〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年9月3日 『次々と降伏する日本軍部隊』

敗残兵の投降仲座久雄と規格家国場幸太郎とみなと村

米軍の動向

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飛行中隊の司令部にて行われた対日戦勝記念式(1945年9月3日撮影)

VJ Day ceremonies held by Hq. Squadron.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

海軍第27魚雷艇隊 (白石信治大尉) の降伏式: もとぶ半島

数々の食料強奪や住民虐殺で名をはせた白石隊が山から下りた。

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Preminary to the formal surrender of Jap forces on Motobu Peninsula, Okinawa, Marine Lt. Robert L. Brown of Drew Forest, Madison, N.J., an interpreter, gives final instructions to the Jap commander, Navy Lt. Shiraisha of Tokyo. He commanded the force of 183 navy personnel that surrendered to the 7th Marines one day after the signing of the peace treaty in Tokyo Bay. Shiraisha is shown with sword he later surrendered.

沖縄本島本部半島で行われる日本軍降伏の正式な儀式に備え、翻訳官ブラウン海兵隊中尉が日本海軍司令官白石大尉に対し、最後の指示を与える。東京湾での平和協定調印のあと、彼の指揮していた183人の海軍軍人らは投降した。刀を手にしているのが白石大尉。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1944年7月に長崎の佐世保で編成された第27魚雷艇。編成後、魚雷艇は次々と沖縄本島北部の運天港に造られた基地に移送されます。海上で敵艦に近づき、魚雷攻撃を加える魚雷艇隊は沖縄戦当初は成果も報告されましたが、敵の空襲などの影響を受け、魚雷艇の数は徐々に減っていきます。

そして、アメリカ軍の沖縄本島上陸後の4月以降、部隊は海上での作戦を放棄し、陸上での戦闘に参加するよう命ぜられます。本部半島やヤンバル地区で終戦後までアメリカ軍とゲリラ的な戦闘を続けた部隊が日本軍の降伏を知ったのは8月の末。そして9月3日正午、沖縄でのおよそ1年に及ぶ戦闘を終えた隊員およそ200人は潜んでいた山の中からアメリカ兵の居並ぶ羽地の集落に降り、投降しました。

65年前のきょうは1945年9月3日(月) – QAB NEWS Headline

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Disarmed and searched for contraband, Jap officers and men are marched away under guard of alert marines whose feeling toward Japs have NOT been affected by the signing of peace terms.
海兵隊員の油断のない監視の下、行進を続ける非武装の日本人捕虜ら。海兵隊員の彼らに対する感情は、平和条項にサインした後も変わらない。沖縄。
撮影日: 1945年 9月 3日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Smartly dresses and militarily correct even in surrender, the 183 Japs of Motobu peninsula line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword. Marines with tommy guns and fixed bayonets stranding guard.

降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する、本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって刀が手渡されるのを見届けようと待つ。前列に士官、後列に兵士が並び、トムソン式小型自動機関銃と銃剣を持った海兵隊員が監視する。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-39-2.jpg

Smartly dresses and militarily correct even in surrender the 183 Japs of Motobu peninsula, line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword.

降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって剣が手渡されるのを見届けようと待つ。前列は士官、後列は兵士。(1945年9月3日撮影)

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-39-4.jpg

A marine Captain, Don P. Wyckoff, veteran of line fighting a Peleliu and Okinawa, accepts the sword of Lt. Shiraisha in formalities related to the surrender of 183 Jap officers and men on Motobu Peninsula. “In the name of the Government of the United States, I accept your surrender“, Captain Wyckoff told Shiraisha who stood at attention before the men he commanded. The Samurai sword was handed by Capt. Wyckoff (whose wife, Dorothy, lives at the Fort Shelby Hotel, Detroit, Mich) to Col. Edward W. Snedeker of Washington, D.C., commanding officer of the Seventh Marines. Colonel Snedeker will later present it to Maj. Gen. Dewitt Peck, Commanding General of the 1st Mar. Div.

本部半島での183人の日本兵降伏の儀式において白石大尉から刀を受け取るウィッコフ海兵隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)。「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡され、その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈されることになっている。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marines search Jap prisoners for contraband after the surrender of 183 officers and men, the majority naval personnel.

投降した183人の日本軍将校や兵士(大半は海軍軍人)に対し戦時禁制品の所持検査を行う海兵隊員。沖縄。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館
http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-14-2.jpg

Jap officers climb into trucks for transportation to prison camp.

捕虜収容所行きのトラックに乗り込む日本軍将校ら。沖縄。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

歩兵第32連隊第2大隊(志村常雄大尉)の投降

8月29日、連隊主力と南部の国吉にいた第一大隊長伊東大尉が日本の終戦を知らせにやってきた。< 中略 >

志村大隊長の目の前に姿を現したのは間違いなく伊東大尉ではあったが、米軍のジープに乗っていたので志村大隊長は伊東大尉の話を簡単には信じなかった。そこで真実を確かめるために高田副官を派遣した。翌日戻ってきた高田副官の言葉と伊東大尉の説得で志村大隊長は9月3日に自ら武装解除をし、第二大隊残存兵を主とする60名余りは屋嘉捕虜収容所に収容された。その時の約束では8月15日以前に捕らえられた者は「捕虜」、それ以後は「抑留者」として扱うということだった。志村大隊の生存者は「抑留者」だという。わずかに体面を保ってほっとした。後から考えるとそんなことはナンセンスであった。4月24日に山城を出発した時、第二大隊は志村大隊長ほか800名余だった。そして9月3日まで生き延びたのはわずかに29名だった。< 中略 >私たち志村大隊の生き残りは戦後三十四年を経て、激戦の地、前田高地に慰霊碑を建立した。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川学芸出版) 》

 

降伏式: 国頭村謝敷(くにがみそん・じゃしき)

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北部の東シナ海に面する小さな村、謝敷(?)のすぐそばで日本兵と向かい合う海兵隊員。(1945年9月3日撮影)

Marines meet the Japanese soldiers just outside of Zasiki, a small village on the China Sea Coast of Northern Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ハーバー大尉(オハイオ州出身)サムライ刀を差し出す日本帝国陸軍のホンダ大尉。降伏の印として日本軍大尉の刀を受け取る海兵隊将校、オーリアン中尉(ワシントンDC出身、ハーバー大尉の右)とチャンドラー中尉(ペンシルバニア州出身、大尉の左)(1945年9月3日撮影)

Capt. Honda of the Japanese Imperial Army presents his Samurai Saber to Marine Captain Theodore H. Harbaugh, 35 Birckhead Place, Toledo, Ohio. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S. E., Washington, D. C.; on Capt. Harbaugh's right and 1st Lt. James B. Chandler, 264 Hathaway Lane, Wynnewood, Penns., on his left are the Marine officers who receive the Jap Captain's saber in surrender.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marine officers confer with a representative of the Jap Army over a capurtured Japansese map. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S.E., Washington, D.C.; the Jap official, and Capt. Theodore H. Harbaugh, 35 Rirchhead Place, Toledo, Ohio; study the map where the Jap soldiers are located on the northern end of Okinawa. Capt. Honda of the Imperial Japansese Army, who is shown surrendering in these pictures, contorols all the Japansese soldiers in this area.

鹵獲した日本地図を見ながら日本陸軍の代表者と協議する海兵隊の将校。沖縄北端の日本兵の配置を調べるオーリアン中尉(ワシントンDC出身)日本兵将校、ハーバ−大尉オハイオ州出身)。降伏した日本帝国陸軍のホンダ大尉は、この地域の全ての日本兵を統率していた。(1945年9月3日撮影)
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

コザの戦病院 - マラリア

阿嘉島から屋嘉収容所に送られ、マラリヤ感染が悪化した日本兵捕虜、野戦病院に入院となった。

第88野戦病院は、現在の沖縄市の北方、美里村の台地にあった。

私の入ったテントは、東か西の端なのか思い出せないが、とにかくテント群の一番端にあり、伝染性の病気でもあるマラリア赤痢、皮膚病などの患者だけが収容されていた。

簡単な検査があり、米軍の衛生兵にそのテントの一番入口に近い寝台を〝ここだ〟と指されると、すぐ横になった。

ホスピタルと名はついていても、ところどころ藷の葉などが生え繁っている赤土の台地に、大型のテントが幾つか張られてあるだけのものであった。その一つの中に3、40人が米軍の野戦用の折りたたみのベッドに、頭を通路に向けて何列か並んでいるのだった。

間もなく、日本人の軍医と米人の軍医と、そして米軍の衛生兵が来て脈をとり、注射器で採血したあと、軍医は蚊帳を張るように衛生兵に指示した。ベッドの四隅に70センチ程の棒を立て、これに吊るして蚊帳が張られた。そして衛生兵は数粒のキニーネと、緩和剤と思われる白い錠剤をひと握りも私の手に乗せ、全部一回でのむようにいい、私が時間をかけながらそれをのみ終わるまで、近くで見ていた。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 224-225頁》

 

朝鮮人将校の沖縄戦

沖縄戦を戦った日本兵の中には、陸軍士官学校を卒業し将校となった朝鮮人もいた。陸軍士官学校56期生、歩兵第32連隊第2大隊の日原正人大尉 (本名: 金鍾碩) は多くの部下から慕われた

沖縄戦で生き残れたのは、無理するなと諭してくれた小隊長(日原正人中尉)と、斬り込みに出た後も洞窟に隠れていようと言った四年兵のおかげだった。

《 佐藤良治戦記「北海道新聞」掲載 外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』》

武装解除間近い頃、北上原の壕に潜んでいた時期があったが、私の沖縄戦体験体験の中では比較的平穏な日々だった。大隊砲小隊の小隊長で朝鮮出身の日原正人中尉*は軍人として勇敢な人であったが、それ以上に的確な判断力と将来を見通す目をもった人だった。また壮絶な前田高地の戦いの中でも彼は部下たちに向かって「死ぬだけが国への奉公ではない」と何度も語った人だった。その日原中尉と私は毎晩のように日本の、そしてアジアの将来について語り合った。日原中尉は本気で戦後日本とアジアの将来を憂えていた。日原中尉は敗戦後しばらくは東京に住んでいたが、朝鮮半島に渡り、朝鮮の革新運動家になり、捕縛されて銃殺刑に処せられたと風聞している。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川学芸出版) 》

沖縄戦を生きのびた金鍾碩は、その後、韓国陸軍の大尉となり、麗水・順天事件に関連1948年に銃殺刑を受けた。また伊是名に渡った平山勝敏大尉 (申應均) も1946年に韓国に渡り韓国陸軍中将となっている。

 

そのとき、住民は・・・

CICの尋問

民間人になりすましている日本兵をあぶりだすため尋問が行われた。戦前は警察官として日本軍に協力していた者たちが、収容所で米軍CICの調査官として厳しい尋問をおこない、人々の反感をかうということもあった。

彼らは自動小銃、手榴弾、短剣、拳銃と武装していて、一言も話さずに私を久志のキャンプに連行しました。日本兵であればすぐに銃殺されるなどと聞いていましたので、半ば命も諦めていました。私が彼らに連行されて久志の収容所に行くと、民間人用の収容所の中には人がいっぱいいたのですが、私が入れられた軍人用の鉄条網の張り巡らされた金網のなかには、誰もいませんでした。後で分かったのですが、私が入れられたのは久志ミヤランシンという収容所だったのです。そこに収容されるのは主に兵士で、収容人員はあとからは二〇〇名くらいに達していました。収容所の中には病院もあり、島尻からの負傷兵を治療していました。人員収容テントの他に炊事場等があり、有刺鉄線の金網に囲まれていました。入口の銃座は県道の方を向き久志の山にいた村上隊 (ブログ註・護郷隊) の夜襲に備えて非常体制を敷いていました。
収容所では、夜の八時から翌朝六時までは地域周辺を歩いては行けないという警戒令のようなものがありました。ある日、その禁を破った老人が銃で撃たれました。沖縄の人が瀕死の状態の人を病院に担ぎ込んで、何とか命はとりとめました。
この収容所に連れてこられる人は、日本兵ではないかということを調べる事が第一で、県人だと軍関係者ではないかということを調べていました。私がそこに入れられたのはそんな疑いをもたれたからでした。… (中略) … 

翌日からはCIC(米軍防諜部隊)による調査が始まったのですが、調査はまず英語で、そして日本語で、更に琉球方言で行われました。調査には日系二世の三人があたりました。広島出身の木村という人、朝鮮出身の森本という人、沖縄出身の具志堅という人でした。まず本土出身か沖縄の出身かを調査するために具志堅という人が「イッター アンマーンカイ アータンドー(お前のお母さんに会ったよ)」と言うのです。私が「トー マーンジ アーイビタガ(ほう、どこでお会いになったのですか)」と応じたので沖縄出身ということが分かるという具合でした。普通はそれで済むのですが、私は沖縄の青年にしても防衛隊、護郷隊に入隊していてもおかしくない年齢であるということで厳しく追求されました。
 木村という調査官は、日本語で学歴、軍隊経験等の調査をするわけですが、部隊名をあげて知らないかと聞いたり、部隊長名をあげて知らないかと言い、さらに「配属将校は誰だったか」と聞かれたので、私は「軍隊教育は五年受けていて、特別甲種幹部候補生に合格しており、軍隊にいけばすぐ将校になれるはずでしたが、四月に現地入隊のはずでしたが沖縄戦になったため入隊できず兵士ではありません」と答えました。木村調査官は最後まで私のことを「日本人で沖縄人ではない」と言い張っていました。言葉が分かるのは沖縄に来て帰化しているのだと言い、信用しませんでした。しかし、軍事教育を受けたが兵士ではなく、また出身も沖縄にまちがいないといったことが調査の結果明らかになり、釈放されることになりました。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 男性の証言

 

仲座久雄と規格家「キカクヤー」

住む家、住む土地を失った多くの住民は、米軍のテントや、テントカバーを利用したテントヤー、カバヤー暮らしを強いられた。住宅問題に対処するため、諮詢会公務部に指名された仲座久雄は、キカクヤーを発案、1945年10月から建設が始まる*1

1945年8月15日沖縄諮詢会が設立されて、自治体形が発足し、9月1日に諮詢会内に工務部が設置され、住居の早期的な建設が計画された。その計画設計は、初代沖縄建築士会会長だった仲座久雄氏があった。

(前田朝信氏の話)1946年春頃から、規格住宅(俗に規格家「キカクヤー」と呼んだ)の無償配給が各地区の工務出張所によって、各市町村を通じて行われた。規格住宅は軸部材すべてを2寸×4寸の(俗にアメリカ読みでトゥバイフォーといった)平割材を使い、大釘打ちで組み立てられる規格化した構造と大きさにしたので通称規格住宅といわれた。現在のプレハブ住宅の最も原始的な簡単なものと思えばよい。

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おきなわ建築Web|沖縄・建築家たちの言説【第9回 戦後の住居の遷り変り】

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沖縄建築家 仲座久雄さんの足跡 - Battle of Okinawa

1946-7年ごろのキカクヤー

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写真でつづる 那覇戦後50年 1945-1995 P100/(1946~7)

建築中の規格住宅(1946~7年) : 那覇市歴史博物館

 

 

那覇軍港と港湾労働

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那覇エアベースと那覇軍港 (写真左=1972年時点の那覇エアベースとその周辺の米軍基地、写真右 = 現在の那覇軍港「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」日本通称名嘉手納以南の基地返還計画」より) 。

戦争と土地接収で生活基盤を奪われた人々はその日の暮らしにも困窮した。それまで軍作業を担っていた日本軍捕虜の復員1947年2月に完了すると、1947年5月1日、その港湾の労働力を補うために特別行政区「みなと村」を設置、キカクヤーが並んだ。

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みなと村

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『写真集那覇百年のあゆみ』P142 みなと村楚辺地区。

規格住宅の町並み : 那覇市歴史博物館

基地建設と国場組

沖縄における日本軍の飛行場建設の多く (小禄、読谷、嘉手納、伊江島、西原、城間など) を請負ってきた国場幸太郎は、米軍上陸直前に東京の陸軍航空本部に赴き、熊本で終戦を迎える。

直前に東京の陸軍航空本部に赴き、不在の幸太郎に代わって、解散後は幸吉を頭に、國場組従業員140人は国頭地方の山中に仮小屋をつくって避難した。幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日迎えることができた。

国場組 1931〜1945年 創業、戦前・戦中

その後、1946年7月に米軍占領下の沖縄に密航船で帰島、12月には、幸太郎は米軍から那覇港湾荷役作業隊支配人と「みなと村」村長に任命される。戦後の國場組は那覇軍港と「みなと村」から始まった。

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中央、みなと村村長

人物/国場幸太郎 : 那覇市歴史博物館

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米軍は、当初は、那覇港での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業を捕虜収容所の日本兵捕虜にやらせていたが、1947年頃に捕虜の引き揚げで港湾労働者がいなくなると、沖縄県民約2千人規模の那覇港湾作業隊」を組織させ、周辺の区画に軍作業の労務者のための米軍テントと規格住宅を建てた。

1947年5月1日琉球列島米国軍政府の便宜のため沖縄民政府は特殊行政区「みなと村」を設置した。初代の村長には、前年に熊本から密航帰郷し、那覇港湾作業隊総支配人となっていた国場幸太郎が就任した。

みなと村 - Wikipedia

 

 

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*1:「そこで、沖縄諮詢会と米軍政府は、「慣れた職人だと1時間もあれば建てられるという」大量生産方式の規格屋(キカクヤー)を生み出し、1945年10月から住宅の建設に取りかかる。」川平成雄「人の動きと経済復興の始まり」2009 PDF