〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月5日 『残る敵は日本のみ』

映画鑑賞 / 石灰岩と滑走路建設 / 久米島 虐殺と性的搾取

 

米軍の動向

プロパガンダ映画『残る敵は日本のみ』

カラー映画の鑑賞。

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Members of 27th Inf. Div. QM Watching Motion Picture ”Two Down, One to Go.”.

活動写真「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ」を観る兵站部第27歩兵師団の隊員たち。(1945年7月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

二つ (ドイツとイタリア) は終わった。あとはひとつ (日本) だけ。

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【訳】ヨーロッパ戦線で勝利をおさめた米軍は、「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ(Two Down, One to Go)」というタイトルのプロパガンダ映画を作成した。これは、いまや連合国軍の敵は、「残るは日本のみ」ということを強調する内容で、日本本土への上陸に向けて準備する将兵が抱いているであろう疑問に対し状況を説明すると同時に、兵士らの士気を高めるという狙いであった。

《 Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record

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映画内のアニメーション

Still from animated sequence in Two Down, One to Go.

Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record

兵士らの最大の関心事は、「いつ、誰が、帰国でき、民間人としての生活に戻ることができるのか」ということであったが、映画は、「連合国軍が大規模な戦闘に勝利したとはいえ、日本を倒すまでは、まだ戦争中である」ことを兵士らに再認識させ、日本攻略のためには、基地建設やインフラ整備、物資や兵器の陸揚げなどが必要であることなどを説明した。

《 Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War |  から要約し、和訳》

プロパガンダ映画「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ」

Two Down, One to Go! - YouTube

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

米軍は11の飛行場とおよそ20の小飛行場、その他多くの軍事施設を構築した。

伊江島飛行場の拡張

4月16日に上陸した米軍は日本軍の伊江島飛行場を占領、4月18日に米軍の飛行場として使用開始した。米軍は大規模な伊江島の基地化を進めるため、住民をナーラ収容所に収容。その後5月20日頃に島から住民を完全排除し慶良間諸島の収容所に移送した。

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In order to facilitate drainage, men of the 1902nd Engineer Aviation Battalion lay culverts of oil drums along side the runway on Ie Shima, Ryukyu Retto. The photograph was taken from inside one of the drums.

排水装置を設置するために滑走路沿いにドラム缶の下水路を並べる第1902工兵航空大隊隊員。写真はそのうちのあるドラム缶の内側から撮影した。伊江島 1945年7月5日撮影
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

アイスバーグ作戦の当初は米軍は沖大東島久米島宮古島、喜界島、徳野島などを占領し飛行場を建設する予定であったが4月の時点で飛行場建設を沖縄島と伊江島に集中させることを決定した。

【訳】沖縄と伊江島での滑走路建設の査定評価が、アイスバーグ作戦第3段階で計画されていた最重要計画のひとつ宮古島占領作戦を放棄する決定要因となった。… 沖縄での飛行場の建設はB-29作戦のための滑走路計画であった一方、伊江島は主に超長距離爆撃機(VLR)護衛基地として開発される予定だった。

Okinawa: Last Battle, Chapter XVI: Behind the Front

米軍は伊江島を削り良質な石灰岩を大規模に採掘した。B-29 や B-24 などの大型爆撃機用の滑走路建設は大量の石灰岩を分厚く舗装する必要があった。

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A member of the 1902nd Engineer Aviation Battalion plants charges of dynamite in coral preparatory to blasting. Ie Shima, Ryukyu Retto.

爆破に先立って石灰岩にダイナマイトを仕掛ける第1902工兵航空大隊隊員。伊江島。(1945年7月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国空軍: 中型・重爆撃機及び戦闘機用の4本の飛行場が北東南西方向に、第935司令部第805、1873、1892、1902、1903工兵航空大隊によって建設された。1945年5月1日の大上陸の日にA滑走路の工事が始まった。日本軍の激しい攻撃のため工兵航空大隊は更なる困難とぬかるみの中での作業を強いられた。伊江島と本島を防衛する飛行機はここから飛び立った。伊江島には滑走路建設に必要な石灰岩が大量にある。伊江島 1945年7月16日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米国空軍: It is an endless circle of incoming empty trucks and out-going loaded trucks at the coral pit on Ie Shima, Ryukyu Retto. The trucks haul the coral to runways and roads under construction at the rapidly developing American fighter base.
伊江島採石場での様子。石灰岩を積んで出ていっては次のトラックが入ってくる。これらのトラックは急速に建設の進む米軍の戦闘基地内の滑走路や道路へと石灰岩を運ぶ。伊江島 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

嘉手納 - 弾薬庫の爆発事故

弾薬庫の爆発事故は16時間続いた。

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《ブログ註・AIによるカラー化では火焔がほとんど再現されていない。》Smoke billows skyward and tracers fill the air as a grest explosion marked the occurence of a fire at an ammunition dump north of the Tenth Army. Sharpnel made adjacent areas untenable. The cause of the fire could not be determined.

第10軍の北側の弾薬臨時集積場で起こった火事による爆発で立ち上った煙と空を埋め尽くす発煙弾。近隣を使用不可能にした出火原因は不明。(1945年7月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

読谷飛行場 - 本土攻撃

1945年7月5日、米第7空軍は沖縄から46機のB-24爆撃機と24機のB-25爆撃機長崎県大村地域に送り、大村飛行場や二つの町を爆撃した。

《 「COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES, JULY 1945」USAAF Chronology: より抜粋》 

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Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, 7th Air Force, taking off Yontan Airstrip for a mission somewhere over Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

日本での任務のため読谷飛行場から離陸する第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者注: 写真の日付は1945年7月27日)

長崎県長与町の記録:

昭和20年(1945)7月5日、それは正午過ぎのことであった。

けたたましい轟音と煙の尾を引きながら、日の丸のマークを付けた日本軍の飛行機が斉藤郷の海岸上空を通過、二島と馬込間の海中に墜落した。聞くところによると五島上空で敵機と戦い、敵弾を受けたものらしい。すわ一大事!大切な搭乗の兵士を死なせてはならじと、斉藤、岡の警防団員を先頭に、何人かの人々が小舟を漕ぎ出し急ぎ救助に向かった。毛屋の金比羅神社の高台には、付近の人たちが集まってなり行きを見守っていた。

そのとき、今度は敵の小型機二機が墜落機の後を追うように低空で飛来すると、何を目標にか機銃弾を浴びせかけた。その何発かは、海上を急いでいた救助に向かう兄弟の舟に命中、兄は死亡、弟は足を負傷した。敵機はさらに急旋回すると、突如、毛屋の民家にも銃撃を加えた。曳光弾らしい一発がそれぞれ民家に命中、両家とも炎上し、焼失した。

《 各市町の被害状況 | 長崎県長与町」より》

 

第32軍の敗残兵

久米島の鹿山隊

久米島: 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

  1. 6月26日: 米軍、久米島へ上陸6月27日: 鹿山隊による有線電話保守係を惨殺
  2. 6月29日: 16歳の少年を含む9名の住民を惨殺

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久米島の日本軍 - Battle of Okinawa

久米島の鹿山隊は米軍に対してはほとんど戦うことなく、連続して住民の虐殺を行い、島を監視下に置いた。

私の家族を含めた一班の数軒が、米軍と接触 しているという通報で、鹿山の虐殺リストにあることを、親しい親しい兵隊さんがUさんに内密に知らせていた。6歳の私も「スパイ容疑者」の一人であった のだ。Uさんは、親戚のOさんの家族だけに、夜は危ないからUさんの家で寝泊りするようにと耳打ちしていた。後に母が、Oさんに、なぜ皆に知 らせなかったかと問い詰めたら「秘密をばらすと 自分がやられるので恐ろしくて言えなかった」と 答えたという。住民の動向については、その情報を鹿山の手先となって報告する者がいて、住民は鹿山の監視下に置かれていたのだ。戦時下で隣組は、国策の伝達だけでなく、不審者の摘発や 相互監視の役割をもしていた。

久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』(2021) 160頁 》

沖縄戦における日本軍で女性を伴う隊長は多く証言されている。鹿山隊長も16歳の少女を壕に連れ込んでいた。

吉浜智改 (61歳) 「戦時日記」より:

7月5日   日本軍の切込み

鹿山兵曹長己は某の娘手ごめにし山奥を転々とにげまわり安逸をむさぼりながら切り込みと称し部下には5、6名を一組に1、2挺の銃器を与え残りは竹槍にて米軍の通過する道路及び適当の場所を見計り狙撃させていた。

吉浜智改「戦時日記(抄)」『沖縄県史』 9-10巻 - Battle of Okinawa

兵舎は普通の木造板壁の粗末なものであった。隊長の部屋だけは立派で、そこに16歳の愛人を連れ込んでいた。

久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021年) - Battle of Okinawa

7月5日10時頃、激しく撃ち合う機関銃の音を聞いた。しばらくしてジープで運ばれた二つの日本兵の死体があった。内田という水兵と地元の仲宗根少年であった。頭に数発うち込まれて、無惨な死様であった。 …(中略)…しかしこれが久米島での唯一の米軍との撃ち合いである。ものの十分で終ってしまったが。

渡辺憲央「久米島に生きて」『沖縄県史』 9-10巻 - Battle of Okinawa

7月6日、鹿山兵曹長民衆を脅迫す。民衆が山から出て住家に帰れば、山に残る者は軍人だけと云うことになり、米軍の掃討には便利である。それで、女をつれてにげまわっている鹿山は山中人無くては都合がわるい。そのため民衆の退山をよろこばすも、不喜若し退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしと云う宣伝せし為、下山する者ナシ。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

 

そのとき、住民は・・・

大浦崎収容所 - 久志・辺野古

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沖縄の収容所 - Wikipedia / 遺骨の声を聞け 辺野古・収容所跡地に眠る可能性:中日新聞Web

米軍は本部半島 (もとぶ) を軍事拠点化するため、6月25日、米軍は今の辺野古・大浦湾に大浦崎収容所を設立し、主に謝名・越地の一部以西の住民と伊江村本部町、上本部村の住民収容した。住民の移送は6月26日頃から開始された。謝名・越地以東の住民は羽地村田井等に収容した。

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『今泊誌』

本部町健堅山里宗富(55歳)男性の証言

久志には七、八か月もいた。はじめは五〇人ずつ、あるいは百人ずつ大きなテントに収容された。中には敷物もなく、土の上に寝ろということであった。それで人々は、とりあえず草を刈りて来て駆き、その上に住んでいた。文字通り家畜同然の生活であった。だが、やがて私たちは、山から材木を切り出し茅を刈り集めて、自力で小屋を作って住まうようになった。

食糧もまた惨めであった。すでに区長も任命されており、配給主任を通じて一人何合、何個というふうに支給されてはいたものの、それだけではなんとしても足りず、誰もが栄養失調気味であった。働き手のいる家族はそれでもまだましな方で、実際に栄養失調で死んだ人々もたくさんいた。だから私たちは、久志から脱出して、羽地を経て健堅まで芋を掘りに来るようになった。帰りは羽地の川端で一息入れてから明治山を通って久志に向うのであったが、明治山付近まで来ると、日本の敗残兵らが道にはいつくばって恵みを乞うので、はるばる担いで来た芋などを少しずつ分けてあげたこともたびたびあった。

また、久志の入口にはCPが待ち構えていて、越境者を検査すると称して、荷物を取り上げる者もいた。私も二回取り上げられた。八里も九里も担いで来たものを奪われた時の悔しさは今もって忘れることができない。(p. 474)

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

「とにかく久志という所は秀山ばかりだった。本部にはヨモギぐらいはあったけれど、久志にはすでにそれさえなかった。だから、楽の葉や海の藻など、食べられるものは何でも食べた。」

「ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部まで食糧を取りに来た。当時、それは越境々と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。

ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを島巡査グ(CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。

それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に巻い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食種を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。

そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。」

本部町渡久地・浜元 (座談会)『沖縄県史』 戦争証言 本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

 

 

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