〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月18日 『八原の軍作業体験』

ブラック・シービーズ八原博通バックナー・ビル

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

ブラック・シービーズ: 米国がいまだ厳しい人種隔離政策 (segregation) をとっている 1942年、白人将校と一等兵曹をトップに据え、技師や鉄鋼や大工など様々な職歴をもつアフリカ系アメリカ人兵士で構成された初の黒人建設部隊「34海軍建設大隊」が編成された。

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沖縄の臨時弾薬庫で弾薬の点検。

34th Naval Construction Battalion Cruisebook (1942-1945)

1942 - The 34th NCB was the first African American Seabee battalion in the Navy.

This Week in Seabee History (October 21 – 27) — Hampton Roads Seabee Ball

【訳】34th NCB の進歩的な性質と成功にもかかわらず、彼らは上司から公平な待遇を得るのに苦労した。

Breaking Down Barriers: The 34th Naval Construction Battalion « U.S. Navy Seabee Museum

黒人下士官の拒否など、人種差別に由来する様々な軋轢を抱えながらも、第34海軍建設大隊は1945年5月21日に泡瀬に到着、泡瀬飛行場や道路建設石灰岩採掘、海軍弾薬庫、ジョイント通信センターなどの建設に携わった。他に幾つもの黒人部隊が沖縄での建設や兵站、将校宿舎のスチュワード (給仕) などに関わり、それだけ地元住民と接触する機会も多かったが、比較して彼らの存在にフォーカスする写真記録はあまりに少ない。

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34海軍建設大隊クルーズブックから、ダイナマイト弾薬庫の建設

34th Naval Construction Battalion Cruisebook (1942-1945)

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The joint communication center is under construction at the village of Yaji. The concrete mold is being built in the foreground.

屋宜 (中城村) の部落に建設中のジョイント通信センター。手前はコンクリートの枠づくり。(1945年7月18日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米陸軍

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米陸軍: Member of 79th Heavy Sig Const. Bn. working at Yonabaru.
第79軍重装通信建設大隊の兵士。与那原で作業中。与那原。1945年11月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米空軍: A member of the 443rd Signal Heavy Construction Battalion testing communication lines with a phone. Servicing and rebuilding the Jap lines between Nago and a point opposote Ei Shima was one of the first jobs assigned the battalion after they landed on Okinawa, Ryukyu Retto.
受話器を持って電話線の接続をチェックする第443重機通信大隊隊員。以前日本軍が使用していた名護からエイシマ[伊江島の誤りであろう]の対岸までの電話線を再構築するというのが沖縄上陸後大隊に課せられた最初の任務である。1945年 7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

作戦参謀、八原博通の見た沖縄の戦禍

第32軍の高級参謀八原博通は、米軍の記録によると7月15日に身バレ逮捕されたことになっているが、八原の手記によると逮捕は7月24日となっている。

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ドキュメンタリー沖縄戦 ~ 出口なき戦場 - Battle of Okinawa

6月26日沖縄戦の作戦参謀八原博通は民間人として速やかに米軍と投降交渉し、港川から糸数をへて、6月29日に知念半島の屋比久収容所の蘇南家に収容される。その民家に収容された十数名の避難民は、昼は軍作業に出ていた。八原は体調を理由に「座敷にごろごろする生活」をしていたが、三回ほど軍作業に加わった。

八原高級参謀の回想:

… 朝4時、… 屋比久村の集合所に向かった。集合時刻は午前8時であるが、人夫の数に制限がある。したがって先着順に採用されるというので、早く出かけたのである。…各部落、毎日先着順に路上に並ぶ。…集合する者およそ数百名、50年配の者か、17、8歳以下の少年が多い。すぐ近くにCICのキャンプ (ブログ註・この後、八原は屋比久のCICで身バレする) がある。簡単な鉄条網で囲まれ、内部には多数の幕舎がある。多くの若者が作業に引き出されるのか、右往左往している。白い鉄帽のMPや、赤い鉄帽の沖縄人の警官が、三々五々、人夫たちの間を巡邏する。日本語を片言にしゃべる神経質な2世が人夫掛りである。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 470-471頁より》

沖縄持久戦の立案者である作戦参謀八原はどのように沖縄の戦禍を見つめたのか。

私は、久しぶりに、かかる多彩にして活々とした場面に出て、不安の裡にも好奇心をかき立てられた。軍夫の群れを点検して回るアメリカ兵も、にこにこしている私を別に怪しまない。大丈夫だと自らに言い聞かせる。…どこに連れて行かれるのだろうか?胸がわくわくする。トラックの運転手は黒人だ。トラックは一台また一台と朗かな軍夫をぎっしり満載して出発する。
私の自動車は、新設の坦々たる自動車道を、中城湾岸に沿い、与那原に向かって疾走する。地形は十分承知の私ではあるが、佐敷村の一部が焼け残っているほか、新里ー津波古ー板良敷ー与那原道の沿線の村も町も、跡方なく姿を消し目に映ずるはアメリカ軍の幕舎群だけである。行けども行けども幕舎の林だ。指揮官幕舎であろうか、やや立派で、綺麗に晴れた夏の朝空には星条旗がへんぽんとしている。沖縄戦開始のずっと前、アメリカ戦闘法を全軍に印刷配布した書類の中に書いた次の文章を思い出して、私ははっとした。「洞窟陣地の完成こそは、来るべき戦闘の鍵である。もしこれを怠らんか、我々は敗者となり、敵星条旗の飜る下に死体となって冷たく横たわる悲劇を招来するであろう」

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 471-472頁より》

戦後、米軍は字津波古から新里、小谷の丘陵地に倉庫やモータープール、兵舎、家族住宅を建設し、一帯をバックナービルと名付けた。

《『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

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米国海軍: NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.
沖縄本島馬天港にある海軍作戦基地指令部下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。馬天港 1945年8月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

与那原に至る間、全注意力を集中して、自分の脱出路を観察する。この地域における敵の宿営兵力約1個旅団。脱出路としては、第1案、知念台の中腹を縫うて突破する。第2案、知念台上を運玉森に向かう。第3案、リーフ地帯を与那原東北に出で、陸地に上がる。いずれの案も実行至難だが、第1案が最も可能性ありと判断する。

自動車は、与那原に停止せず津嘉山北側に通じる那覇街道を西進する。この付近は5月下旬、軍が喜屋武半島後退直前、激闘を交えた戦場である。運玉森、雨乞森の両高地を始め、山という山、野という野、ことごとく砲爆に掘り荒され、わずかに所々しょんぼりと立った焼け木を散見するのみだ。南国の真夏だというのに、運玉森が寒そうに突兀として聳え、限りない悲しみを今なお天に地に訴え、慟哭しているように見える。山川草木転荒涼の詩も、草木影を没した、この新戦場にあてはまらぬ。詩感を絶した森厳冷酷さに心を打たれる

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472頁より》

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米陸軍: Conical Hill captured by 96th Div.
第96師団によって陥落したコニカル・ヒル(運玉森)西原・与那原 1946年1月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

暫く見えなかったアメリカ軍幕舎南風原付近から、再び丘陵の斜面を埋めて林立するのを目撃する。朝食の時刻なので、至る所食事分配にならぶ敵兵の列を見る。十余年前、(ブログ註・八原アメリカ留学での) フォート・ベニングの野営地で、アメリカ兵の列にはいって、メスサージャントから食事の分配を受けた当時を想起する。南風原駅北側の畑地では、百人あまりの日本人の軍夫がみそ、しょうゆの樽や、その他箱詰めの食料品を幾百となく整理している。日本軍の集積物資をアメリカ軍が難民の救恤に充当するのだそうである。
首里や津嘉山が見えだす。鉄血山を覆い山形改まるとは、この山々のことである。私はトラックの框に凭れたまま、いつしか一切の幕舎も、アメリカ兵も、同乗の沖縄人も忘れて、自ら感慨にふける。仲井間、国場付近の道路網は、アメリカ軍の作業で一変している。国場川に架かった石造りの真玉橋が、半ば崩れたままに残り、わずかに昔の面影を偲ばせる。長堂101高地より那覇港口に至る国場川南岸高地帯は、海軍陸戦隊の死闘した所で、やはり砲爆に荒々しく地肌を露呈し、山容壮厳を極めている。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 472-473頁より》

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Ruins & debris.

廃墟と瓦礫の山(撮影地: 那覇

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

自動車は古波蔵を経て、那覇の町にはいる。沿道戦場掃除が行き届かず、わが軍の被服、鉄器が散乱し、死臭漂い、今なお死体がそこここに転がっているような気がする。那覇の町は、昨年10月の10日の空襲で焼土と化したままで、その後、敵も全然手を入れていない。我々は那覇埠頭、かつての暁部隊平賀中佐事務所前で、車から降ろされた。この建物は西洋建築なので、10月10日の空襲にもその外郭が焼け残った。それを暁部隊が応急修理し、戦闘勃発まで使用していたのであるが、敵も同様に改造して、兵站事務所にしている。
アメリカ軍将兵の出入りが頻繁である。血色の悪いアメリカ軍看護婦が事務所前に群れる我々を、もの珍しげに眺めながら通過する。小禄飛行場を離着陸する中、小型飛行機が、盛んに我々の頭上をかすめて飛び交う。那覇の港は、予期に反して、未だほとんど使用されておらず、2千トン級のぼろ船がたった1隻、岸壁に横づけになったままだ。港内至る所撃沈されたわが大小の艦船の残骸が痛々しく見える。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 473頁より》

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Raising ship which capsized in port.

沈没船の引き揚げ作業(撮影地: 那覇

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

やがてひょうきんなアメリカ兵が事務所から出てきて、作業の指示をする。我々の仕事は、玄関入り口の崩壊した壁土を約50メートル離れた焼け跡に運搬することだった。この善良なアメリカ兵は女の話をしかけたり、みやげ物の相談をしたりして、仕事はどうでもよい様子だ。さして働きもせぬうちに正午になる。事務所裏の炊事室でシーレーション(携帯糧食)を一食分もらう。別にかん詰めが2つ。1つはボストンビーン、他の1つはビスケットと菓子がはいっている。掛りのアメリカ兵は、私にレーションを手渡しながら、どうだ満足だろうと言わんばかりに「シー」と言った。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

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Okinawan natives eat U.S. Army rations while doing odd jobs around Signal Intelligence Sect.

通信情報班周辺で片手間の仕事の合間に米軍からの配給を食べる地元住民。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

お昼休みには、我々と数名のアメリカ兵との間に、英語と日本語、そして手まねを交えて賑やかな交歓が始まる。私はあまり英語を話さぬようつとめた。私はバンドの銀の金具と、アメリカ軍用の帯革、煙草3個、ココア2かんと交換した。沖縄人たちは日本貨で、それぞれ煙草やかん詰めをせしめた。親切なアメリカ兵はここは仕事が楽だし物資も豊富だから、君たちはあすも来れるようにしてやると言った。

午後4時作業完了。けさのトラックに乗って帰途に着く。私はアメリカ軍の監視の緩やかなこと、那覇市街に隠れ場所の多いこと、そして遠く水源池高地に至る間、アメリカ軍の宿営地の疎らなることなど考えて、脱走には好都合だなと思った。屋比久に下車すると、そこには米の配給所があった。沖縄娘たちが賑やかに3合ずつ配給してくれる。私に渡してくれた娘が顔を合わせた途端、あっと小さな声をあげた。私はどきっとしたが、そ知らぬ振りをして別れた。油断大敵である。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 474頁より》

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Local ration board at Kayo, Okinawa. This girl is measuring out a ration of rice.

地元の食料配給所。沖縄本島の嘉陽 (久志) にて。少女が米の配給量を量っている様子。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米を受領した後は、皆自由行動である。帰り道、屋比久と冨祖崎に、各々一か所新しい墓地を見つけた。新仏が2-300も葬られている老人や、子供の墓が多い。3か月間の言語に絶する悲惨な生活で衰弱し切った者、それから負傷した人々が戦闘終了とともに、気落ちして死んだのが多いとい言う。ある人は、栄養失調者が、急に貪り食ったので死んだのだと話してくれたが、そんな人もあったろうと思う。

暫く屋比久の墓地で、足を止めているうち、12、3歳の愛らしい少年と一緒になった。彼の語るところによると、親子7人首里の南、繁多川に谷に避難中、父と兄弟4人は敵の艦砲弾で惨死、母は重傷、自分は軽傷、母と子2人で、転々としてあちこち逃げ回るうち、アメリカ軍に収容されて、ここに落ち着くようになった。その後、母は漸次快方に向かい、この少年は年少なので、アメリカ軍の作業に出る資格なく、市民の方の仕事に従事し、米を1日2合ずつもらい、糊口を過ごしているとのことである。真夏の陽没して、涼風すずろなる夕、かかる少年からかくも悲しい身の上話を聞いて、戦闘の惨禍、世の無常が一入身にしみる。お母さんを大切にして、しっかりやりなさい、と励まし村の入り口で別れた。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 475頁より》

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Marines bandage an Okinawan boy's arm. 少年の腕に包帯を巻く海兵隊の兵士

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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元沖縄第32軍高級参謀八原博通大佐について

米陸軍の留学経験で米軍を学び、自信をもって「本土のための戦略持久戦」を立案した八原の軍作業体験。沖縄の変貌を傍観者然として観察し、国頭突破のための逃亡計画を練ったとあるが、八原はもちろん逃亡を実行に移したことはない。

 

その時、住民は・・・

知念半島の基地化と住民の移送

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知念半島が軍事拠点化され、上記の馬天港 (バックナービル) と知念半島の各地に基地が建設されたため、7月11日から8月18日にかけて、いったん知念地区に収容された多くの人々が強制的に大浦崎収容所地区周辺の海岸に移送され、飢餓とマラリア多くの人たちが亡くなった。

屋比久収容所 (知念地区)

屋比久は難民収容所になっていました。幸い私たちの家は残っていましたので、家に帰ることができたのですが、母屋には、私たちより早く米軍に捕まった、よそからの難民が入っていました。西原村の人とか知念の人とか、顔も知らない人たちばかりでした。

家の前の畑は、二重に金網が張られていました。外側には沖縄、地元の軍人とか防衛隊の捕虜、内側の金網には内地人捕虜と、分けられていました。米軍も、地元の人が軍隊ではいじめられていたことを知っていたのでしょうかね。

屋比久一帯は難民でいっぱいでした。米軍からの配給は少ないし、畑の芋も全部掘り取られていました。私たちのような男手のない家では、ミンジャーンム(畑に残され、自然に芽が出た芋)を拾ってきて、ンムニー(煮た芋を練りあげたもの)にして食べたり、ソテツを切ってきてでんぷんを採ったりして、飢えをしのいでいるありさまでした。

東喜収容所 (瀬高地区)

しばらくして私たちは、馬天から大きな船に乗せられ、久志村の東喜(現名護市二見)に着いて、そこからトラックで嘉陽に送られました。米軍から卵粉とかCレーションなどが、たまに配給されましたが、全然飢えを満たすほどの量も質もないので、島尻からの難民はニガナとかヨモギ、オオバコ、タンポポなどの野草、兎やヤギが食って大丈夫な草は私たちも全部食べました。それも見つけて取れたらいい方です。最後には、海が荒れたら浮いてくるホンダワラまで食べたのです。次の年の正月に、海にホンダワラを採りに行ったことが忘られません。私は、嘉陽でマラリアにかかってしまいました。高熱が出て、一日に二回はおこりで震えがとまらないのです。食べ物も満足にない時でしたから、体力も落ちて、顔を洗う気力もありませんでした。私は、いつ発作が出るか分からないので、何か月も浴びたことがなく、体中シラミがたかっていました。…

具志堅初等学校ができてやがて、島尻に帰れるという話で、私たちは玉城村の人たちと一緒に帰ってきたと思います。それから知念村の具志堅に移されました。具志堅には具志堅初等学校ができていて、私も給料なしで勤めていました。そのうちに佐敷村内に入れるようことになり、屋比久に帰ってきました。久志村に行く前にはちゃんと残っていた私たちの家は、なくなっていましたので、テント小屋生活でした。…

佐敷の立入禁止が解除されて、建築許可が出たのは、屋比久が先でしたかね。馬天や新里、小谷辺りは、バックナービルと言って米軍の施設になり、パスを持ってないと入れない場所でした。戦前の、佐敷国民学校の西側のターブックァー(田んぼ)は、埋め立てられて刑務所になっていました。

《「佐敷国民学校は卒業式もできず」『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

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戦後は、米軍施設に接収して多くの住民が久志村(名護市)や金武村金武町)に分散した。1948年、国道331号より東側の居住が許可され移住を開始。1951年11月には戦前の地域が解放された。その後、スクラップを集めるための移住者が増え、旅館や商店が立ち並び、現在につながる街の基盤となる。

ノスタルジア津波古 - Nostalgia BATEN | 津波古自治会

 津波の人は、元の部落が米軍のバックナービルと呼ばれて、モータープール(自動車置き場と修理工場)や兵舎、倉庫などになっていたので、山原(やんばる)から引揚げた時は玉城の船越などに、また佐敷に移動できるようになってからも字屋比久に行ったり、今の佐敷小学校の運動場辺りにテント小屋をつくって住んでいました。

《「四十八年目の終了証書」『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

 

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