〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月13日 『大田実中将の死』

沖縄の人種隔離部隊 / 小禄海軍の四散 / 追いつめられる住民

 

米軍の動向

南進する米軍

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

 

糸満 (いとまん) - 白銀堂

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海兵隊の司令部は糸満の神社に設置された。(1945年 6月13日撮影)

Marine C.P. is set up in Jap Shrine in Itoman.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

国吉大地の戦闘

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HyperWar: USMC Operations in WWII: Vol V

6月13日の夜明けが訪れると、米軍は6個中隊が行動を開始して、国吉丘陵の下のほうを端から占領していったが、その後は、どの中隊もそこから身動きできなくなってしまった。そこでは物資を補給してもらうにしろ、あるいは引きさがるにしろ、今となっては、戦車以外に頼る方法はなかった。飛行機も29機が飛んできて、空中から物資を投下したが、成功したのは、ごく一部で、落下した補給品は、ほとんどが手のとどかぬところに落ち、回収不能であった。

13日には、2個大隊から140人もの犠牲者が出た。重傷者は戦車で後方に運ばれ、軽傷者は丘陵に居残った。戦死者は丘陵のふもとの近くに集められた。

13日から、つづく3日間の攻撃は戦車隊の任務となった。火炎砲戦車や中型戦車は、攻撃を加えるため出発したが、そのとき補給物資と増援部隊を積んでいき、いったん攻撃を終えて、さらに、燃料や弾薬補給にもどるとき、負傷兵を載せて帰るという方法がとられた。

しかし、一帯には水田があり、戦車の通れる地盤の堅い道路は1本しかない。したがって、この通路は、日本軍の47ミリ砲やその他にねらわれるところとなって、5日間で21輌もの戦車がやられてしまった。

国吉丘陵では砲火はほとんど前面と左翼からきた。左翼の圧力をさけるために第1海兵師団の師団長は、第2大隊に対して、第7海兵連隊の東側にある高地を占領せよと命令を下した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 492-493頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/84-03-4.jpg

南部の日本軍陣地を攻撃する米海兵隊155ミリ榴弾砲砲兵隊員。第3水陸両用軍団155ミリ榴弾砲第1大隊砲兵B中隊。(1945年 6月13日撮影)

Marine 155mm Howitzer crew in fire mission against Jap position on Southern Okinawa. ”B” Battery, 1st 155mm Howitzer Battalion, III PhibCorps Artillery.

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歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

…敵の攻撃はさらに激しさを増した。特にその突破口に多くの兵力を注ぎこんできた。夜はあまり行動しない敵が、戦車さえ夜の間に隠密に侵入させてきたのだ。すでに爆薬はなく、敵から奪った爆薬を地雷にして、夜にうちに戦車の侵入路へ埋めた。それが功を奏して何両かの戦車を擱座させた。それらを夜明け前に、大隊本部の梅岡伊勢太伍長たちが火焔瓶で焼き払って留めを刺した。

伊東大隊に配属されていた独立速射砲第3大隊の廣瀬春義少尉(第1小隊長)は、この日の戦闘の様子を日記に綴っている。

「今朝来糸満、国吉道に沿ひて歩兵約150国吉台に侵入膠着せり  歩兵は之と交戦中  戦車3輌は同街道を国吉に向かひ前進中  友軍野砲の集中射撃を受け2輌擱座せるも砲塔射撃を実施せり  小隊は之を射撃其の1輌を転覆せしめたり」

同じ頃、具志頭玻名城安里付近でも米軍が猛攻を開始し、その一角が崩れようとしていた。軍砲兵隊も、約20門の火砲を保有していたが、弾薬は底を尽き、射撃は断続的となった。いまやほとんどの装備を失った全軍将兵が、徒手空拳で戦車に突入しつつあった。

死力を尽くして戦う伊東大隊の前にも、米軍は殺到した。突破口から風船が膨らむようにして内部を拡張させ、南側の国吉集落へ侵入すると共に頂上を占領し、伊東大隊を背後から攻撃する態勢となった。

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 239-240頁より》

 

八重瀬岳・与座岳の戦闘

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/337970.jpg

Up a sheer cliff to the top of ”Big Apple Ridge” climb three infantrymen of the Tenth Army's 96th Division. The action took place near the town of Yuza on Okinawa.

ビッグアップル・リッジ“の頂上へ向けて険しい崖を登る第10軍第96師団の3人の兵士。この作戦は与座付近で実施された。(1945年 6月13日撮影)

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米軍は戦車---歩兵の戦法で日本軍に向かったが、戦況の進展ぶりははかばかしくなく、そのため空から爆撃を行い、あるいは艦砲射撃を試み、また地上からも大砲で猛烈な砲撃を加えなければならなかった。

理由は、与座岳頂上と国吉丘陵の占領である。与座岳はそのまわりの平坦地から高さおよそ9メートル、周囲一帯の陣地を見下ろすようにそびえ、日本軍銃砲火の源でもあった。

与座岳占領の任務は、第96師団第383歩兵連隊にある。与座岳は西側は海のほうへ行くにしたがって、しだいに先細りとなり、国吉丘陵になっている。それはあたかも進撃を阻むかのように第1海兵師団の前に立ちはだかり、延々2キロにわたって横たわっている天然の岩の防壁であった。

そこに近づくことは容易ではない。無数に地雷が埋設され、米軍の進撃も、これを前にしては遅々として、はかどらなかったのだ。第383歩兵連隊は、3日間というもの、与座村落から日本軍を駆逐しようとした。そのたびに、米軍は、丘陵の頂上から飛んでくる機関銃弾のために、夜になると退却して後方陣地で防衛にあたるという方法しかとれなかった。そして、毎夜のように日本軍は村落を占領していたのであった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 488-489頁より》

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Hand grenades by the armful are carried by ammunition bearers to the front lines. The soldiers of the 96th Division, receipents of the grenades used them to wipe out the enemy dug in on ”Big Apple Ridge” located near the town of Yuza.

弾薬運搬兵によって前線へ運ばれる腕一杯の手榴弾。これら手榴弾は第96師団の兵士によって与座近くの“ビッグ・アップル・リッジ“(八重瀬岳)の防空壕に潜む敵を掃討するのに使われる。(1945年 6月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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発煙手榴弾とライフル攻撃でサトウキビ畑に潜む日本兵を掃討する海兵隊員。写真中央の投降する日本兵に注目。捕らえられたとき、彼には2つの弾傷があった。(1945年6月13日撮影)

Marines clean Japs out of a cane field with smoke grenades and rifle fire. Note the surrendering Jap in the center. He had two bullet wounds when taken.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Jap soldier strips before coming in from cane field to surrender to Marines.

海兵隊に投降する日本兵。サトウキビ畑から出てくる前に武装していないことを示す。(1945年6月13日撮影)

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日本軍 作戦参謀八原博通

混成旅団の戦勢輓回に躍起となっている間に、大盤石と思った第24師団の陣地にも亀裂がはいり始めた。同師団は巧妙な砲兵用法と、果敢な挺身斬り込みにより、連日敵に甚大な損害を与え、6月12、3日ごろまではむしろわが軍が敵を圧倒するの概があり、真に軍の中核兵団たるの実力を示した。蓋し首里戦線においては、第62師団がその堅固な既設陣地に拠り、意識的に中核兵団をもって任じ、天晴れなる戦闘をしたが、喜屋武陣地は、第24師団の縄張り区域であった関係上、今度はすでに衰えたりといえども、この師団が中堅たらんとするのは自然の勢いである。

第24師団の態勢は、その右翼が八重瀬岳方面の崩壊に巻き込まれ、なんとかして弥縫せんとする焦燥より崩れ始めた。軍および第24師団の懸命の努力にかかわらず、飯塚大隊は前進機を逸し、八重瀬岳の奪回は絶望に帰せんとし、右翼海岸方面に増加した独立歩兵第13大隊も、隊長原大佐の戦死とともに、秋の木の葉の如く散り果てた様子である。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 399-400頁より》

 

後方で進む基地建設 - 黒人部隊

国防総省は現在、対人の火炎放射器装備を禁止しているが*1ベトナム戦争にいたるまでは、携帯型や装甲車での火炎放射器を戦力として多用した。油脂焼夷弾であるナパームは現場で製造することが可能であった。

沖縄戦でも人種隔離政策によって人種隔離されたアフリカ系アメリカ人部隊*2が多く配置された。しかしながら、例えば、陸軍航空工兵大隊の三分の一は黒人部隊だったにもかかわらず、白人部隊に比べ、彼らが軍から被写体として記録されることは極めて少なかった。下の写真は、黒人兵士を記録した数少ない写真の一つ。

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米国陸軍: Men are transferring flame thrower fuel from the mixer into 55 gallon drums.
ミキサーから55ガロンドラム缶に火炎放射器の燃料を移し替える兵士達 1945年 6月13日 化学部隊

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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混合作業場の火炎放射器用燃料 1945年 6月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍は日本軍が特攻機の飛行場として建設中で放棄された糸満秘密飛行場を整備し、負傷兵の後方輸送のための小飛行場として使用し始める。

こうした飛行場建設に従事した部隊で、太平洋戦線で飛行場建設整備に従事した30の陸軍航空工兵大隊のうち、実に17部隊が黒人部隊であったことがわかっている。小禄飛行場から糸満の小飛行場と道路の建設に携わった第1889航空工兵大隊はこうした黒人部隊の一つである。糸満の小飛行場は今後、多くの米兵の命を救うことになる。

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Plane takes off of a roadway near the town of Itoman near the front lines, evacuating wounded.

負傷者救出のため前線近くの糸満の道路から飛び立つ飛行機(1945年6月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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コンセット小屋の側面に絶縁材を設置する兵士。この小屋は第10軍の情報センターとして使用される予定。(1945年6月13日撮影)

Quonset hut by the hill and men attaching insulation to its side. The hut will be used as a message center for the Tenth Army.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

小禄の海軍 - 大田実司令官の死

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

米軍に包囲された海軍司令部壕は前日の12日に混沌の中、最期の瞬間を迎える。大田実司令官は日付が変わるこの日午前1時ごろに自死したと伝えられる。6日の電報は広く世に知られることになった。

現在の豊見城市にある旧海軍司令部壕。アメリカ軍に包囲され、すでに孤立していた司令部の大田實司令官は1945年6月13日午前1時頃、この司令官室でけん銃自決を遂げました。

65年前のきょうは1945年6月14日(木) – QAB NEWS Headline

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人物/沖縄方面根拠地隊司令官 大田実少将(没後中将) : 那覇市歴史博物館

6月12日、残存部隊は陣地を脱出しゲリラ戦に移るよう命令され、一方で200名以上の重傷兵が青酸カリなどで「処置」されている。

翌日、初めての兵士の大量投降があり、159名が捕虜となる。

6月12日とその翌日、159人の日本軍が降服してきた。捕虜になった日本兵としては最初の大きな集団である。大田実少将は、海軍がほとんど壊滅の寸前にあったとき、自決して、最後をとげた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁より》

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Jap soldiers scrambling up a hill to surrender on the Oloku peninsula. HOT---rarely see Jap soldiers so close, note surrender flag.

小禄半島にて、投降するために丘をよじ登る日本兵。必見。このように日本兵を至近距離で見るのはまれである。白旗に注目。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍の捕虜調書: 小禄で投降した兵士らの証言について

尋問に際し、軍の士気は最低で兵士の多くは、この戦争は負けると捕虜全員確信していたという。そのため投降を望む者が多いが、将校たちは最後の一兵まで戦い続けるよう命令し、投降は出来なかったという。「軍の多くは、米軍宣伝に影響を受けたが、投降すれば日本軍から撃たれるか、 米軍戦線に近づいて敵から撃たれるか、双方からの攻撃に恐怖を抱いてい た。多数の日本兵は、米軍宣伝ビラは馬鹿げており、人を騙すものだと見なしていた。また将校たちは、ビラ全てを破り捨ててしまい兵士たちがそれを見る機会はなかった。戦闘開始当初から兵士の士気がぐらつき始め たが、それは食料不足と弾薬、それに飲料水の不足のためだった」。

沖縄戦の一般証言記録に多数散見できるが、沖縄南部では兵士や民間人が混住しており、投降を企てる兵士は他の日本軍兵士から銃撃される ものも多かったことが判明している。4人で集団投降した兵士等も、後ろから日本兵に撃たれるのではないかという恐怖心を述べている。 

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 (2015年) p. 327 》

また海軍基地に動員された2人の少年が日本兵投降を交渉したことも記録されている。

一行はその日の中に、小禄村の左海岸に出た。前方の豊見城址にある日本軍の陣地壕から、時折りパッパッと機関銃の吐く火焔が見受けられた。一行が低い石垣添いに日本軍の弾を避けていると、日本軍の軍服を着けた年の頃17歳位の少年が2人、米兵に連れられて来た。…訊問で、2人は中頭出身の少年であり、日本海軍の工作兵として徴用されていたことが判った。彼らは日本軍陣地より脱走を企てようとして米兵の手に渡ったものだった。2人の少年は、救われた歓喜にふるえつつ、…「何でもやりますから小父さんの傍に、置いてください」と哀訴した。…そのことを聞いたネルソン中尉は満足そうに2人の少年に向い、「君達は向うの陣地の日本軍を降伏させ、ここまで連れ出してくることができるか」と尋ねた。2少年は、硬直した頬をピリピリとふるわせながら、力強くうなずいた。ダニのように陣地壕に吸いついて悲しい抵抗をつづけている日本軍を残らず掃討するには、双方無益な時間と、血を費やさねばならない。ネルソン中尉は、この、破天荒な計画を、早速本部に伝えた。2人の少年の冒険は、白昼堂々と、日本軍の間に断行された。先ず、「今紅白の旗を持って、戦場を進む2人の少年は米軍の使者である・・」とマイクで放送され、日本軍陣地を攻撃していたあらゆる砲撃が言い合わしたようにピタリと止んだ。

1人の少年は畑の中を、他の少年は海岸寄りの小径を、何れも日本軍陣地の方を目指して進んだ。日本軍の弾を避けるためか、2人は、たびたび転ぶようにして地上に伏すのが眺められた。攻撃隊の眼も、…一行の眼も、その可憐で、勇敢な2少年に釘付けされた。2人の少年の姿が小さくなり、日本軍陣地の入口近くまで辿りついた。陣地からは数人の日本兵がでてきて2人の少年を囲んで、何か押し問答するさまが窺われた。すると、日本の兵隊は壕の中消え、再び少年の前に群がった。数人の日本兵が少年の後について戻ってくる両手を挙げている。和やかな縹渺とした夕暮れの中に、高潮した一幕は終えた。ネルソン中尉は朗らかに微笑んでいた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 178-180頁より》

実際には投降交渉は返り討ちを伴う極めて危険なものであった。

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Group of Jap soldiers with a white flag surrender on the Oroku peninsula.

白旗を持って投降する日本兵小禄半島。(撮影日不明)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marine stand guard over group of Jap prisoners.

日本兵捕虜を監視する海兵隊の歩哨。(1945年 6月13日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南部戦線

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

牛島中将の軍は、破壊された通信施設がまだ使えるうちは使い、また前線部隊が混乱状態におちいるまでは徹底的に戦った。大砲は米軍砲兵隊の砲撃や、あるいは飛行機による空爆で、ほとんど沈黙させられ、兵隊よりも補給物資や器具類の消耗が激しかった。いまや残されている方法は、ただ兵だけを米軍砲火のなかに送りこむことだけであった。牛島中将は命令をだした。

「独立第44旅団地区内の敵は、ついにわが抗戦主力線内に突入せり、独混第44旅団は主力をもって八重瀬岳方面に侵入せる敵を撃滅すべし、わが軍は主防衛線をふたたび確保しこれを死守せんとす。第62師団は2個大隊を独混44旅団の指揮下におくべし」

第64旅団---真壁近くで予備軍に編入されるため首里を撤退した第62師団の一部---がこの命令を出したのは、ちょうどその必要としたときから、まる30時間もたった6月13日の午後、遅くなってからであった。

さらに悪いことには、日本軍は予備軍を、少しずつしか前線に送り出さなかったのだ。これではいつまでたっても十分な兵力は得られなかった。6月13日までに独混第44旅団は、ほとんど壊滅にちかい状態に追いこまれていた。増援軍が到着したときなど、あまりに少ない混成旅団の残存部隊は、そのまま増援の大隊に吸収されたほどだった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 487-488頁より》

両軍の間に落ちた糧食の争奪戦が始まった。白・赤・青・黄と様々な色の落下傘が次々と投下され、伊東は色が異なるたびに兵器ではないかと期待して奪ってみるが、どれもこれも糧食だった。ガッカリする反面、この〝天からの贈り物〟を貪るように口にした。じつに美味しい。しばらくろくなものを食べていないから、なおさらである。

空中投下される米軍の携帯糧食は「Kレーション」と呼ばれるものだった。長さ20センチ、幅10センチ、厚さ4センチほどの防水紙製箱に入った糧食は、ブレックファースト、サパー、ディナーの3種類があった。

ブレックファーストには、卵と肉を混ぜた缶詰・砂糖付きコーヒー粉末・干し葡萄・ビスケット・煙草4本・マッチ・ちり紙が収められていた。サパーには肉だけの缶詰・スープ用の粉末ブイヨン・チョコレートなど、ディナーにはチーズの缶詰・粉末レモンジュース・キャラメルなどが代わって入る。ビスケット・煙草・マッチ・ちり紙などは、どのレーションにも入っていた。

ゴム袋に入った飲料水も次々と投下された。敵に与えてはならないと、奪っては破り捨てる。先に日記を紹介した独立速射砲大隊の廣瀬小隊の陣地には、補充弾薬も投下された。米軍は空陸一体となって、突破口に戦力を投入した。』(240-241頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 240-241頁より》

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Designed for foxhole use, K-rations point the way for pocket-size camping meals of the future. Packed in breakfast, dinner and supper units, they stay fresh for indefinite periods thanks to new methods of packaging.

壕用に作られたKレーション。朝食、夕食、軽い夕食がセットになっている。新技術のおかげで長期間新鮮さを保てる。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

失われた沖縄の鉄道 - ケービン

かつて存在した沖縄の鉄道。サトウキビの出荷や県民の足として活躍したが、後に沖縄にやってきた軍は、軍事物資や部隊の移動などにケービンを頻繁に使用する。

今や鉄道の路線や駅の多くが戦争によって破壊しつくされていた。

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《AIによるカラー処理》Wreckage of Jap railroad yards.

大破した鉄道駅構内。 1945年 6月13日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

1944年12月11日には、日本軍は無秩序な弾薬の管理により、大里村で道輸送弾薬爆発事をひきおこし、200人以上が犠牲となった。その多くが日本兵であったが、軍はその事故に緘口令をひいていた。

 

小禄半島の生存者

米軍は壕に隠れる民間人に投降を呼びかける際、既に捕虜となっていた沖縄住民を起用した。「デテコイ」役をすることになった沖縄住民は、5月初旬から米軍の部隊と行動を共にし、日本語や沖縄の言葉で投降を呼びかけ、多くの住民を後方へ送った。この頃、一行は米軍が占領した小禄半島にいた。

軍と密接に接すれば接する程、捕虜として民間人、特に女性が扱われるかを聞かされていた住民は、捕虜になることを徹底的に恐れるようになっていた。

米軍の占領地域には、進撃部隊の踵に接して、ネルソン中尉らの進出が行われた。米軍最前線は、小禄後原に延び、日本軍は、南部戦線の、僅か三平方哩の地点に追い込まれた。…数台の米戦車の群れが土ほこりをあげながら、前面の日本軍陣地らしいものに対し戦車砲を射ちつつ進んで行くのが眺められた。キャタピラが捲き上げる黄塵の間から、腹ばいになって進む米歩兵の姿も見えた。…一行は、うっかり前に行けぬので、落平後方にある壕の捜索を開始した。元南陽造酒跡付近 (註・海軍司令部壕周辺) の手前の壕の入口に、1人の少女が咽喉をやられて倒れていた

少女の家族5人は、近所の十数人の人たちとともに、字小禄後方の日本軍高射砲陣地下の壕に退避中、その日に限り、洗面に行くと行って、少女の母親が、彼女をつれて壕を出た時、母親は飛来した砲弾の破片であっという間に下腹部を射貫かれ、約1時間後に絶命した。弾雨下に母の死体を埋めると少女の家族らは、襲いかかる恐怖に慄えて互いに抱き合うように慄えていた。壕の外から、聞き馴れぬ声が洩れた。「米兵だ」彼女の父親は狼狽えたが、かねて覚悟を決めていたので、咄嗟に自決を思い立ち、手早く手榴弾を取り出して栓を抜いた。発火しなかった。もどかしい余り、石油をぶっかけ、マッチで点火したが、それでも手榴弾は発火しなかった。

父親は壕を煮やし、矢庭に出刃包丁を取り出した。少女は父を制しようとしたが遅かった。突然壕に攻撃が加えられ、黒煙が物凄く渦巻いた、その時少女は、いきなり左頸部を父に斬りつけられた。少女はあっと叫ぶと、渦まく煙の中から父と弟達の呻き声をききながら、左頸部を押さえたまま血塗れになって夢中に壕を飛び出した。それから1週間後、少女は昏睡から覚めると、自分が米兵に抱えられていることを知った。米兵は彼女の頸部の傷に白い粉薬をふりかけた。米兵は少女の傷が割に浅いことを知ると応急処置を済ませた後、やさしく、いたわるような態度で彼女の自決の原因を尋ねた。…「父が私を殺そうとした」と米兵の尋問に答えた。…通訳で、一行の米兵はこの惨劇を初めて知り、無益な死を惜しむ、激しい怒りの舌打ちをした。少女はまもなく後方の米軍野戦病院に送られた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 177-178頁より》

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衛生兵の手当を受ける沖縄の少女(1945年6月13日撮影、場所不明)

Okinawan girl is treated by Corpsman.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第10軍と日本軍との戦闘で怪我をし、第96歩兵師団の兵士に担架で運ばれる地元住民。(1945年6月13日撮影)

An Okinawa civilian, wounded during the U. S. 10th Army's fight for possession of the island, is carried on a litter by two soldiers of the 96th Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

知念地区の民間人収容所

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米軍が敷設した民間人収容所

米軍は知念半島に南下した6月初旬にすぐさま民間人収容所を開設した。知念半島の収容所はまもなく南部から移送される住民であふれた。壕から追いたてられ、最期の防衛線とされた米軍と日本軍のはざまで逃げまどう住民が生存できる可能性は極めて低いものとなった。

民間人の収容者数はその後次第に膨れ上がり、百名収容所の人口は、島司令部(Island Command)が作戦指揮権を引き取った6月10日に8,061人、さらに、6月5日から10日にかけては13,285人の民間人が知念半島に避難させられてきた。第24軍団の報告書によると、本島南端にいた民間人はそれまでに収容された他の地域の民間人よりもはるかに身体の状態が悪かった少なくとも30%が医療処置を必要とし、松葉杖が必要なケースが何百もあり、救急処置を必要とするケースは百名の病院に送られた。6月10日から30日の間に第24軍団は計28,194人の民間人を収容し、そのほとんどは知念半島に移動させている。

仲本和彦「沖縄戦研究の新たな視座-米軍作戦報告書に読み解く知念半島の戦闘-」(2018年)

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Okinawan civilians, gathered here, were collected by the military government in the town of Yikabu.
屋嘉部にある軍政府によって集められた住民
撮影地: 屋嘉部 1945年 6月12日

※ 米軍が Yikabu と記す収容所について仲本和彦は屋嘉部 Yakabu (知念半島西部) ではなく屋比久 Yabiku (知念半島北部) ではないかと指摘している。屋比久の民間人収容所は6月4日に設立された。

 

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*1:日本は現在も火炎放射器を「携帯放射器」という名称で運用、公開演習も行っている。

*2:segregated unit