〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年9月4日 『こんな国のために死ぬもんか』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑤

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。

9月4日宮古飛行場から飛び立った日本軍航空機は読谷飛行場に到着。釈放された米人捕虜コナー少佐とボッグズ中佐ら第10軍代表団を乗せた2機が徳之島飛行場に着陸。

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Japanese Envoya from Sakashima Gunto Maj. Gen. Toshiro Taga and civilian interpreter Wert Takamura arrive at Yontan Airfield.

読谷飛行場に着いた、先島群島多賀俊郎少将の全権と民間人通訳竹村氏。(1945年9月4日撮影)

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第32軍の沖縄観

アメリカ軍を中心とする連合軍の猛攻が日本本土の方に迫りつつあった1944年初めごろ、日本側としてはサイパンを含むマリアナ諸島を先端とする日本の国防圏を維持するための後方航空基地が必要となっていた。そのため、日本軍は沖縄諸島を含む南西諸島に注目した

太平洋戦争では、大艦巨砲主義から航空主力主義に戦略が転換されていたのだが、日本軍はこの流れに乗り遅れ、航空機と搭乗員、そして航空母艦が決定的に不足していた。その航空母艦の代役として日本軍が選んだのが、沖縄諸島奄美大島も含む)だった。沖縄諸島に航空基地を建設し、これらの〝不沈空母〟から特攻機を発進させる構想が泥縄式に浮上したのだった。

1944年3月22日、大本営は切迫した戦局に対応するため、沖縄守備軍(第32軍)を新設し、同年5月ごろから、伊江島から石垣島にいたる全県下で中飛行場(嘉手納)、小禄飛行場(那覇)など15カ所の飛行場建設を始めた。そして、この建設作業や、それに付属する軍の陣地構築に、沖縄住民は根こそぎ駆り出された。現地徴兵、防衛招集、労務徴用、勤労奉仕作業などといった名目の、有無を言わせぬ総動員だった。』(3-4頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 3-4頁より》

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1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

Group picture of the staff of the Japanese Thirty-second Army at Okinawa taken in February 1945 prior to the American assault. Numbers identify: (1) Rear admiral Minoru Ota, Commander, Okinawa Naval Base Force;(2) Lieutenant General Mitsuru Ushijima, Commanding General. Thirty-second Army; (3) Lieutenant General Isamu Cho, Chief of Staff, Thirty-second Army; (4) Colonel Hitoshi Kanayama, Commanding Officer, 89th Infantry Regiment; (5) Colonel Kakuro Hongo, commanding Officer, 32d Infantry Regiment; (6) Colonel Hiromichi Yahara, Senior Staff Officer (G-3), Thirty-second Army.

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沖縄差別と同化政策

『石部隊独立歩兵第12大隊所属の男性は、…「軍というところは真空地帯」と表現する。一般世間の常識は通らない。上官、先輩から殴られて半殺しの目に遭わないよう、理性や感情、判断力を働かさずに、言われたことを機械的に遂行する。』

男性は、部隊が中国大陸にいた頃には、『「(日本軍部隊の)普通の中隊だと、生きた捕虜を連れてきて〝度胸試し〟と称して初年兵に突き殺させるんですわ」』と語る。(37頁)

沖縄守備軍の兵士の大半は中国の戦場から沖縄に転戦している。日本軍将兵が沖縄に行ってみると、便所で豚を飼うなど、習慣や言葉が本土のそれとは大きく異なることを知り、「沖縄の人は本土の人間と違う」という感情が多くの兵士たちの間で湧いた。

その結果、日本兵らは「同じ中隊の戦友であっても、沖縄出身の人は馬鹿にされていた」、「中国人に対する差別感と同じような見方をしていた」「対中国の優越感。それと似たような、見下す感情を沖縄住民にも抱く風潮はあった」と話す。

『日本本土とはまったく異なる沖縄の文化に、もともとは中国の冊封国だったという「琉球」の歴史背景も加わり、日本兵たちは沖縄の人を中国人と同一視、あるいは中国人に対するのと似た感情を抱いたのだった。戦時中、敵国だった中国の人々に対して、日本人は「優越感を持って」(証言者のほぼ全員)おり、なかには「チャンコロ(中国人の蔑称)は人間じゃない」と上官や先輩兵から叩き込まれた」という証言者もいる。中国人と「沖縄人」の両者に対する差別感情ーー。多くの日本軍将兵は中国で培った兵隊としての感覚を、沖縄に持ち込んだ。』(113-114頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 37、113-114頁より抜粋、一部要約。証言者らを「男性」と書き換える》

「こいつらは、戦争のあと、何するかわからない」という、変に、我々を疑うような兵隊がいた、中には。

Q:沖縄の人をですか。

そう、「こいつらシナの子孫だよ」という、兵隊がいたね、これ今でも覚えてる、兵長だったんですがね、撃ち合いの最中ですよ、米軍が上がってきて、りょう線近く山のすそに、上がってきたんですよ、それで撃ち合いをしたんですよ。

我々、鉄砲ないもんだから、山の後ろに隠れていたら、その兵もそこに何名か隠れていて、前線にいくのもいるし、隠れているのもいるし、そのときに、我々防衛隊も4、5名いた。武器を持った防衛隊も、いたんだけれども、「こいつらは、シナの子孫だから、何するかわからんよ」と、あれを聞いたときは、頭にきた。

壕を掘らされ壕に幽閉された朝鮮人軍夫 / アメリカ軍の捕虜になった人を殺したのは、日本軍だったんです - Battle of Okinawa

『毎晩のように執り行う陰鬱な初年兵〝教育〟があった。沖縄本土に駐留した球12517部隊独立高射砲第27大隊に所属した男性は、糞尿の汲み取り作業の際に軍靴についてしまった人糞を上等兵に見咎められた。「舐めろ天皇陛下からお預かりしたものを汚すとは何事だ。舐めて食ってしまえ」。言葉に表せない屈辱だった。両目から「稲妻が飛び出るほど」殴られた。執拗なしごきでほとんどの初年兵が軍人精神に凝り固まっていくなか、男性の胸中には「こんな国のために死ぬもんか」との思いが増幅していった。』(30-31頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 30-31頁より。証言者らを「男性」と書き換える》

沖縄の少年達が多く日本兵として徴兵された。

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Many clad only in military ”g-strings” these are part of the record bag of 306 Japs taken prisoner by troops of 6th Marine Division during last hours of Okinawa battle. Imperial soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among those who were incarcerated behind barbed wire.
【和訳】 多くの捕虜が軍の「ふんどし」だけを身につけている。写真は、沖縄戦の終盤に第6海兵師団に捕らえられた306人という記録的な数の日本兵捕虜の一部。有刺鉄線の囲いの中に拘束されているのは日本陸軍、海軍および沖縄防衛隊の兵士ら。
撮影日: 1945年 6月

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同化政策と皇国教育

沖縄に渡った日本兵らは、生活様式や言葉など文化の違いに戸惑った日本語とは違う言語を話す人々が、米ではなく芋を主食にし、裸足で生活していたため、沖縄出身の兵隊たちは、本土の兵士に馬鹿にされ人一倍辛酸を嘗めた。

沖縄の人は日本人以上に日本人であろうとした」。沖縄戦を経験した元日本兵の1人はそう語る。戦時中は特に、日本軍への協力姿勢を示さなければ、「非国民扱い」「スパイ扱い」されるという恐怖心が沖縄住民に浸透しており、また、本土から蔑視されないように皇民化教育を徹底しようともがいていた。「沖縄の人は私ら兵隊以上、日本人以上に一所懸命やって、日本人だということを認めてもらおうとしているのが痛いほど分かった」と、元日本兵は、当時を振り返った。(33-34頁)

《証言「沖縄戦日本兵 60年の沈黙を超えて」(國森康弘 箸/岩波書店) 33-34頁より抜粋、一部要約》

それから、自分たちの斬り込みの任務を報告に本部に帰って来て、報告をしたとたんに息を引き取った沖縄の初年兵もいた。そこまでして、自分たちの任務に忠実であろうとしていた。皆、そういう教育を受けてきたんです。

本土の教育よりも沖縄の教育のほうが、もっと徹底して日本人になる教育だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。

外間守善のすごい言葉 (まだまだあるので作業中です) - Battle of Okinawa

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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小禄: カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜。側に座っている他の捕虜は興味なさそうに見ている。これら日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らは、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団が捕らえたこれまで例のないの306人という捕虜の一部だ。

OKUKU, OKINAWA: Three Jap prisoners duck heads before camera while the others sit disinterestedly watching. These jap soldiers, sailors and Okinawan home guardsmen were among the unprecedented 306 who filtered through Sixth Marine Division front lines during final 24 hours of Okinawa battle.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍の「スパイ」の概念

皆がおびえて沈黙の小半時が経ったころ、先ほど逃げていった兵隊が戻ってきました。その人は、恩納村出身の防衛隊員で、日本兵にスパイ容疑で追われているということでした。米軍も山狩りをしているが、まだここから離れた位置にいると説明してくれました。しかし、敗残兵となった日本兵は、山中で避難民の食糧を略奪したり、従軍看護婦を手込めにするなどひどいことをしており、それを咎めた彼は日本軍の将校に軍刀で殺されかかったというのです。彼は、とっさに自殺用に残しておいた手榴弾を握り、「死ぬなら一緒だ」と叫び、相手がひるんだ隙に逃げてきたそうです。「彼らは、ここにも来るかも知れない」と言うので、私たちは彼の軍服を脱がし、母の芭蕉布の着物を着せました。私たちは、見張りをおいて日本兵が来るのを警戒していました。
 兵隊がきたとの合図を受けた私たちは、その防衛隊員を伏させて先ほどの柳行李のふたをかぶせ、その上に私と従兄弟が腰をかけ、荷物と見せかけました。抜刀した将校と三人の兵隊がやってきて「スパイを追っているがここに来なかったか」と聞いてきました。私たちは、誰も通っていないといい、「戦闘ご苦労さんです」といって黒砂糖の塊を差し出しました。兵隊は、「スパイは防衛隊の服装をしているので、発見したら軍に連絡するように」と言い残して去っていきました。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 子どもたちの証言

沖縄の初年兵だった外間守善の証言

住民はもっと可哀想だった。子どもをつれた女や老人が、艦砲が落ちる戦場をさまよっていました。壕には日本兵が一杯で、追い出されていたのです。沖縄の人は方言しか語せない人もいて、何人かの住民がスパイとみなされて殺された。南部では、沖縄の女性がスパイだと捕まってきたのを、私が通訳して助けてあげたことがある。中部では、やはりスパイといわれて引きずられてきた老人も助けました。

外間守善のすごい言葉 (まだまだあるので作業中です) - Battle of Okinawa

 日本軍に「排除」される精神性障がい者

米軍が沖縄に上陸して間もない、四月はじめのある夜──。兵隊たちが、ぼろを着た数人の男と三人の女を、繁多川の洞窟(那覇警察署警備隊本部)に連行してきた。「こいつらは、波之上の陣地周辺を徘徊していた怪しい者で、スパイの疑いがあるので引っ張ってきた。厳重に取り調べ、処刑してほしい!」と、その中の下士官が署長に言った。これを聞くと、署員は苦笑いを禁じ得なかった。一見して彼らが精神を病んでいる者だとはだれの目にも明らかだった。この浮浪者たちは、もともと波之上あたりから辻原一帯の墓地や洞窟の住人であった。部隊は彼らの安住の地に、砲をすえ、陣地を構築して、彼らを追い出したのである。鳥や獣が自分のねぐらに帰るように、浮浪者たちもまた、鉄火のあらしの中を住み慣れた穴ぐらを求めて、さまよったのであろう。

そこで刑事たちが、「この大将たちは、町のごみ箱あさりをしている精神病者です。スパイのできる大それた者でない。すぐ釈放したい」と話したところ、兵隊たちは「ぼろを着て精神病者のまねごとをしているが、怪しいもんじゃ。警察で厳重に取り調べて監禁するか、銃殺にするか、処分は警察にまかせる」といって、帰っていった。

《『秘録沖縄戦記』 (1969年) 山川泰邦 》

 

米軍の占領政策に利用される「琉球人」差別

ダグラス・マッカーサー

マッカーサーは連合国代表と米国代表の二つの立場を、その時々の必要によって出し入れすることができた。ここでは米国が自前の軍事力で犠牲を払って支配を設定した以上、これを手放す義務はないとの、パワー・ポリティックスの議論である。… この点を補強するため、マッカーサーは前年(注1947年) 9月1日に平和条約案に対する批判でも明らかにした持論を持ち出した。「(琉球諸島の)住民は日本人ではなく、本土の日本人と同化したことがない。それに日本人は彼らを軽蔑している。<中略>彼らは単純でお人好しであり、琉球諸島におけるアメリカの基地開発により、かなりの金額を得て比較的幸せな生活を送ることになろう」との主張であった。

(日本国際政治学会編『国際政治のなかの沖縄』ロバート・D・エルドリッヂ「ジョージ・F・ケナン、PPSと沖縄」)

 

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論文

  1. 地主園亮「沖縄戦における住民「スパイ」視について-既刊行物をもとに-」
  2. 日本国際政治学会編『国際政治』第120号「国際政治のなかの沖縄」(一九九九年二月)ジョージ・F・ケナン、PPSと沖縄―米国の沖縄政策決定過程、一九四七―一九四九年ロバート・D・エルドリッヂ
  3. 日米同盟はいかに沖縄差別を利用してきたか | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス