〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月5日 『残る敵は日本のみ』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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American flag at the entrance to the 6th Marine Division Cemetery off of Route 6, Northwest of Yontan Airfield at Okinawa.
読谷飛行場から北西の6号線沿いにある第6海兵師団の墓地入り口にひるがえる星条旗 撮影地: 読谷 (1945年 7月5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 伊江島

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爆破に先立って石灰岩にダイナマイトを仕掛ける第1902工兵航空大隊隊員。伊江島(1945年7月5日撮影)

A member of the 1902nd Engineer Aviation Battalion plants charges of dynamite in coral preparatory to blasting. Ie Shima, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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In order to facilitate drainage, men of the 1902nd Engineer Aviation Battalion lay culverts of oil drums along side the runway on Ie Shima, Ryukyu Retto. The photograph was taken from inside one of the drums.

《AIによる画像処理》排水装置を設置するために滑走路沿いにドラム缶の下水路を並べる第1902工兵航空大隊隊員。写真はそのうちのあるドラム缶の内側から撮影した。伊江島(1945年7月5日撮影)
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嘉手納弾薬臨時集積場の爆発事故

米第10軍司令部がおかれていた旧越来村森根(嘉手納飛行場)の北側か

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Smoke billows skyward and tracers fill the air as a grest explosion marked the occurence of a fire at an ammunition dump north of the Tenth Army. Sharpnel made adjacent areas untenable. The cause of the fire could not be determined.

《ブログ註・AIによるカラー化では火焔がほとんど再現されていない。》

第10軍の北側の弾薬臨時集積場で起こった火事による爆発で立ち上った煙と空を埋め尽くす発煙弾。近隣を居住不可能にした。出火原因は不明。(1945年7月5日撮影)

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AMMUNITION DUMP EXPLODES---An ammunition dump near Kadena Airfield on Okinawa goes up in smoke and noise. Fire and explosions racked the southern end of the island for 16 hours on July 5 and 6, 1945.
嘉手納飛行場近くの弾薬集積所が轟音を立てて炎上している。1945年7月5日から6日にかけて16時間にも及んだ砲爆撃 (ブログ註・火災と爆発) で、この島の南端部は壊滅的な打撃を受けた (1945年 5月 7日)

※ fire and explosions は「爆撃」ではなく「火災爆発事故」と訳すのが一般的であり、米軍記録の曖昧なキャプションにもかかわらず、この説明は嘉手納の弾薬集積所の火災爆発事故が16時間も及んだと解釈すべきではないだろうか。

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AMMUNITION DUMP EXPLODES---An ammunition dump near Kadena airfield on Okinawa goes up in smoke and noise. Fire and explosions racked the southern end of the island for 16 hours on July 5-6, 1945.
 嘉手納飛行場近くの弾薬集積所が轟音を立てて炎上している。1945年7月5日から6日にかけて16時間にも及んだ砲爆撃 (ブログ註・火災と爆発) は、この島の南端部を破壊し尽くした (1945年 7月 5日)

※ fire and explosions は「爆撃」ではなく「火災爆発事故」と訳すのが一般的であり、米軍記録の曖昧なキャプションにもかかわらず、この説明は嘉手納の弾薬集積所の火災爆発事故が16時間も及んだと解釈すべきではないだろうか。

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九州攻撃

1945年7月5日、米第7空軍は沖縄から46機のB-24爆撃機と24機のB-25爆撃機長崎県大村地域に派遣し、大村飛行場や二つの町を爆撃した。』

《 「COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES, JULY 1945」USAAF Chronology: より抜粋し、和訳》 

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日本での任務のため読谷飛行場から離陸する第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。

Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, 7th Air Force, taking off Yontan Airstrip for a mission somewhere over Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

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(投稿者注: 写真の日付は1945年7月27日)

長崎県長与町の記録:

『昭和20年(1945)7月5日、それは正午過ぎのことであった。

けたたましい轟音と煙の尾を引きながら、日の丸のマークを付けた日本軍の飛行機が斉藤郷の海岸上空を通過、二島と馬込間の海中に墜落した。聞くところによると五島上空で敵機と戦い、敵弾を受けたものらしい。すわ一大事!大切な搭乗の兵士を死なせてはならじと、斉藤、岡の警防団員を先頭に、何人かの人々が小舟を漕ぎ出し急ぎ救助に向かった。毛屋の金比羅神社の高台には、付近の人たちが集まってなり行きを見守っていた。

そのとき、今度は敵の小型機二機が墜落機の後を追うように低空で飛来すると、何を目標にか機銃弾を浴びせかけた。その何発かは、海上を急いでいた救助に向かう兄弟の舟に命中、兄は死亡、弟は足を負傷した。敵機はさらに急旋回すると、突如、毛屋の民家にも銃撃を加えた。曳光弾らしい一発がそれぞれ民家に命中、両家とも炎上し、焼失した。…(長与町郷土史 下巻より)』

《 各市町の被害状況 | 長崎県 「長与町」より》

 

プロパガンダ映画『残る敵は日本のみ』

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ヨーロッパ戦線で勝利をおさめた米軍は、「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ(Two Down, One to Go)」というタイトルのプロパガンダ映画を作成した。これは、いまや連合国軍の敵は、「残るは日本のみ」ということを強調する内容で、日本本土への上陸に向けて準備する将兵が抱いているであろう疑問に対し状況を説明すると同時に、兵士らの士気を高めるという狙いであった。

《 Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record から抜粋した内容を要約し、和訳》

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映画内のアニメーション

Still from animated sequence in Two Down, One to Go.

Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record

兵士らの最大の関心事は、「いつ、誰が、帰国でき、民間人としての生活に戻ることができるのか」ということであったが、映画は、「連合国軍が大規模な戦闘に勝利したとはいえ、日本を倒すまでは、まだ戦争中である」ことを兵士らに再認識させ、日本攻略のためには、基地建設やインフラ整備、物資や兵器の陸揚げなどが必要であることなどを説明した。

《 Two Down, One to Go: Preparing Soldiers for More War | The Unwritten Record から抜粋した内容を要約し、和訳》

プロパガンダ映画「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ」

Two Down, One to Go! - YouTube

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活動写真「トゥー・ダウン、ワン・トゥー・ゴウ」を観る兵站部第27歩兵師団の隊員たち。(1945年7月5日撮影)

Members of 27th Inf. Div. QM Watching Motion Picture ”Two Down, One to Go.”.

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米軍の兵器

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火炎放射器の圧力調節器のテスト器具。第27師団司令部化学部タワーズT/5によって改良され、他の方法より、より低い空気圧で済むこの器械は火炎放射器の圧力調整とそのテストの操作法に慣れる目的で使われている。(1945年7月5日撮影)

Pressure regulator testing assembly used in connection with flame throwers. This unit devised by T/5 Joseph W. Towers, Chemical Section, Headquarters, 27th Division, requires less air pressure than other methods is used to familiarize operators with pressure regulator on the flame throwers and for testing. T/5 Towers is from concord, California.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍陣地の調査

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馬のガスマスク‐‐米第10陸軍侵略に対する準備は整ったと考えていた沖縄駐在日本軍。戦闘飛行隊ウッズ海兵隊少佐率いる化学戦部隊将校であるドーソン陸軍大尉は、日本軍の軍需品集積所で見つけた馬のガスマスクのサイズを試している。(1945年7月5日撮影)

Gas mask for horse--The enemy on Okinawa thought they were prepared for everything before the 10th Army invasion. Army Capt. George P. Dawson, Jr., tests for size a gas mask for horses. The contraption was found in a Jap supply dump. Capt Dawson is chemical warfare officer for Marine Major General Louis E. Woods Tactical Air Force, Ryukyus.

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第32軍の敗残兵

久米島の鹿山隊

久米島には住民をスパイ視し、これまでに2件の虐殺(6月27日6月29日)を犯した日本海軍の通信部隊がいた。久米島 (くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

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久米島の日本軍 - Battle of Okinawa

久米島ある男性の戦時日記より:

7月5日   日本軍の切込み

鹿山兵曹長己は某の娘手ごめにし山奥を転々とにげまわり安逸をむさぼりながら切り込みと称し部下には5、6名を一組に1、2挺の銃器を与え残りは竹槍にて米軍の通過する道路及び適当の場所を見計り狙撃させていた。

この日午前9時頃富祖久山下譜久里専務の山庵を通過していった内田兵曹の一隊5名が小港坂の下にて米兵の戦車に向かって狙撃をなしたところ早くも所在発覚され機銃にて掃射され内田兵曹及び鳥島青年1名戦死2名重傷にて敗滅せりとの報に接し譜久里専務の山庵へ行ってみたら2名の海兵が傷の手当をなしていた。

米軍の前には全く児戯みたような鹿山の措置は感心できない。…(中略)…

7月6日、鹿山兵曹長民衆を脅迫す。民衆が山から出て住家に帰れば、山に残る者は軍人だけと云うことになり、米軍の掃討には便利である。それで、女をつれてにげまわっている鹿山は山中人無くては都合がわるい。そのため民衆の退山をよろこばすも、不喜若し退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしと云う宣伝せし為、下山する者ナシ。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

7月5日10時頃、激しく撃ち合う機関銃の音を聞いた。しばらくしてジープで運ばれた二つの日本兵の死体があった。内田という水兵と地元の仲宗根少年であった。頭に数発うち込まれて、無惨な死様であった。 …(中略)…しかしこれが久米島での唯一の米軍との撃ち合いである。ものの十分で終ってしまったが。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

 

そのとき、住民は・・・

大浦崎収容所 - 久志・辺野古

6月下旬、米軍は今の辺野古・大浦湾に大浦崎収容所を設立し、主に本部町今帰仁村伊江村の住民を収容した。住民の移送は6月26日頃から開始された。

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『今泊誌』

本部町健堅山里宗富(55歳)男性の証言

久志には七、八か月もいた。はじめは五〇人ずつ、あるいは百人ずっ大きなテントに収容された。中には敷物もなく、土の上に寝ろということであった。それで人々は、とりあえず草を刈りて来て駆き、その上に住んでいた。文字通り家畜同然の生活であった。だが、やがて私たちは、山から材木を切り出し茅を刈り集めて、自力で小屋を作って住まうようになった。

食糧もまた惨めであった。すでに区長も任命されており、配給主任を通じて一人何合、何個というふうに支給されてはいたものの、それだけではなんとしても足りず、誰もが栄養失調気味であった。働き手のいる家族はそれでもまだましな方で、実際に栄養失調で死んだ人々もたくさんいた。だから私たちは、久志から脱出して、羽地を経て健堅まで芋を掘りに来るようになった。帰りは羽地の川端で一息入れてから明治山を通って久志に向うのであったが、明治山付近まで来ると、日本の敗残兵らが道にはいつくばって恵みを乞うので、はるばる担いで来た芋などを少しずつ分けてあげたこともたびたびあった。

また、久志の入口にはCPが待ち構えていて、越境者を検査すると称して、荷物を取り上げる者もいた。私も二回取り上げられた。八里も九里も担いで来たものを奪われた時の悔しさは今もって忘れることができない。(p. 474)

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

「とにかく久志という所は秀山ばかりだった。本部にはヨモギぐらいはあったけれど、久志にはすでにそれさえなかった。だから、楽の葉や海の藻など、食べられるものは何でも食べた。」

「ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部まで食糧を取りに来た。当時、それは越境々と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。

ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを島巡査グ(CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。

それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に巻い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食種を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。

そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。」(pp. 487-488)

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

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