〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月30日 『許されなかった帰島』

最年少の学徒兵戦争マラリアと中野学校

 

米軍の動向

米軍の兵器

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《AIによるカラー処理》MK-13魚雷が正確な角度で飛ぶように翼のバランスを確かめる第47爆撃中隊第41爆撃群の二人の兵士。沖縄。(1945年7月30日撮影)

A couple of men of the 41st Bomb Group, 47th Bomb Squadron, are shown as they ”balanced” the wings on the MK-13 torpedoes to give correct flight angle. Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ヤンキー・バカ」と称されるこのMK-13敷設魚雷は、爆撃機からの発射専用に設計された。第41爆撃群第47爆撃中隊。嘉手納飛行場(1945年7月30日撮影)

This MK-13 torpedo, inscribed ”Yankee Baka”, is the first to be designed for launching from aircraft only. 47th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Kadena Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本本土の空爆

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九州の佐世保港への爆撃任務のため離陸するノース・アメリカンB-25ミッチェル。ミッチェルに搭載された13型魚雷を使うのはこれが最初の任務である。第41爆撃群第47爆撃中隊。沖縄。(1945年7月30日撮影)

North American B-25 ”Mitchell” taking off for bombing mission over Sasebo Harbor, Kyushu. This is the first mission for the Mark 13 Torpedo attached to the ”Mitchell”. 47th Bomb Squadron, 41st Bomb Group. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍基地の事件・事故

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《AIによるカラー処理》日本への攻撃を終え戻ってきたコンソリデーテッドB-24を管制塔から見る。対空砲火を受けひどく損害を受けた。1人死亡、不時着の際の衝撃で1人重体、3人が軽傷。遺体と負傷者は第381基地病院へ護送された。さらに不時着の1時間後、離陸間近の海軍機コルセアがタイヤのパンクのせいで急に進路を外れ、滑走路の中央近くのへりから約30フィートのところで先のB-24に衝突火事を引き起こした。B-24の爆弾格納庫に残っていた5つの爆弾が火事によって爆発し、近くにいた兵士のうち4人が死亡、9人が負傷した。沖縄。(1945年7月30日撮影)

View of the area from ”tower” showing a Consolidated B-24 as it returned from ”strike” on Japan, badly damaged by flak, results were: 1 dead, 1 dying from crash landing, and 3 moderately injured. Dead and wounded were removed from the plane and taken to the 381st Station Hospital. A half hour after the crash landing, a Navy Corsair taking off blew a tire, and swerved off the runway crashing into the B-24 previously mentioned which was approximately 30 feet from the edge of near center of runway of the strip. The result caused a fire. The B-24 had 5 bombs left in its racks which exploded killing 4 and injuring 9 men standing nearby.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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爆発の後コンソリデーテッドB-24リベレーターの残骸。沖縄。(1945年7月30日撮影)

All that remains of a Consolidated B-24 ”Liberator” after an explosion occurred. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 - 血漿を捕虜に

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-5631.jpg

沖縄方面から傷病兵を乗せてグアムに戻る病院船ソーレス。ソーレスはグアムに入港し、病院に移送するため傷病兵を降ろす。

This is a picture of the hospital ship Solace as she returns to Guam with wounded from the Okinawa Area. The Solace puts into Guam to discharge her casualties to the hospitals of Guam.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

7月の末ごろから隣り合わせにいたアメリカ兵の入院患者はごっそりと減った病院船アメリカ本国かハワイへ輸送したらしい。そのころからは沖縄本島南部での戦闘もほとんどなく、新しいアメリカ兵の入院者はいないで、送り出し一方であった。その時期を見はからったのであろうが、日本の軍医たちはPW患者たちに粉末プラスマ(血清*)を使ってみてくれないか、とアメリカ軍医に訴えた。日本の軍医たちは粉末プラスマ見たこともなかったし、むろん、使用したこともなかった。粉末プラスマがアメリカで製造されているということも、戦線で使われているということも聞いていたので、彼らは医者としてのその効果を実際に観察したかったのである。

医者同士の気持ちが通じたのであろうが、それまでは…PWたちから採血して輸血をしていたが、やがて粉末プラスマをPW患者に使いはじめた。粉末のプラスマの入ったガラス瓶に同じくガラス瓶に入った蒸留水を流し込み、ゴム管と注射針をつければよかった。それらの薬品器一揃いが封鑞で固めた紙箱に一つのセットになっていて、どこへでも輸送でき、いつどこでも輸血できるようになっていた

このプラスマでアメリカ兵は南太平洋のジャングルの中でも生命を救ってもらったのである。一方日本軍では簡単に「処置なし」で見放されてしまい、負傷兵が何万となく死んでいったものである。』(199-200頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 199-200頁より》

(投稿者註: 文中にある「血清」は、原文ママ。「プラスマ」と言ってることから「血漿」の意味で使用したと思われる。)

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揚陸艦上で行われた血漿輸血の実演。全ての兵士が学ぶ実践的な応急処置の手順の1つである。

Demonstration for giving blood plasma was held aboard an LST one of the practical first aid steps taught to all men.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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後方へ運ばれる前に、前線で血漿輸血を受ける第5海兵連隊第2大隊の兵士。

Marine of 2nd Bn, 5th Reg, receiving blood plasma on front lines prior to being moved to rear.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

通信隊 - 最年少の学徒兵

沖縄県立水産学校沖縄県立工業学校

沖縄にある旧制中学21校から、男子生徒は上級生が鉄血勤皇に、下級生は通信隊に配属された。最も年少の通信隊の戦死者率が最も高い。

沖縄県立水産学校の学徒3人と沖縄県立工業学校の学徒1人は、潜んでいた壕の近くにいた民間人や日本兵と共に潜伏し、夜な夜な午前2時頃からでかけては、焼け残った砂糖、大豆、澱粉、サトウキビ、サツマイモなどを探し回った。

県立水産学校2年で通信隊として動員された瀬底正賢さん証言

昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。

その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。

 その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。

 具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。

 南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。

 「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」― 純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。

沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

石川高校、沖縄戦後初めての高校が開校 

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65年前のきょう、収容所のあった石川に初めて高校が誕生しました。

うるま市の城前小学校に建つ教育発祥の地の碑。この場所で65年前のきょう、石川高の開校式が行われました。

伊波秀雄さん「終戦直後ですからもちろん施設も貧弱で、学用品もほとんどない。教科書なし、ノートなし」石川高校に通い、母校で校長まで勤め上げた伊波秀雄さん(80歳)もそのひとりです。伊波さん「台風の時などは屋根も吹き飛ばされて、生徒みんなで手直しするのも大きな作業でした」

アメリカ軍の兵舎跡に建てられた石川高校は、トタンで出来た、かまぼこ型のコンセットで授業が行われていました伊波さん「隣の授業の声も聞こえるんです。コンセットをそのまま仕切って使っていましたから」

15歳から19歳といえば、当時は戦闘で命を落としたり、収容所で家族を支える中心的労働力となっていたため、開校式に参加できたのはわずか4人だけでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月30日(月)

 

八重山の戦争マラリヤ

波照間では陸軍中野学校出身の「山下虎雄」と名乗る軍曹にマラリヤが蔓延する地域に強制疎開させられていた。山下は離島残置工作員だつた。識名校長は決死で石垣にわたり八重山守備隊に直訴、帰島の許可を得るが、山下はなおも帰島を許さなかった。

波照間の人々は、このままマラリアで死ぬか、山下に殺されるか、岐路に立った。山下では話にならないということで、波照間国民学校識名信升校長は「ここ(南風見)でへばりつくか、いや、島民を救うためには実状を報告して島に帰る以外にない」と八重山旅団本部の宮崎旅団長に直訴の決意をした。

遂に、識名信升校長一行は、一九四五年(昭和二十年)七月三十日の夜間、山下に気づかれないように秘かに南風見から川を渡って海岸づたいに歩き、そして、船で小浜島に渡り、そこからさらに石垣に渡った。波照間島住民の疎開地での窮状を宮崎旅団長に訴え、疎開解除を願い出た。

宮崎旅団長から「帰ってよろしい」と帰島の許可が出た。一行は喜んで西表に帰った。帰島の許可を伝えると「波照間の人々は『バンザイ』を叫びながら涙を流して喜んだ」という。

すでに、七月二日には、アメリカ軍は沖縄作戦の終了宣言をしていた。したがって宮崎旅団長としては、疎開を解除することについてなんら、踌躇することはなかった。しかし、山下は宮崎旅団長から得たという疎開解除を拒んだ。ここに、山下の大本営直属の特務機関員としての姿がはっきり浮きぼりにされた。

『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫

 

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沖縄の今日

1978年7月30日 730 (ナナサンマル) ~その時、沖縄は~