〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月14日 『アブチラガマへの攻撃』

戦場のひめゆり学徒 / アブチラガマ / 戦場の女性たち

 

米軍の動向

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設に邁進した。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。

嘉手納ロータリー

1945年にアメリカ軍が沖縄を攻撃する直前に撮影した嘉手納町軽便鉄道や県道が伸び、中部の要所であった様子が上空からもはっきりと分ります。しかし、この年沖縄に上陸したアメリカ軍は飛行場のあった嘉手納を制圧。その年の8月の航空写真では街の様子はすっかりかわり、飛行場とすでに巨大なロータリーが建設されています。軍用車両の行きかうロータリー、そして巨大な基地の横たわる嘉手納の町並みは、それから戦後60年以上にわたって続いてきました。

Qリポート 消えゆくロータリー 誕生秘話 – QAB NEWS Headline

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One of the most unusual sights on Okinawa is this traffic circle, designed and built by the Seabees to lessen congestion of heavy military traffic near the Kadena Airfield.

沖縄ではめったに見かけないロータリー。嘉手納飛行場近辺の軍用車両の渋滞を緩和するため米海軍設営部隊によって建設された。(1945年6月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小禄上陸9日目 - 瀬長島の制圧

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

小禄での掃討が続いているあいだ、日本軍の陣地壕がある瀬長島を制圧する必要があった。6月12日に瀬長島に上陸した米軍は日本軍の陣地壕を焼き捜索を続ける。

小禄と瀬長島の占領は続き、瀬長島は1977年まで 米軍の弾薬庫となる。

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Land mine is blown up by Engineers of the 6th Engineer Battalion, 6th Marine Division, on beach of Senaga Shima. Note: Beach was heavily mined and booby-trapped, but it didn't take long for these boys to clear them with TNT.
瀬長島の海岸における、第6海兵師団第6工兵大隊の工兵隊員による地雷の爆破処理。(注)海岸には地雷が無数に埋設され、爆弾が仕掛けられていたが、トリニトロトルエン爆弾で短時間のうちに除去された。(1945年6月14日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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瀬長島の壕を爆破するため、崖の頂上を目指し急斜面を登る第2大隊偵察中隊の海兵隊員。(1945年6月14日撮影)

Marines of Recon Company, 2nd Battalion, climb steep grade going to the top of cliff to blast caves on Senaga Shima.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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瀬長島進攻の3時間後、交戦相手もなく退屈して寝入る第6海兵師団の2兵士。後方の水陸両用トラクターに注目(1945年6月14日撮影)

Three hours after invasion of Senaga Shima, these two Marines of 6th Division, are bored because of no opposition, so they hit the sack high above Senaga Shima. Note: Amphtracs in background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

 

糸満 (いとまん) 白銀堂

神社が海兵隊の司令部になる。

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A Bn. C. P. is set up at shrine in Itoman. Note Marine in foreground beating native drum.

A大隊の司令部は糸満の神社に設置された。前方の海兵隊員は地元の太鼓を叩いている。(1945年6月14日撮影)

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国吉(くによし・くにし)丘陵

6月14日午前3時を期してE中隊とG中隊は進撃を開始したが、2時間後には、先頭の小隊はそれぞれ位置を確保したが、夜明けごろになって、とつぜん猛烈な砲火がおそってきて、米軍は進撃することができなくなってしまった。いまや全員が、前面や左翼から小銃弾、迫撃砲弾、機関銃弾を浴びせるかと思えば、後方の素通りした日本軍陣地からは猛烈な小銃弾をうけるという有様であった。

丘の上では、立つことはできなかった。さらに負傷者も、第7海兵連隊の戦闘でやったように防水袋に入れられ、引きずられて物資補給のためにきた戦車の下に、しばらく避難しなければならなかった。大隊がどうにか陣地を強化できるようになったのは、やっと暗くなってからだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 493-494頁より》

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第1海兵連隊E中隊による69高地と国吉丘陵の間の偵察活動。(1945年6月14日撮影)

E Co., 1st Regt., patrol activity between hill #69 and Kinushi[Kunishi] Ridge. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月も中旬になると、われわれの設営地点の南にある国吉(クニシ)丘陵という場所について、気になる噂が流れはじめた。その地では第1海兵師団のほかの歩兵連隊---つまり第7連隊とその後は第1連隊---が苦戦を強いられていて、われわれの救援が必要だというのだ。第5連隊はこのまま前線に出ずに済むのではないかという期待は、徐々にしぼんでいった。

偵察任務はまだ続いていた。私は日本軍が残していったホタテの缶詰を味わいながら、国吉丘陵などという場所がこの世になかったらどんなにいいだろうと思った。だが、避けがたいその日がやってきた。「装備をととのえろ。また移動だ」と上官の声が響いた。南に進むうちに、晴れ間が広がり、暑くなってきた。戦場に近づくにつれて、銃声や砲声が大きくなってくる。大砲の地を揺るがす轟き、迫撃砲の重い響き、機関銃のたたみかける連射音、ライフルの鳴りやまない単発音。いつもながらの組み合わせだ。なじみのあの感覚がまたよみがえってきた。生き残れるだろうかという不安と恐怖。脳裏に焼きついた負傷者、死者、そして精神を狂わせた兵の、おぞましい姿。それは、いやでも刈り取らなければならない戦の産物だった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 441-442頁より》

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数日間の休息後、国吉丘陵の向こう側の戦線へと進軍する第5連隊第2大隊E中隊。(1945年6月14日撮影)

E Co., 2nd Bn., 5th Regt., move up to lines opposite Kinsushi Ridge after a few days of well deserved rest.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月14日、われわれはふたたび修羅場へと突入した。午後、K中隊は道路南側の並木沿いに散らばって、野営の準備にかかった。前方の平野の向こうに国吉丘陵の砲煙が見え、銃声や砲声も響いてきた。われわれ迫撃砲班は道路のそばに壕を掘り、高い土手の上にかかる、まだ無傷の美しい橋の上空あたりに照明弾が打ち上がるよう調整した。

日暮れ前に、何人かでその橋を見にいった。幹線道路から分かれた小径をたどって、水辺に下りる。澄みきった水が流れ、小石の多いきれいな川底が見えた。心なごむせせらぎだった。苔むした高い土手にも、両岸の岩のあいだにも、シダが生い茂っている。私はむしょうにサンショウウオやザリガニを探してみたくなった。そこには美しく、涼しく、平和な---すぐ上の阿鼻叫喚の戦場とはまるで別世界の---場所だった。』(443頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 443頁より》

携帯型火炎放射器を使う兵士は日本軍の激しい憎悪の対象となり狙撃される可能性が高かった。

米国陸軍通信隊: Infantryman of the 381st Inf, 96th Div, with flame thrower, running past sniper fire on Big Apple Ridge. / 【和訳】ビッグアップルリッジ[八重瀬岳]で狙撃をかわして走る火炎放射器を持った第96師団第381歩兵隊の兵士。 1945年6月14日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

八重瀬岳の戦闘

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

「超人間となる」ということはどういう事だろうか。

八原高級参謀の回想:

6月14日には、第24師団からも、「数百の敵が八重瀬岳に進入しつつある。何故混成旅団はこれを放置しているのか? … 」と木谷参謀長自ら電話に出て、その平素の悠容たる性格に似ず語気が荒い。これを聞いて私も憤慨した。通信連絡の関係上、混成旅団司令部を経ず、第24師団司令部経由で、軍司令官から直接独立歩兵第15大隊長に、「貴官は即刻八重瀬岳に向かい、攻撃前進すべし」との厳命が下達された。

後刻鈴木少将から、旅団を無視したとの抗議が出たが、私はこうしなければ、状況に合しないと信じたので、この非常処置は豪も差し支えないと考えた。後聞するに独立歩兵第15大隊長飯塚少佐は衰弱の極、歩行もかなわず、担架に乗り指揮していたとか。私は悪いことをしたと思ったが、我らは今や超人間となり、非情のことも強要しなければならぬのだ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 395-396頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-01-4.jpg

目視された4人の日本兵を捜しに向かう斥候(1945年6月14日撮影)

A reconnaissance patrol goes out in search of 4 Japs sighted.

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戦場の学徒

南部に移転した陸軍病院 山城本部壕 と「ひめゆり学徒隊

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ひめゆり平和祈念館資料館 PDF

5月25日南風原陸軍病院は南部の各壕への撤退が命じられ、陸軍病院の本部は山城本部壕 (サキアブ) に移転した。ひめゆりの学徒たちは南部の最終防衛線の真っただ中で、。

沖縄師範学校女子部、当時19歳の比嘉文子の証言

山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは 6月14日でした。何十人も戦死者が出る惨憺たる状況でした。壕入口に出ていた病院長を始め歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされましたが、その時伝令で来ていた糸洲第二外科壕からの宜保春子さん、第三外科壕からの安座間晶子さんが亡くなったのです。その時、私達は壕を下りた岩陰に板を敷いて足を下げおしゃべりをしていたのです。すぐ側で兵隊が炊事をしていました。突然パーンドーンと物凄い音がし曝風で足が顔の辺りまで吹き上げられたので足が吹っ飛んだのかと思うほどびっくりしたんです。隣の新垣昭子さんの顔を見てまたびっくり、顔に肉片がペタッとくっついています。

「貴方、顔をやられている!」と言ったら彼女は慌てて手でそれを払い除けたんです。肉片は炊事していた兵隊達のものでした。

「病院長がやられた。兵隊も学生もやられた」と言う声で西平先生の後を追い壕入口に出ました。安座間晶子さんはもう板の上に寝かされていました。手も指も切れお腹もやられ息をする度に腸がブクッブクッと飛び出すんです。包帯を巻き三角巾でくるんで「晶ちゃん 大丈夫だから 頑張ってよね」と言ったら指の切れた手で私の手を強く握るんです。悲しくなって胸をしめつけられる思いでした。

「お腹をやられたら死ぬと教えられたでしょう」と言って、どうせ駄目だから水を頂戴 と欲しがるんです。躊躇していたら次第に声も弱まり、かすかな声で水、水、と言うので、西平先生に上げていいか尋ねました。悲痛な顔でうなずいていました。脱脂綿に浸した水を少しずつ 吸っていた晶ちゃんは うわ言を言いながら息を引き取ったのです。宜保春子さんは 即死でした。解散命令は このような敵の包囲と猛攻撃に追い詰められた状況の仲で6月18日に出されたのです。

ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック p. 88.》

戦場の学徒兵

八重瀬岳 108高地 - 危険な斥候や食糧探しを命ぜられる学徒兵

14歳で召集された国吉真一 (那覇市立商業高校通信隊) の証言

「ざっと50人くらい。壕の中でひしめき合っていましたね。年齢が若いせいか、いつも上級兵に食糧集めを命じられ、農家で焼死している豚の肉を切り取ってきてはほめられていました。命がけだったはずなんですが、ほめられたい一心でしたからねえ」 今にして思うと、「おだてられ、利用されていたに過ぎないのに…」と国吉さん。そんな国吉さんの度胸も次第に発揮できない状態となってきていた。いよいよ国吉さんのいる壕にも火の手が近づいていたのである。

那覇市立商業高校 たった一人生き残った15歳の通信兵 - Battle of Okinawa

 

 

そのとき、住民は・・・

アブチラガマへの攻撃

5月25日 の撤退命令でひめゆり学徒隊と患者らがアブチラガマを後に伊原糸数分室壕へ移動した後、アブチラガマでは、住民が身を寄せあい、部隊からとり残された大勢の重傷兵の看病にも当たっていた。13日~14日には米軍による大きな砲撃が行われ、米軍が出口を土で塞いだ。

アブチラガマ(糸数壕)は、6月2日で南風原陸軍病院の糸数分室としての役割を終えた。壕内に残っていたのは200名近い糸数住民、日本軍の大量の糧秣倉庫の責任者として上妻伍長と3名の監視兵、百数十名の重傷患者だった。(108頁)

6月3日以後、病院関係者のすべてがこの壕を撤退したあと、置き去りにされた重傷患者の食事の世話などは住民たちが行った。子持ちの避難民として井戸付近にいた糸数住民…も、重傷患者におにぎりを配って回った。

「暗闇の中で誰が生きているのか死んでいるのかわからない状態で、ミージョウーキ(直径1メートルほどの円い平カゴ)いっぱいにおにぎりを持って重傷者の寝ているところに近づくと、暗がりのなかから手がいくつも伸びてきて、その手に渡していくだけでした。だから、手も伸ばせないような重傷患者は、そのままになったはずで、まもなく亡くなったと思います」

…3日後の6月6日、米軍がついにアブチラガマに対して「馬乗り攻撃」(地下壕・地下洞窟の出入口を封鎖し、天井にあたる地面からさまざまな方法で攻撃すること)をはじめた。(113頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 108、113頁より》

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糸数アブチラガマ|南城市

まず、…糧秣倉庫を、昼夜24時間交代で見張りしていた3名の監視兵と乳牛が殺害され、糧秣に火が放たれた。…米軍がアブチラガマに迫ってきたとき、…住民の数はおよそ200名であった。…米兵に壕内から反撃があったので、米軍はこの壕を日本軍の巨大な洞窟陣地と思い込んだのか、さまざまな方法で壕内に攻撃を加えてきた。…米軍の攻撃開始は6月6日、8日には…黄燐弾攻撃、10日と11日にはガソリン攻撃、13日と14日は大砲攻撃をしてきた。(113-114頁)

黄燐弾は、爆発して飛び散った火薬が人体に触れただけで大火傷をしてしまう強烈な爆弾である。爆弾の破片をまともに受けたら、人体は青白い炎をあげて燃える。(116頁)

黄燐弾攻撃の被害をうけた男性の証言:

「…空気穴から投げ込まれた黄燐弾を身体にかぶり、手の甲も火傷して大変でした。壕内にひまし油があったから、服を全部脱いでそれを塗ってなんとか治したが、火傷痕がケロイド状になりましたよ」(116頁)

ガソリン攻撃を体験を体験した人たちの証言:

①「米軍は、糸数集落の家屋から茅を抜き取ってきて、この茅にガソリンを染み込ませ、それを空気穴から投げ入れて、同時にガソリンを流し込んで火をつけたのです。米軍は、パッと壕内部で勢い良く燃えることを期待していたはずだが、大量のガソリンは壕内の土砂に染み込んでいき、くすぶるような状態でした。それでガソリンの匂いかガスが発生したのか、身体の弱っている老人や子どもが一晩で4〜5名もなくなりました」(117-118頁)

② 「…壕内は湿っていたので火はつかなかったが、空気穴付近の地面は乾燥していたようで、その付近だけ一日中くすぶったので臭いが立ち込めて大変でした。元気な若い者もフラフラになり、これでみんな死ぬと思いました。これが原因で、数日後まであいついで死んでいきました。…」(118頁)

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 113-114、116、117-118、118頁より》

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南城市 アブチラガマ【放送日 2008.9.3】|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

米軍は、何度も壕内に投降を呼びかけた。しかし、アブチラガマの軍民はそれに応ずる気配をまったくみせなかった。洞窟内に投降を呼びかけても応じない場合はブルドーザーで土を寄せ集め入口をふさぎ、壕内にいる人間を生き埋めにするのが上陸間もないときから行っていた米軍の常套手段だった。

あの手この手を使ってもどうしても投降しないアブチラガマに手を焼いた米軍は、…大砲を引っ張ってきて、1発ドカーンと砲弾を撃ちこんだ。壕内に轟音がとどろいた。だが、砲身が長すぎて壕内に照準を合わせにくい上に壕内は曲がりくねっていて、大砲攻撃による被害者は出なかった。それどころか、米軍の大砲は壕入口の急傾斜地にずり落ちてしまった。米軍はそれを引き揚げようとしたが、急傾斜のために徒労に終わった。その日にちは6月13日、14日ということである。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 119頁より》

 

収容された瀕死の住民

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多くの沖縄人がこのような状態で見つかった。日本軍は沖縄人を餓えさせ、敵と戦わせようとしたが、ほとんどの人はそれに従わなかった。(1945年6月14日撮影)

This is the condition in which many of the Okinawans were found. The Japs starved them, and tried to make them fight, but most refused.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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多くの沖縄人がこのような状態で見つかった。日本軍は沖縄人を餓えさせ、敵と戦わせようとしたが、ほとんどの人はそれに従わなかった。(1945年6月14日撮影)

This is the condition in which many of the Okinawans were found. The Japs starved them, and tried to make them fight, but most refused.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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泣いている沖縄の子どもをなぐさめる海兵隊(1945年6月14日撮影)

Marines try to console crying Okinawan baby.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米兵の沖縄女性への眼差し

収容所に収容されたからといって戦いが終わったわけではなかった。

しかし、食糧は配給だけではとても足りなかったので、各自の村まで食種運搬で通ったものだったが、途中の山で婦人たちは、米兵に襲われたり追っかけられたりしたことがたびたびあった。だから私は、若い連中を伊差川にとどめて一人で通っていたが、あとになると、年寄りもやられるとか、山の中に潜んで女性を待ち構えている米兵が多い、などという噂が伝わって来たので、こわくて帰れなくなってしまった。事実、羽地でさえも芋を拾って歩いていると、米兵が、まるで犬のように背を低くして接近し、突然襲いかかって来ることもあった。私も知人と二人で芋を拾いに行ってあわや襲われそうになったことがある。溝の中を犬のように這って来るのを見つけ、せっかく拾った芋を放り投げて、一目散に逃げて帰ったものであった。すぐ近くにMPがいるからといって、少しも油断できなかった

沖縄戦証言 本部半島 (1) - Battle of Okinawa

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沖縄の魅力的なファッションを眺めるクッパー伍長(1945年6月14日撮影)

Corporal James E. Cooper (511478) of 71 Eastwoodsdale Ave. Akron, Ohio, ponders over the ”pin up” fashion on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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PFC Criton P. Constantinides, of 1035 Rosewood Drive, Atlanta, Ga., is shown combing comely Okinawan girl's hair.
顔立ちのよい沖縄女性の髪をくしけずるコンスタンティニディズ1等兵
撮影日: 1945年 6月14日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ここに一枚の写真がある。この青年は、あたかも戦利品のように女の髪を梳く。キャプションは、明らかに combing comely Okinawan girl's hair (顔立ちの端正な沖縄女性の髪を櫛けずる) と、ふざけた頭韻をつかってはいるが、しかし若い女の固い表情は、力にまつろわぬ、不屈の強い嫌悪と怒りに満ちている。

沖縄戦 日本軍からも米軍からも「支配者のまなざし」をむけられる女性たち

 

 

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