〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月21日『郷土沖縄を救え・郷土は自分で護れ』

伊江島の占領宇土部隊と護郷隊

米軍の動向

伊江島の確保

伊江島の奪取は(アイスバーグ)作戦の第二段階に位置づけられていましたが、速いペースで北上を続けた米軍は、4月21日に伊江島を占領しました。その目的は、日本本土の攻撃に備えて東洋最大といわれた伊江島飛行場を確保することにありました。

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アイスバーグ作戦 – 沖縄県公文書館

4月20日の夜から21日の夜中にかけて、…米軍散兵線を少数の日本兵が偵察にきた。…午前4時30分、日本軍はこの陣地を、迫撃砲で1時間にわたって攻撃するや、5時30分、日本軍の300から400の部隊が、左翼を強襲してきた。迫撃砲や機関銃でうちまくってから縦隊になって、北、北西、西の三方からなだれのように最後の突撃を敢行してきた。そのなかには婦人もいて、死物狂いで突入してきた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174頁より》

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

日本軍は村役所の下に陣取っていた大隊本部にも突入し、本部付全将兵や配属工兵隊、G中隊の生き残り全員が死物狂いで戦った。大隊長から参謀、事務兵、炊事兵に、運転兵までが銃をとり、丘の上に戦列を敷いた。この突撃で日本軍は、米軍の散兵線内にとび込み、爆薬箱を投げ、中には本部中央わずか5メートルのところまで来て、米軍の手榴弾や機関銃弾に倒れたものもいた。…1時間も肉弾戦をくりかえしたあげく、ついに日本軍を退却させ、失われつつあった陣地をふたたび取りもどした。明け方になって日本軍の攻撃の手はゆるんだ。突撃してきた日本兵のほとんどは、米軍の散兵線内で戦死していた。G中隊地区では日本兵の死体は280を数え、F中隊、E中隊前方にはさらに84の死体が横たわっていた。』

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 174-175頁より》

『その後も、日本軍の抵抗はつづいたが、21日の昼下がりからは、米軍は掃討戦に入った。城山の外部陣地は、一応、確保された。日本軍は平地に下って陣地をつくり、米軍の通路を狙って攻撃してきた。しかし、平地の日本軍陣地はわけなく撃滅された。…4月21日の午後5時30分、伊江島確保が宣言された。』

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 177頁より》

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伊江島の城山に掲げられた星条旗1945年4月21日午前10時25分撮影)

The flag of the US 77th Infantry Division flies for the first time on the pinnacle of Mt. Iegusugu at 10:25 a.m. on 21 April 1945.

NH 58558

伊江島に上陸したのは、慶良間列島を攻略した米軍の歩兵第77師団だった。

米軍の戦史はいう。「伊江島では慶良間の場合と違って、日本軍は多くの民間人をも戦闘に投入した。それらのなかには乳飲み子を背負ったままの婦人も含まれていた。住民たちは、死ぬと知りながらも斬り込み隊員となり、竹ヤリ、手投げ弾、爆薬箱をかかえて米軍陣地に突入し、同島防衛の一翼をになった」と。だが、その犠牲は大きかった。米軍は、死体を点検してはじめて軍人とばかり思っていたのが、じつは非戦闘員が日本の軍服を着ていたのだとわかった。中には、米軍の軍服を着た者までいたという。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 107頁より》

 

南進する米軍 - 城間 (アイテム・ポット) の戦い

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

城間(ぐすくま): 「アイテム・ポケット」

4月21日午前6時30分、第2大隊はアイテム・ポケットの入口を横切って別の攻撃を開始した。部隊は対戦車砲を装備していたが、この砲は海岸に陸揚げされ、およそ900メートルを兵が手でひっぱってポケットの中央真向かいに据え付けたものだ。だが、部隊の進撃が開始されて十分とたたぬうちに、全左翼は激しい砲火にあって釘づけにされてしまった。部隊は…丘陵に後退した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 220頁より》

伊祖 (いそ)

4月21日、東西両峰をめざしての丘陵争奪戦は、あい変わらずつづけられた。第105連隊の第1、第2大隊は、一夜のうちに隊を再編して東の峰めざして攻撃を開始した。そして、第105連隊の第3大隊と、第106連隊の第1大隊は、向きをかえて西の峰に進撃した。だが、この攻撃も失敗だった。一時は4つの部隊が同時に西の峰を攻めたが、岩かげにかくれていた狙撃兵に一人ずつ撃たれてしまったのである。

しかしながら、その日は一つだけ、確かに収穫になったと思われるものがあった。前日、戦死した日本軍将校のポケットを調べてみると、牧港から丘陵頂上にいたるまでの道路の地雷敷設図を発見したのである。さっそくこの地図を頼りに、21日の払暁から作業にかかり、午前9時までには全地雷を片付けてしまい、丘の頂まで一本の補給道路ができあがったのである。そしてさらに正午までには、道路の上りつめたところにある障害物もきれいに片づいた。午後2時、戦車隊がまず切り通しを通過、装甲車もついに丘の頂上に達した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 266-267頁より》

 

嘉数 (かかず)

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-32.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

『4月20日の夜から21日にかけて、丘陵地帯からかなりの日本兵がおりてきて、米第27師団の左翼に移動し、嘉数地区に迫撃砲や機関銃をすえて陣地を強化しはじめた。この増援された抵抗軍に対して、米軍師団の偵察隊は、嘉数村落めざして、戦いながら徐々に進撃していって、午前11時45分、村落の端についた。

ここで全部隊が猛砲火をうけて釘づけにされ、戦車の1個小隊が救援によばれた。3時間ものあいだ匍匐前進をつづけ、嘉数の廃墟のなかを悪戦苦闘したあげく、進み得たのはわずか450メートルだった米軍はいちおう引き返し、午後4時、師団砲兵隊が村落に大量の砲撃を加えた。その後、米軍が村落に入っていこうとすると、日本軍が地下から出てきて砲火の壁をつくって進出をはばんだ。』(269-270頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 269-270頁より》

 

我如古 (がねこ)浦添西原

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

『第382連隊の第1大隊は、…4月21日の午前7時20分、第3大隊の方が第381連隊の位置を通って西原丘陵に着くよう、その西方から後方に回って円形陣をつくれるように進撃していった。いったん峰の上にのぼって…東方に攻撃を開始した。…ついに12時45分、日本軍の最初の反撃をくらった。その後、反撃は2回もあったが、最初に反撃は…撃滅することができた。第2回目は…午後1時30分西原村落から行われ、激しい接近戦を展開した。

…第382連隊の第3大隊は、日本兵150名を殺して、ついに反撃軍を撃退させることができた。

第3回目の反撃は、西原村落から南へ350メートルほど離れた143高地から、午後3時15分にきたが、これは簡単に阻止された。』(255-256頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 255-256頁より》

『…第381連隊の第1、第2大隊が、4月21日西原村落を占領すべく、夜も明けたばかりの午前6時30分、共同作戦で攻撃を開始した。西原丘陵に向かった第381連隊は、第1大隊を左翼に、第2大隊を右翼に配置した。丘腹は勾配があまりにもはげしく、戦車も使用できなかった。…丘陵の頂上をちょうど登り終わったとき、日本軍の猛火をうけて進路を絶たれてしまった。…右翼の前線には日本軍が侵入し、左翼の村落には大部隊がなだれ込んできた。

…午後2時、煙幕が張られ、米軍大隊は負傷者や戦死者をかついで、後方陣地に足取りも重くひきあげた。

この日、陽が西に落ちても、西原丘陵と村落は、いぜん日本軍の手中にあった。』(257-258頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 257-258頁より》

千原 (せんばる)

『…21日、攻撃に出たが、まもなくはげしい機関銃の反撃をうけて進撃を阻止されてしまった。このため戦車隊や火炎砲装甲車が出動し、岩山北端を西側から至近距離で攻撃、歩兵部隊は、こうして岩山北部の西側を占領することができた

米軍が登った峰の向こう側では、日本軍の話し声も聞こえた。この日本軍を撃退しようと米軍はしのび寄ったが、先頭の一人が姿を現したとたん、彼は顔面を撃たれて即死した。もうそれ以上の進撃は不可能であった。千原南部を、西側から攻撃していた戦車隊と歩兵隊も、ともに失敗して、…ついに出発地点まで後退せざるをえなかった。』(250頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 250頁より》

和宇慶 (わうけ)

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

午前9時…兵は40分も前進すると丘陵の真ん中あたりにある道のところまできた。…ここでF中隊は迫撃砲の猛烈な攻撃をうけ、進撃できなくなってしまった。

第32連隊のE中隊は、左翼(東方)から進撃してきたが、この道路のところまできて、日本軍の機関銃や、先発の第3小隊が、手榴弾攻撃をうけ、それ以上の進撃は阻止されてしまった。そこで米軍のほうでは、前線の歩兵の前方20メートル足らずのところで、日本兵にもよく目に見える地点に迫撃砲をすえた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 245-246頁より》

 

泡瀬の米軍政府司令部

米軍は泡瀬キャンプのことを下原 (シモバル) とよんだ。

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下原に設置された米軍政府司令部(1945年4月21日撮影)

Headquarters of U. S. Military government established in the Village of Shimobaru.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦利品をふるさとに送る兵士たち

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戦利品の日の丸の旗を持つボストン出身の兵士たち。写真は、上陸日から3週間目に撮影。(1945年4月21日撮影)

Boston Boys on Okinawa with captured Jap flag. Taken 3 weeks after D-Day.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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戦闘とパトロールの合間の見慣れた風景。故郷へ送る戦利品の検閲を受ける第22海兵連隊の兵士たち。(1945年4月21日撮影)

A familiar sight on Okinawa Shima-between fighting and patrols, men of the 22nd Marines have their souvenirs censored to send home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍のウチナーンチュ - 比嘉太郎

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比嘉太郎ふるさと展 – QAB NEWS Headline

伊江島が米軍の手に陥ちた4月21日の晩のこと。ハワイのヒッカム陸軍飛行場から1人の小柄な沖縄出身二世が飛び立った。目的地は沖縄で、彼は固い決意を胸に秘めていた。両親が、中城村字島袋の出身の比嘉太郎一等兵である。比嘉さんは、英語はむろん、日本語と沖縄方言にも通じていた。彼は、有名な歩兵第100隊の一員としてヨーロッパ戦線に参加したこともある多彩な経歴の持主でイタリアで重症を負い再起不能とまでいわれたが、奇蹟的に一命をとりとめ除隊してハワイへ帰った。が、沖縄が戦場になったのを知ると欧州戦線で目撃した民間人の悲惨な状況を思い出し、矢も楯もたまらず沖縄へ飛び込んで一人でも多くの住民を戦災から救出しようと決意したのである。その前、彼はハワイ各島を回って「郷土沖縄を救おう」と呼びかけ、沖縄戦災民救済運動を起こすとともに沖縄でハワイ在住県出身者たちの援助物質の受け入れに当たることになった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 110頁より》

 

第32軍の動向

北部戦線 - 宇土部隊と護郷隊

本部半島から多野岳に後退した国頭支隊 (宇土大佐)

八重岳が米軍に占領され、多野岳の方向に敗走することになった宇土部隊は、幾度か米軍の攻撃を受けながら、北部のヤンバルをさまよっていた。

21日、昼、大工又の山中に潜んだ部隊は、久しぶりに炊さんに取りかかった。…宮城、上地両兵長が、連絡の使命を帯び、護郷隊の油井小隊のいる場所をさがして谷間を歩き廻っていると、岩陰に坐っている一団の人々を発見した。宇土大佐と熊田副官、榎木原曹長の数人だった。

宇土大佐の本部は、既に17日の昼、真部山を発つと、中山(名護)にはいったが、そこで樹陰で昼寝しているところを、俄かに米兵に拳銃で射たれ、大佐は指を負傷したが、翌18日の昼間、羽地の古我地山中をさまよい、迫撃砲に追われつつ19日、薬草園を抜け、20日、中島隊のいる大工又に着いたところだった。

… 護郷隊の油井少尉外数人の隊員は大佐の前に呼び出された。宇土大佐は、八重岳の顛末を短く説明すると、…「八重岳の戦闘は苦しかった。だが、俺としては無事任務を果たしたつもりだ。今後は、部隊の残力を挙げて敵の後方攪乱をやる。支隊長は後からいくから、宇土と協力するようにと、村上大尉に伝えてくれ」といった。護郷隊長村上大尉は、羽地の多野岳に陣取っていた。

宇土大佐の本部を含む隊列がそこを出発する時のことだった。空腹にたまりかねた上地と宮城両兵長が、山に近い一軒の民家を覗いたら、一人の老婆がいて、ありあわせの豚肉と黒砂糖の塊をくれた。…「…この黒砂糖を宇土大佐殿にやろう」と…二人が差出た黒砂糖を物珍しそうに手に受けとると、宇土大佐は…黒砂糖の塊を素早く頬張り、「有難う、糖分が欠乏しているからな」と笑った。

隊列は、中島大尉の指揮で再び隊伍を整え、夜が来ると、例のように暗夜の行進に移った。羽地大川を渡ると、目的地の多野は近い。ーその頃からは、勝手に脱落していた兵隊達がいつの間にかぞくぞく隊列に復帰していた。そのため兵員は元通りの約1千人近くを数えるようになっていた。』

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 307-308頁より》

山原の山中には友軍の宇土部隊というのがおり、米軍飛行機が飛んできては空襲されるし、米兵も下から山へ上がってくる状態の中で、宇土部隊の兵隊に貴重な砂糖など、持っている僅かな食糧を全部取られてしまいました。同じ日本の兵隊なのに本当に情けなく思いました。また、壕から追い出されたり、隠れている所を出されたりもしました。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 女性の証言

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Ruins of Jap Airplane and Marine Engines line waterfront of captured Jap Naval Base in Northern Okinawa.

攻略した沖縄北部の日本軍海軍基地にて、海岸に並ぶ日本軍及び海兵隊航空機のエンジンの残骸。(1945年4月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

護郷隊「自分の郷土は自分の手で護れ」

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広報おんな 425号 (2016)

諜報やゲリラ戦に特化した陸軍中野学校出身者は、沖縄戦42人が投入されており、離島には離島残置諜者として、また北部では2つの遊撃部隊を指揮するため15人が送り込まれていた。兵員は国頭郡青年学校生徒や卒業生、県立三中水産学校鉄血勤皇隊、いずれも十代半ばの少年を兵として召集し構成した。正式部隊名は遊撃隊だが、秘匿のため護郷隊と名付けられた。「自分の郷土は自分の手で護れ」という部隊名が召集された少年兵の精神的な縛りとなった。

 

 

第3遊撃隊(第1護郷隊) 村上治夫隊長

野岳 (たのだけ/タニューだけ) 「敗残兵、許可なく出入りを禁ず」

本部半島から3000人~4000人規模で敗走してくる敗残兵と、完全に指揮を放棄した宇土隊長に対して、第1護郷隊の村上大尉は手をやいた。

当時15歳の富村順一の手記から

下からのぼってきたのは七、八人の日本軍でした。私達を見るなりその七、八人の日本軍は私達の荷物に手をかけ「我々は今から斬り込みに行くので食糧が必要だから、お前達の持っている食糧を我々に差し出せ」と言うや否や、木の陰に隠れていた村上大尉以下二名が飛び出して来るや、村上大尉が「貴様ら、何処の隊の者だ。」「宇土部隊の平山砲兵隊だ」(中略)

「拙者は故郷隊の隊長で村上という者だが、貴様らはそれでも軍人か。本来ならこの刀で切り捨てるところだが、今日のところは許してやる。そばで隠れて見ていたら貴様らはこの少年達に、斬り込みに行く等と噓を言い食糧を奪おうとしたが、斬り込みに行くのだったら食糧等必要でない。最近、この附近の山の中に度々山賊が出るという話は聞いていたが、まさか宇土部隊の逃亡兵とは知らなかった。貴様ら、本隊が解散してこの附近の山に宇土部隊隊長以下が山賊化しているという噂は聞いたが、単なる噂と思って信用はしていなかった、だが先程の行動を見て真相がはっきりはっきりした。」

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22) 》

村上大尉の手記より

三日四日に掛けて中頭地区より脱走し指揮系統も何も乱れた兵隊が国頭地区に逐次多くなって来た。もう既に彼等は戦意を喪失してゐる。全く嘆はしい次第だ。彼等丈けならば取り締りもつくけれども、彼等の言動の地方人に及す影響は甚大である。地方人の中では我々に何とかして下さいと嘆願して来る人もある。… (何たる態かこれが皇軍かと思ふとなさけない。) … 或る部隊の如きは民家の人が山に避難して居る機会に家宅侵入をして食糧を盗み喰た揚句に大事な山羊等を絞め殺して喰ってゐるのも認めた。それも一つ二つなら事件も簡単に片附からものに数ヶ所でも行はれてゐる。(残念だ。軍刀を引き抜いて斬りつけたい衝動を起したが前非を悔い謝るのに会うと斬る気にもなれない。)

《村上治夫「沖縄遊撃戦 うるまのハブ」pp. 30-31》

(宇土部隊は) 伊江島の守備も放棄して4月14日から17日にかけて、早々に八重岳の陣地を捨てて転進、戦意を失った部下2,000人あまりを連れて多野岳にやって来たのだからたまらない。彼らはまとまりもなくバラバラに来ては「二、三日絶食しています」とふらふらになって本部に入れ替わり立ち替わりやって来た。早く隊長に来てもらい部隊をまとめて欲しいところだが、宇土大佐は22の部隊をさっさと大隊長に押し付けて、自分は本部の部隊だけで行動していた。しかも複数の女性を伴っているという動きの悪さもあり、なかなか多野岳にたどり着かない。村上はこの戦う意欲のない宇土大佐に対しずっと歯ぎしりをしていて、けがを負った同僚の北一郎大尉に何度もいなされている。… しまいには護郷隊本部の油井隊からお迎えの道案内を出さざるを得ず、そうして宇土大佐はようやく21日に村上のいる陣地本部に到着した。… 村上は先に多野岳に到着していた平山勝敏大尉と共に用意していた遊撃戦戦闘計画を宇土大佐に示した。宇土大佐は「君はここの地形に詳しいからこの戦闘は護郷隊が基幹になってやってもらいたい」と言ったので、村上は事実上国頭支隊長となって、敗走する部隊の士気を注入するために片っ端から気合を入れて回った。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

 

第4遊撃隊 (第2護郷隊) 岩波壽隊長

恩納岳 (おんなだけ)

岩波壽大尉のひきいる第四遊撃隊(第二護郷隊)は石川岳と恩納岳を拠点にして、恩納・金武・宜野座方面へ遊撃戦をくりかえした。兵員は隊長以下三九三人で装備は機関銃と擲弾筒(てきだんとう)、小銃で、橋や道路を破壊するために爆薬を携帯した。
 米軍は、四月中旬には、金武の平川原から伊保原一帯に金武飛行場の設営を完了していた。また、金武と喜瀬武原・安富祖を結ぶ線を遮断して、遊撃隊の活動を押さえこんだ。石川・屋嘉・金武・漢那・宜野座・古知屋に拠点を確保した米軍に対し、遊撃隊の攻撃は執拗に続けられた。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

護郷隊は米軍上陸に際し道路や橋梁の破壊を担ったが、米軍はベイリー・ブリッジを構築しながら進軍していた。

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米国海兵隊: Close-up of Bailey Bridge.
ベーリー橋のクローズアップ写真 1945年 4月21日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: Large Bailey Bridge constructed where concrete bridge was destroyed by Jap demolitions.
日本軍破壊部隊が壊したコンクリート製の橋跡に建てられた大きなベーリー橋
撮影日: 1945年 4月21日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: Large Bailey Bridge constructed where concrete bridge was destroyed by Jap demolitions.
日本軍破壊部隊が壊したコンクリート製の橋跡に建てられた大きなベーリー橋
撮影日: 1945年 4月21日 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

護郷隊は橋の破壊を命じられたが、米軍はまたたく間に再建した。

当時15歳で護郷隊に召集された大城さんの証言

最初に、アメリカが攻めて来たら、まず橋から撤去しないとどんどん橋を越えて来るからと言って、橋を壊す仕事をやった。上陸前に。そうなんだがよ、もう、アメリカはすぐ鉄のパイプでこっちに橋を架けてから、すぐ車が通れるようにしていた。大変だったなあ、あれは。急いで橋壊してもすぐ修復するから、これではいけないなと言って。火薬はあった。ダイナマイトは、あれに信管つけてから金武の方の橋はあれで爆破して壊しもした。… アメリカは鉄骨持って来て敷いて、車はどんどん通るのを見ていて、まさかこんな風とは思わなかった。壊したら遮断されるから車通れないとしか日本の人は考えていないわけ。橋さえ撤去すればもう機能しないから、ということで日本はこういう策しかしなかった。勝っているのか負けているのか、何も情報がないから、後で南部のことを聞いてびっくりした。砲弾も何も、ない。橋を壊せば戦争がストップすると、…。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

自然と、内地の人はね、上陸した時期、自決する人がいたね。もう負けるということが分かっていると僕は思うわけ。……兵隊が。「あんたも来なさい」「イヤ僕おしっこしてきよる」……、逃げた。こんなんして自分で死ぬことは、やらなかった、僕らは。……石川岳から来るまでに、5名川に並んで、兵隊が、内地の人が死んでいるわけ。また1人はそばに、小さい山に、こうしてね、切腹して死んでる。これは、それはもう、分かるさね。

護郷隊 少年兵の軍事教練 「十名殺したら死んでもいい」 - Battle of Okinawa

 

 

伊江島「六日戦争」- 組織的戦闘の終結

伊江島 (いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

沖縄戦日誌・4月21日伊江島地区隊長井川正少佐は夕刻7時最後の総攻撃を命令、果敢な突撃を敢行し井川少佐以下将校全員が戦死、日本軍伊江島守備隊の組織的抵抗終わる。この最後の突撃には、住民、防衛隊、女子救護班、女子協力隊も参加、伊江島全戦闘を通じ住民1,500人が戦死した。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

1945年(昭和20)年4月21日午後5時30分、米軍は伊江島占領を宣言したが、伊江島戦を指揮したブルース海兵隊少将は「最後の3日間は、私がいまだかつて見たこともない激しい戦闘だった」と語っている。

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 582頁より》 

青年義勇隊にいた男性の証言:

ちょうどうちらが壕から出て総攻撃っていう命令が、命令、誰からやらんけれども、分隊長の命令ですから、出ていってやったら、もうその人もかなわんと思ったんでしょうね。「もうダメだ、引き揚げ、引き揚げ」って。それで引き揚げたんですよ。… 引き揚げて行ったらここに10名ぐらいの兵隊がいましたね、壕の中に。それでそこで残っている連中の中で、もうこの戦は負けだということで、もう自爆する用意はありましたね。もういつ何時上官の命あるかと思って待っているけれども、命令はなかったですね。その間に兵隊さんが、これに書いてある、「まだ死ぬのは早い。生きてさえいればなんか道は開けるんじゃないか」という声が交わされた。それで自爆は終わったわけです。中止になったわけです。そのおかげで生き残ったんでしょうね。もう自爆でもしておったら、もう死んでおったでしょう。』

比嘉 正明さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

伊江島の戦跡

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 伊江島戦跡めぐり | 伊江島観光協会 | 青い海と大自然輝く伊江島へ

 

伊江島灯台

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65年前のきょうは、伊江島の戦闘が終結した日です。芳魂の塔では平和祈願際が行われ、島は一日祈りの日となりました。その伊江島ではきょう、もう1つの慰霊祭が行われました。

島の西端、今はアメリカ軍の基地となった地に 静かに立つ伊江島灯台。そこには伊江島での戦闘で命を落とした灯台職員とその家族8人の名前が刻まれています。

1897年に建造された伊江島灯台。日本一の高さ30.3メートルを誇り、村の人々からは「東洋一の灯台と呼ばれ親しまれていました。

65年前のきょうは1945年4月21日 – QAB NEWS Headline 

 

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沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。

昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

[証言記録 市民たちの戦争]悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス

 

中南部戦線

沖縄戦日誌・4月21日・城間、伊祖、安波茶地区で死闘展開、嘉数、棚原、西原高地で米軍の攻撃を阻止。米軍東部海岸で和宇慶西方1キロの高地を占領。つづいて夕刻には同高地の東方につらなる全稜線を占領。』(440頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 440頁より》

伊祖(いそ)

八原高級参謀の回想:

『…有川少将の指揮する伊祖奪還攻撃は、4月21日夜実行された。従来南飛行場正面の守備に任じていたのを旅団長が独断安波茶付近に転用集結していた飯塚少佐の独歩第15大隊をもって安波茶方面より、平林中佐の独歩第21大隊をもって城間東側地区より、ともに伊祖に向かい夜襲を決行した。両大隊の中間地区に増加されていた歩兵第22連隊の田川大隊や、協同戦闘中であった独立臼砲第1連隊の一部も、またこの夜襲に協力した。

この夜襲においては、須川中尉の歩兵砲中隊が砲車を馬に牽かせ、ガラガラと伊祖城址に侵入し、同地で孤立無援のまま戦闘を続けていた臼砲連隊の1小隊約70名と合流するような、奇跡的成功があったのに、主力歩兵部隊はどうしたのか、全線攻撃不成功、犠牲甚大との報告である。…成功を勝ち得た歩兵砲および臼砲の各一部も、後援続かず翌22日夜暗、囲みを破って退却してしまったのである。』(232頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 232頁より》

嘉数(かかず)

嘉数の陣地にいた日本兵の証言:

『「お前いいところに帰ってきたわ。ここで山の上で白兵戦を何べん繰り返したか分からんへん」て言われた。山の上あがってったらよーけ黒人が死んどったもん。ほんで、アメリカも戦車や飛行機やら乗っとんのは白人が乗って歩兵は黒人ばっかやな。かわいそうに。』

『よーけ、転がっとったもん。そのままにしたった。日本の兵隊はみんな、戦死者は山から降ろしてな。処分したけども、アメリカの黒人はほったらかしやったもん。』

野戦病院から帰ったらその2中隊の中隊長から呼ばれて、「お前どういうふうな陣地がいちばん悪いと思う、欠点や」と思ったら「あのタコツボみたいな、あんなかわいそうに。来る前に、戦車が来る前に火炎放射器で全部死んで無駄やと思う」ったら「俺もそう思う」て言うたら「全部引きあげよう。」て。2中隊の中隊長が引きあげさせとったわ。こんな爆薬を持って戦車の下敷きなるやんもん。ありゃ日本人ようしたわ。今の日本じゃったら「こんなあほらしい」って皆反対するけど、あの時分はおとなしかったやな。』

『下敷きになんの。自分もろともに。自分は死ぬわな、もちろん。』

『もうその蛸壺の来る前にその戦車が火炎放射器ずーっとまいて皆焼き殺された。うちら。かわいそうに。』

『やっぱり、武器の相違やなと思うた。兵器の。日本魂で勝てるはずはないと思うた。もう、嘉手納へ来るときに負けたなと思うたもん。夜、たまに日本の特攻隊がガーッと行くと、なんや照明灯がパーと、曳光弾でパーパーパーて撃つと日本の特攻隊がみんな海の中へ、みんな火吹いて沈んでったもん。そんでも、10機位来たかいな。きたことは来たやな。途中でやられたらしいわ。みんな。沖縄来る前に。日本の特攻隊は。』

渡部 真信さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

捕虜になった日本兵

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-21-4.jpg

座間味島日本兵捕虜。(1945年4月21日撮影)

Jap prisoners at Zamami Shima, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

伊江島 - サンダタ壕の集団自決

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[消えた戦跡 もの言わぬ語り部たち](1/サンダタ壕 伊江村 |  沖縄タイムス

当時7歳の和子さんは今帰仁村疎開して助かったが、3歳から17歳前後までのいとこ6人含む親戚一家は、サンダタ壕で全滅。83年の遺骨収集で64柱が見つかったが、どれが身内かも分からなかった。「みんな自爆。兵隊に手りゅう弾を持たされたって。聞きたくも、考えたくもなかった」

 「沖縄戦の縮図」ともいわれる伊江島の地上戦。米軍上陸の4月16日から軍民入り乱れた6日間の戦いで住民約1500人が犠牲になった。17~25歳前後の未婚女性で編成された女子救護班や、炊事などを担った婦人協力隊まで捨て身の斬り込みに参加させられた。 

 県史などによると、女子救護班は約140人で生存者は9人。その一人でサンダタ壕にいた当時17歳の山城竹さん(92)も手りゅう弾二つを手渡された。「怖くて見えない所にすぐ捨てた。爆雷を背負うのも教えられたが、行けなかった」 

伊江島 サンダタ壕の「集団自決」 - Battle of Okinawa

伊江島 ある女性の体験談:

…傷ついた日本兵達が真謝の基地にたくさん集まっていた。頭の包帯を真っ赤に染めた人、足の傷口から血が流れている人、手の包帯から血がしたたり落ちている人など、見るも無残な姿だった。私は、もう私達家族も自決するか、米兵に殺されるかのどちらかと思った。私は最期の飲み水を汲みに、海岸の泉に向かって暗い夜道を出かけた。泉の側にも負傷した日本兵達が頭や手、足の包帯から血を流しながら水を飲んでいた。其の晩防衛隊は最期の斬り込みにと城山めがけて一列に並び、私たちの居る壕の前を通り過ぎていった。…しばらくしてから、最期の斬り込みにと城山めがけていった防衛隊が2名、3名と帰ってきた。城山に行く途中で隊長が米軍の直撃を受けて即死してしまい、部隊は解散になったとのこと。北海岸では、イカダを作って、本島へ渡る準備をしていた。此の時までたくさん生き残って居た日本兵は家族をさがすために撃たれたり、イカダで本島へ渡る途中、おぼれ死にまた、米軍に撃たれて死んでしまった。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 92頁より》

 

座間味島の収容所

集団自決を生きのびた子どもたち

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Jap children in a hospital at Zamami Shima, Ryukyu Islands. Note how parents attempted to cut their throats.

座間味島の病院に入院している地元の子ども。彼らの喉が親によって掻き切られそうになった点に注目。(1945年4月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Jap children in a hospital at Zamami Shima, Ryukyu Islands. Note how parents attempted to cut their throats.
座間味島の病院に入院している民間人の子ども。彼らの喉が親によって掻き切られそうになった点に注目。
撮影地: 座間味島 1945年 4月 21日

 

解放された座間味の朝鮮人慰安婦たち

米軍によって保護された座間味の慰安婦たち。三月末の戦闘で命を奪われたり重傷を負った仲間もいたが、米軍によって慰安所から解放され、三週間以上がたった時点の様子。

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Geisha Girls,” Jap Korean women found on Zamami Shima, Ryukyu Islands, brought to the island by the Japs.
日本軍によって連れてこられた、朝鮮人の「芸者ガールズ」。座間味島にて。
撮影地: 座間味島 1945年 4月 21日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

座間味民間人収容所

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米軍占領後の座間味島の風景。民間人収容所。(1945年4月21日撮影)

Panoramas of Zamami Shima, Ryukyu Islands after being taken by American forces. Native camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

手りゅう弾が数回、連鎖的に爆発。十数メートル地下に掘られた横穴状の壕内は70~80人ほどいたとされるが、「死体でいっぱい」に。腐乱臭が立ち込める中、数日間過ごした。 

 

父たちと離れていた竹さんも大けがを負ったが、手当てしようにも、どうにもできない。肉親を失ったと分かっても「頭がいっぱいで何も考えられなかった」。

 

遺体そのまま

当時17歳だった内間初枝さん(92)は小さな横穴にいて助かった。壕では「米軍に捕まったら股裂きにして殺され、女性は辱められる」などと兵隊から聞かされた。「捕まるより自決しなさい」各家庭に手りゅう弾が渡されていた。

 

救護班だけど何もできない。周りの遺体は片付けることもできず、そのまま。腐乱し、白い煙が立ち込める壕内に約2週間いた。 

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