〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年9月5日 『祖国という観念』

無通貨経済沖縄の捕虜収容所祖国という概念

米軍の動向

4月1日のミニッツ布告第4号によって貨幣を含め一切の金融・経済活動が停止された沖縄では、未曽有の無貨幣社会となった。紙幣は米兵に人気の戦利品であった。

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Prized possession of Owen Landy (right) is this 70-piece, 30-foot long short-snorter bill.

オーウェン・ランディ(右)のとっておきは、長さ30フィートになった、記念の署名入りの紙幣70枚である。(1945年9月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

経済の占領と基地運営

米軍が沖縄本島に上陸して軍政府の樹立を宣言した1945年4月1日から、第1次通貨交換によって通貨経済が再開された1946年4月15日までの約1年間は現代史においてはきわめて異例ともいえる「通貨なし経済」が続いた。

上陸と同時に米軍は作戦上、住民を戦闘地区から非戦闘地域へ強制的に移動させて収容したが、戦後の住民生活はこのような収容所の中からスタートした。生産施設はいうにおよばず、ほとんどすべてのものを破壊された住民は、まさに着のみ着のままの状態であった。食糧、衣類等は米軍によって無償で支給される一方、労働可能な住民は収容所の建設、米軍施設の雑役、沖縄戦の後かたづけ等の「軍作業」に駆り出された。住民はこれを無償配給時代と呼んでいるが、そこでは通貨は流通せず、すべてが現物で支給または交換される物々交換の経済を営んでいた。こうした現物経済の下で必要なものはバーター方式で入手したが、当時、物々交換の単位を表わす標準的な価低尺度として利用されたのは米国製のタバコであったといわれる。

《牧野浩隆『戦後沖縄の通貨 上』おきなわ文庫 (2014) 》

 

第32軍の敗残兵 

沖縄島の捕虜収容所

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米軍は7つの捕虜収容所を設置した。基地の軍作業に以下の収容人数は1946年4月時点のもの。沖縄戦の作戦参謀八原博通ら高級将校は1945年の年末に最初の復員船で本土に帰還している。

本部 屋嘉捕虜収容所 287人
第1支所 牧港捕虜収容所 3,531人
第2支所 楚辺捕虜収容所 (高志保) 2,075人
第4支所 奥武山捕虜収容所 1,560人 
第5支所 小禄捕虜収容所 1,459人
第6支所 普天間捕虜収容所 (通称ライカム) 718人 
第7支所 嘉手納捕虜収容所 2,874人 
第9病院 187人
合計 12,691人

東海岸に集中させた民間人収容所と異なり、捕虜収容所がそれぞれ米軍基地地域に設置されたのは軍作業に従事させやすいためであると考えられる。

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米海軍: Jap aviator prisoners of war being taken from US ship near Okinawa, Ryukyus Islands.
捕虜となった日本軍飛行士。沖縄本島近くにいた米艦船から連れてこられた。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

45年6月現在、沖縄本島及び近隣地域の日本兵1万人が捕虜となり 同年12月にはその数が1万6千人にふくれあがった。おそらくそれは米軍による住民スクリーニング(査察)により身分が露見した兵士や 部地区や周辺に潜んでいた日本兵が捕まったためであろう。しかし は、同年末から翌年早々に大量の旧日本兵を本土に送還したため、沖縄本島で捕虜となった者は約5千人と大幅に減少した。その代わり今度は 宮古島から旧日本兵8千人が沖縄本島に捕虜として送り込まれ、約 3千人が引き続き米軍捕虜になっている。

この中で屋嘉収容所は46年6月に閉鎖となり、それまでの収容者は嘉手納収容所に移動された。1946年10月、最終的な捕虜の本土帰還が開始され、この月だけで約3,500 人が復員している。その後、収容者は嘉手納捕虜収容所に移動し、残余の収容所は閉鎖となり、47年2月までに捕虜全員が本土に帰還できた。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶』紫峰出版 (2017) 218-219頁 》

1947年2月に捕虜の復員が完了すると、「みなと村」設置など、本格的な沖縄人の軍雇用にシフトする。

捕虜の軍作業の様子。

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Jap prisoners

《 147th NBC Cruisebook, 1945, p. 105. 》

 

米軍は日本軍が民間人を根こそぎ動員した地元の「防衛隊」も軍人扱いで捕虜収容所に収容したため、「下は15、6歳の少年から上は60過ぎの老人まで」収容者の数が増大し続けたため、主に沖縄人捕虜をハワイやアメリカ本土の収容所に移送した*1

 

捕虜収容所ではスポーツや演劇、俳句など各種文芸クラブの活動も盛んであった。1946年5月4日から『沖縄新聞』なる新聞も屋嘉で印刷され7カ所の収容所にジープで配達された。

「沖縄新聞」第8号 1946年6月21日 の記事より

「見苦しい真似だけはしてくれるなと云った親兄弟や戦友の遺族に会わせる顔がない」と云う考えを未だに持っている沖縄の PW が 相当居る。そう云う考えの人間なら抵抗が殆んど無益になった状態の下に於て抵抗を断念したのは当然なことであるということである。...  (中略)  ... 諸君は、捕虜になったことを恥ずる必要はない。 浅はかな考えを持った者共が諸君を白眼視したり嘲ったりするな ら、彼らが人生の何たるかを理解しない事を逆に嘲笑してやるがよい。...  (中略)  ...

我々の故郷の人々は、今ではもう戦争から帰って来た人を賞めたり 貶したりする余裕はない今、『働けるだけ喰わせろ』『米を呉れ』と いう叫びの陰に餓えて泣く自分の妹、自分の子供の泣声を聞くことの出来ない者は日本人でないのだ。

捕虜収容所の『沖縄新聞』 - Battle of Okinawa

 

コザの野戦病院: マラリア赤痢

入院して4日目に、前回と同じように4度目の熱が出たあと、マラリアの症状は止まった。しかし、この頃からアメーバ赤痢の症状が出てきた。血便とも粘便ともつかぬものが、暇にまかせて数えたところでは1日53回にも及んだ。こうした状態では食欲は全くなく、Kレーションの中から角砂糖だけを抜き取って、舌の上でとろけさせるだけの日が続いた。私の枕許にはレーションの箱が煉瓦のように積まれた。

隣に寝ている住民の患者が、遠慮がちに「このレーション、食べないなら私にくれませんか。」といった。私は〝角砂糖のほかは、みな持って行ってくれ〟と言うと、喜んで1日おきくらいにくる身内の者に、それを渡していた。

便の始末は、最初のうちは便器を用いてテントの外で足し、50メートルほど離れた仮設便所まで捨てに行っていたが、その途中でも何回か使用せねばならぬようになり、やむなく便器を1個ベッドの下に借用しておいた。ところが、このテントの牢名主のような顔をして、他の者に大声で文句を言っていた兵隊が、

「手めえ、便器を独り占めにするない。使ったら洗って外にかけておけ」

と私に向かってどなった。私もそれはわかっているのだが、動くとすぐ尻の方がいかれてしまう状態なので、もはや方法もないと諦めて、腰にバスタオルを巻き、毛布で身体を包んでたれ流しの状態になった。

これが2日も続くと、牢名主もさすがに同情したのか、または私に気合を入れ過ぎたのを気がとがめたのか、衛生兵に、

あそこの若いのが、あぶないようだから何とかしてやってくれ

と私を指して言った。ようやく米人の軍医と衛生兵、それに前とは違う元気のいい若い日本人の軍医が来たが、日本人の軍医は入って来て私を見るなり、顔をしかめただけで手をかけようともしなかった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 225-226頁》

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コザ付近にある軍政病院。北向き。

Military Government Hospital area located near Koza, looking north.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この頃は、皆が眼を覚める時刻になっても、一向に動こうとしない者がボツボツとあって、ほとんど夜中のうちに便をたれ流しにしたまま息絶えており、隣りの者も気付かないことが多かった。そうなるとすぐテントの外に出し、収容所から来る捕虜の作業員達が近くの藷畑に埋めてしまうのである。何日かに一人は確実に発生するそうした者を見ていると、〝やっと阿嘉島生き延びて来たのに、俺もここで終わるかもしれない〟と、いささか心細い日日での連続で、他の者の目にも私の状態がもうそれに近いものに映っていたようであった。

こうした身心共に病み衰えて、ズルズルと絶望状態になりかけているのを、ようやく食い止めることが出来たのは、19歳という肉体のもつ復元力であった。

熱の一週間とそれに続く下痢の一週間で、瘠せることの限度まで来た時に、ようやく僅かながら食欲が出て来た。

やっと立上れるようになった頃、このキャンプに看護婦兼雑役のために来ている沖縄の娘が、放置されたままの私に同情して、洗たく場からたらいを持って来て水浴させ、便で鼻もちならぬタオルなども洗ってくれた。

私は感謝の意を表すために、積み重ねてあったレーションを渡した。そして、もし出来るなら米と梅干と味噌を見つけてもらいたいと頼んだ。米はとにかくとして、この戦場のあとの沖縄の地では、味噌や梅干はとうてい不可能な望みと思っていたのだが、どこでどうやって見つけたのか、2、3日すると少量ながら米と味噌を持って来てくれた。

一方私のあとを追うように、これも赤痢の疑いで送られて来た渡辺が、偶然隣りのテントに入ってきたので、彼に粥を作ってくれるように頼んで、子供のころから変わった好物としていた、粥に味噌を入れて掻き廻したものを、少量ながら口にすることができた。これが回復のきっかけとなったようで、下旬になってようやく、ふらつかずに歩けるようになった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 226-227頁》

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米海軍: Okinawa. Native nurses with Navy doctors.
海軍の医師と一緒に写る地元看護師。沖縄にて。1945年 9月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

「かつて経験したことのない世界」

米軍野戦病院: 久志村

『日本が無条件降伏をして「イクサ」は終わった。テント病棟の喧騒はおさまり、退院を待つ者が多くなったためであろうか、村のこと、暮らしの様子が話の中心であった。特に、消灯後の話は、離れ離れになっている肉親のこと、故郷への思いに終始した。あとは思い出につながる歌を歌い、今でいうリクエストがでると誰かが歌った

そのころ、私たち(私だけだったかもしれない)には、日本が戦争に負けたという切迫したものがなかった。日本降伏の日の悲嘆はどこへどうなったか、誰も口にしなかった。祖国という観念も消えていた。戦争に負けたことに、むしろホッとしている自分に気がついてもあわてなかった。後ろめたさもなかった。』(121頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121頁より》

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Okinawa. Temporary hospital facilities.

仮設病院施設。沖縄にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年9月、…私が、かつて経験したことのない世界 --- 戦後の沖縄がそこに始まっていた。…配給所前の国旗掲揚のポールにはためいている星条旗に気がついた。喜屋武の海岸に追い落とされたとき、米艦艇のマストにひるがえっている星条旗を間近に見たときの恐怖がよみがえったが、それはすぐに消え、雑踏の匂いに包まれた。

…久志へ来て間もなく、市長、市会議員の選挙があった。…久志は、久志、ミヤランシン、辺野古、大浦崎の4つの「区」を持つ市であった。ところが、「メイヤー」(市長) と呼ばれるもうひとりの権力者がいた。彼は久志市の中心久志区の区長であるべきであるが、この区長のメイヤーは市長選挙よりも前、米軍の久志占領と共に任命されたらしく、食糧配給の実権を握る実力者であった。民意によって選ばれた市長は、戦後処理の第一歩たる住民の出身市町村への移動事務が主たる仕事であった。

だから、市長選挙があったとしても「区長のメイヤー」の存在に変わりはなかった。彼の事務所には米大統領トルーマンの肖像が掲げられ、メイン・ポールにひるがえる星条旗とともに、新時代の到来を謳歌しているようであった。戯画ではない。本当のことだ。

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 121-124頁より》

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The American flag flying over the Military Government center at Kushi, Ryukyu Islands.

軍政府施設の上ではためく米国旗。沖縄本島の久志にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

1945年9月7日、沖縄における日本軍降伏文書調印式が行われる。1879年3月27日の「琉球処分」とよばれた併合からわずか66年目、沖縄戦終結というかたちで「ヤマト世」が終わりを告げることになる。

 

変わり身の早い大人たち

学徒たちの沖縄戦: 沖縄県立水産学校通信隊、たった一人の生還

具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。

小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。 

南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 - Battle of Okinawa

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