〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月18日 『八原の軍作業体験』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

f:id:neverforget1945:20190717205412p:plain

《AIによるカラー処理》屋宜の部落に建設中の共同通信センター。手前はコンクリートの枠づくり。(1945年7月18日撮影)

The joint communication center is under construction at the village of Yaji. The concrete mold is being built in the foreground.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200717023709p:plain

90mm口径機関砲(1945年7月18日撮影)

Okinawa-Guns & Weapons Guns 90mm.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 - 八原高級参謀の場合

第32軍の高級参謀の八原大佐は、米軍の記録によると7月15日に参謀として確保されたことになっているが、八原の手記はまったく異なる記述が続く。民間人を装って投降したが、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったと手記に記している。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。手記によると、身柄を拘束されたのは7月24日だとしている。

八原高級参謀の回想:

『…朝4時、…屋比久村の集合所に向かった。集合時刻は午前8時であるが、人夫の数に制限がある。したがって先着順に採用されるというので、早く出かけたのである。…各部落、毎日先着順に路上に並ぶ。…集合する者およそ数百名50年配の者か、17、8歳以下の少年が多い。すぐ近くにCICのキャンプがある。簡単な鉄条網で囲まれ、内部には多数の幕舎がある。多くの若者が作業に引き出されるのか、右往左往している。白い鉄帽のMPや、赤い鉄帽の沖縄人の警官が、三々五々、人夫たちの間を巡邏する。日本語を片言にしゃべる神経質な2世が人夫掛りである。』(470-471頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 470-471頁より》

f:id:neverforget1945:20200717023947p:plain

2人の沖縄人職員から地元民の作業状況を聞くキャンプの将校

Camp Officer get report of civilian activites from two Okinawan civilian agents.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『私は、久しぶりに、かかる多彩にして活々とした場面に出て、不安の裡にも好奇心をかき立てられた。軍夫の群れを点検して回るアメリカ兵も、にこにこしている私を別に怪しまない。大丈夫だと自らに言い聞かせる。…どこに連れて行かれるのだろうか?胸がわくわくする。トラックの運転手は黒人だ。トラックは一台また一台と朗かな軍夫をぎっしり満載して出発する
私の自動車は、新設の坦々たる自動車道を、中城湾岸に沿い、与那原に向かって疾走する。地形は十分承知の私ではあるが、佐敷村の一部が焼け残っているほか、新里ー津波古ー板良敷ー与那原道の沿線の村も町も、跡方なく姿を消し目に映ずるはアメリカ軍の幕舎群だけである。行けども行けども幕舎の林だ。指揮官幕舎であろうか、やや立派で、綺麗に晴れた夏の朝空には星条旗がへんぽんとしている。沖縄戦開始のずっと前、対アメリカ戦闘法を全軍に印刷配布した書類の中に書いた次の文章を思い出して、私ははっとした。「洞窟陣地の完成こそは、来るべき戦闘の鍵である。もしこれを怠らんか、我々は敗者となり、敵星条旗の飜る下に死体となって冷たく横たわる悲劇を招来するであろう」』(471-472頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 471-472頁より》

f:id:neverforget1945:20190717205532p:plain

《AIによるカラー処理》沖縄本島馬天港にある海軍作戦基地指令部下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。

NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『与那原に至る間、全注意力を集中して、自分の脱出路を観察する。この地域における敵の宿営兵力約1個旅団。脱出路としては、第1案、知念台の中腹を縫うて突破する。第2案、知念台上を運玉森に向かう。第3案、リーフ地帯を与那原東北に出で、陸地に上がる。いずれの案も実行至難だが、第1案が最も可能性ありと判断する。

自動車は、与那原に停止せず津嘉山北側に通じる那覇街道を西進する。この付近は5月下旬、軍が喜屋武半島後退直前、激闘を交えた戦場である。運玉森、雨乞森の両高地を始め、山という山、野という野、ことごとく砲爆に掘り荒され、わずかに所々しょんぼりと立った焼け木を散見するのみだ。南国の真夏だというのに、運玉森が寒そうに突兀として聳え、限りない悲しみを今なお天に地に訴え、慟哭しているように見える。山川草木転荒涼の詩も、草木影を没した、この新戦場にあてはまらぬ。詩感を絶した森厳冷酷さに心を打たれる。

暫く見えなかったアメリカ軍幕舎が南風原付近から、再び丘陵の斜面を埋めて林立するのを目撃する。朝食の時刻なので、至る所食事分配にならぶ敵兵の列を見る十余年前、フォート・ベニングの野営地で、アメリカ兵の列にはいって、メスサージャントから食事の分配を受けた当時を想起する。』(472頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472頁より》

(投稿者註: 八原大佐は戦前に米国留学の経験あり)

f:id:neverforget1945:20200717024128p:plain

食堂で食事を取るために列をなす第10陸軍第163通信中隊の兵士ら。沖縄。

GIs of the 163rd Liaison Squadron, 10th Army, standing in line for chow at mess hall on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

南風原駅北側の畑地では、百人あまりの日本人の軍夫がみそ、しょうゆの樽や、その他箱詰めの食料品を幾百となく整理している。日本軍の集積物資をアメリカ軍が難民の救恤に充当するのだそうである
首里や津嘉山が見えだす。鉄血山を覆い山形改まるとは、この山々のことである。私はトラックの框に凭れたまま、いつしか一切の幕舎も、アメリカ兵も、同乗の沖縄人も忘れて、自ら感慨にふける。仲井間、国場付近の道路網は、アメリカ軍の作業で一変している国場川に架かった石造りの真玉橋が、半ば崩れたままに残り、わずかに昔の面影を偲ばせる。長堂101高地より那覇港口に至る国場川南岸高地帯は、海軍陸戦隊の死闘した所で、やはり砲爆に荒々しく地肌を露呈し、山容壮厳を極めている。』(472-473頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472-473頁より》

f:id:neverforget1945:20200717024302p:plain

廃墟と瓦礫の山(撮影地: 那覇)/ Ruins & debris.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『自動車は古波蔵を経て、那覇の町にはいる。沿道戦場掃除が行き届かず、わが軍の被服、鉄器が散乱し、死臭漂い、今なお死体がそこここに転がっているような気がする那覇の町は、昨年10月の10日の空襲で焼土と化したままで、その後、敵も全然手を入れていない。我々は那覇埠頭、かつての暁部隊平賀中佐事務所前で、車から降ろされた。この建物は西洋建築なので、10月10日の空襲にもその外郭が焼け残った。それを暁部隊が応急修理し、戦闘勃発まで使用していたのであるが、敵も同様に改造して、兵站事務所にしている。
アメリカ軍将兵の出入りが頻繁である。血色の悪いアメリカ軍看護婦が事務所前に群れる我々を、もの珍しげに眺めながら通過する。小禄飛行場を離着陸する中、小型飛行機が、盛んに我々の頭上をかすめて飛び交う那覇の港は、予期に反して、未だほとんど使用されておらず、2千トン級のぼろ船がたった1隻、岸壁に横づけになったままだ。港内至る所撃沈されたわが大小の艦船の残骸が痛々しく見える。』(473頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 473頁より》

《AIによるカラー処理》沈没船の引き揚げ作業(撮影地: 那覇)/ Raising ship which capsized in port.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『やがてひょうきんなアメリカ兵が事務所から出てきて、作業の指示をする。我々の仕事は、玄関入り口の崩壊した壁土を約50メートル離れた焼け跡に運搬することだった。この善良なアメリカ兵は女の話をしかけたり、みやげ物の相談をしたりして、仕事はどうでもよい様子だ。さして働きもせぬうちに正午になる。事務所裏の炊事室でシーレーション(携帯糧食)を一食分もらう。別にかん詰めが2つ。1つはボストンビーン、他の1つはビスケットと菓子がはいっている。掛りのアメリカ兵は、私にレーションを手渡しながら、どうだ満足だろうと言わんばかりに「シー」と言った。』(474頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

f:id:neverforget1945:20190717235301p:plain

《AIによるカラー処理》通信情報班周辺で片手間の仕事の合間に米軍からの配給を食べる地元住民。

Okinawan natives eat U.S. Army rations while doing odd jobs around Signal Intelligence Sect.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『お昼休みには、我々と数名のアメリカ兵との間に、英語と日本語、そして手まねを交えて賑やかな交歓が始まる。私はあまり英語を話さぬようつとめた。私はバンドの銀の金具と、アメリカ軍用の帯革、煙草3個、ココア2かんと交換した。沖縄人たちは日本貨で、それぞれ煙草やかん詰めをせしめた。親切なアメリカ兵はここは仕事が楽だし物資も豊富だから、君たちはあすも来れるようにしてやると言った。

午後4時作業完了。けさのトラックに乗って帰途に着く。私はアメリカ軍の監視の緩やかなこと、那覇市街に隠れ場所の多いこと、そして遠く水源池高地に至る間、アメリカ軍の宿営地の疎らなることなど考えて、脱走には好都合だなと思った。屋比久に下車すると、そこには米の配給所があった。沖縄娘たちが賑やかに3合ずつ配給してくれる。私に渡してくれた娘が顔を合わせた途端、あっと小さな声をあげた。私はどきっとしたが、そ知らぬ振りをして別れた。油断大敵である。』(474頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

f:id:neverforget1945:20200717024440p:plain

地元の食料配給所。沖縄本島の嘉陽にて。少女が米の配給量を量っている様子。

Local ration board at Kayo, Okinawa. This girl is measuring out a ration of rice.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『米を受領した後は、皆自由行動である。帰り道、屋比久と冨祖崎に、各々一か所新しい墓地を見つけた。新仏が2、3百も葬られている老人や、子供の墓が多い。3か月間の言語に絶する悲惨な生活で衰弱し切った者、それから負傷した人々が戦闘終了とともに、気落ちして死んだのが多いとい言う。ある人は、栄養失調者が、急に貪り食ったので死んだのだと話してくれたが、そんな人もあったろうと思う。

暫く屋比久の墓地で、足を止めているうち、12、3歳の愛らしい少年と一緒になった。彼の語るところによると、親子7人首里の南、繁多川に谷に避難中、父と兄弟4人は敵の艦砲弾で惨死、母は重傷、自分は軽傷、母と子2人で、転々としてあちこち逃げ回るうち、アメリカ軍に収容されて、ここに落ち着くようになった。その後、母は漸次快方に向かい、この少年は年少なので、アメリカ軍の作業に出る資格なく、市民の方の仕事に従事し、米を1日2合ずつもらい、糊口を過ごしているとのことである。真夏の陽没して、涼風すずろなる夕、かかる少年からかくも悲しい身の上話を聞いて、戦闘の惨禍、世の無常が一入身にしみるお母さんを大切にして、しっかりやりなさい、と励まし村の入り口で別れた。』(475頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475頁より》

f:id:neverforget1945:20200717024612p:plain

《AIによるカラー処理》少年の腕に包帯を巻く海兵隊の兵士 / Marines bandage an Okinawan boy's arm.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 f:id:neverforget1945:20190718003240p:plain

元沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐について

 

米軍の記録に記された八原逮捕の経緯

八原の手記と、米軍の記録を突きあわせてみると興味深いだろう。

参謀であることが発覚し逮捕されるのは、八原の手記では7月24日に連行され、26日に逮捕ということになっているが、米軍の記録では、7月15日、屋比久の収容所でのことと記録されている。米軍の8月6日の捕虜尋問調書 #28 によると、経緯はこのように説明されている。

彼は、摩文仁の洞窟から奇妙なやり方で転がり出て、その途中に不用意にもピストルを暴発させたところをブルー部隊に目撃されている。このパフォーマンスが明らかにヤハラが摩文仁で死んだという噂のもととなったようだ。飛び降りて怪我をしたにもかかわらず、ヤハラ大佐は壕の民間人の集団に紛れ込み、彼らと共に一緒に北へと向かい、最終的に小さなボートで日本領土に到達することを希望していた。

ブルー部隊がその壕に近づくと、ヤハラはグループを導いて投降し、彼らを伴って屋比久の収容施設に入ったが、そこで彼は学校教師としてうまく身を偽ることに成功した。三日間ほど軍作業の労働についただけで、彼のすでに弱った体は体調を崩し、次の2週間は休んで過ごした。

しかし、無為でいながらも文句の多いよそ者の存在は、警戒心をもった沖縄人の疑念と憤慨を招き、その男はヤハラをわきに連れていき説明を求めた。ヤハラは正体を明かしたが、その男の愛国心に訴え、黙っていてくれるよう頼み込んだ。がっかりなことには、その沖縄人はすぐさま彼の存在を地元の CIC エージェントに報告し、その職員はもどってきて、悔しそうにしているが無抵抗であったヤハラを連行し拘束した。

《Major Philips D. Carleton, The Conquest Of Okinawa: An Account Of The Sixth Marine Division, (2015) Appendix Footnote 4 p. 229. 》

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■