〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年6月2日 『破壊された琉球の文化財』

文化財の破壊と流出 / 恩納岳の掃討 / 八重山戦争マラリア

 

米軍の動向

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米国の大きな勝利。やめるかドイツの二の前か、とトルーマンは日本に警告。米軍が首里を確保し進む。

シカゴ・デイリートリビューン (June 2, 1945)

 

南進する米軍

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Campaign: Marines in the Victory on Okinawa (Assault on Shuri)

追撃作戦の初日以後というものは、降りつづく雨の方が、かえって日本軍の反撃より米軍の頭痛のたねとなった。第184歩兵連隊のほうは、南へ、そして東へ、雨を吸い込んで、やわらかくなった知念半島の緑の連丘を、苦心しながら乗り越えていった。そこでは、たいした抵抗もなく、明らかに日本軍としては、そこら一帯を防備する計画がないことを示していた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453頁より》

雨と泥との闘い

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Mud like this made land travel to the lines impossible. Supplies had to be carried or flown to the front.

写真に見られるようなぬかるみのため前線への陸路は断たれた。前線への補給物資は携行するか空輸するしかない。 (1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Mud like this stopped all land travel and brought air-planes into use in supplying our troops at the front. Mud heaped more hardship on the Marines by cutting off much need for food, water, and ammo.

泥によってあらゆる陸路が寸断され、前線の部隊への補給には航空機が使われることになった。食料や水、弾薬の補給が遮断され、海兵隊員たちの苦労はさらにつのった。(1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Four parachutes drift to earth with much needed supplies for troops in shore area after land routes were made impossible by long rains.

長雨で陸上の輸送が困難になったため、海岸近くの部隊に必要物資をパラシュートで投下(1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

琉球文化財 - 破壊と流出

首里城は町の南寄りの、高くなった円形の台地の上にあった。珊瑚礁岩で積んだ石垣は、下のほうで厚さ6メートルもあり、高さ12メートル、約1.1平方キロの敷地を囲っていた。首里城が現在のかたちに建造されたのは1544年のことで、その建築様式は支那を基調としている。ここで歴代の王が沖縄を統治してきたのである。

しかし、この巨大な砦も、米軍艦砲の35センチ砲弾でたたかれ、満足な形をとどめているのは、わずか2、3ヵ所。城の内部は砕けた石でおおわれ、砲弾の穴だらけになった広場の外郭だけが、やっと識別できるぐらいだった。かつては、このあたり一帯を、幽玄な場所にしたであろうすばらしい巨木も、いまやまっ黒い骸骨となって、空をついていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440-441頁より》

CASTLE WALLS--Rubble of the walls of Shuri castle below which lies the moat. In background is Shuri city. The battered trees are part of a grove which surrounded the castle. The castle was taken by units of the Fifth Marine Regiment.

首里城の城壁--瓦礫と化した首里城の城壁。その下には堀がめぐらされていた。後方に見えるのは首里の町。焼け残った樹木は城を囲んでいた森の一部である。首里城は第5海兵連隊によって攻略された。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

当時国宝となっていた首里城を軍事拠点とした日本軍は、首里城の宝物に関し避難措置をとらなかった。

最も大きな問題は宝物が余りにも多く、しかもそれらの宝物は簡単に屋外に持出すと損傷の恐れがあり、たとえ持出したとしてもそれら大量の宝物を保管するには相当の困難が予想されたことであります。... その上、尚家のお屋敷の外に宝物を移そうとしても首里及び首里周辺にあった尚家の別荘や尚家所有の山野などは何処もみな日本軍が入りこんで宿舎や陣地になっていたことであります。そのようなことで尚家の方では宝物を疎開避難させる適当な場所も見つからず労務者も庸えぬ状況に追いこまれておりました。

《真栄平房敬、平川信幸「沖縄戦で流出した旧王家の宝物」沖縄史料編集紀要 2017-03 p. 6. 》

一方、沖縄においては、首里城の向かいにあった中城御殿(なかぐすくうどぅん)が尚家邸となり、沖縄に残された文物はこの中城御殿に保管されてい た。1945年、沖縄戦が一層厳しくなると、中城御殿の職員8人は王冠や沖縄の万葉集ともいわれる「おもろさうし」を含む貴重な王家の文物をまとめて敷地内にある側溝に隠し、避難させた。戦争が終わって戻ってみると、中城御殿は焼失し、隠してあった王家の文物はすべて持ち出されていた

米国所在の沖縄コレクションの移動の背景 « American View

中城御殿に保管していた宝物は焼失を免れたと考えられるが、職員が首里に帰還した際には中はすべて空になっていた。

私は沖縄戦直後、宝物を避難させてあった跡をこの目で確かめ、又、避難させてあった宝物の一部が1953年にアメリカから返還されたのもこの目で確かめております。そこでいえることは宝物を避難させてあった場所の殆どが直接砲撃されていませんので首里での戦がすんだ時点では大部分の宝物が確かに残っていたといえます。ただ残念でならないのは心ない者によって宝物が持ち出されたことであります。それで私は宝物の一部がアメリカに流出していると確信し、軍政府に宝物の捜索願を出したわけであります。

《真栄平房敬、平川信幸「沖縄戦で流出した旧王家の宝物」沖縄史料編集紀要 2017-03 p. 11. 》

1953年、「おもろさうし」「混効験集」などが返還される。

戦後何年かして「おもろさうし」が米国で発見され、1953年にペリー提督来琉100 周年記念に米国大統領の名前で沖縄に返還された。発見に至るきっかけは、これらの文物を持ち出したとされる元米軍人のカール・スターンフェルトが、ハー バード大学の教授に「おもろさうし」の鑑定を依頼したからである。しかし、王冠や国王の肖像画漆器類を含め何十点かの文物はいまだに行方がわからない。 復元された首里城には歴代国王の肖像画が掛けてあるが、それらは戦前に撮影された白黒の写真である。色鮮やかな御後絵(おごえ=国王の肖像画)の原物が見 つかるまで、琉球国王肖像画は白黒のままである。

米国所在の沖縄コレクションの移動の背景 « American View

 

首里城正殿の立っていた場所で、廃墟の中から米軍は2つの青銅のつり鐘を発見した。1つは高さ1メートル50センチ、もう1つは1メートルほどのもので、砲弾で削られた跡があり、破片の痕跡が残っていた。1550年に鋳造されたもので、つぎのような漢文の銘がきざまれていた。(※投稿者注: 沖縄県立博物館・美術館によると、鋳造されたのは1458年という。see. 沖縄県立博物館・美術館

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 441頁より》

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SHURI CASTLE BELL, with an American officer standing by. Bell is a companion to one brought to U.S. Naval Academy by Commodore Perry.

首里城の鐘とアメリカ人将校。釣鐘は、ペリー提督によって米海軍兵学校に持ち帰ったものと同種である。(※投稿者注: 1853年に持ち帰られたペリーの釣鐘は134年後の1987年に返還された

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 15]

2021年11月2日、ガイガー中将が持ち帰った釣鐘が返還された。この釣鐘に関しては、どこのものか沖縄戦前の保管場所などの詳細はわかっていない。

釣り鐘は、沖縄戦で米第10陸軍司令官を一時務めたロイ・ガイガー中将の孫娘のメラニー・カーティスさんが所有していた。返還交渉に当たった琉米歴史研究会の喜舎場静夫理事長によると、カーティスさんは当初、返還に難色を示していたが、首里城火災による多くの文化財の焼失を知り、返還を申し出てくれたという。

釣り鐘返還 故郷で音色 沖縄戦時に米兵が持ち出す 県立博物館に展示へ - 琉球新報

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Marines of the 2nd Bn., 1st Reg. stops and inspects a Jap idol in the court-yard of Shuri Castle.

日本の玉陵石彫獅子を見つけて詳しく調べる海兵隊第1連隊第2大隊の兵士(1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

2023年5月29日、この写真の記載情報をもとに戦利品として持ち帰られた首里獅子頭が78年ぶりに帰郷する。

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MARINE CAPTURES JAP DRAGON-- Marine Pfc. Earl J. Drogosch, 27 of 1217 East 44th Place, Chicago, Ill., picked up this ceremonial dragon mask his first day on Okinawa. He intends to send it to his wife, Marjorie, who lives at the above address. Drogosch is
戦利品獅子頭を手にする海兵隊員。沖縄第1日目に祭祀用の獅子頭を拾った第5海兵連隊輸送部隊のドロゴシュ一等兵イリノイ州出身)。彼は、それを故郷の妻に送るつもりである。 1945年4月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

※ 投稿者註: 2023年5月29日にドロゴシュ一等兵の遺族から返還された獅子頭首里真和志町のものであり、そこから撮影日時は4月ではなく、少なくとも米軍が首里玉陵を占領した1945年5月29日以降と考えられる。まさに占領からちょうど78年目の帰還となった。

 

 

アメリ国務省は、ナチスドイツと戦った後のヨーロッパ大戦中の1944年に、文化的価値を持つ物は、戦利品として持ち帰ったり、取ってはいけないという命令を出していたからです。このような命令が出された背景には、当時のアメリカのアート市場に、特にアメリカ東部のさまざまな都市において、盗まれた美術品や宗教的な品々が急激に市場に出回ったことにあります。
しかし沖縄戦において、この命令は厳守されませんでした。残念なことに、沖縄戦で破壊されることなく残った文化財の多くは、盗まれてしまったのです。写真や旗、銃や武器などを戦利品として持ち帰ることは許されていましたが、沖縄の港では軍の検査官が配置され、沖縄を出発する兵士たちの荷物を検査し、軍事的かつ諜報的な価値を持つものを含め、歴史的、文化的価値を持つものがないか調査していました。
しかし、不幸なことに、沖縄から文化財を盗むために自分の地位や特権を利用した軍人もいました。第6海兵隊司令官ルミュエル・シェファード少将がお寺の古い鐘と大黒様の像を持ち帰ったという事実が、そのことをよく表しています。 …

非営利活動法人 琉米歴史研究会  NPO Incorporated Ryukyu America Historical Research Society

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Pfc. R .C. Gray, USMC, of 682 Arimo Avenue, Oakland, California, loaded down with china and Jap souvenirs, happily walks along the streets of newly occupied Naha.
戦利品である磁器人形を手に最近占拠した那覇の通りを嬉しそうに歩く海兵隊のグレイ一等兵カリフォルニア州出身)。1945年 6月 4日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄戦では、多くの人命とともに王国が築きあげた文化遺産も消失した。中城御殿では厳重な金庫や壕に避難させた王国の遺産の殆どが灰燼に帰したり、盗難にあったとされる。戦後、米軍により持ち去られていた「おもろさうし」聞得大君雲龍黄金簪は、1953年にペリー来航百周年記念として米国から返還された文化財である。

沖縄県沖縄県の文化にかかる基礎調査」沖縄県特命推進課 (令和2年10月23日) 》

 

日本兵と民間人捕虜の収容

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Jap soldier is found hiding in sugar field wounded in the leg by some Marine outfit. (Note he has lost one of his arms and it was neatly sewed and he was still used by the Jap Army)

脚を負傷した日本兵。彼は、サトウキビ畑で隠れているところ数名の海兵隊員に見つかった。(この日本兵は片腕を失っており、その傷跡はきれいに縫合されていた。日本陸軍はこういう兵士までも使っていた。)(1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

学徒兵も兵士として扱われ捕虜収容所に送られた。

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Marine First Lieutenant Frederick H. Van Brunt of Ontario, California, asks the Japanese just over the ridge to surrender. Marines in the background are more interested in the prisoner in the foreground than in what Van Brunt has to say.

投降したばかりの日本人に質問するヴァン・ブラント海兵隊中尉。後方の海兵隊員らはヴァン・ブラントの質問よりもむしろ前にいる捕虜に関心がある様子。(1945年6月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

後方で進む基地建設

軍事拠点化する中城湾 (現在のホワイト・ビーチ地区) 。建設には民間人収容所に収容された住民も動員された。

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第504高射砲大隊エリア。米艦船の停泊港である中城湾を見下ろすSCR584。(1945年6月2日撮影)

504th Antiaircraft Artillery Battalion Area. SCR 584 overlooking Nagagusuku Wan, new U. S. Fleat anchorage.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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中城湾に停泊中の米艦船を護衛する第230高射砲兵大隊C中隊のG.E.42サーチライトと後方にあるSCR268B(1945年6月2日撮影)

Battery ”C” 230th Antiaircraft Artillery Battalion, G. E. 42 searchlight; with SCR 268 B in background, both on outer ring protecting fleat anchorage in Nagagusuku Wan Harbor.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

北部 - 第2護郷隊、恩納岳からの敗走

恩納岳の掃討戦: 恩納岳の第二護郷隊と恩納岳まで敗走した特設第一連隊は、恩納岳の掃討戦で恩納岳からの敗走を余儀なくされる。

恩納岳の第2護郷隊と特設第1連隊

6月2日、今日こそはと、頂上の完全占領を目ざす敵は、迫撃砲弾を頂上に集中、まるで耕すようにして瀬良垣登山道から猛攻撃を開始してきた。… 傷兵のうめき声が砲煙のなかにあちこちから起こり、まさに阿鼻叫喚の巷と変ってきた。何人の生存も許さないような猛砲撃、このままでは戦死は寸秒のあいだだ。私は自分の部下分隊…をうながして陣地を放棄することに決し、… 頂上から北西側山脚の尾根に布陣している護郷隊一中隊のなかに飛び込んだ。と、同時に、いままで私たちがいた陣地上に砲弾が轟然と炸裂し、間一髪で生命は救われた。と、そこでは護郷隊の … 伍長が、弾薬手などとともに、勇敢にも旋回機銃を射ちながら、すでに右台上に迫った敵に、ダダダダダー、猛射を加えながら攻め登っていった。(221-222頁)

… 米軍は無尽の火力に物をいわせて頂上の一角にとりついたらしい。裂け散る閃光のなかに、迫撃砲弾が谷間を狂気のように飛び、米兵たちの怒声が手にとるように聞こえる。最早や恩納岳の命運もつきたようだ。戦いに戦って力つきたいま、もう悲憤の涙も出ない。

… あわただしく雑囊に米を押しこんでいる補給中隊の残兵は「これから石川岳ゆく」という。わが分隊も同行できるよう、私は青木准尉にお願いした。迫撃砲と機銃の集中射撃を浴びて、西側頂上の一角を米軍に占領された恩納岳は、全戦線が崩壊の危険にさらされて、すでに陣地の放棄がはじまっていた。…「ゆくぞ!」住民の着物をまとって変装した青木准尉が先頭に立って下りはじめた。次々にみんながつづいた。「地獄の戦場から逃げるのだ」という群衆心理に私は完全に呑まれてしまった。見栄も誇りも失った、むき出しの敗残兵の姿がそこにあった。敗残兵は木につかまりながら山をすべりおりていった。(223-224頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 221-222、223-224頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-5203.jpg

侵攻の様子。逃げ足の早い日本兵を追い、弾薬を持って一列縦隊で茂みに入る歩兵。(投稿者註: 撮影場所、撮影日は不明)
Scenes during the invasion of Okinawa. Infantryman, toting ammunition single file into the brush after the elusive Japs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

恩納岳は沖縄県恩納村金武町の境にある標高363メートルの山で、沖縄戦の際、「第二護郷隊」が陣地を構えました。元少年兵の証言などによりますと、山頂付近に部隊の司令部や機関銃壕などがあり、中腹には野戦病院や兵舎などがありました。しかし、アメリカ軍に攻め込まれると、部隊は山頂へと追い詰められていき、それに伴って山頂近くに移された野戦病院は、負傷した少年兵などであふれかえったということです。そして、部隊は数千人規模による攻撃を受け、昭和20年6月初めに陣地を撤退し、恩納岳はアメリカ軍に制圧されました。部隊が撤退する際負傷して動けなかった少年兵らは軍医に殺害されたり、手りゅう弾を渡されてみずから命を絶ったりしたということです。

米海兵隊キャンプ・ハンセンで 「護郷隊」の陣地跡「発見」 ~ 頻繁に自衛隊と合同演習しても、遺跡・遺構調査はかたくなに拒み続ける75年目の占領軍 - Battle of Okinawa

 

南部 - 軍司令部: 摩文仁

第32軍司令部は、南部へ移動した各部隊との連絡・調整を行うため、津嘉山にあった軍司令部の経理部の壕に薬丸参謀を残していた。

八原高級参謀の回想:

薬丸は茶屋本大尉以下要員10名を配属され、6月2日夕までに津嘉山に踏み止まり、各兵団の退却状況を的確に掌握して、時報するとともに適切な意見を具申し、克く任務を達成した。特に退却掩護部隊として一時第24師団に属した独立歩兵第22大隊が、権威のない歩兵第64旅団命令で過早に首里を撤せんとして両兵団の間に悶着を生ずるや、適切にこれを処理した件、津嘉山周辺に、相連繋して陣地を占領した歩兵第64旅団および歩兵第32連隊の両司令部を津嘉山の同一場所に開設させて、その協同連繋を良好ならしめた件、ならびに6月2日、第62師団が饒波川の線に拠る歩兵第22連隊との連繋を失して、後退せんとするのを看破して迅速に報告し、軍司令官をして適時これを調整せしめ得た件等、さすが薬丸なりと称賛せざるを得なかった。

6月2日夜半、彼が任務を完了して摩文仁に帰ってきた際、私は風邪を引いていて39度の高熱を発し、気分勝れなかった。疲労困憊雨にぐっしょりぬれた彼を迎えて、快く労せず、かえって「指導積極に過ぎ、持久抵抗と防御準備が主客顛倒にならねばよいが」と皮肉な言葉をもらしてしまった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 371-372頁より》

 

そのとき、住民は・・・

宜野座初等学校: 設立者の体験談

宜野座民間人収容所

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…幼児や家族に与える食糧も尽きて、そのままでは餓死するほかないので、…5月15日を期して避難している有銘の東海岸伝いに宜野座(最初に避難していた所)へと向う。途中三原部落で一泊し、5月16日に瀬嵩を経て歩き続け、二度、三度途中で米軍の尋問を受け、遂に辺野古の崎で捕虜となる。その後久志部落の村はずれに集結させられた4、50人の避難民と共に宜野座の収容所に運ばれる。

収容所ではCICの取り調べがあり、これまで女学校の教師であったことが問題となり「篤志看護婦養成に協力しなかったか」など、日本軍への協力についていろいろと詰問された。ところが幸いにCICで仕事を手伝っている顔見知りの人がいて、自分達の友達であるなどと取りなしてくれたので無事釈放されたが、一時はどうなることかと思った。

6月2日CIC本部から…呼び出され、学校設立について意見を聞かれた。当時未だ沖縄作戦中であり、山から下ろされた避難民が自失の態で生命の恐怖に晒されている頃なので、学童を収容することの至難であることを知り、なお、従来の教育と米国の教育とに対する心配などもあって、一応は辞退したけれども、この心配は米軍将校と暫く会談をしている間に消えてしまった。

最初から米国式の教育を無理に押しつけるのでなく、当分の間従来の沖縄での教授方法で構わない。それよりも子供達を一カ所に集めて貰い度い。子供たちは父兄、母姉が作業に出るのに足手まといになり、天幕内に置くことは何かと悪さも高ずるから・・との事であった。私は幾度か自問自答を試みた。

衣、食、住に安定のない父兄を持つ子供たち、長い間の山生活、壕生活で老い込んだような不潔になった子供たち、砲声弾雨の中からやっと生還はしたものの、中には父母、兄弟の屍をまたいで来た悪夢にさいなまれた子供たち、あの顔色、恐怖に戦く子供心をどうすればよいのだ・・と。教育方法の何のと従来の教員の殻から抜け切れない自分に、「今は戦争中であり目の前の子供たちを救わねばならぬ」といい聞かせ、何かしら熱いものが胸につき上げて来る。暫くして「やって見ましょう」と米軍将校に答えた。

《「忘られぬ体験  市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 119頁より》

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赤ん坊を背負う沖縄の子供 / Okinawan child carries baby.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

八重山 - 白水への避難命令と戦争マラリア

次に八重山が攻撃を受ける可能性が高いとの判断から、6月2日に旅団本部は一般住民の山岳地域への避難を命令した。

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6月2日、空襲が激しくなった八重山では、山岳地への住民避難が始まりました。台湾へ疎開せずに石垣島に残った住民は5月までは空襲があっても自分の家で生活をしていましたが5月末からはアメリカ軍の攻撃が激しさを増してきます。

八重山旅団司令部は前日の6月1日、「官公庁職員は5日までに、一般住民は10日までに指定地に避難するよう」命令を出しました。軍の命令を受けた県八重山支庁職員は2日から、住民とともに山岳地の白水へ避難を開始しました。白水一帯はマラリアの有病地帯として住民に知られていましたが、軍の命令で避難せざるを得ず、それが多くの犠牲者を出した石垣島戦争マラリアの悲劇の幕あけでした。

65年前のきょうは1945年6月2日 – QAB NEWS Headline

太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していました。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられました。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2496人がマラリアで命を落としました。

沖縄県石垣市 白水の戦争遺跡群|NHK 戦争証言アーカイブス

・日本軍はマラリアの危険性を知っていた

強制移住は住民保護のためではない

・日本軍は特効薬を確保していた

八重山諸島では、日本軍の駐留後、住民たちが軍の航空基地建設に駆り出されるなど、綿密な「軍民一体」の関係性が出来上がっていた。島という閉鎖的環境において、軍隊にとって住民は食糧確保のために不可欠な生産者であり、基地建設のための労働者であった。しかし、戦況の悪化と共に、住民は「軍事機密を知りすぎる存在」とみなされていった。それを回避するために、日本軍は一般住民を軍隊の監視・管理下に置くこと、つまり山間部への強制移住という手段にでた。住民が米軍の捕虜となり、「スパイ」として日本軍の情報を漏らすのを防ぐためである。また住民の「移住」については、命令系統や移住地の指定など、沖縄戦開戦前より詳細かつ徹底的な計画方針が決められていた。 

沖縄「戦争マラリア」が私たちに問うもの 〜住民犠牲の歴史から考えるコロナウイルス感染拡大と危険性〜

 

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書籍紹介

沖縄「戦争マラリア」-強制疎開死3600人の真相に迫る [ 大矢英代 ]

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