1945年9月3日 『次々と降伏する日本軍部隊』
進駐軍『裸者と死者』 / 住民虐殺「白石隊」の投降 / 朝鮮人将校の「戦後」 / 沖縄戦と国場幸太郎 國場組
米軍の動向
続々と上陸する占領軍
8月30日、マッカーサー陸軍元帥が沖縄経由で厚木飛行場に降り立つ。9月2日に戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式が行われ、正式に日本の太平洋戦争が終結した。部隊が次々と日本に移駐した。占領任務で上陸した部隊の一つ陸軍第112騎兵連隊は、南洋戦線から沖縄を経由し、9月3日に日本に上陸した。
米陸軍: Troops of 112th Regimental Combat Team land at Tatoyomho[Tateyama] beach, Japan. /舘山海岸に上陸する第112連隊戦闘団。千葉県舘山 1945年9月3日
【訳】第112騎兵連隊戦闘団は9月3日午前9時30分、館山湾海軍航空基地付近に着陸し、沿岸防衛の制圧を確立した。
Report of General McCarther: Chapter 2: Troop Movements, Dispositions, and Locations
この部隊に所属した兵士の一人は、後に彼の戦争と駐留の経験を基にした小説を書く。ノーマン・メイラーの代表作『裸者と死者』である。
鳥取生まれの情報将校スタンレー・ベネットは、日本の戦争を、データを客観的に読み批評する能力を育ててこなかったことに起因すると分析したが、レイテ島などの激戦地を転戦したメイラーは、日本の「無言」(dumbness) 性、お上 (権力) に対する激しい恐怖 (fear) を抱き、権力への沈黙を様式化する社会に生きる人々をそこに見た。メイラーは1946年に帰国した。
どこへ行こうとも、日本は常に美しく、展示会や縁日に展示されるミニチュアの、細かく作りこまれたパノラマのように、非現実的な限りある世界の美しさを持っていた。[…] その美しい外観の裏では、すべてが殺風景ながらんどうで、彼らの生活にはただただ労苦とあきらめ以外は何もなかった。彼らは抽象的な人々であり、抽象的な技巧を丹念に作りあげ、抽象的に考え、抽象的に語り、何もいっさい語らないための精緻な儀礼を構築し、これまで地上に生きたどの民族よりも、上の者に対する激しい恐怖の中で生きていた。
第32軍の敗残兵
海軍第27魚雷艇隊 - 白石隊の降伏
敗走から5か月後、数々の食料強奪やスパイとして住民を虐殺したことで悪名をはせた海軍の白石隊 (第27魚雷艇隊、白石信治大尉) が山から下りた。
Preminary to the formal surrender of Jap forces on Motobu Peninsula, Okinawa, Marine Lt. Robert L. Brown of Drew Forest, Madison, N.J., an interpreter, gives final instructions to the Jap commander, Navy Lt. Shiraisha of Tokyo. He commanded the force of 183 navy personnel that surrendered to the 7th Marines one day after the signing of the peace treaty in Tokyo Bay. Shiraisha is shown with sword he later surrendered.【訳】沖縄本島本部半島で行われる日本軍降伏の正式な儀式に備え、翻訳官ブラウン海兵隊中尉が日本海軍司令官白石大尉に対し、最後の指示を与える。東京湾での平和協定調印のあと、彼の指揮していた183人の海軍軍人らは投降した。刀を手にしているのが白石大尉。1945年9月3日撮影
ある時、酒に酔ったのだろう、白石大尉自らが、住民に今帰仁住民殺害「今帰仁の整理」を語った。
白石大尉が話すには、昨日照屋忠英校長を八重岳に行く途中で殺したという。国本先生、私の妻と三人で、あんな立派な校長先生で、国頭郡教職員会長の要職にあり、住民から尊敬されており、しかもご子息長男・二男は現在出征中である。どんなことがあって殺したのかと尋ねたたら、スパイの疑いで、十分な証拠も得ているといった。次は今帰仁の長田盛徳郵便局長と名護町屋部国民学校長・上原盛栄を殺す番になっていると話していた。日本の兵隊たちは、沖縄人にスパイの汚名をかぶせ、無垢な住民が数多く虐殺されている。
名護市教育委員会『語りつぐ戦争・第一集』
長田盛徳さんは、裏口から逃げて危機一髪で助かったという*1。それから四か月後、米軍と戦わずして住民を震撼させた部隊が投降した。
そして、アメリカ軍の沖縄本島上陸後の4月以降、部隊は海上での作戦を放棄し、陸上での戦闘に参加するよう命ぜられます。本部半島やヤンバル地区で終戦後までアメリカ軍とゲリラ的な戦闘を続けた部隊が日本軍の降伏を知ったのは8月の末。そして9月3日正午、沖縄でのおよそ1年に及ぶ戦闘を終えた隊員およそ200人は潜んでいた山の中からアメリカ兵の居並ぶ羽地の集落に降り、投降しました。
Disarmed and searched for contraband, Jap officers and men are marched away under guard of alert marines whose feeling toward Japs have NOT been affected by the signing of peace terms.【訳】海兵隊員の油断のない監視の下、行進を続ける非武装の日本人捕虜ら。海兵隊員の彼らに対する感情は、平和条項にサインした後も変わらない。沖縄。
撮影日: 1945年 9月 3日
Smartly dresses and militarily correct even in surrender the 183 Japs of Motobu peninsula, line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword.【訳】降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって剣が手渡されるのを見届けようと待つ。前列は士官、後列は兵士。(1945年9月3日撮影)
A marine Captain, Don P. Wyckoff, veteran of line fighting a Peleliu and Okinawa, accepts the sword of Lt. Shiraisha in formalities related to the surrender of 183 Jap officers and men on Motobu Peninsula. “In the name of the Government of the United States, I accept your surrender“, Captain Wyckoff told Shiraisha who stood at attention before the men he commanded. The Samurai sword was handed by Capt. Wyckoff (whose wife, Dorothy, lives at the Fort Shelby Hotel, Detroit, Mich) to Col. Edward W. Snedeker of Washington, D.C., commanding officer of the Seventh Marines. Colonel Snedeker will later present it to Maj. Gen. Dewitt Peck, Commanding General of the 1st Mar. Div.【訳】本部半島での183人の日本兵降伏の儀式において白石大尉から刀を受け取るウィッコフ海兵隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)。「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡され、その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈されることになっている。(1945年9月3日撮影)
身体検査の後、捕虜収容所に向かう。
Jap officers climb into trucks for transportation to prison camp.【訳】捕虜収容所行きのトラックに乗り込む日本軍将校ら。沖縄。(1945年9月3日撮影)
第56飛行場大隊 - 本田大尉の降伏
降伏式: 国頭村謝敷(くにがみそん・じゃしき) で投降した敗残兵の部隊。辺土名で30人程の兵と投降した陸軍の「本田大尉」とは。
Marines meet the Japanese soldiers just outside of Zasiki, a small village on the China Sea Coast of Northern Okinawa.【訳】北部の東シナ海に面する小さな村、謝敷(?)のすぐそばで日本兵と向かい合う海兵隊員。(1945年9月3日撮影)
英文史料には、読谷の防備を担っていた*2 とあるので、おそらくは、4月1日の米軍上陸の際にほとんど武装もなく矢面に置かれた特設第1連隊第1大隊の第56飛行場大隊で「本田主計大尉」と呼ばれていた人物と考えられる。米軍に包囲された陣地で、4月2日、黒澤部隊長ら多くが戦死した。
Capt. Honda of the Japanese Imperial Army presents his Samurai Saber to Marine Captain Theodore H. Harbaugh, 35 Birckhead Place, Toledo, Ohio. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S. E., Washington, D. C.; on Capt. Harbaugh's right and 1st Lt. James B. Chandler, 264 Hathaway Lane, Wynnewood, Penns., on his left are the Marine officers who receive the Jap Captain's saber in surrender.【訳】ハーバー大尉(オハイオ州出身)にサムライ刀を差し出す日本帝国陸軍のホンダ大尉。降伏の印として日本軍大尉の刀を受け取る海兵隊将校、オーリアン中尉とチャンドラー中尉。(1945年9月3日撮影)
4月2日に喜納で「玉砕」したと伝えられる第一大隊は、動けない負傷兵50名のいる壕はダイナマイトで爆破し、黒澤隊長自ら突破口を作るために突撃、兵を脱出させたという。その兵の生き残り30名が投降したことになる。現在、喜納は嘉手納弾薬庫の中にある。
ある住民は米軍の捕虜となったとき第56飛行場大隊のことを詳しく聞かれたと語っている。この情報から550名くらいの部隊だったことがわかる。
米軍は座喜味の民家を本部にしていたようで、そこで事情聴取を受けました。金髪の、見るからにアメリカーという感じの兵隊がびっくりするぐらいの流暢な日本語で「五十六飛行場大隊のことを知っているか」と私に聞きました。先のスパイ容疑云々の事もありますから私が答えにためらっていると、「五十六飛行場大隊、球九一七三部隊ですがね。五五〇名規模だったというのは本当ですか」などと続けて聞いてきました。「私は知らない」と答えましたが、何でこんなこと知ってるかねーと不思議なほど、彼らは球部隊に関する詳しい情報を持っていました。そして、捕らえられて初めて黒沢少佐をはじめ球九一七三部隊が、ニホンマーチュー(二本松)の下にあった壕でほぼ全滅した事を知りました。そこは海軍が掘った壕でしたが、海軍が南部に移動した後に入っていたようです。五百人以上もの隊員が潜んでいた壕を米兵に馬乗り攻撃され、隊員たちは外にいる米軍に斬り込んでいって、次々と殺されたようです。補給部隊ですから飛行場に最後まで残らなくてはならなかったんじゃないかなと思うんです※。読谷の飛行場を守りに来て、読谷で全滅したのです。
※ 建設大隊を最前線にたたせ、本隊は撤退するなど、邪道である。米軍の資料によれば9月に投降したホンダ大尉とその部下は30名程度であったという。
Marine officers confer with a representative of the Jap Army over a capurtured Japansese map. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S.E., Washington, D.C.; the Jap official, and Capt. Theodore H. Harbaugh, 35 Rirchhead Place, Toledo, Ohio; study the map where the Jap soldiers are located on the northern end of Okinawa. Capt. Honda of the Imperial Japansese Army, who is shown surrendering in these pictures, contorols all the Japansese soldiers in this area.【訳】鹵獲した日本地図を見ながら日本陸軍の代表者と協議する海兵隊の将校。沖縄北端の日本兵の配置を調べるオーリアン中尉、日本兵将校、ハーバ−大尉。降伏した日本帝国陸軍のホンダ大尉は、この地域の全ての日本兵を統率していた。(1945年9月3日撮影)
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館
歩兵第32連隊第1大隊 - 志村大隊の投降
9月3日、北上原にいた歩兵第32連隊、伊東大尉 (第一大隊) の説得で志村大隊 (第二大隊) が投降する。前田高地をへて、800人の部隊がさらに29名になっていた。
志村大隊長の目の前に姿を現したのは間違いなく伊東大尉ではあったが、米軍のジープに乗っていたので志村大隊長は伊東大尉の話を簡単には信じなかった。そこで真実を確かめるために高田副官を派遣した。翌日戻ってきた高田副官の言葉と伊東大尉の説得で志村大隊長は九月三日に自ら武装解除をし、第二大隊残存兵を主とする六十名余りは屋嘉捕虜収容所に収容された。その時の約束では八月十五日以前に捕らえられた者は「捕虜」、それ以後は「抑留者」として扱うということだった。志村大隊の生存者は「抑留者」だという。わずかに体面を保ってほっとした。後から考えるとそんなことはナンセンスであった。4月24日に山城を出発した時、第二大隊は志村大隊長ほか800名余だった。そして9月3日まで生き延びたのはわずかに29名だった。
朝鮮人将校の沖縄戦とその後
沖縄戦では、犠牲となった多くの朝鮮人軍夫の他に、数は極めて少ないが、日本陸軍士官学校を卒業した朝鮮人将校もいた。捕虜収容所では朝鮮人将校も朝鮮人軍夫と同じカンパンに収容された。以下、二人の朝鮮人将校の「戦後」を比較する。
9月3日、北上原での歩兵第32連隊の投降兵のなかには、陸軍士官学校56期生で第32連隊第2大隊 (志村大隊) の日原正人大尉 (本名・金鍾碩 キム・ジョンソク) がいた。彼は多くの部下から慕われ、命の恩人ともいわれた。
沖縄戦で生き残れたのは、無理するなと諭してくれた小隊長(日原正人中尉)と、斬り込みに出た後も洞窟に隠れていようと言った四年兵のおかげだった。
前田高地の戦いから4ヶ月、
武装解除間近い頃、北上原の壕に潜んでいた時期があったが、私の沖縄戦体験体験の中では比較的平穏な日々だった。大隊砲小隊の小隊長で朝鮮出身の日原正人中尉は軍人として勇敢な人であったが、それ以上に的確な判断力と将来を見通す目をもった人だった。また壮絶な前田高地の戦いの中でも彼は部下たちに向かって「死ぬだけが国への奉公ではない」と何度も語った人だった。その日原中尉と私は毎晩のように日本の、そしてアジアの将来について語り合った。日原中尉は本気で戦後日本とアジアの将来を憂えていた。日原中尉は敗戦後しばらくは東京に住んでいたが、朝鮮半島に渡り、朝鮮の革新運動家になり、捕縛されて銃殺刑に処せられたと風聞している。
沖縄戦を生きのびた日原正人 (本名・金鍾碩) は、その後、故郷に帰り、他の多くの旧日本軍出身朝鮮人軍人と共に大韓民国国軍の創設に関わり、士官学校の校長や参謀長などを歴任。しかし、麗水・順天事件に関連し左派系軍人として粛清され、1949年にソウルにて銃殺刑に処された。「死ぬだけが国への奉公ではない」と語った金は、処刑当日も米軍政の将校とにこやかに冗談を言いつつ握手し、その後、処刑されたという。
一方、クリ舟で伊是名島にやってきた「平山隊」の平山大尉 (本名・申應均) は、実際に陸軍中野学校の離島残置工作員とともに米兵捕虜の殺害や住民虐殺にも手を染めることとなった。伊是名の住民の証言では、処刑だといきりたつ部下を平山大尉が止めようとしていたことも記されている*3 が、伊是名の捕虜殺害事件では、不思議なことに戦犯裁判にかけられ死刑になるどころか、「平山」も工作員の「宮城」も、戦後、米軍と密接なつながりを持ち続けた。申應均は帰国後は大韓民国国軍の砲兵隊を創設、米陸軍学校にも留学し、その後、軍の経歴から政界へと進み、冷戦時代のドイツ大使など要職を歴任した。
日本の戦争で大勢の朝鮮人が無残にも命を奪われ、またBC戦犯とされ処罰された者*4、祖国でエリート軍人から政治家になった者、粛清され殺された者、韓国の大統領にまで昇りつめた者*5・・・と様々な戦後に分断された。日本が始めた戦争から、祖国を分断する朝鮮戦争へ。朝鮮半島の人々にとって、日本の「終戦」で戦争が終わることなく、終戦はもう一つの戦争の始まりであった。
そのとき、住民は・・
国場幸太郎の沖縄戦と基地建設
基地建設と国場組
戦前は日本軍基地、戦後は米軍基地。沖縄における日本軍の飛行場建設の多く (小禄、読谷、嘉手納、伊江島、西原、城間など) を請負ってきた国場幸太郎と國場組。
國場組の沿革から
すでに小緑飛行場整地並ぴに拡張工事を皮切りに、読谷飛行場新設工事という大工事を成し遂げていた國場組は、沖縄の飛行場関係工事のその大部分(嘉手納飛行場滑走路新設工事、伊江島飛行場新設工事、西原飛行場新設工事、城間飛行場滑走路新設工事)を受注し、予定通り竣工させた※。
こうした沖縄中の軍事拠点が重点的に米軍の標的となり、おびただしい犠牲をだすなか、国場幸太郎は米軍上陸直前に東京の陸軍航空本部に赴き、熊本で終戦を迎える。国場組の従業員は北部やんばるに避難し「無事に」終戦を迎えたという。
直前に東京の陸軍航空本部に赴き、不在の幸太郎に代わって、解散後は幸吉を頭に、國場組従業員140人は国頭地方の山中に仮小屋をつくって避難した。幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日を迎えることができた。
幸太郎は、1946年7月に焦土と化した沖縄に密航船で帰島、米軍に占領されている那覇で、12月には、米軍から那覇港湾荷役作業隊支配人に任命される。
中央、みなと村村長
日本軍捕虜の復員が1947年2月に完了すると、1947年5月1日、米軍政府はその港湾の労働力を補うために特別行政区「みなと村」を設置し、初代の村長に、那覇港湾作業隊総支配人となっていた国場幸太郎を任命した。
『写真集那覇百年のあゆみ』P142 みなと村楚辺地区。
国場幸太郎と国場組の戦後は那覇軍港から始まった。
一方、同年12月、幸太郎は米軍から那覇港湾の荷役作業隊の支配人に任命された。当時の那覇港湾にはありとあらゆる復興用、民生用、軍用諸物資が荷揚げされており、その荷役作業に従事する人々の居住する特別行政区「みなと村」の村長も兼ねた大役であった。
沖縄戦前は日本軍の基地建設、沖縄戦中は疎開、沖縄戦後は米軍の基地建設。国場組の公式 HP に掲載された『國場組物語』(今は掲示されていない) は、国場組の歴史をわかりやすく伝えている。
後に港湾作業は請負制となり、國場組に港湾作業部が設置された。戦後、米軍は沖縄を占領地としたものの確たる統治方針を持っているわけではなかった。が、昭和24(1949)年10月、中国に毛沢東率いる中華人民共和国が誕生すると、沖縄への垣久基地建設に乗り出していく。翌昭和25年に勃発した朝鮮戦争がそれに拍車をかけ、沖縄は基地建設プームにわいた。國場組の記念すべき、戦後初の本格的な建設工事は、昭和24年4月の米軍発注による知花橋架設工事である。これは沖縄の建設業者が、初めて米軍との間に契約を交わして施工した工事でもあった。以後、たくさんの米軍工事を手がけ、米軍工事を通して多くのことを学んでいく。具体的には、まず機械化工法であり、さらに工事施工に際しての安全・衛生の思想、厳格な仕様と契約遵守の考え方、建造物に対する人間重視、快適な居住性の追求等々である。
沿革『国場組物語』のアーカイヴ
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