〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月25日 『戦争と性犯罪』

原爆投下の決断米兵の性犯罪「神に見放された沖縄」

米軍の動向

トルーマン大統領 - 原爆投下の決断

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65年前の7月、捕虜になった人々が収容所で混乱した日々を送っていたころ、アメリカ本国ではある計画が進行していました。

1945年4月。沖縄に上陸したアメリカ軍が侵攻を続けていたころ、第33代アメリカ大統領に就任したトルーマン。それから3カ月後の7月。生き残った人々が収容所で混乱した生活をおくるなか、アメリカ本国ではある計画がトルーマン大統領を中心に進められていました。

65年前の7月21日、トルーマン大統領はアメリカが4年の研究の末、開発した新兵器・原子爆弾を日本に投下することを許可します。軍への投下命令は極秘の内、25日に下されました。

「戦争を早く終結させ兵士たちの命を守る」という名目のもと、アメリカが取った恐ろしい選択を、そのとき沖縄の人々もアメリカ兵たちも知る由もありませんでした。

65年前のきょうは1945年7月22日(日) – QAB NEWS Headline

 ※ 7月25日のトルーマン大統領の日記

This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new.

【訳】この武器は、現在から8月10日まで日本に対して使用されることになるだろう。私は、陸軍長官スティムソン氏に、それを使用するのは、軍事目標と兵士と水兵とが標的であり、女性と子供ではない、ということを伝えた。たとえジャップが野蛮で、冷酷で、容赦なく、狂信的であるとしても、共通の福祉のための世界の主導国家としての我が国は、その恐ろしい爆弾を古い首都や新しい首都に落とすことはない。

Nuclear Files: Library: Correspondence: Diary: Harry S. Truman

※ the old capital とは、それまで原爆投下予定地であった京都を選択から外したことを示すと思われる。

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Lt. Cdr. McAuliff bombing and strafing Jap-held territory near China.

マコ—リフ少佐による、中国に近い日本の領土への爆撃と機銃掃射。(1945年7月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書

 

B型脳炎 (日本脳炎) の蔓延

漢那など北東部の収容所でB型脳炎が蔓延した。

米陸軍の医療記録から

【訳】日本のB型脳炎の最初の症例は1945年7月10日に沖縄の先住民の間で見られ、1945年7月26日までに約68人の患者が観察されていました。これらのうち、3人は米兵でした。軍政府病院に紹介されずに死または回復に終わった先住民の間には、おそらくもっと多くの症例があったでしょう。100件以上発生した可能性が高い。患者の大半は12歳未満でした。若者は男女間で平等に分けられましたが、少数の年配の個人は事実上すべて女性でした。患者のほとんどは島の北東端で発生した。

U.S. Army Medical Department - Activities of Medical Consultants

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漢那の南、13号線沿いにある軍政府E-1リサーチセンターにて。脳炎にかかった子供。(病例2) (病例7)(1945年7月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍の軍医や看護要員は捕虜となって米軍野戦病院で医療に従事した。

沖縄陸軍病院の第3外科で軍医見習士官として務めた長田紀春さん証言

捕虜の病院から解放されて石川地区病院に赴任した私は、毎朝病院の前に列をなして受診を待つ多数の患者の数とその姿に、敗戦の民の悲哀さを見たが、また患っている感染症の種類の多さに一驚した。肺炎やマラリア赤痢結核などの新患が毎日来るし、今では珍しい疫痢(激症赤痢)やジフテリア日本脳炎が流行して死亡者を出した。そしていつの時代でも、真っ先に犠牲になる老人や子供が、危険な戦争から幸福にも逃れて来たのに、無念にも亡くなられるのを多数見たのである。 

 米軍医療と沖縄の医療 - Okinawa Med.

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米陸軍: Med. Dept Nurses. 看護婦 1945年 7月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

多発する米兵の性犯罪と軍政府のネグレクト

女性が訴えても、「無かった」ことにされる米兵の性犯罪

第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊の海兵隊員の証言から

それで、7人の男たちが私に、一緒にその家へ行こうと誘ってきました。「そこへ行って、女性とセックスするんだ」と言いました。彼らがそこへ行って女性を性的に・・私は合意の上だと思っていましたが、「私は行かない。お前たちはクレイジーだ」と断りました。それで彼らは行ってしまいました。1-2時間すると彼らは戻ってきましたが、何だかとても動揺しておびえた様子でした。そしてその中の1人が「髪を切って欲しい」と言ったのです。当時、私は仲間の散髪をしてやったりしていたので、ハサミとクシを見つけて彼の頭を切ってやりました。彼は長髪でしたが、全部切りました、次の男は、髭を剃ってやりました。次の男、次の男と、1時間くらいそんな事をしていると、4-5台のジープと武器輸送車が、憲兵かわいらしい小柄な沖縄の女性を乗せてやって来ました。

そのうち、責任者の男は、将校かなんかだったと思いますが、彼が、私たちを全員並ばせて、女性が列の中から自分を暴行した男を5人ほど指さしました。彼女は、残りの2人は見分けられませんでした。彼女が「こいつだ」と言えば、憲兵たちは彼女を信じたでしょう。私は男たちが何をしたのか考えると、死ぬほど怖ろしくなりました。それから、医師が男たちと女性を診察しましたが、レイプの痕跡はどちらにも認められないという事でした。もちろん、医師は米軍側の味方で、軍隊でレイプの罪に問われると大変なので、避けたかったのでしょう。医師は7人の男たちが罪に問われるのを見たくありませんでした。ですから「証拠は無い」と言いました。

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そうして、憲兵たちは去りました。その後で、中尉と少尉がやって来て、まだ島にいて負傷していない数人の兵士に、「MPが君たちを捕まえにやって来る。師団もやってくる。彼らは医師がレイプの証拠はないなどと言っても聞き入れないだろうから、早くここから出て行ったほうがいい」と言いました。それで、1人の男は外に行き、自分で足を撃ちました、次の日、別の男は同じ事をしようとしましたが、失敗しました。… (中略) … 兵士たちが島から外に出てしまえば(負傷兵として別の場所に送られれば)島の司令部の管轄圏外になります。島にいる限り彼らは罪人で、捕らえられ裁判にかけられる事になりますが、そうはなりませんでした。

フェントン・グラナートさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

… 本部 (本部半島) では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている。

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたという(Action Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)。

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)

これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)

米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろう(Report of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》

"Godforsaken Okinawa" - 占領軍のネグレクト

「神に見放された沖縄」「ガラクタの山」… 占領軍のネグレクトにより、沖縄と沖縄人のおかれた状況はますます悪化する。

米陸軍1988年の報告書より

【訳】(1946年から1949年まで) 米陸軍全体において、将校と兵士の間で「最悪のやつらだけが沖縄の駐屯任務に送られた」という印象が構築された。1940年代後半、手厳しい陸軍将校が指摘したように、琉球列島は「陸軍の兵站線のさいはて」となり、捨てられた第二次世界大戦の軍装備と極東司令部から追いだされた人員の「がらくたの山」になった。別のオブザーバーは、この時期の沖縄をGHQ(SCAP)と日本本土からの亡命地、そして野心的な陸軍軍属にとっての無人地帯」と特徴づけた。実際に、1949年3月のマッカーサー本部による特別報告は、琉球列島に割り当てられた人員は報告によると「日本に割り当てられた人員よりも質が悪い」と述べて、この悪評判を再確認したのである。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 71》

報告される犯罪件数は実際よりも恐ろしく少ない。

【訳】1945年5月初旬、司令官のウォレス将軍は、レイプ事件を阻止するため犯罪者に対しての死刑を喧伝したが無駄な試みであった。… 米兵による重大犯罪の報告はほぼ十年間、司令部を悩ませ続けた。彼らが「沖縄島での恥ずべき混乱」と呼んだ件に関連し、Life 誌は、「1949年9月までの6か月間に、アメリカ軍人が29人の沖縄人を殺害し、18人をレイプしたと報じた。この同じ期間、兵士は16の強盗に33回の暴力で有罪となった」と報告した。汚職の噂や申し立てもまた、司令部の中で広まり始めた。沖縄に駐在する将校や軍属の中には、民間業務の関係者も含めて、さまざまな違法行為に関与した者たちもいた。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 82》

 

第32軍の敗残兵

米軍が Geisha girls と記録した女性たち

米軍は慰安婦Geisha girls と記載し写真に記録している。

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These ten Korean girls, sold into prostitution by their destitute families, were found by a Marine patrol near an enemy quartermaster after a skirmish with Japanese soldiers, on Okinawa.
貧困ゆえに売られた韓国人女性10人。彼女たちは日本軍倉庫近くを哨戒中の海兵隊員によって発見された。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ヤンバルの大湿帯に潜伏する宇土部隊の宇土武彦隊長は10月2日に投降するが、宇土部隊は常に「慰安婦」を連れまわしていたことが多くの住民に目撃されている。

ウチナーンチュ(沖縄の人)とは全然違うさ、ヤマト(大和)みたいにして色もきれいくて。体はあんまり大きくなかったけど、見て分かりよったね。朝鮮が日本の兵隊と一緒に歩くって話......、戦争終わってから山から兵隊たちがみんな下りて来るわけよ。可愛かったよ、日本の兵隊が連れて一緒に降りてきて歩くわけさ。山(多野岳)から下りてきて長太刀さした兵隊がこの女連れて歩くわけよ。

名護市聞き取り (2012年)《洪ユン伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会2016年 p. 348. 》

米軍上陸にさきがけ日本軍は「慰安婦」に救護法を学ばせ看護要員として使役したため、戦場で犠牲になった女性たちも多かったと思われるが、生き残った朝鮮人慰安婦」たちは米軍によって民間人収容所の区画に囲い込まれ、養老院や孤児院で働いていた証言が多く見られる。今帰仁では日本軍慰安所経営の後に米軍相手の慰安所 (S屋) が作られ数週間運営された例もある。

北部でも南部でも日本軍は「慰安婦」を連れて移動し、多くの女性達が犠牲になったが、生き残って捕虜となった慰安婦が何十人という単位で宜野座などの収容所の区画に収容されていたという証言がある。米軍は「地域とのトラブル」を懸念し、朝鮮半島に帰還させる方針をとった。(James T. Watkins: Okinawa Papers Deposited)

2014年民間放送連盟のテレビ報道部門最優秀賞。
戦時中140ヵ所の慰安所があったとされる沖縄。慰安婦に関する大阪市長の発言も伝えながら、「慰安婦」問題の背景、沖縄に慰安所を設置した日本軍の実態を、多くの証言や資料で明らかにした。被害女性の貴重な証言や、宮古島で「慰安婦」を見た住民、慰安婦と交流のあった住民の記憶などを丁寧に集め、「慰安婦」や住民、日本兵が当時何を思っていたのかを「うた」を手掛かりに探った。

 

そのとき、住民は・・・

搾取される性

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Geisha-Master on Okinawa and Sgt. Elvis C. Lane, Combat Correspondent with the 29th Marines. 第29海兵隊所属従軍記者レーン氏とゲイシャ・マスター (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

泡瀬 (美里村) の人で、前に料亭をしていたそうですけれど、その人の家族は二階家に棲んでいました。そのお父さんは、若い娘を三、四人っれていました。実の娘だったかどうかよく判りません。もとの料亭の女の人たちだったかもしれませんね。お父さんは、言葉はよく通じないのに、アメリカーになんでもオーケイオーケイして、アメリカーから煙草やら石鹸やら毛布やら貰っていました。

ある日また、私の子供が熱を出して、一区のアメリカ病院に私が子供をつれて行ったときでしたけれど、二階家にさしかかったらちようど四、五人のアメリカーが煙草を一箱持ってきて、そのお父さんに渡していました。そのあとで、アメリカーたちは、みんなの見ている前で、そのお父さんの娘を、家の中でつぎつぎとおこなった (強姦した) んです。みんな騒いだんですけれど、アッサヨー (感嘆詞) こわくて、私はよくは見いきれませんでしたけれど、鉄砲を向けて、替わるがわるおこなっているようでした。それからまた、それだけではすまさないで次には、山羊小屋でも、おこなっていました。山羊小屋に引きずり込まれたのは、二十四、五の肥えた女のようでした。

あっちこっちでそれに似たような事件はたびたびあって、若い娘が外に出ると、すぐつれて行かれました。つれて行かれた後、どうなったか、ほとんど判りません。どうなったことか。帰ってこない娘もいます。その頃はもう、桃がなっていましたけれど、桃を取るために木に登っていると、アメリカーは下でおりてくるのを待っているくらいでした。だから娘たちは、屋根裏に隠れていました。あとからは年寄りだけが出歩くようになっていました。私はいつも子供をおんぶして、狙われないよう気をつけていました。一か月二か月と経っと、言葉の少し通じる沖縄の中年男が、アメリカーから物資やら金を貰って、墓の中などで、女の人たちを説得させてアメリカーに替わるがわるやらせて、儲っているようでした。

それでも、夜など寝ているところへ、女はいないかと、尋ねてきていました。また、シード (北谷村の字勢頭) の人の二十歳になる娘が、昼間、もとの壕に親と一緒に荷物を取りに行った帰り、親の見ている前で、○○○○ー(黒人) に引張られて行ったそうです。その娘はそれっきり帰ってきませんので、多分死んだんだろうとみんな噂していました。

島袋には三か月以上古いて、毎日食糧探しをして、共同生活をしていました。食べることはなんとかできたのに、アメリカーのやることはどうにもできませんでした。いちどは、解剖の前に、強姦されて死んでいる若い娘が臥かされているのを、私は見ました。その傍には、母親らしい人が泣きくずれていました。私が見たのはほんの一例にすぎません。強姦事件は数えきれないほどあったんです。白人よりも黒人の方が多かったようです。*1

沖縄戦証言 北谷町砂辺 - Battle of Okinawa

米軍が収容所と呼ぶ場所の一つ。中央に女性の姿が見られる。

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米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island. Shacks for homes.
沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。住居用の掘っ立て小屋。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米海軍: Japanese civilian casualties being taken from front lines on Okinawa to hospital ship. Aged woman begs William D. Taxin, PhoM, for release.
沖縄本島の前線から病院船に連れて行かれる民間人の負傷者。年老いた女性が、解放してもらえるようタクシン撮影要員に懇願している様子。1945年 4月 1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

国頭山中の避難民

国頭疎開と収容所

… 山中で私たちの生命を支えてくれたのは、そてつであった。ソテツは昔から饑饉のたびに救荒食として郷土の人々の生命を救ってくれたが、私たちもまた、ソテツのおかげで餓死を免れることができたのである。

命の綱であるソテツもいよいよ底をつきはじめた7月下旬のある日、突然米兵が小屋の入口に現れ、銃口を向けて「出て来い」と手招きした。小屋の屋根より高い大男の米兵を初めてすぐ目の前で見た私は、恐怖のあまり全身ガタガタふるえて動くこともできなかった。米兵がほんものの赤鬼に見えた。

この7、8人の米兵たちは、ハワイ帰りの2世…の案内で捕虜狩りにやって来たのである。私は、母や叔父に勇気づけられてようやく我に返り、近くの小川から一升びんに水を汲み、隣の家からにんじん3本をもらって父の最後の食物として枕元に置いた。父は歩けないので、ひとり残して下山するほかはなかった。寝たきりの父をひとり残して下山するのは、身を切られるようにつらかった。

近所の人たちを合わせて私たち20数人の捕虜は、7、8人の米兵に背後から銃を向けられながら川岸の山道を降りた。母は荷物を背負っているので、生後40数日の弟は私が背負った。1キロほど降りると、広い河原に180人ほどの捕虜たちが不安そうに坐っていた。陽気に談笑している50人ほどの米兵とやつれ果てた姿で押し黙っている捕虜たちとはまったく対照的だった。

私は、河原で15分ほど休憩させられた。私は、小屋に残してきた父のことが心配でたまらなくなり、米兵が雑談しているすきに10メートルほど列を離れて密林の中に逃げようとした。すると、米兵が鋭い声を上げて私を狙い撃ちしようとした。「危ない!戻って来い」と大人たちが叫んだ。私は、逃走を断念して列の中に戻った。このことがあって以来、私は下山するまで米兵に終始監視された。一行は、下山の途中20分おきぐらいに休憩させられた。栄養失調で歩行困難な人が多かったからである。

米兵たちは、休憩中の若い女性を物色して見つけると、無理矢理に連れ去って行った。下山の中途まで来たとき、私の前に立っていた奥間の旧家東(屋号)の娘を米兵が連れて行こうとした。すると、胃病で弱り杖をついているその娘の父親が米兵の手を振り払って米兵の胸を強く押した。怒った米兵は、父親の胸元に銃口突きつけて撃とうとした。父親は、昂然と胸を張って米兵をにらみつけた。近くの人々の視線が米兵に集中した。息づまるような一瞬が過ぎた。米兵は、父親の気迫と眼光に圧倒されてすごすごと立ち去って行った。

今にも倒れそうなよぼよぼの老人のどこにあの激しい気迫が秘められていたのかと驚かずにはいられなかった。この勇敢な老人の抵抗は、私の脳裡に強く焼きついている。その日の夕暮れ、一行は宇良部落に降ろされ、そこで一泊して翌日は奥間部落へ帰された。

山に残して来た父は、下山して2日後に男まさりの祖母が背負って連れて来た。父は、下山後1ヵ月もたってからようやく歩けるようになった。

下山後、たちまちマラリアが流行し、栄養失調で弱った人々は次々と死んでいった。とくに、中南部から避難して来た住民が多く死んだ。部落では、毎日のように葬式が続いた。米軍上陸前、私の家には読谷村の避難民が3世帯で20人ほど住んでいたが、下山後再会した時、生き残っているのは、わずか5人に過ぎなかった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 486-487頁より》

 

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*1:人種差別と性差別: 米軍による占領下でおびただしい性暴力事件があったことが特に初期の証言記録に多く記録されている。それらの記録には、白人兵と同時に、また勝山事件のようにアフリカ系アメリカ人の兵士によって頻繁にひきおこされていたという住民の言が多くみられる。ゆえに、軍政下沖縄の強姦事件の背景には米国と米軍内の強烈な人種差別と差別に由来する軍政府のネグレクトも併せ分析されなければならない。第二次世界大戦の最終局面であった沖縄戦では、これまでのどの戦闘よりも多くの黒人部隊が投入された。しかしそれでも沖縄の海兵隊の黒人部隊の数は 2,000人程度。第10軍の報告では沖縄戦全体でのアフリカ系アメリカ人部隊は最大で8,024人と報告されている。当時の米軍ではアフリカ系アメリカの兵士は人種差別により厳しく人種隔離された部隊 (segregated unit) に編入されていた。比較的早くから黒人兵を受け入れた陸軍では、故意に人種差別の根強く残る南部の白人将校を黒人部隊の指揮官として頻繁に割り当てていたといわれる。また海兵隊は1942年6月から黒人の海兵隊員を派遣するようになる (Montford Point Marines) が、1945年11月まで黒人が将校になることは許されなかった。またバッファロー・ソルジャーズとして知られる伝説的な陸軍黒人部隊のひとつ第24歩兵連隊 (24th Infantry Regiment) は、実際に1945年7月29日から (-1947年1月まで) 渡嘉敷に駐屯したが、それらも含めて沖縄戦を果敢に撮影し続けた従軍カメラマンたちがアフリカ系アメリカ人兵士を被写体として記録した写真も極めて少ないと感じる。こうしてアフリカ系アメリカ人兵士の存在は米軍内で、利用されながらも「見えない存在」とされ続けた。このような軍内の歪んだ人種差別は、駐留地沖縄でのレイシズム (人種差別) とセクシズム (性差別) をより増幅させ、白人、アフリカ系アメリカ人、沖縄人、女性、という重層的な差別構造の最下層に落とし込まれた沖縄人女性は、日常的に暴力のターゲットとされた。また軍政府は日常的な性暴力から沖縄人を守ることを怠った (ネグレクト)。これについては、上記の米陸軍1988年の報告書 Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950 の「ネグレクトと無関心」の項目で若干検証されている。

沖縄戦の期間中最大で 8,024 人の黒人兵が派遣され、このうち 3個高射砲大隊を除き、黒人兵全員が戦闘以外の任務についていると報告している。沖縄戦の 全期間を通し、18万人から20万人の米兵が駐留したが、黒人兵の割合は全体の5パーセント程度と見てよいだろう。

保坂廣志沖縄戦下の日米インテリジェンス』p. 184》