米軍の動向
Corporal John L. Schautz, Jr., 20, whose parents live at 848 Quiney Ave., Seranton, Penn., posts a Jap language leaflet in the wooded mountains of Okinawa where scattered Jap units were in hiding. Leaflets give direction for their surrender and tell of war's end.散り散りになった日本軍の部隊がまだ隠れている木が生い茂った山中に、日本語のビラを貼るシャウツ伍長(ペンシルバニア州出身)。ビラは投降の方法を指示し、戦争が終わったことを知らせている。(1945年9月1日撮影)
沖縄の朝鮮人慰安婦
「朝鮮人慰安婦」の定期検診
大山医院の院長と山3481部隊の隊長、兵隊、看護婦達。医院では、毎月1回、朝鮮人慰安婦だけを強制的に性病検査を行なっていた。こだま大佐、大山医師、看護婦達。
大山病院で働いていた看護婦 (17歳) の証言
(嘉手納の) 大山医院には、朝鮮人慰安婦の人たちが定期的に性病検診のため連れてこられていました。一か月に一回から二週間に一回の割合で、一〇人から一五人ぐらいの女性たちが、憲兵に強制的に引っ立てられて来ました。その扱われ方といったら、まるで動物を追い立てるみたいなやり方でした。朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとした姿がとても印象的でした。どうやら年のころも十六、七歳と、私と同い年ぐらいに見えました。今日でこそ、彼女たちは強制的に慰安婦にさせられたんだとわかりますが、当時は全く知りませんでした。憲兵は彼女たちのことを「自分で望んで朝鮮から商売に来ている」と私たちに説明しました。私はそれを聞いて「どうしてこんなに美しいお嬢さんたちが、沖縄のような遠いところで、こんな商売をしなければならないんだろうか」と不思議でたまりませんでした。また、彼女たちの多くは暗い表情でうな垂れていたり、またある者はあからさまな反抗を示していました。それを見ると「自分で望んで来てる筈なのにどうしてなのだろうか」と何かしら腑に落ちない気がしていましたが、それほどには気にとめていないんですね。あの頃は戦時中で、人のことをゆっくり考えている余裕はなかったんです。
慰安婦の一人に、とてもイジグヮー(気)が強い人がいました。性病の検診ですから若い娘には恥ずかしくて嫌だったんでしょう。診察台に絶対にのらないと、病院の中を逃げまわったりしていつも反抗していました。すると憲兵が追いかけて、怖い顔をして、冷たく厳しい声で「なんで、お前、どうしたんだ。行け、やれ」そう言って慰安婦を殴るんですよ。私はびっくりして「あんなにまでして。嫌がっているのに、検診もさせなければいいのに」と思いました。かわいそうな彼女たちに話かけたいんだけど、言葉も分からないので、ただ彼女たちにつけられている日本名を呼んで、「こっちに寝なさい、服を脱いでここに来て」など、看護婦としての業務に関わることをジェスチャーを交えて伝えるのが精いっぱいでした。また彼女たちの方でも、私たち看護婦に対してすら反発心を持っていたように思います。当然ですね、日本人にあんな目に遭わされていたんですから。それでも、反抗的な態度をとった者が叩きのめされてからは、残りの人はみな「はい」と言って私たちの指示にも従いました。
こうした屈辱的な検診の結果、朝鮮人慰安婦の中に梅毒や淋病などの性病に感染している人が四、五人いることが判明しました。しかし性病だと分かっても、大山医院には薬が無かったので、治療はできませんでした。性病の治療法としては「六〇六号」という薬を静脈から注入するなどの方法がありましたが、この薬は高価で貴重な薬だったので、まったく使われませんでした。医院では住民に処方する薬も欠乏している状況だったので、どうしようもなかったのです。検診の結果は院長先生から憲兵に直接伝えられました。私はそばで聞いていたのですが、先生は「ここに治療薬はないから、軍のほうで処方してくれ」とおっしゃっていました。ですが軍で薬を用意していたかどうかはわかりません。とにかく性病はどんどん人に感染するんですけど、彼女たちは性病との診断を受けて、その後はどうなったのでしょうかよくわかりません。
将校の相手をするジュリ(遊女)たちは、同じ慰安婦でも朝鮮の人たちとは違って大山医院での検診はありませんでした。何もできなくて
嘉手納の朝鮮人慰安婦の慰安所は、嘉手納のムラウチの民家を利用していましたが、よく場所をかえていました。ある日、往診の帰りに嘉手納のムラウチを歩いていると、民家の前に三〇人ぐらいの兵隊が並んでいました。その家の玄関には暖簾がかかっていて、みんな並んで、次々に入っていきましたよ。そして、終わったらどんどん帰っていく。後で考えたらあんまりにも残酷でね。だから、戦後このことを考えると、日本人って動物以下だと怒りがこみあげます。
女の人に限らず、朝鮮半島の方から男の人たち (註・朝鮮人軍夫) も連れてこられていました。彼らは比謝矼辺りで土方仕事をさせられていたのですが、夏の暑い日も、冬の寒い日も奴隷のように働かされて、ちょっとでも休んでいたら「また休んでいるのか、早くやれ」と怒られてね。私は先生と往診に出ることが多かったので、彼らの姿をよく見かけていました。食事なんかは、いつ見ても硬くて味の無いカンパンだけ。それを二、三〇人でかたまって食べているのを見ると、何か持っていってたべさせたいと思うんですが、先生に「怒られるよ」と止められて、見ているだけしかできませんでした。《読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 女性の証言》
日本軍の慰安所建設
日本軍の駐留とともに慰安所が続々設置された。日本軍は、朝鮮半島から連れてきた女性だけではなく、沖縄のジュリ*2も慰安婦として囲い込んだ。
『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館
These ten Korean girls, sold into prostitution by their destitute families, were found by a Marine patrol near an enemy quartermaster after a skirmish with Japanese soldiers, on Okinawa.
貧困ゆえに売られた韓国人女性10人。彼女たちは日本軍倉庫近くを哨戒中の海兵隊員によって発見された。
日本軍による慰安所建設
要塞建築勤務第6中隊(球2774部隊)の陣中日誌より
昭和19年7月4日から昭和19年7月24日まで、第6中隊の金丸班が、北飛行場内の各種土木・建築作業に従事し、その後美里村へ移動した。昭和19年9月27日より、第六中隊第二小隊より重信班が北飛行場に派遣され、第五十六飛行場大隊の指揮下で、各種(三角兵舎、入浴場、便所、炊事場、器材庫、給油補給台、慰安所造りの他、排水溝、発電機、机、戸棚、寝台など)の建設作業、洞窟壕掘り等に従事した。《 「陣中日誌」沖縄戦資料75、77、78より)》
日本軍が各所で民家等を接収し慰安所にした。
沖縄の「慰安所」は民家を接収する場合も多く、住民の多くが「慰安所」の存在を知り、または、自分の家の近くに存在する「慰安所」の「慰安婦」と交流するケースもあった。沖縄で朝鮮人「慰安婦」は、主に「朝鮮ピー」と呼ばれた。「ピー」とは中国戦線で使われた隠語で女性の性器を意味する。住民にとって、朝鮮人「慰安婦」は「風紀を紊乱」する「ピー」のような存在として見られ、日本軍の「慰安所」設置を反対したり、「強かん」を防ぐための「必要悪」として受け入れていったりした。しかし、一方、沖縄本土とは異なり、米軍の上陸がなかった離島、宮古島の住民にとって「慰安婦」は、「美しい(アパラギーミドォン(美しい女)」として見られ、親密な交流をしたケースもあった。
1月16日、作業班長に任命される。任務は、書きたくないが、あえて書けば、慰安婦の幕舎づくり」だ。
慰安婦を嫌悪した金はやがてだまされて慰安婦にされた「貞子」の身の上を聞く
貞子 (軍は朝鮮人慰安婦に日本の女性の名前をつけた) は、多くの同僚たちと共に務めていた百貨店を解雇された。解雇されてすることも無く遊んでいる娘、ということになれば、明日にでも、挺身隊志願の勧告を受けるだろう。こういう切迫した時期に、母親は愛国班長から、耳寄りな話を持ち掛けられた。内地にある民営企業で女工を募集しているのだが、千円の前金をもらえ、二年間の契約で寝食を提供された上に、五十円の月給をもらえるという条件だった。母親は「娘を挺身隊から逃れさせたい」一心で、この話に飛びつき、貞子は貞子で、千円の金があれば、母親が楽に暮らせるだろうと考えて、募集に応じる決心をした。
軍人が慰安婦の輸送を監督する。
日本軍支給の慰安券と避妊具
軍隊内で慰安所の使用規定が定められ、軍から慰安券が配られた。
慰安券: 『独立歩兵第15大隊本部陣中日誌』防衛研究所図書館所蔵
国立日帝強制動員歴史館が所蔵している日本のサック(コンドーム)の包装紙に「突撃一番」と書かれている。この包み紙は実物を模したものだ=国立日帝強制動員歴史館提供//ハンギョレ新聞社 『1937~40年、日本で「ハート美人」という商品名のコンドームが発売されていた当時、日本人たちはコンドームをサックと呼んだ。1941年太平洋戦争が始まる前、日本の軍部が兵士たちに女性と性的関係を持つ時に使用すると軍需品として支給した。この時コンドームの名前は「突撃一番」だった。突撃一番は当時、日帝が戦争に動員される兵士に植えた思想で、弱者である女性を人格的に待遇せずに性欲求を解決する対象に見ていた日本軍の認識を窺うことができる。
(写真)沖縄県南風原町の沖縄守備隊第32軍津嘉山司令部壕跡から出土した「避妊具」=南風原文化センター提供
「日曜日にもなると東花城の門まで兵隊が並んでいたという。使い捨てられたサック(避妊具)を付近の子どもたちが膨らませて風船遊びをしていたため、字の役員がかけあってサックの処理をきちっとさせたこともあった」(南風原町沖縄戦戦災調査(88年)の報告書「津嘉山が語る沖縄戦」より)
日本軍の慰安婦として、また補助看護婦として
日本軍は、米軍の上陸が想定されるようになると慰安所の女性たちに「救急法」を教育し、慰安婦としてだけではなく、補助看護婦として従軍させた。
座間味で衛生兵だった兵士の証言
(座間味の) この本部の壕は広く、相当の人数を収容することができ、上と下に分かれた二つの壕からできて、上の方は戦隊長のほか将校たちが使っていて指揮壕とされ、23日以来ここで作戦会議が行われていました。下の壕には私達医務室のものが待機していて傷ついたものを治療していました。この他にはまた慰安婦たちも集まっていて、彼女たちには前から折を見ては看護婦としての教育がなされていたので、この時は補助看護婦として、私たちと行動を共にしていました。
1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで (伊江島の) 「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ、全員戦死した可能性が高い。
《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》
東風平村の慰安所にいた十人の女は、補助看護婦として従軍、砲撃で全員戦死。(琉球政府厚生局援護課の資料による)
《山川泰邦『秘録沖縄戦記』おきなわ文庫 (1969)》
生き残り、捕虜となった「慰安婦」女性は米軍の収容所でも看護助手として働いた。
Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. Navy nurses at the hospital for Japanese prisoners talk with Korean nurse's assistants. (L-R): Lt. (jg) D. B. Williams, (NC) USNR; Lt. (jg) M. E. Williams, USNR; Lt. (jg) K. E. Tasker, (NC) USNR; Lt. M. E. Von Stein, (NC) USN; Lt. (jg) P. E. Toy, (NC) USNR.
沖縄における看護師。日本人捕虜の病院にいる海軍の看護師が、朝鮮人看護助手と話しているところ。左から、海軍予備役のウィリアムズ中尉(下士官)、海軍予備役のタスカー中尉(下士官)、スタイン海軍大尉(下士官)、海軍予備役のトイ中尉(下士官)。
撮影日: 1945年 6月 26日
米軍が記録した「慰安婦」の女性たち
米軍は日本軍の「慰安婦」を「芸者ガール」と記録した。米軍は孤児や身寄りのない高齢者を孤児院や養老院に囲い込んだが、そこで元慰安婦の女性たちが看護助手として働いていたという証言も多い。
[ AI によってカラー化しています。] Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.
下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。下原 1945年5月10-20日
1945年ごろ、羽地村(当時)の田井等孤児院で過ごした座覇律子さんと、沖縄戦中に朝鮮人軍夫が働く港近くに住んでいた友利哲夫さんが証言した。当時13歳だった座覇さんは孤児院で元慰安婦だった女性らに育てられた状況を説明しており、「ササキのおばさん」と呼ばれていた元慰安婦について「日本語は分からないが、 子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と振り返った。孤児院近く にあった野戦病院でも元慰安婦の女性が看護師として働いていた。座覇さんは、孤児院を出た後 に周りから女性らが慰安婦だったことを聞かされたといい、「慰安婦と言われてもまだ幼かった ので、女性たちが何をされていたのかも分からなかった」と語っている。戦後、女性らが帰国する記事を見て、「当時は無事に帰国するんだと思ったが、女性が大変なことをされたことを後で 知った。今、当時を振り返ると帰国後どんな気持ちで暮らしているのかと思うと胸が苦しい」と 語っている《「沖縄タイムズ」(2008. 3. 16)「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦 》
座間味守備隊の場合 - 梅澤隊と7人の朝鮮人慰安婦
那覇市内でひっそりと生涯を終えた女性のこと。女性はペ・ポンギさん。ペさんは1944年、朝鮮半島から渡嘉敷島に連れて行かれ、日本軍の慰安婦として働かされました。「南の島に行けば、お金が儲かる」そう言われたのです。彼女の存在が知られたのは戦後30年も経ってからでした。キムさん「サトウキビ畑の中に農具を入れる掘立小屋がある。そういう所で生活していました。一人間として、一女性としては考えられない精神状態と言いますか。人間忌避症にかからざるを得ない状況だった。誰が行ってもまともに話そうとしない。会おうとしない」
奉奇 (ペ・ポンギ) さんら51人は鹿児島から軍の輸送船で10・10空襲後の那覇に来た。焼けた無人の病院でそれぞれの行き先が決められた。那覇に20人、大東島に10人、慶良間の座間味、阿嘉、渡嘉敷に7人ずつである。慶良間にはこの21人以外に「慰安婦」はいなかった。奉奇 (ペ・ポンギ) さんらはマライ丸で那覇に来て、慶良間に向かったに違いない。< 中略 > 奉奇さんは、8月26日、カズコとともに武装解除式に臨んだ後、座間味を経て屋嘉の捕虜収容所へ、さらに民間人用の石川収容所に移された。しばらくしてからそこでトミヨに会った。ひとりは将校と自決し、ふたりは空襲下、身を縮めている時に死亡したといい、生き残った3人と石川収容所にいると語った。日本兵といっしょに屋嘉収容所にいる「おやじ」に会いたいが、米軍がなかなか会わせてくれないとも話していた。
梅澤氏は、〈朝鮮慰安婦〉を座間味島に送って来たのは〈軍司令部〉であったと記しており、慰安婦たちが軍の管理下に置かれていたことがうかがえる。それにしても、梅澤氏の筆致からは、遠く沖縄の地に送られて来て戦争に巻き込まれた朝鮮人の慰安婦たちに対し、島の最高指揮官であった者としての慚愧の念や反省の念、心の痛みはまるで感じられない。梅澤氏が〈女傑の店主〉〈女傑の主人〉と記す女性は、川田文子著『赤瓦の家 朝鮮からきた従軍慰安婦』(筑摩書房)によれば、日本名でイケガミ・トミヨと呼ばれていた朝鮮人の女性で、〈大柄な美しい容姿で島の人々に強い印象を残し〉たという。トミヨは各島の慰安所の元締めをしていた男の内妻であった。座間味島には慰安婦たちを管理する〃帳場〃と呼ばれる男が付いて来ず、トミヨが〃帳場〃の役を務めていた。(『赤瓦の家』192頁)。
また、関根清著『血塗られた珊瑚礁 一衛生兵の沖縄戦記』(JCA出版)によれば、米軍の攻撃を受けて4月11日に負傷した梅沢隊長は、6月の中旬に米軍に捕らえられて捕虜となるが、その間一人の慰安婦が梅沢隊長に付き添っていた、とされる。梅澤氏自らも記し、川田氏も座間味島で聞き取った話として前掲書で記しているが、付き添っていたのはこのイケガミ・トミヨという女性である。
Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands. Helen Tomio, Geisha girl found with Jap Major.
座間味島の地元民。日本軍の少佐と共に見つかった芸者ガールのヘレン・トミオ。座間味島 (1945年 5月31日)
”Geisha Girls,” Jap Korean women found on Zamami Shima, Ryukyu Islands, brought to the island by the Japs.
日本軍によって連れてこられた、朝鮮人の「芸者ガールズ」。座間味島にて。撮影地: 座間味島 (1945年 4月 21日)
米国立公文書館所蔵の4月21日付の3人の「慰安婦」の写真7枚の中の1枚。慰安所からも激しい戦火からも解放され、満面の笑顔だ。「琉球の座間味島で発見された日本軍朝鮮女性の芸者ガール。日本によってこの島に連れて来られた」とのキャプションが付されている。沖縄公文書館で見ることができる。
《『70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真』川田文子》
Natives on Zamami Shima, Ryukyu Islands.
さらに、2016年、同館でトミヨの写真ともう1枚の写真が公開された。トミヨと座間味の3人にミッちゃんとアイコと思われる少女が加わった写真だ。6人のうち3人は高校生ぐらいの年齢だ。1944年11月から1945年3月23日、慶良間空襲が始まる直前まで、将兵の酷使に耐えた女性たちである。
《『70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真』川田文子》
大陸での日本軍と慰安婦というシステム
『wam女たちの戦争と平和資料館:http://www.wam-peace.org/』2005年,作成資料
◉:公文書によって確認された場所
▲:元「慰安婦」の証言によって確認された場所
■(二重四角←変換できない):日本軍将兵の手記、証言や地元の目撃者証言によって確認された場所(※地図上のマークの数=慰安所の正確な数ではありません。)
『日本軍が「慰安所」システムを考え出したのは、中国戦線からであった。食料の収奪はもちろん、若い女性を拉致しての集団暴行と虐殺事件が繰り返された中国では、激しい反日感情が爆発し、日本軍にとってそれは「想定外」の激しいものであった。そのため中国戦線での作戦変更まで強いられた日本軍は、1938年(昭和13)反日感情の原因が「強かん」事件であることを認めざるを得なかった。
そして、「軍人個人ノ行為ヲ厳重取締」るとともに、強かんを隠蔽する装置として、「速ニ性的慰安ノ施設」設置に至ることとなった。組織的に「慰安所」が増強されるにつれ、朝鮮では「処女供出」「処女狩り」と呼ばれた未婚女性の強制連行が進められた。南京大虐殺直後から本格的に強制連行が始まり、1943年から45年にかけて戦場が拡大すると、井戸端で、田畑で、道で、工場で、そして家の中まで軍靴のまま乱入し、14歳から20歳までの女たちを暴力的に連れ去った。こうして強制動員された朝鮮の女性たちは、アジア太平洋戦争の間、日本軍が占領した各地に設置された「慰安所」で「性奴隷」としての生活を強制され、敗戦に近づくと、現地で捨てられたり、置き去りにされたり、連合軍の空爆があるとだまされて壕の中で爆殺された。植民地朝鮮の女たちは、天皇が日本軍に与えた慈悲の「贈り物」であり「性病」予防にふさわしい存在にすぎなかったのである。
第32軍は、中国戦線での虐殺の延長線上で、アジア蔑視の経験と女性の体をもの扱いする「慰安所」を持ったまま沖縄にやってきた。…「慰安婦」が最初に送られてきたのは1941年(昭和16)で、南大東島での飛行場設営のための人夫と「慰安婦」7人が連行されてきた。そして「慰安婦」の多くが連行されたのは、主力部隊が沖縄に配置される1944年(昭和19)であった。アジア太平洋地域で残虐行為を引き起こした軍隊が沖縄に送りこまれてきたことが、「スパイ戦」と呼ばれる「友軍」による住民虐殺事件の悲劇の引き金になったことは、改めてここで指摘するまでもない。
米中連合軍164通信隊写真隊所属の写真兵が記録した朝鮮人慰安婦
ソウル市とソウル大学人権センターが米国立文書記録管理庁で見つける。1944年、中国雲南省のある民家で7人の裸足の女性を撮影
旧日本軍の従軍慰安婦問題を巡り、関連する公文書の収集を続ける内閣官房が2017、18年度、新たに計23件を集めたことが6日、分かった。うち、在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。「酌婦・特殊婦女」は別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指している。専門家は「軍と外務省が国家ぐるみで慰安婦を送り込んでいたことがはっきり分かる」と指摘する。
戦場のうた / 元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史 - Dailymotion動画
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