちから、日本軍が、支那人 (ママ) を「チャンコロ」 (ママ) と呼んで、大変ひどいことをしてきた話をきいて、軍隊というのは、非常に恐ろしいもんだと思っていました。それで、沖縄にアメリカ軍が上陸してきたら、私らはアメリカ兵に日本軍が支那人にやったような目に会わされるんではないかと思っていました。 

戦争証言「マーランで避難」中部離島『沖縄県史』 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

収容所の小学校 - 高江洲小学校

米軍占領下初の小学校、高江洲小学校が仲喜洲国民学校内に設立した。5月7日に開校した石川学園よりも、およそ一月も早い設立である。情報士官であったキーン中尉が校長に任命したのは、高江洲市第二助役を兼務していた浦崎康華である。浦崎は設立後、学校運営に向けて教員探しに奔走する。浦崎は「教員の資格のある人びとは今までまちがった教育をして来たと言って(省略)相談にのらない」「なんとか教師をそろえるため毎日収容される人たちをチェックして経験者や中学、女学校の卒業生、中退者を説得した」「だから教員には三つ編み、オカッパの娘さんたちが多い」と振り返る。
《川満彰「沖縄本島における米軍占領下初の学校「高江洲小学校」-米軍占領下初の学校設立の再考とその教員と子どもたち」(2010)》

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School teachers meeting at Takesu.

教職員の会議風景(1945年7月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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School children playing tug of war during physical training period at Takesu.

体育の授業で綱引きをする児童(1945年7月31日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

捕虜となり収容所で教師として働き始める女子学徒。

動員された生徒の半数の人々は帰ってきませんでした。中には、どこでどのようにして亡くなったのかわからない生徒もおおぜいいます。
生き残った生徒たちは、住む家も学校も消えさり、茫然として収容所での生活を送ることになりました。家族を失った生徒もたくさんいました。

しかし、人々は復興に立ち上がりました。収容所にいるうちから勉強を再開して、多くの女生徒たちは、その後先生となり、子どもたちを教えるようになりました。沖縄の復興を支えたのです。また、その苛酷な戦場体験を踏まえて、平和の大切さを訴える活動も、今に至るまで続けています。

消えた女学校 女子学徒たちの沖縄戦|特集|NHK 戦争証言アーカイブス

 

やんばるの収容所 - 子どもたちの栄養失調

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喜如嘉では7月16日までに避難民は山を下り辺土名収容所地区に収容された。

 こうして、隣組のみなさんと一緒に喜如嘉の集落まで下りてきました。そこで男女に分けられ、男の人達はそのまま一週間ぐらい何処かに連れていかれました。女の人達だけが、部落に残されました。しばらくして、喜如嘉の国民学校が収容所となり、そこへ移りました。そこでは配給がありましたが、その配給だけではとても足りませんでした。その後、喜如嘉は爆撃に遭わずに済んだので、戦前の綺麗な家がたくさんあって、そこにみんなが分宿するようになっていました。浦添の方々もいらしたことを覚えています。
 集落内に移ったら、配給もなくなり、やはり食料もありませんでした。それで庭を畑にして、自分達で作るようにしました。さらに地元の人たちが作ったキーンム(キャッサバの芋)から取ったタピオカ(でんぷん)などを分けてもらいました。山原には段々畑があって、山芋などもたくさん植えられていました。それを、「命のつなぎにさせて下さい」と言って頂いて、ごった煮にして食べました。
収容所での多くの人々の死
 収容所内の病院では、喜如嘉の出身で平良※※先生という六十歳余りの医師(せんせい)が、子供達を診察しておられました。そこで、私は看護婦でしたと言ったら、「じゃ、あなた手伝いに来なさい」という事で、そこに勤めることになりました。病院では、薬品は米軍支給品で、名前も英語で書かれていたので、先生に「これは、ビタミン剤、これは何々だよ」と教えてもらいました。
 子供達は、ほとんどが栄養失調でした。生きていても、皮膚に黒い斑点が出ており、肉が腐っていたのです。これは、ピンセットで取るとすぐ取れましたが、子供達も生きながらにして皮膚が腐っているという状態でした。また噛む力もなく、お腹も膨れ上がって、毎日バタバタと亡くなっていきました。大人もウシヌクブー(後頭部)がすごくへっこんでいました。見ると、体の上にかろうじて頭が付いているというぐらいで、次々と亡くなっていきました。
 毎日、多くの死体が荷車に積み上げられて、近くの浜で埋葬されていました。そんな状態が続くと、死ぬことも恐くなくなるもので、いつか自分達もこんなふうになるという気持ちで、死者に手を合わすという事もしないようになっていました。涙も出なくなり、「アイヤー、今日も亡くなられたんだねー」という状況の中で、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん達も亡くなり、向こうの浜に埋葬されました。

読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上.

 

 

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