〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月6日 『沖縄県民の実情』

小禄の包囲 / 大田実中将の電文 / 戦争と沖縄デマ

 

米軍の動向

雨と泥との闘い 「泥将軍」

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《AIによるカラー処理》GENERAL MUD TAKES COMMAND IN OKINAWA--A Marine hospital-ambulance Jeep was bogged down on what passes for a road on Okinawa during the rainy season until a caterpiller tractor arrived to lend a hand. A tank destroyer of the 1st Marine Division stands by.

「泥将軍」が支配する沖縄--梅雨時の道路で、キャタピラトラクターが救出にくるまで泥のなかで立ち往生していた海兵隊傷病兵輸送ジー。他の車両をぬかるみから引っ張り出すため待機する第1海兵師団の駆逐戦車(後方)。(1945年6月6日撮影)

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後方で進む基地建設

日本軍の飛行場があり、米軍上陸地点となった読谷・嘉手納の海岸はその土地のほとんどが米軍基地として接収された。

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Battery ”G”, 16*** Antiaircraft Artillery Bn., Mark 20 radar searchlight control station and machine gun emplacements. Hagushi Beaches.

16***高射砲大隊G中隊のマーク20レーダー・サーチライト管制塔と機関銃の砲座。渡具知海岸にて(1945年6月6日撮影)

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泡瀬飛行場の建設では排水に苦心した。

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島袋付近の排水溝工事で使用された6型掘削機(1945年6月6日撮影)

A model #6 drag line is used to dig a drainage canal near the village of Chimabuku.

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小禄半島上陸: 3日目 - 狭まる包囲網

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USMC Operations in WWII  [Chapter II-9]

小禄 (おろく) 半島

第1海兵師団は、どうやら泥から解放され、6月6日には小禄半島のふもとを通って、道のりの半分ほどまできていた。これは、2つの軍団のあいだのギャップを埋めることにはなったが、同時にその西翼をさらけだすことにもなった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462頁より》

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General view of Naha airfield. Our spotter planes overhead.

那覇飛行場概観。上空には監視用の飛行機(1945年6月6日撮影)

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第6海兵師団長のシェファード少将は、軍団予備軍の第22海兵連隊を前線につけ、半島のふもとを横切る線を確立するため南に送った。これは師団の一部が小禄の日本軍を背後から攻めることになる。シェファード少将は、日本軍のたてこもっている丘を攻めるのに最も理想的な進撃路は、南および南東から進むことだと考え、第22海兵連隊に北西部に偵察隊を出すと同時に、そこに進撃せよとの命令を下した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 462-463頁より》

具志 (ぐし)

西側から迫る米軍

第4海兵連隊は、第22海兵連隊戦線の左を攻撃せよという命令をうけた。こうして、3連隊がそれぞれの任務を与えられて戦闘に従事し、師団としてはひきつづいて豊見城の高台付近にいる日本軍を制圧すべく、じわりじわり包囲線をせばめていくことに専念することができたわけである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 463頁より》

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Men of 1st Battalion, 4th Marines, receiving instructions before moving out to take ridge beyond Gushi 7167-J4.

具志7167‐J4地点の向こう側の丘陵を攻略しに行く前に命令を受ける第4海兵連隊第1大隊の兵士。(1945年6月6日撮影)

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那覇飛行場近くの斜面を移動する第4海兵連隊第3大隊。(1945年6月6日撮影)

Marines of 3rd Battalion, 4th Marines moving up slope near Naha airfield.

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那覇 (なは)・奥武山 (おおのやま)

米軍は北東側から南下し小禄の海軍に接近した。

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第6海兵師団隊員が小高い丘から廃墟と化した那覇を眺める。街は陸海空からの激しい爆撃で完全に破壊された(1945年6月6日撮影)

A Sixth Division Marine, high above the hills overlooking Naha, views the ruins of the city. Note the complete destruction of city by our heavy sea, land, and air shellings.

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15th Regiment, Sixth Division Marines pass on trucks at front lines of Onayama on the outskirts of Naha.

那覇郊外、奥武山島の前線をトラックで通過する第6海兵師団第15連隊の海兵隊員。(1945年6月6日撮影)

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On Onayama Ils, Marines of 15th Regiment 6th Marine Division, form a long string as they near front lines in background.
奥武山島で長い列を作り、写真後方に見える前線へ接近する第6海兵師団第15連隊。(1945年6月6日撮影)

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南進する米軍 - 八重瀬岳

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

八重瀬 (やえじゅ・やえせ)

6月6日の朝大隊長のU・H・トンプソン少佐は、与那城から逃げ腰の日本軍を破竹の勢いで退去させると、ジューン・E・バイヤーズ大尉指揮下のB中隊をして八重瀬岳一帯のかべに当たらせてみた。3個分隊からなる偵察隊が機関銃の弾幕のもとにしのびこんでいったが、機関銃陣地は撃滅しようにも、手榴弾も届かないほど洞窟の奥深くに据えられているので、撃滅することができない。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468頁より》

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YAEJU-DAKE was brought under American artillery fire shortly before the infantry attempted its first advance to the escarpment. Burst at upper left is white phosphorus

八重住岳は米軍の砲撃にさらされ、そのすぐあとに歩兵隊が断崖への最初の進軍を試みる。左上の爆発は白リン弾

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

米軍は八重瀬岳の一部に侵入するが、そこで待ち構える日本軍の砲撃を受ける。

時はすでに昼さがりだが、沖縄島最大の丘陵に対する第1回の侵入攻撃には、いささか成功の兆しがみえてきた。C中隊は、水田のあぜ道をとおって崖の下のほうにむかって進撃し、B中隊はけわしい坂を登って丘陵の中程にある平坦な場所をめざして進んで行った。この進撃は、日本軍が引き延ばし戦術に出るべく用意した前線を越え、牛島中将が〝全力を結集して〟米軍を撃滅し、米軍に最大の被害を与えるべく麾下に命令を下していたその地区まで入り込んでいたのである。

「この目的完遂のため、陣地は最後の一兵まで死守すべし、もちろん退却は許されない」これが、牛島中将がこの陣地の防衛にあたって将兵に与えた訓示であった。日本軍は、米軍の両中隊が予定された射程内に入ってくるまで、辛抱強く待った。そして射程内に入るやいなや、機関銃や20ミリ砲を轟然と発砲した。その銃弾の流れは米軍の両中隊に対して、ひもを通すように飛んできた。両中隊は日本軍の罠に落ちたかに見えた。しかし、トンプソン少佐は、ただちに退却を命じ、砲兵隊の10個大隊に対して煙幕弾を投下するよう連絡をとった。だが、それでもまだ不十分だったようで、多くの兵隊がその場に釘づけとなり、日が暮れてからしか帰ってこなかった。

この日、C中隊の戦死は5人、負傷者も5人出た。B中隊の損害は、43人が戦死、14人が行方不明となった。そして、この行方不明のうち4人が死亡、2人が翌朝帰隊し、残りの8人は日本軍前線の後方に取り残されてしまった。この取り残された兵のうち3人は、その後、友軍の弾丸や、日本軍の弾丸にあたって死亡し、残りの5人は、日本軍の前線にかくれて、ついに6月14日の朝になるまでそこにひそんでいた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 468-470、478頁より》

 

第32軍の動向

包囲された小禄の海軍

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USMC Operations in WWII  [Chapter II-9]

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制覇、戦線は豊見城の沖根司令部を中心に直径約4キロの小さな円に圧縮された。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 426頁より》

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海軍司令部壕(大田司令官)のある小禄半島東部豊見城地域の高地眺望。この壕は、兵員室、司令官室、作戦室、厨房等、さらに、電気や水道を備えていた。

A view of the hill in the Tomigusuki area, eastern Oroku Peninsula, which housed Admiral Ota's elaborate cave. This cave contained barracks, quarters, operations rooms, galley, etc. It also had electric lights and running water.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6日は朝から、梅雨の晴れ間になった。それは米軍機の行動を容易にし、艦砲射撃の精度を高めた。北側の最前線は半島のほぼ中央部まで押し上げられ、わずか15平方キロの半島は彼我入り乱れての死闘となった。沖根司令部が戦闘指揮所として使っていた宇栄原の「羽田山」(元・護部隊本部)も、米軍戦車の「馬乗り攻撃」を受ける切迫した戦況となり、司令官と幕僚は同夜、豊見城74高地の元の司令部に戻る。

 《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 422頁より》

6日は早朝から天候が回復した。5日に引き続き米軍の攻撃はこの日も活発であった。米軍は次々と馬乗り攻撃をかけ、各壕を撃破した。事態は緊迫していた。6日の夕方、大田司令官は、小禄地区の陥落はもはや時間の問題と判断して、… 訣別電を発した。

戦況は切迫せり。小官の報告は本電をもってひとまず終止符を打つべき時機に到達したものと判断する。御了承ありたし」

… 大田司令官は6日夜豊見城の沖縄方面根拠地隊司令部に指揮所を移動した。また、同日の戦況を次のように報告した。

(1) 明治橋完成後、敵兵力の移動物資の輸送は盛んである。ただし、いまだに戦車の通過するのはみられない。

(2) 朝から赤嶺金城小禄部落に対する重圧は激しくなり、一部兵力は小禄西部高地に侵入したが、一応撃退した。しかし夕刻さらに兵力を増加して約100名が侵入した。この敵に対し午後10時から反撃を敢行して、7日の午前2時30分に奪回した。

(3) 赤嶺陣地には約300名の攻撃があったため、一時は馬乗り攻撃をうけて危機にひんしたが、友軍の迫撃砲、機銃の連繋がよかったためただちに撃退できた。

(4) 当間西方に約200名の敵兵が迫撃砲陣地を構築中で、一部には戦車の動きも見られるが戦況は活発でない。

(5) 根差部高安方面の戦線には著しい変化はない。

(6) 各部隊から報告してきた6日中の総合戦果は、戦車1擱坐、車輌1破壊、人員殺傷約120名である。報告未着もあるのでこの戦果はさらに増大する見込である。

さらに同日の夜海軍次官あて別記の「沖縄県民かく戦えり。・・・県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」の電報を打った

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 106-108頁より》

 

大田実海軍中将、最期の電文

6月6日の夜、大田中将は最期の電報を打った。

以下、原文を現代文に直したもの

昭和20年6月6日 20時16分

次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、 私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、 県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

しかも、若い女は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運び切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。

旧海軍司令部壕 [資料館]

※ 司令官の最期の電文において、「皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シ」や「天皇陛下万歳」などの当時の軍の定型文は、一切使われていない事が特徴的である。

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米国海兵隊: Piggy Back, Okinawa Style. Better than a bicycle built for two is this Okinawa method of travel, a mother carrying her two children to safety through First Mar Div battle lines south of Shuri fortress.
沖縄風おんぶ。母親は首里の要塞地の南側、第1海兵師団戦線を通って2人の子供を安全な場所へ連れて行くため、2人乗り自転車より優れているこの方法をとった 1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

※ この海軍次官宛の電文に関し、以下の旧海軍司令部壕の資料室の版では数か所の欠損が見られる。内閣府沖縄戦関係資料閲覧室から閲覧できる「南西諸島方面電報綴」(昭和20.6)のオリジナルの電文のフォトコピーでは、ちょうどページの折り目で読みにくくなっている部分(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザル)が手書きで補足されている。

内閣府、沖縄戦関係資料閲覧室「南西諸島方面電報綴」(昭和20.6) p. 18

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沖縄戦当時の沖縄デマと中傷

この頃、第32軍の神(じん)参謀は本土に向けて与論島を経由し沖縄脱出を試みている最中であったが、出発前に記された思われる神参謀の日誌その弐には「政府に対する連絡」として、レイシズム (人種差別) とスパイ陰謀論を利用し、戦況悪化を沖縄人へ責任転嫁する内容が記されている。大田中将は(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)という言葉で、当時拡散されていた「意図的に歪められた情報」を否定する意図もあったと思われる。

神参謀の日誌 其の弐より

政府に対する連絡
一 … (中略) …

二 沖縄県人は支那人に似る、精神的中核なし 且(かつ)無気力 神社仏閣極少

(一)軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするものすこぶる多し
(二)学徒(防召)は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除のやむなきに至る。最後まで戦い続けているのは一中、男師範のみ。いずれも他県人校長。

※ 実際には召集解除していないどころか、最後まで戦場で利用し、また学徒以外にも、さまざまなかたちで防衛召集している。またここで他県人の校長に言及しているのは、他県人校長がいる学校は沖縄県人のそれとは異なるという、読む側のレイシズムを利用した印象付けである。実際には他県からきた校長で、本土に帰還、学生を動員するだけで顧みなかった等色々である)

(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断

※これらの記述は、那覇警察署長 具志堅宗精も激怒したように*1、当時の沖縄人スパイ陰謀論を沖縄守備隊第32軍司令部の参謀自らが拡散していたということの証左でもあろう。神直道は、戦後はスパイに関して実際には知らないと否定している*2
(四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けて呉(く)れぬ 何を考えているか分からぬ」

※この記述からも軍は最初から最後まで、弾雨のなかでも住民から力づくで物資や労働力を供出させていた。一例として、沖縄戦の前ですら軍は飛行場用地として接収した土地の支払いも満足にしないまま、今も国有化している*3

 第32軍の沖縄県民への根深い差別と不信感 ~ 「沖縄守備軍」の実態 - Battle of Okinawa

 

戦争はレイシズムで色付けされたデマやヘイトを利用することで、権力側の失敗責任を回避するだけではなく、有無を言わせず人々の心を支配し、従わせようとした。現在わかっているだけでも十代半ばで軍に召集された学徒約二千人のうち、その半数が戦死、また民間人約2万5000人が防衛召集で戦場に供されそのうち約1万3000人が戦死している。

 

 

 

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A Company, 1st Battalion, 4th Marines. Men of this unit bringing Jap out of house in Gushi village in area 7167. This prisoner was dressed in army (jap) clothing, but had no insignia of rank, etc. He was badly burned about the legs. A woman was also captured in the same area.7167地区にある具志村の家から日本人を連行する第4海兵師団第1大隊A中隊の兵士。この捕虜は日本陸軍の制服を着ていたが、階級章などは付いていなかった。彼は脚にひどい火傷を負っている。同地区では女性1人も捕らえられた。(1945年6月6日撮影)

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そのとき、住民は・・・

壕を奪われた住民

糸満市真栄平

 【沖縄戦の絵】「艦砲射撃で死んだ家族たち」

昭和20年5月、富名腰さんは家族・親せき10人あまりで南城市玉城の自宅近くの壕に避難していたが、日本軍の兵士に出て行くよう命じられた。その1か月後の6月6日糸満市真栄平あたりでのこと。家族たちは岩陰に隠れていた。父と叔父は今後の避難場所を話し合い、富名腰さん自身は少し離れたところで、いとこと2人で壕を掘っていた。その30分後。耳をつんざくような大きな音と爆風があがった。駆けつけた富名腰さんが見た光景は、岩陰にいた家族・親せきの変わり果てた姿だった。大半が即死状態。芋を洗っていた姉も死んでいた。母に抱かれていた2歳の弟はまだ動いていたが、抱き上げるとしばらくけいれんした後、息を引き取った。重傷を負った父も数日後に死亡。富名腰さんは「身体の震えが止まらなかった。半狂乱みたいに頭がいっぱいになってひと言も言う気もしない」と当時を振り返る。そして生き残ったいとこと叔父とともに、その場に穴を掘り家族を埋葬した。富名腰さん『直前まで元気にしていた家族が一瞬で地獄の状態になる、これは忘れることはできない。家族が確かにこの世に生きていた命の証を残したいと、最後に見た姿を2枚の絵にした。話を聞くだけではわからない戦争の怖さや命の尊さをわかって欲しい』

艦砲射撃で死んだ家族たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

宜野座収容所の学校開設

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米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.
沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。

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宜野座民間人収容所の初等学校

米軍は、日本軍の硬化した官僚主義と異なり、大学など研究機関からも優れた人材を積極的に確保し、軍の重要ポストに採用した。そのため宣撫政策部門を担った将校らのなかには、歴史学者で海軍軍政府教育担当官のウィラード・ハンナ教育部長のように、戦争ですべてが灰燼に帰そうとするなか、教育と芸術、文化財の保護に尽力した将校もいた。

宜野座(ぎのざ)初等学校 ④: 設立者の体験談

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、いよいよ開校日を迎えた。

6月6日、今日は宜野座初等学校開校の日である。午前9時開校式挙行。米軍将校、ニコルセン少佐、ベンバアルド大尉、ワルチ中尉、サルベン中尉、その他天幕部長並に各天幕班長、父兄等約500人が出席、型通りの式がすむ。子供たちの顔は心なしか晴ればれしている。父兄は涙ぐんでいる。私は父兄に対して一応の挨拶をするのに危く涙を見せるのを心配した。米軍の保護を受け、学校に児童を収容することになったこと、本の上での勉強よりも、子供の健康に気をつけ、恐怖に戦く幼な心を元気で明るい童心にかえして上げたい念願であることを心に誓いつつ語った。

6月2日からここまでは学校日誌によるものであるが、日本軍は必ず勝つと信じていた私は、終戦前に学校を開設して米軍に協力したということになり、後日日本軍の軍法会議で証言することを予想していたので、自分の毎日の行動について、具体的に学校日誌に書き続けることにしたのであった。

《「忘られぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 120頁より》

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米軍政府管理下で再開した学校で授業をする沖縄人教師(撮影地:宜野座

Okinawan school teacher holds class as school resumes activity under AMG supervision.

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*1:時の那覇警察署長具志堅宗精氏の話──。五月二十九日午後六時ごろ、高嶺村与座(現・糸満市与座)の山部隊司令部で、軍の要請で警察署長会議を開いたことがあった。会議前の雑談のときにある参謀が「沖縄人はほとんどがスパイだ。毎日米軍のトラックに乗って、米兵たちと行動をともにしている。実にけしからん」と、沖縄の人を非難した。列席の警察署長たちは、しゅんとしてだまりこんだ。島田知事も不快な顔をしてそっぽを向いた。たまりかねた具志堅氏が、「沖縄出身の兵隊も、前線で勇敢に戦っているじゃありませんか!捕虜の身で、米軍に逆らうこともできず、生きるためにやむなく従っているのです」と、不満をぶちまけたことがあると、具志堅氏は話している。1957年5月18日 オリオンビール株式会社の設立 ~ 具志堅宗精 沖縄戦、地獄の摩文仁から生還して - ~その時、沖縄は~

*2:沖縄戦を生きのびた参謀 ~ 神直道「軍隊の目的は、国民を守るものではない」 - Battle of Okinawa

*3:第二次大戦中旧日本軍によつて接収された沖縄県下の土地に関する質問主意書 / 旧軍飛行場用地問題調査・検討報告書