〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年9月3日 『次々と降伏する日本軍部隊』

 

米軍の動向

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飛行中隊の司令部にて行われた対日戦勝記念式(1945年9月3日撮影)

VJ Day ceremonies held by Hq. Squadron.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marine officers confer with a representative of the Jap Army over a capurtured Japansese map. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S.E., Washington, D.C.; the Jap official, and Capt. Theodore H. Harbaugh, 35 Rirchhead Place, Toledo, Ohio; study the map where the Jap soldiers are located on the northern end of Okinawa. Capt. Honda of the Imperial Japansese Army, who is shown surrendering in these pictures, contorols all the Japansese soldiers in this area.

鹵獲した日本地図を見ながら日本陸軍の代表者と協議する海兵隊の将校。沖縄北端の日本兵の配置を調べるオーリアン中尉(ワシントンDC出身)日本兵将校、ハーバ−大尉オハイオ州出身)。降伏した日本帝国陸軍のホンダ大尉は、この地域の全ての日本兵を統率していた。(1945年9月3日撮影)
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

海軍第27魚雷艇隊 (白石信治大尉) の降伏式: もとぶ半島

数々の食料強奪や住民虐殺にも関与した白石隊が山から下りた。

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Preminary to the formal surrender of Jap forces on Motobu Peninsula, Okinawa, Marine Lt. Robert L. Brown of Drew Forest, Madison, N.J., an interpreter, gives final instructions to the Jap commander, Navy Lt. Shiraisha of Tokyo. He commanded the force of 183 navy personnel that surrendered to the 7th Marines one day after the signing of the peace treaty in Tokyo Bay. Shiraisha is shown with sword he later surrendered.

沖縄本島本部半島で行われる日本軍降伏の正式な儀式に備え、翻訳官ブラウン海兵隊中尉が日本海軍司令官白石大尉に対し、最後の指示を与える。東京湾での平和協定調印のあと、彼の指揮していた183人の海軍軍人らは投降した。刀を手にしているのが白石大尉。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1944年7月に長崎の佐世保で編成された第27魚雷艇。編成後、魚雷艇は次々と沖縄本島北部の運天港に造られた基地に移送されます。海上で敵艦に近づき、魚雷攻撃を加える魚雷艇隊は沖縄戦当初は成果も報告されましたが、敵の空襲などの影響を受け、魚雷艇の数は徐々に減っていきます。

そして、アメリカ軍の沖縄本島上陸後の4月以降、部隊は海上での作戦を放棄し、陸上での戦闘に参加するよう命ぜられます。本部半島やヤンバル地区で終戦後までアメリカ軍とゲリラ的な戦闘を続けた部隊が日本軍の降伏を知ったのは8月の末。そして9月3日正午、沖縄でのおよそ1年に及ぶ戦闘を終えた隊員およそ200人は潜んでいた山の中からアメリカ兵の居並ぶ羽地の集落に降り、投降しました。

65年前のきょうは1945年9月3日(月) – QAB NEWS Headline

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Disarmed and searched for contraband, Jap officers and men are marched away under guard of alert marines whose feeling toward Japs have NOT been affected by the signing of peace terms.
海兵隊員の油断のない監視の下、行進を続ける非武装の日本人捕虜ら。海兵隊員の彼らに対する感情は、平和条項にサインした後も変わらない。沖縄。
撮影日: 1945年 9月 3日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Smartly dresses and militarily correct even in surrender, the 183 Japs of Motobu peninsula line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword. Marines with tommy guns and fixed bayonets stranding guard.

降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する、本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって刀が手渡されるのを見届けようと待つ。前列に士官、後列に兵士が並び、トムソン式小型自動機関銃と銃剣を持った海兵隊員が監視する。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-39-2.jpg

Smartly dresses and militarily correct even in surrender the 183 Japs of Motobu peninsula, line up smartly for the formal surrender ceremonies. Officers in the foreground and men in the rear, they prepare to witness the surrender by Lt. Shiraisha of his Samurai sword.

降伏の儀式のため軍服に身を包み整列する本部半島の183人の日本兵。白石大尉によって剣が手渡されるのを見届けようと待つ。前列は士官、後列は兵士。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-39-4.jpg

A marine Captain, Don P. Wyckoff, veteran of line fighting a Peleliu and Okinawa, accepts the sword of Lt. Shiraisha in formalities related to the surrender of 183 Jap officers and men on Motobu Peninsula. “In the name of the Government of the United States, I accept your surrender“, Captain Wyckoff told Shiraisha who stood at attention before the men he commanded. The Samurai sword was handed by Capt. Wyckoff (whose wife, Dorothy, lives at the Fort Shelby Hotel, Detroit, Mich) to Col. Edward W. Snedeker of Washington, D.C., commanding officer of the Seventh Marines. Colonel Snedeker will later present it to Maj. Gen. Dewitt Peck, Commanding General of the 1st Mar. Div.

本部半島での183人の日本兵降伏の儀式において白石大尉から刀を受け取るウィッコフ海兵隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)。「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡され、その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈されることになっている。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-15-1.jpg

Marines search Jap prisoners for contraband after the surrender of 183 officers and men, the majority naval personnel.

投降した183人の日本軍将校や兵士(大半は海軍軍人)に対し戦時禁制品の所持検査を行う海兵隊員。沖縄。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館
http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-14-2.jpg

Jap officers climb into trucks for transportation to prison camp.

捕虜収容所行きのトラックに乗り込む日本軍将校ら。沖縄。(1945年9月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

歩兵第32連隊第2大隊(志村常雄大尉)の投降

8月29日、連隊主力と南部の国吉にいた第一大隊長伊東大尉が日本の終戦を知らせにやってきた。< 中略 >

志村大隊長の目の前に姿を現したのは間違いなく伊東大尉ではあったが、米軍のジープに乗っていたので志村大隊長は伊東大尉の話を簡単には信じなかった。そこで真実を確かめるために高田副官を派遣した。翌日戻ってきた高田副官の言葉と伊東大尉の説得で志村大隊長は9月3日に自ら武装解除をし、第二大隊残存兵を主とする60名余りは屋嘉捕虜収容所に収容された。その時の約束では8月15日以前に捕らえられた者は「捕虜」、それ以後は「抑留者」として扱うということだった。志村大隊の生存者は「抑留者」だという。わずかに体面を保ってほっとした。後から考えるとそんなことはナンセンスであった。4月24日に山城を出発した時、第二大隊は志村大隊長ほか800名余だった。そして9月3日まで生き延びたのはわずかに29名だった。< 中略 >私たち志村大隊の生き残りは戦後三十四年を経て、激戦の地、前田高地に慰霊碑を建立した。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川学芸出版) 》

 

降伏式: 国頭村謝敷(くにがみそん・じゃしき)

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/96-17-2.jpg

北部の東シナ海に面する小さな村、謝敷(?)のすぐそばで日本兵と向かい合う海兵隊員。(1945年9月3日撮影)

Marines meet the Japanese soldiers just outside of Zasiki, a small village on the China Sea Coast of Northern Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/96-17-3.jpg

ハーバー大尉(オハイオ州出身)サムライ刀を差し出す日本帝国陸軍のホンダ大尉。降伏の印として日本軍大尉の刀を受け取る海兵隊将校、オーリアン中尉(ワシントンDC出身、ハーバー大尉の右)とチャンドラー中尉(ペンシルバニア州出身、大尉の左)(1945年9月3日撮影)

Capt. Honda of the Japanese Imperial Army presents his Samurai Saber to Marine Captain Theodore H. Harbaugh, 35 Birckhead Place, Toledo, Ohio. 1st Lt. Martin E. Orlean, 4303 1st St., S. E., Washington, D. C.; on Capt. Harbaugh's right and 1st Lt. James B. Chandler, 264 Hathaway Lane, Wynnewood, Penns., on his left are the Marine officers who receive the Jap Captain's saber in surrender.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

美里野戦病院 - マラリア

屋嘉収容所で、マラリヤ感染の日本兵捕虜、前日から米軍の野戦病院に入院となった。

『第88野戦病院は、現在の沖縄市の北方、美里村の台地にあった。

私の入ったテントは、東か西の端なのか思い出せないが、とにかくテント群の一番端にあり、伝染性の病気でもあるマラリア赤痢、皮膚病などの患者だけが収容されていた。

簡単な検査があり、米軍の衛生兵にそのテントの一番入口に近い寝台を〝ここだ〟と指されると、すぐ横になった。

ホスピタルと名はついていても、ところどころ藷の葉などが生え繁っている赤土の台地に、大型のテントが幾つか張られてあるだけのものであった。その一つの中に3、40人が米軍の野戦用の折りたたみのベッドに、頭を通路に向けて何列か並んでいるのだった。

間もなく、日本人の軍医と米人の軍医と、そして米軍の衛生兵が来て脈をとり、注射器で採血したあと、軍医は蚊帳を張るように衛生兵に指示した。ベッドの四隅に70センチ程の棒を立て、これに吊るして蚊帳が張られた。そして衛生兵は数粒のキニーネと、緩和剤と思われる白い錠剤をひと握りも私の手に乗せ、全部一回でのむようにいい、私が時間をかけながらそれをのみ終わるまで、近くで見ていた。』(224-225頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 224-225頁》

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A detail of Okinawans digs potatoes in a field near the American Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Retto.

米軍政府病院近くの畑でイモを掘る沖縄人特別班。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

朝鮮人沖縄戦

沖縄戦を戦った日本兵の中には、陸軍士官学校を卒業し将校となった朝鮮人もいた。

日原正人大尉 (本名: 金鍾碩) 陸軍士官学校56期生、歩兵第32連隊第2大隊。

大隊砲小隊の日原正人中尉は砲が役に立たないと判断すると、果敢にも手兵数人を従えて敵に突入し、手榴弾戦を交えて壕に戻ってきた。敵の猛烈な攻撃で本部壕全体がぐらぐらと揺れ、岩は無惨に崩れ落ちた。その日一日で、擂鉢状の窪地にあった監視壕は影も形もなくなってしまい、壕のいくつかはすっかり埋まって、前田高地の地形そのものが変わり果ててしまった。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川学芸出版) 》

沖縄戦で生き残れたのは、無理するなと諭してくれた小隊長(日原正人中尉)と、斬り込みに出た後も洞窟に隠れていようと言った四年兵のおかげだった。

《 佐藤良治戦記「北海道新聞」掲載 外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』》

武装解除間近い頃、北上原の壕に潜んでいた時期があったが、私の沖縄戦体験体験の中では比較的平穏な日々だった。大隊砲小隊の小隊長で朝鮮出身の日原正人中尉*は軍人として勇敢な人であったが、それ以上に的確な判断力と将来を見通す目をもった人だった。また壮絶な前田高地の戦いの中でも彼は部下たちに向かって「死ぬだけが国への奉公ではない」と何度も語った人だった。その日原中尉と私は毎晩のように日本の、そしてアジアの将来について語り合った。日原中尉は本気で戦後日本とアジアの将来を憂えていた。日原中尉は敗戦後しばらくは東京に住んでいたが、朝鮮半島に渡り、朝鮮の革新運動家になり、捕縛されて銃殺刑に処せられたと風聞している。父君が朝鮮出身で朝鮮李王朝の武官であった。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』(角川学芸出版) 》

沖縄戦を生きのびた金鍾碩は、その後、日本の植民地主義によって切り裂かれた祖国に帰還、1948年に銃殺刑を受けた。

 

そのとき、住民は・・・

CIC - ウチナーグチを使った尋問の仕方

彼らは自動小銃、手榴弾、短剣、拳銃と武装していて、一言も話さずに私を久志のキャンプに連行しました。日本兵であればすぐに銃殺されるなどと聞いていましたので、半ば命も諦めていました。私が彼らに連行されて久志の収容所に行くと、民間人用の収容所の中には人がいっぱいいたのですが、私が入れられた軍人用の鉄条網の張り巡らされた金網のなかには、誰もいませんでした。後で分かったのですが、私が入れられたのは久志ミヤランシンという収容所だったのです。そこに収容されるのは主に兵士で、収容人員はあとからは二〇〇名くらいに達していました。収容所の中には病院もあり、島尻からの負傷兵を治療していました。人員収容テントの他に炊事場等があり、有刺鉄線の金網に囲まれていました。入口の銃座は県道の方を向き久志の山にいた村上隊の夜襲に備えて非常体制を敷いていました。
 収容所では、夜の八時から翌朝六時までは地域周辺を歩いては行けないという警戒令のようなものがありました。ある日、その禁を破った老人が銃で撃たれました。沖縄の人が瀕死の状態の人を病院に担ぎ込んで、何とか命はとりとめました。
 この収容所に連れてこられる人は、日本兵ではないかということを調べる事が第一で、県人だと軍関係者ではないかということを調べていました。私がそこに入れられたのはそんな疑いをもたれたからでした。

< 中略 >
 翌日からはCIC(米軍防諜部隊)による調査が始まったのですが、調査はまず英語で、そして日本語で、更に琉球方言で行われました。調査には日系二世の三人があたりました。広島出身の木村という人、朝鮮出身の森本という人、沖縄出身の具志堅という人でした。まず本土出身か沖縄の出身かを調査するために具志堅という人が「イッター アンマーンカイ アータンドー(お前のお母さんに会ったよ)」と言うのです。私が「トー マーンジ アーイビタガ(ほう、どこでお会いになったのですか)」と応じたので沖縄出身ということが分かるという具合でした。普通はそれで済むのですが、私は沖縄の青年にしても防衛隊、護郷隊に入隊していてもおかしくない年齢であるということで厳しく追求されました。
 木村という調査官は、日本語で学歴、軍隊経験等の調査をするわけですが、部隊名をあげて知らないかと聞いたり、部隊長名をあげて知らないかと言い、さらに「配属将校は誰だったか」と聞かれたので、私は「軍隊教育は五年受けていて、特別甲種幹部候補生に合格しており、軍隊にいけばすぐ将校になれるはずでしたが、四月に現地入隊のはずでしたが沖縄戦になったため入隊できず兵士ではありません」と答えました。木村調査官は最後まで私のことを「日本人で沖縄人ではない」と言い張っていました。言葉が分かるのは沖縄に来て帰化しているのだと言い、信用しませんでした。しかし、軍事教育を受けたが兵士ではなく、また出身も沖縄にまちがいないといったことが調査の結果明らかになり、釈放されることになりました。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 男性の証言

 

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  1. 陸軍士官学校卒業生一覧 (日本) - Wikipedia