〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月2日 『国頭突破するためには』

北部掃討戦「国頭突破」とは「山下虎雄」との闘い

米軍の動向

北部の掃討作戦

沖縄島の北部、国頭村での掃討。

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北部の掃討作戦中、国頭村安田から約3マイルの山を登っていく偵察隊を指揮する第27師団第105連隊第2大隊H中隊の部隊長ホロウェイ2等軍曹。(1945年8月2日撮影)

S/Sgt. Ralph Holloway of Marion, IND., platoon leader of company H, 2nd Bn., 105th Regiment, 27th Division, leads a patrol upstream in the mountains of northern Okinawa, about three miles west of Ada, during the mop-up operations in the area.
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄本島北部山中をパトロールのSCR300無線機を操作する第27師団第105連隊第2大隊司令部中隊ネーア軍曹。無線機を担いでいるのは地元住民(1945年8月2日撮影)

S/Sgt. William A. Naire, Pasadena, Cal., Headquarters Company, 2nd Battalion, 105th Regiment, 27th Division, operates an SCR 300 radio at Company ”H” Command Post, While patrolling in the mountains of Northern Okinawa. The set is carried by a native Okinawan.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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那覇基地 (現在の那覇空港) 内の高射砲。那覇基地 (Naha AB) の一画は、ミサイル基地「那覇サイト」として継承され、冷戦時代には核ミサイルも配備された。

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Control room of the 98th Anti-Aircraft Artillery Battalion, Battery D, a 90mm anti-aircraft battery located at Naha Airfield on Okinawa, Ryukyu Retto. Position of enemy plane was sent to control room by radio from AAA Controller at Fighter Control Center and plots of the enemy plane's position are checked on plotting board. When in range of SCR 584 Parabolic radar, the battery starts tracking and will open fire when the plane is within effective firing range of its four 90mm anti-aircraft guns.

第98高射砲大隊D砲兵隊の管制室。90mm高射砲部隊が那覇飛行場に位置する。敵機の位置が戦闘機管制センターの高射砲制御装置から無線でこの管制室へ送られ、敵機位置の座標は図示板でチェックされる。SCR584パラボラレーダーの範囲内では、砲兵隊が追跡を開始し4台の90mm高射砲の射程距離に敵機が入ると射撃を開始する。(1945年8月2日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1959年6月19日、核弾頭を搭載したナイキ・ハーキュリーズ那覇サイトで誤発射された。米国は2015年になって公式にこの事件について認めた。

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核ミサイル、沖縄で1959年誤発射 「爆発なら那覇は吹き飛んでいた」 | 沖縄タイムス

那覇サイト8には、4つの発射台があり、それぞれの地下にミサイルが保管されている。通常は1発が核弾頭つきのタイプで、3発が通常弾頭タイプだ。

松岡哲平『沖縄と核』(新潮社、2019年)

 

第32軍の敗残兵

「国頭突破」とは何だったのか

敗残兵のあいだで、8月になると日本の援軍が沖縄に逆上陸するという話が広く流布され、それぞれ前線を突破し北部の国頭村に向かう兵士が続出、それによりさらに多くの犠牲者をうんだ。

陸軍第24師団 歩兵第32連隊の兵士による証言

このデマがあるから、国頭に突破したんだ。高地に1大隊の大隊長来たら、日本も負けたということが、ここを中心にして分かったんだ。それまでは戦、負けたということは分からないから、(国頭へ)突破するという余裕があったわけ。

Q:逆上陸するという噂はあったんですか?

あった。ただ、逆上陸するという、日本がするから。われわれは、ここでは駄目だからということで、突破すると。生き残りが、113名残ってる。この、113名がたまたま、つとめに長く壕の中に入って、それで7月になったら、普天間宜野湾に突破したんだ。また、あそこで中城公園のところで、41名か42名が殺された。そこに、あまり一緒にいると発見されて、あそこを総攻撃するんだ。こっちに逃げれば撃たれて、60名あまりしか、残っていなかった。生きてるのは。

比嘉 政雄さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

陸軍第24師団 歩兵第89連隊の兵士による証言

うちもね、西原のすぐ近くに何ていう集落だったかな。あ、新垣という集落がある。そこまで突破したんですよ。したら、西海岸から東海岸まで鉄条網ざっと張ってね、ほいで、望楼が立ってね、アメリカ兵や敗残兵が国頭突破するの分かってるんだからね、そんなもの近寄るものなら、ババーッと撃たれてね、全然それから先突破できなかった。

Q:南さんは、国頭に行けば何があると思って・・・。

「航空隊が逆上陸する」というのを軍司令官命令でね、うちらはそれを本気にしてたわけだ。でね、この敗残兵になってからね、この沖縄の島から、何とかして離れることはできないかと思って、磯舟か何かでもかっぱらってね、海に流されればね、黒潮はね、あれだって、九州に流れているから流れ着けるというような話も聞いて、そんなものとったってね、3時間や4時間で沖縄の島離れられないしょ。もう最後はね、どうなるか、とにかく国頭突破、それ以外は考えていなかったね。

だけど、それから先は行けないんですよね、全然。それで、そこへ敗残兵が集められて1回掃討戦に遭って40名ぐらいみんなやられちゃった。

南 義雄さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

だから国頭に行けば、どこかの部隊がいるはずだと。いるはずだと言ってもわからない。確認したわけではないから。連絡取っていないんだから。

大場 惣次郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

一中鉄血勤皇隊の学徒の証言

一中鉄血勤皇隊にいた学徒の1人は、家族と共に兼城村照屋の壕にいた。そこには、『かなりの数の兵隊がかくれていた。昼は壕にこもり、水汲みや食糧探しは夜やるので、…戦闘がどうなっているかは全くわからなかった。』(338頁)

7月下旬、『…南から逃れてきた兵隊の情報で、日本軍は摩文仁で壊滅したことを知った。また「生きている将兵は国頭の恩納村に集結し、本土からの指示を待て」との軍司令部の命令がもたらされていたので、壕の兵隊は数人ずつグループを組んで国頭突破に出て行った。』(338頁)

学徒と家族が『国頭めざして照屋の壕を出たのは7月下旬だった。照屋にいる間に2人の死者がでていた。まず祖母が栄養失調で死亡、つづいて末の妹(2歳)も死んだ。栄養失調になった人は次第にやせ細り、元気がなくなって最後に灯が消えるように死んでしまった。重態だった叔母も国頭突破に同行したものの動けなくなり、食糧を分けて途中の民家に残してきた。(この叔母はのちに米軍に救出されてコザ市の胡屋病院に収容されたが、そこで間もなく死亡した。)』(338-339頁)

…国頭突破のコースは照屋の壕潮平武富南風原村長堂饒波川という、かつて南下してきた道をほぼ山伝いに北上するコースだった。…総勢13名の家族があてもなく北上するのだから、用心に用心を重ねて行動した。

…しばらく歩いては周りの様子をうかがい、異常があれば物陰に隠れて時を待ち、…安全をたしかめてからそろそろ歩きだすといった調子で、歩行距離は一晩せいぜい3キロ程度だった。道々、ゲートル姿の友軍の死体を目にした。

北上の途上、米軍の陣地によくぶつかった。そにたびに匍匐前進したり迂回したりして通り抜けたが、一番の難所は津嘉山の米軍駐屯地帯だった。山の上から見ると、饒波川がわれわれの行く手をさえぎるように流れ、その背後に米軍の幕舎群が続いていた。日が暮れると幕舎のライトが周辺をあかあかと照らし、これまでの方法ではとても突破できそうになかった。

…長堂集落の手前の山に、2、3日ひそんで突破計画を練った。その結果、頃はちょうど台風シーズンだから台風を待つしかない、台風になれば、駐屯地のライトは倒壊し真っ暗闇になるから幕舎の間隙を縫って行けば突破できる、突破はこれしかない、ということになった。

…幾日もたたぬうちに天気は荒れ模様となり、台風のやってくる兆しが見えた。(339-340頁)

8月2日…台風の通過する日、…夕方から突破の準備にとりかかった。…先ず饒波川を渡らねばならないが、折からの豪雨で増水している川を胸まで浸かって渡っていった。

米軍の駐屯地は予想にたがわず兵隊は幕舎に引っ込み、無警戒になっていたので難なく通り抜けることができた。しかし…篠つく雨をついて国場方面から引っ切りなしにやってくるトラックは、サーチライトの光芒のように道路をあかあかと照らしながら走っていた。

この道路はなんとしてもその夜のうちに渡らなければならない。…トラックの流れがとぎれると、…駆け足で道路を横断…全員が横断するのに時間がかかったが、…無事通過することだできた。(341-342頁)

《「証言 ・沖縄戦 沖縄一中  鉄血勤皇隊の記録(下)」(兼城一・編著者/高文研) 338、338-339、339-340、341-342頁より》

 

敗残兵の生活

北部恩納岳周辺には多くの兵士が身を潜めて生きていた。

谷茶部落の壊れた民家の床下には、まだ、小学生が勉強中の地理、歴史、国語、理科、数学など、そのほか「家の光」などといった本が沢山散乱していて、これを唐米袋の中に一杯詰めて山に運んできた私たちは、久しぶりで紙を使うようになった。同時に、沖縄の地理や歴史の勉強をことごとく身につけることもできた。

谷茶部落の少し南側に寄ったところの、山が海岸まで迫っている溢路の木立の中に、小さな滝があった。日中、暑い海岸道路を往来する米兵たちが、この天然の滝に立寄って水浴びをするらしい---ここを発見したのは岡本上等兵であるが、夜か朝早くいって見ると、真新しい、タオルや石鹸、それに剃刀までがたくさん捨ててあって、私たちは以来不自由しなくなった。久しぶりで熱帯疥癬のために、太ももから尻にかけて流れでている膿のために、洗濯板のように固くなっているズボンをバリバリ剥がして、体を洗い髭をそってみな生き返ったようになった。また、昼間、海岸道を米兵が裸になってブルドーザーを駆使して、道路の拡張工事をしているのを樹間からよく見さだめておいて、夜になって付近の雑草の中にかくしてある缶詰の食糧を盗んできた。

と同時に放置してあるブルドーザーの中からガソリンや油も抜きとってきて、夜は小屋の中で明かりを灯すようになった。

この灯りのお陰で、夜の食糧徴発は、留守居役の窪田伍長が谷間の入口まで灯をともして迎えに来てくれるようになったから、その晩のうちに小屋にかえって来られるようになった。笑いを忘れ、もうどうにでもなれ・・・といってうらみつらみでむすばれていた戦友たちの顔も、久しぶりにほぐれて明るくなってきた。

『私たちは決して平穏に暮らせるようになったのではない。日中になると10名くらいの敵のパトロール隊が石川岳の稜線の方にもやってきた。パトロール隊は主に、屋嘉岳の東西横断道路を西海岸方面から、日本兵が潜んでいそうな谷間や灌木内に向かって、ダダダダダーッと機銃を浴せながら登ってゆき、標高250メートルの頂上につくと、こんどは南側の石川岳と北側の伊芸岳の谷間に向かって迫撃砲を乱射するのが、日課のようになっていた。その迫撃砲弾が私たちのいる谷間にも轟然と炸裂して、スワ、と色めきたったこともあった。』(253頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 252、253頁より》

 

そのとき、住民は・・・

波照間の住民、「山下虎雄」との闘い

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沖縄玉砕後も「ゲリラ戦続けろ」 民間スパイ機関が暗躍か | 沖縄タイムス

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Qリポート 強制疎開迫った人物は – QAB NEWS Headline

波照間の住民は、陸軍中野学校出身の「山下虎雄」(本名 酒井喜代輔 酒井清) と名乗る離島残置諜者によって、マラリヤが蔓延する地域に強制疎開させられていた。7月30日、識名校長は旅団長に直訴し帰島許可を得るが、「山下虎雄」は帰島を許可しない。

だが、帰島を拒否する山下に対して波照間住民はもはや黙ってはいなかった。特に識名校長は先頭に立って山下と闘っていた。その当時の様子を外間イクさんはこう語っている。「敗戦前だったが、山下が波照間住民と挺身隊を浜に集めました。その時に、識名校長が『斬るなら私を斬れ』と山下に公然と立ち向っていきました。」

また『県史』10(一六九ページ)には、帰島を急ぐ住民と山下のやりとりが述べられている。「一九四五年(昭和二十年)八月二日、南風見の挺身隊館において緊急部落会議を開催した。山下は『島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!』とどなりつけた。島に帰って玉砕するか、そのまま疎開を続けるかの大評定の結果、疎開地に踏みとどまる希望者は一人もなく満場一致で帰島することに決議した。玉砕する決意での満場一致の決議の前には山下の軍刀も功を奏することができなかった。…

昭和二十年八月の初めごろから、川の奥深くに木の枝、葉で擬装させて避難させておいてあった漁船などで引き揚げは開始され、十五日の敗戦をはさんで、その月の末頃までにはほとんどの住民が引き揚げた。このようにして一ヶ月もかかったのは引き揚げに使う船が、大福丸と第二進幸丸だけであったからである。

《『もうひとつの沖縄戦―戦争マラリア波照間島』石原ゼミナール戦争体験記録研究会、おきなわ文庫》

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南風見田には1590人が移動させられ、わずか4カ月で児童を含む85人が犠牲になった。

遺族会が追悼式 忘勿石之碑で初めて 八重山戦争マラリア | 全国郷土紙連合

この忘勿石のことを知る方々は、異口同音にして同じことを言われます。ここはただの観光地ではありません。ヌギリヌパという特殊な地形を持つこの西表島南風見田の地で、強制疎開を強いられた1,599名の波照間島がいました。その中に波照間国民学校の児童が323人。児童達を集めて入学式を執り行った識名信升校長は、その場にいた児童のうち66名の児童が、故郷に近くて遠い異郷の地でマラリアにより亡くなったことを〝忘れることなかれ〟という思いを込めて、この波照間島を望む入学式を執り行った場所にある砂岩の巨石に10個の文字を刻みました。〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟と。 

『第十六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:忘勿石編~』西表島(沖縄県)の旅行記【フォートラベル】 

しかし壮絶なマラリア地獄はここからが本番でした。多くの住民がマラリアに罹患したまま帰島したので、波照間島マラリア有菌地と化してしまったのです。食料も尽き、島内に自生する「ソテツ」の幹を食べ尽くしてしまうほど、飢餓は悲惨なものだったと言います。

もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか? (2015年7月11日) - エキサイトニュース

 

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