〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』

硫黄島からの軍医 / 閉じられゆく円 / 重傷者の「処置」

 

米軍の動向

雨と泥との闘い

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《AI-colorized》ジープやトラックが、[深さ] 2フィート(約60cm)に及ぶ泥道を通り抜けることが出来ない中、水陸両用トラックが必要物資を運ぶ(1945年6月10日撮影)

When jeeps and trucks were not able to go through two feet of mud, amph tracs bring in needed supplies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A Marine crossing the road, knee-deep in mud. Rain made most roads impassable.

膝まで泥につかりながら道を横切る海兵隊員。雨のためにほとんどの道が通行不能である。(1945年6月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍 - 牛島司令官への投稿呼びかけ文

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

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65年の前のきょう第32軍牛島満司令官のもとにある書簡が届きました。それは、アメリカ軍沖縄占領軍部の総司令官バックナー中将からでした。

『閣下の率いる軍隊は、勇敢に戦い善戦しました—。従いまして本官が察するところ、閣下もすでにご存知のことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、今やすでに時の問題であります』

バックナー中将から牛島司令官に対して出された降伏を呼びかけた手紙。ちょうどその頃、糸満市与座には初めてアメリカ軍が侵入摩文仁の司令部のすぐ近くまで攻撃が行われていました。

牛島司令官がこの日に、手紙を受け取ったかどうかは、定かではありません。牛島司令官は降伏する事なく、最後の戦いに突入しました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月10日(日)

 

八重瀬 (やえじゅ・やえせ) : ビッグアップル・リッジ

戦車隊は6月10日の朝6時、ほそい道路上を砂塵をたてて前線に邁進した。第7師団の支援部隊として完全な1個大隊が掌中にあり、またその朝、八重瀬岳攻撃に向かった第96師団には、2個中隊が別に配属されていた。

沖縄戦の様相は一変した。そして、戦闘の終了まで、戦車は自由奔放に十分に活躍した。天候にも恵まれ、地形も良かったので米軍火炎砲戦車は、日本軍の壕陣地をつぎつぎと壊滅し、そのたびに砲火の量は、しだいに減っていった。

この戦闘でもっとも重要なことは、戦闘を通じて歩兵も戦車隊も経験を積み、ほとんど完璧に近い戦車--歩兵のチームプレーができたことである。

沖縄南端の戦闘は、オレンジ色の火の玉と、銃砲弾、爆弾、ロケットなどの入り乱れた百雷のような大音響の連続であった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 474頁より》

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後方に見える“ビッグアップル・リッジ”を進む第96師団第381歩兵部隊の偵察隊。(1945年6月10日撮影)

A patrol of the 381st Infantry, 96th Division, advance against ”Big Apple” Hill, which is visible in the background.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AI-colorized》Marine Machine Gun team set up as first lines prepare to advance.

前線部隊の進軍準備に伴い設置された海兵隊機関銃班(1945年6月10日撮影)

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捕虜 - 硫黄島からの軍医・衛生兵

野戦病院医師不足硫黄島で捕虜となった軍医と衛生兵らがグアムの捕虜収容所から沖縄に移送される。軍医、野口巌らは、「玉砕」した硫黄島ジュネーヴ条約をもって米軍に交渉、衛生兵と傷病兵と共に捕虜となっていた。彼らは沖縄の野戦病院に移送され、米軍野戦病院日本兵や民間人収容者の治療を任されることになる。

米国海軍: Japanese doctors and corpsmen leaving Guam to go to Okinawa in Ryukyus to give medical care to civilian internees. Here they are in landing craft being taken out to a transport. Standing on LCT.
民間人捕虜を治療するために、グアムから沖縄へ向かう日本人軍医と衛生兵。輸送船へ移動するために、揚陸艇に乗っているところ。揚陸艇の上で立っている様子。1945年 6月 10日

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硫黄島での混成第2旅団野戦病院

Masaru Inoaka 少佐と第2混成旅団野戦病院の投降。

World War II Pictures In Details: 2nd Mixed Brigade Field Hospital Surrenders on Iwo Jima

米陸軍公刊戦史より

3月26日 (硫黄島の戦い終結) の時点で海兵隊が捕虜にしたのはわずか216人で、そのうち55人が朝鮮人軍夫だった。… また4月半ば、陸軍部隊は硫黄島東部の地下100フィートに位置する第2混成旅団の野戦病院を偶然発見した。… 語学将兵は日本人に出てくるよう訴え、長い議論の後、上級軍医将校の Masaru Inoaka 少佐が投票を呼びかけた。投票結果は降伏賛成69、反対3であった。反対3名のうち、Kyutaro Kojima 伍長は即刻自殺した。残りの者たちは、さらに2人の医官野口巌大尉と太田英雄中尉を含めて出てきた。野口大尉は、多くの人が亡くなる中、自分は生きてきたという自責の念に苛まれ、日本での生活を受け入れられず、後にブラジルに移住した。

Western Pacific Operations [Chapter VI-11] p. 710.

※ 野田巌は戦後、ブラジル、パラグアイボリビアで10数年にわたって現地の診療に携わった。

米国海軍: Japanese doctors and corpsmen leaving Guam to go to Okinawa in Ryukyus to give medical care to civilian internees. Here they are in landing craft being taken out to a transport. On LCM.
民間人捕虜を治療するために、グアムから沖縄へ向かう日本人の軍医と衛生兵。輸送船へ移動するために、揚陸艇に乗っているところ。中型揚陸艦上にて。1945年 6月 10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

硫黄島での投降から二か月後の6月10日、沖縄の野戦病院に移送され、野戦病院での医療活動を始める。

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米国陸軍通信隊 Doctor performs operation w/aid of Japanese doctor.
日本人医師の補助で手術をする医師 石川1945年

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第32軍の動向

小禄半島の海軍 - 閉じられゆく円

米軍の小禄上陸、第7日目

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HyperWar: USMC Operations in WWII: Vol V

米軍は10日から翌日にかけて根拠地隊司令部のある豊見城西側の74高地帯に猛攻撃を浴びせたうえ、第6海兵師団シェファード少将は、配下将兵に対し6月11日午前7時30分を期して総攻撃をかけよ、と命じた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 172頁より》

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焦土と化した那覇市内の陣地から高角射撃を行っているのは、ラッキー大佐率いる米海兵隊第15連隊の105ミリ榴弾砲。この種の砲撃は、日本軍が陣地を構築した小禄半島高地の背面部攻撃に用いられている。(1945年6月10日撮影)

Marine 105mm. howitzers of the 15th Marines, commanded by Col. R. B. Luckey, fire extreme high angle fire from their positions in the ruined city of Naha. This type of fire is being used to drop on the back side of the hills on the Oroku Peninsula where the Nips have dug in positions.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月10日、米軍は四方から攻勢をかけてきた。この日、沖縄方面根拠地隊の司令部のある74高地も焦点になった。海軍部隊の戦線は逐次縮小されつつあった。10日の戦況は次のとおりである。(1) 平良、宇栄田、伊良波方面、および高安、宜保、地覇方面の敵兵は次第に増加して74高地に近接、午後より銃砲撃戦を展開する。…

同10日、牛島司令官は大田司令官に対し、真情を述べた電報(原文不明)を送った。これに対し、大田司令官は次のような返電を送った。

小禄地区に敵をむかえて一週目になる時、御懇電に接して感激にたえない。海軍部隊が陸軍部隊と合流できなかったのは、真にやむを得ない状況に基くもので、もとより小官の本意ではない。したがって、南北に相分れるといえども陸海軍協力一体の実情においては、いささかも微動するものではない。

今後は貴電にしたがって、ますます柔軟な持久戦を行い敵に大出血を強要する。なお、戦果については、つとめて正確をきし確認したもののみを御報告する」

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111-114頁より》

(投稿者注: 引用文にある「?」は、原文ママ。戦況報告に読み取り不可能だった文字があったことを示すものと考える。)

 6月10日、米軍の攻勢はいよいよ激しくなり、沖根司令部のある豊見城の74高地も戦闘に巻き込まれた。…この日、司令部は北西及び西方面に展開していた部隊の一部を司令部壕に撤退させた。(435頁)

色々な部隊の生き残り約50人を寄せ集め、工作科の大尉を長にした新しい中隊が再編制された。夜、南東500メートル…にタコツボ陣地を掘り、夜明けとともに擲弾筒攻撃を開始した。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 435、436-437頁より》

6月10日、根拠地隊は一晩中全戦線において斬込攻撃をかけた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 172頁より》 

小禄村のある少年の証言:

6月10日ごろ、海軍下士官の双眼鏡をのぞかせてもらうと、国場川の向こう、那覇市壺川あたりを上半身はだかの米兵が銃をさげて動いているのが見えました。友軍がいっせいに射撃をすると米兵がバタバタ倒れる。大型戦車が走る。その砲身が動く。砲身の下から火焔放射器が火を噴く。アゴがガクガク鳴る。あわてて海軍の壕にかけ込みました」

「敵の砲撃で壕は地震のようにゆれました。その壕の中で従軍看護婦の姉…と1ヵ月ぶりに会いました。彼女は10キロの急造爆雷を背負い、肩から導火線をたらし、腰に榴弾を3発ぶらさげ、手にヤリを持っていました。かっこいいんだなあ。『ぼくも斬込隊になりたい』とさわいで兵隊にたしなめられました。姉は攻撃のために壕を出て行きました。出て間もなく、胸部貫通銃創で即死しました。私は様子を見に行くとがんばりましたが、おじが『お前は見るな。おじさんがちゃんと見ておく』といって私には姉の最期を見せてくれませんでした」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 170-171頁より》

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米国海兵隊: Framed by a hole in the wall of a building in Naha is a 105mm howitzer firing at the Nips on Oroku Peninsula.
[破壊された]建物の壁の穴を通して見えているのは、小禄半島の日本軍を砲撃する105ミリ榴弾砲  那覇市 1945年 6月10日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

南部の戦況

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

民間人から召集された大勢の防衛隊員が前線に投入された。

八原高級参謀の回想:

10日ごろになると、混成旅団の正面は急速に悪化し始めた。まず具志頭が、敵の手に入り、ついで安里付近の守備部隊が孤立に陥り、連絡不通となった。(392頁)

第24師団正面においては、アメリカ海兵軍団は小禄の海軍部隊に阻止され、直路南下することができず、東風平付近から西方に側面展開しつつある。師団は依然有力な砲兵を有し、かつ軍砲兵隊もこれに協力しているので、6月10日ごろにおいては、敵はいたずらに損害を受けるのみで、あえてわが陣前に近迫しようとしない。

軍主力陣地の中央および左翼がかくの如く厳然としている際に、右翼混成旅団の正面が過早に突破されては、軍統帥上の大失敗である。参謀長も私も心配した。いかなる手段に訴えても軍の右翼の過早な崩壊は防止しなければならぬ。そこで軍は相次いで左の兵力を増加した。

第11船舶団  大木中佐を長とし、沖縄防衛隊を主とした総員約1500名の竹槍部隊

電信36連隊で編成した約2個中隊

軍砲兵隊で編成した2個中隊(1大隊は数百名より成る)

野戦築城主力  1中隊は摩文仁に残置した。

以上のほか、軍は第24師団正面に指向していた軍砲兵の全火力、ならびに野砲兵第42連隊の一部をも、一時混成旅団に協力させた。

増加した徒歩部隊の多くは、歩兵的訓練に乏しいものばかりで、そのうえ戦車に対抗する兵器を持っていなかった。せっかく戦線に加入しても、ほとんど1日で全滅するありさである。今では戦闘の様相が、既住のそれとは一変し、戦いは敵の一方的独り舞台になってしまったのだ。徒手空挙、敵の鉄量に圧倒され、空しく折り重なって殪れてゆく戦友を想えば、実に切歯扼腕の極みだ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 392、393-394頁より》

 

負傷兵の処置 - 強いられた「自決」

日本軍「自決」の強要 - 「1名といえども敵手に委しては相成らぬ」と、傷病者の「処分」が強要された。それは持久戦のための捨て駒として学徒や防衛隊などの形で戦場に動員された住民も含まれた。(しかし南下計画を策定した八原参謀自身は、6月26日、民間人に偽装し自ら投降する。)

八原高級参謀の回想:

後方整理にあたって最も苦慮したのは、傷者の処置であった。首里戦線2か月のわが死傷は約3万5000である。古来戦場における死傷の比は1対3が普通であるが、わが沖縄戦においては、これが反対になった。その原因としては、戦況上、傷者の収容治療が至難で、当然助かるべき者が死んだこと、包囲馬乗り攻撃を受けても、さらに敢闘を続けて全滅するか、あるいは重囲を脱し退却する際、歩行に耐えぬ重傷者はその場で自決したこと、軽傷者は負傷者として数えなかったことを挙げることができる。

かくして5月末、首里、津嘉山付近はもちろん全戦線にあった負傷者の総数は1万に達したであろう。多少でも歩行し得るものはよい。そうでない重傷者を、いかにして新陣地に後送するかは重大問題である。輸送力が極めて少ない。時日にも制限がある。そして新陣地に後送しても、これを収容するに足る洞窟がない。

もちろん軍としては、全力を尽くして傷つける戦友を後送し、1名といえども敵手に委しては相成らぬ。だが実情は遺憾ながら相当数の重傷者は収容不能である。

この不幸な人々をいかに処置すべきであろうか? 現代日本陸軍の理想精神よりすれば、答解はすこぶる簡単明瞭で、自決!の一語あるのみだ。しかし私情において我々は自決を強要するに忍びない。列強文明国の軍隊においては、負傷して戦闘能力を失い、敵手にはいることは、別に恥辱とも考えられないし、またしかるべき治療待遇を受けることになっている。本問題に関する軍参謀長の指示は、「各々日本軍人として辱しからざる如く善処すべし」であったように記憶する。事実、大多数の傷者は、平素教えられた如く---軍参謀長の指示を俟つまでもなく、「天皇陛下万歳」を三唱し、榴弾急造爆雷、あるいは青酸加里の如き薬品をもって自決した。また軍医が、そっと薬品注射を行い、自決を補助した部隊も少なくはなかったろう。軍司令部においても、片岡獣医大尉の如きは、病衰の極、戦友の手足纏になるのを喜ばず、独り津嘉山洞窟に残り最期を遂げた。

しかし、皆があっさり自決したわけではなく、精神力旺盛な者は、驚嘆すべき力を発揮し、自力で新陣地に後退した者も少なくはなかった。ある傷者の如きは、両脚の重傷に屈せず、十余キロの泥濘の道を座行しながら所属部隊に合し、生存戦友を感動させた者もある。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 375-376頁より》

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Captured Jap soldier getting medical aid at our station. His wounds even had maggots crawling around the flesh.

救護所で治療を受ける日本兵捕虜。彼の傷にはうじがわき、肌を這い回っている。(1945年6月10日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ところで、日本軍は戦争末期に至るまで、退却の際に味方重傷病者を捕虜とされぬよう殺害していた。

IB「日本の軍陣医学」は1945年の「沖縄作戦で日本軍が自軍の負傷者を殺したさらなる証拠」として「大田提督〔大田実少将・沖縄海軍部隊指揮官〕の指揮所の通路には数百の死体が整然と並べられていた。遺体の多くには手当て済みの傷があった。皆同じ時間に死んだようにみえた。さらに注射で殺された形跡があった」事実を挙げ、「この種の行いは〔日本兵〕捕虜によって繰り返し報じられている」と述べている。

米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視〜重傷病者には「自決」を要求(一ノ瀬 俊也) | 現代新書 | 講談社(1/7)

 

そのとき、住民は・・・

壕からの追い出し - 卑劣な者たちの支配

もっとも よく聞かれた日本兵の弁明は、住民が食糧を探して出たり入ったりすると、隠れている場所を暴露することになるというものであった。しかし、彼らを爆撃下に追い出して非常な苦難に陥れた兵隊は、洞窟の入口はいずれにせよ発見されることを知っていた。まわりのすべての草木が跡形もなく焼かれた影響も少なくなかった。また、死にかかっている子供のための食べ物を取り上げた兵隊の弁解も、卑劣な偽善だった。「誰がより大切なんだ。おまえの家族か天皇陛下」。ごく少数の非人間的な兵が支配しはじめていた。彼らは村人に、どの地域が安全かという「情報」に対して食べ物を強要したが、中には飢え死にしかかっている者もいた。村に入って銃を発射し、アメリカ兵の銃撃だと思って住人が逃げ出した隙に略奪を行う兵もいた。アメリカ兵が洞窟の入口の前にあらわれた時は、兵の多くは武器を中にいる民間人に向けて人質とし、逃げたら殺すと脅しながら、民間人がいれば、敵は洞窟を爆破することを避けるだろうと考えていた。殺したり、強姦したりすることもあった。

「〔沖縄の住民が〕一貫して示した善意、献身や親切に対する恩返しが、この冷たく残酷な仕打ちなのか」と、ある兵士は苦悩した。

いうまでもなく、すべての日本兵が残酷であったわけではない。親切な兵士も、将校や仲間に黙らせられて助けることができなかった。

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 274頁より》

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救護所で治療と食糧の配給を受ける民間人。ほとんど全員が負傷している。これは、日本軍狙撃兵が彼等に向けて発砲したためで、寄り集まって(行動を共にして)いる(1945年6月10日撮影)

Civilians getting aid and food at aid station. Almost each one was wounded in some place. At this time, a Jap sniper was firing down at them so they were together, huddled in a group.

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沖縄戦当時3歳だった女性の戦後

…「私は当時3歳ですから記憶はありません。しかし、私の毎日は戦争体験であり、戦後体験なのです。聞くところでは1945年(昭和20年)6月10日沖縄本島南部の玉城村ミーガーガマ(自然洞窟の名前)から日本兵に追い出されたとき、銃弾が頭に3発、左足に1発当たった。右の目玉はぬけたんだそうです。『大変だ!』と恐怖のあまり走り出した祖父もタマに当たって即死したんだそうです。父も長兄も、長姉も沖縄戦で死にました。戦後にも私は米軍のジープに足をひかれたのです」

義眼をはずして「この顔を見て下さい。子どものころ、片目だの、丹下左膳だの、カンパチだのと呼ばれつづけたのです。生きていることが辛かった自殺を考えない日はありませんでした。ひっこみ思案で、友だちもできない。高校二年のころ、ハワイからおばが帰ってきました。『この子は重荷にたえかねて死にかかっている。聖書を読みなさい。教会にも行きなさい』とすすめてくれました」

「いま私はいい夫と3人の子にめぐまれて、しあわせです。しかし、何といってもキリストの『私は世の光である。私に従う人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう』ということばが導きの糸です」

「戦争当時、満6歳未満の人は戦争に協力する意思も能力もなかった。だから補償できないというのが役所の説明でした。戦争さえなければ、…こんな苦しみもなかったはずです。…

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 165-166頁より》

 

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