1945年9月7日 『第32軍の降伏』
午前11時20分 沖縄の終戦 - 琉球列島降伏調印式 / 鹿山隊の投降 / 「なぜもっとはやく」 / なぜ沖縄戦を語るのか / 沖縄戦とは何だったのか
第32軍の降伏文書調印式
9月7日午前11時20分、琉球列島の「降伏調印式」
1945年6月23日に第32軍牛島満司令官らが自刃するが、今まで見てきたように、それで沖縄戦は終わったのではない。牛島の最後の指令は沖縄を終わりなき戦場にさせた。9月7日、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われ、これをもって沖縄は正式に終戦の日を迎える。
旧越来村、現在の嘉手納基地内で行われた降伏調印式には第32軍司令官・牛島満中将が自決したため、守備軍を代表して先島群島司令官・納見敏郎中将ら3人が出席。戦車や武装兵が待機する中、納見中将らは降伏文書に署名を行い、沖縄における戦闘が正式に終結します。住民は戦闘の脅威から解放されますが、文書には「日本帝国政府により執行された全面降伏に基づいて琉球諸島を無条件に引き渡すものである」と記されています。調印後、沖縄奄美は日本本土から切り離され、アメリカ軍の直接統治下に置かれることになります。
沖縄の第10陸軍本部での降伏調印場面の航空写真。降伏テーブルは旗竿のすぐ右。旗竿に隣接する日本軍の大砲に注目。左下に米軍M-26「パーシング」戦車。左中央の自走砲とその向こう側の広大な第10陸軍本部のテント都市。艦隊提督チェスターW.ニミッツのコレクション。米国海軍歴史センター
JAPAN CAPITULATES--Surrender of Japanese Forces in the Ryukyu Islands
9月8日付『ニューヨークタイムス』が伝える琉球列島降伏調印式
9人の扱いやすい日本人将校は、今日、琉球グループの約60の島にいる10万5,000人の日本陸軍・海軍兵士の降伏を表明し、無条件降伏文書にサインした。降伏式典では、合衆国第10軍の司令官、ジョセフ.W・スティルウェル陸軍大将が連合国を代表した。レイモンド・スプルーアンス海軍大将、ドゥーリトル・H・ジェームス中将、ジェーシー.B・オルデンドルフ海軍大将、デビット・ペック海兵隊少将が降伏の証人となった。
島のほとんどすべての非番の海軍兵、軍人、および海兵隊員が降伏式に集まった。降伏式典は、音楽も含めて何から何までスティルウェル大将の独断場であった。沖縄の連合軍の部下たちがスティルウェル大将の本部のまわりに集まると、第10軍のバンドは司令官をたたえて「年老いた灰色の雌馬」(筆者注一南北戦争時の陽気な行軍曲)の演奏を始めた。日本陸・海軍を代表して、最初に降伏文書6部にサインしたのは、納見敏郎中将だった。続いて高田利貞少将と加藤唯雄少将がサインした。日本人将校が降伏文書に署名を終えたとき、スティルウェル大将は大股でテーブルに近づき、すぐに6部すべてにサインした。スティルウェル大将は、日本人に彼の指示に従うように命令して、日本人を護衛する役目を勤める諜報機関将校のルイス・イーリー大佐に向かって言った。「彼らをここから連れ出せ」
嘉手納の第10軍司令部前広場、陸軍と海兵隊の射撃部隊がずらりと並ぶ。
Press group at signing of Jap surrender at Ryukyu Islands.【訳】琉球列島の降伏調印式に集まった記者団。1945年9月7日撮影
午前10時30分、見物の米兵が近くの小高い丘の上までつめかける。
Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Spectators on the hill watch the ceremony.【訳】沖縄本島での降伏調印式。見物人が丘の上で調印式を眺めている。1945年9月7日撮影
11時、陸軍バンド部隊が〝オールド・グレイ・マーチ〟を演奏するなか、第8航空隊のドゥリトル中将、第95機動部隊のオリンドーフ提督、第1海兵師団のペック少将、陸軍サービスコマンド24のチーズ少将らが貴賓席に。ラーセン大佐に率いられた日本語将校らが登場。11時30分、スティルウェル将軍らと二世通訳のロバート・オダ軍曹が登場。納見将軍、高田将軍、加藤提督が 6通の降伏文書に署名した。
【訳】1945年9月7日、沖縄第10軍司令部: 先島諸島の日本軍を代表して納見敏郎中将が降伏文書に署名。彼の隣にはG-2セクションのフィリップ・ベスーン大佐と第10軍参謀長フランク・メリル少将が立っている。右側のテーブルの向かいに立っているのは、MIS 二世のロバート・H・オダと第 10 軍司令官ジョセフ・W・スティルウェル中将。
Headquarters Tenth Army
7, September, l945
Surrender
The undersigned Japanese Comnlanders, in conformity with the general surrender executed by the lmperial Japanese Government, at Yokohama, on 2 September l945, hereby formally render unconditional surrender※ of the islands in the Ryukyus within the following boundaries:
【訳】
第10軍司令部 1945年9月7日 降伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。
- 北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
- 北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
- 北緯30度東経131度30分より頭書の地点
納見敏郎中将 先島群島日本軍司令官
J.W.スティルウェル 米国陸軍大将
※ "surrender of the islands in the Ryukyus" について surrender は「降伏」あるいは具体的に「譲渡」の意を含む。
陸軍か海軍か - ゆらぐ沖縄占領
7月18日に一旦沖縄の占領政策を担うことになった米陸軍は、沖縄の行政権日本の降伏とそれに伴う日本や韓国への進駐で大幅な人員が必要とされ、9月21日には陸軍から海軍に沖縄占領の管轄権が移行される。
… その結果、海軍作戦部長のアーネスト・J・キング艦隊提督は、太平洋最高司令官のニミッツ艦隊提督に、沖縄の軍事政権は恒久的に海軍が担当すべきと助言した。1945年9月21日、陸軍は幾つかの沖縄の運用管理を維持しつつも、海軍が軍事政権の完全な管轄権を引き継いだ。
Arnold G. Fisch, Jr., Mic1945-1950, (1988) Center of Military History, United States Army, p. 72.
しかし海軍の管轄も10カ月あまりで終わる。東海岸の多くの海軍基地は二つの台風で壊滅的な打撃を受け、基地の持続はコストに見合わないと判断されるにいたる。
8月15日の日本の降伏により、陸軍の主要部隊が日本本土や朝鮮半島に派遣されることになると、9月21日、沖縄の軍政は再び海軍が担うこととなり、ジョン・D・プライス海軍少将が軍政府長官に就く。こうして戦闘状態も終わり、海軍が軍政を所管する頃になってようやくさまざまな住民向け施策が講じられるようになっていくのである。しかし、当初考えられていたほど沖縄の海軍基地が錨地として適さなかったことなどから、軍政は1946年7月1日に再び陸軍に移管されることになった。
仲本和彦「沖縄における軍政初期(1945~1946年)米側資料について」(2012) pdf
こうして沖縄の占領は二転三転しながら、陸軍統治下におかれる。
一方、海軍軍政時代には人員的に十分とは言えないまでも、博士クラスの学者を抜擢するなど質の維持に一定の努力が垣間見られたが、軍政が陸軍に移ってからは東京の GHQ 司令部や米本国から比較的経験の浅い将校が送られてくるなど、人材不足はより深刻となった。陸軍将校にとって沖縄は「極東軍の塵捨場」であり、「みじめな住居以外に何もない掃き溜め」であった。その状況はその後3年間も続いたとされる。
仲本和彦「民事報告書に見る米国統治下の米軍の民事機能」pdf
米陸軍の公刊史はその時代を「無関心とネグレクト」と表現した。
第32軍の敗残兵
久米島: 鹿山隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長)の降伏調印式
住民にスパイ容疑をかけ、久米島で少なくとも島民20人と隊内2人の虐殺事件を引き起こした鹿山隊 (久米島電波探知機部隊) が降伏、投降した。
1946年9月、ウィルソン米海軍少佐(前列左)に軍刀を手渡す鹿山正兵曹長。後方で眼鏡をかけている米兵(左から3人目)がシンエイ・ギマ
武器をとりあげられた鹿山隊。
9月7日、身を潜めていたはずの鹿山隊30余人が銃を肩に掛け、仲地の集落を堂々と行進していた。目指すは米軍が待つ広場。降伏式に向かうところだった。鹿山は顔見知りの住民を見掛けると、「元気か?」と声を掛けて余裕を見せた。… 鹿山が米軍幹部に銃を渡し、その部下たちも次々に武装を解除した。沖縄戦の組織的戦闘の終結から2カ月余。久米島の住民は虐殺の恐怖からようやく解放されたのだった。
… 米軍はこの日、久米島から鹿山隊を移送した。鹿山隊は米軍が配給した服に着替えさせられた。背中には捕虜を表す「PW」の2文字が白いペンキで大きく記されていた。食料などを詰めたとみられる箱を持たされ、行進してきた道を引き返した。降伏式前の行進していた姿とは一転し、鹿山を含めた全員がうなだれていた。「人間はこうも変わるものか」。島民らはその光景を見詰め、ただ惨めだと感じた。
《「奔流の彼方へ 戦後70年沖縄秘史」(島袋貞治 著・琉球新報社 編/新報新書) 122頁より》
捕虜収容所での「鹿山隊長」
仲村渠さんの説得で投降、屋嘉収容所で写真班の仕事をしていた渡辺憲央さん証言
ある日、まさかと思った鹿山と沢田の写真を現像していたのである。この人が生きているとは信じられなかった。私はその晩さっそく二人の幕舎を訪問した。二人とも別におどろいた様子もなかったが、鹿山はちらっと私を見て、ぶいと横を向いた。沢田はふたことみこと話の相手をしていた。鹿山はその間終始横を向いたまま、うんともすんともいわなかった。
それから二、三日して、鹿山の部下の一人が私を訪ねて来た。この人は久米島では身にあまる事をやり、今、良心に咎められ、訴えに来たといって、久米島のことを逐一話していた。仲村渠さん一家の虐殺 は、私はしばらく声も出なかった。私がここで知ったことであるが、仲村渠さんが久米島に渡ったもう一つの理由は、鹿山を説得して山から降すことであった。それはすでに捕虜になっていた鹿山の上官の大尉の強い依頼によるものだったという。海軍のめしを食べていた仲村渠さんにしては当然引き受けるべきだと信じてやったに違いない。久米島で殺した村民二十余名。みなスパイ容疑だったという。しかし朝鮮人一家皆殺しにいたっては、私が鹿山や沢田と初めてあった時の印象を実証してみせているようなサデイステックな殺人である。
… 日本人収容所では、将校も下士官も、戦争中悪いことをした連中は、毎晩必ずどこかで私刑にあっていた。そのようなある晩、塵山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。
屋嘉捕虜収容所で爆発する怒り。
その場には糸数栄助さん (鹿山に殺された郵便局員安里さんの妻カネ子さんの義兄)、小橋川さん (米軍に拉致された住民の帰還報告が遅れたとして殺された北原区長のいとこ) など殺害された方の関係者もいた。正義感の強い小渡良吉さん (鳥島出身の青年) などは怒りを抑えきれず鹿山に殴りかかった。久米島出身者の怒りはものものすごく、かわるがわる殴った。… 私は、ここで死なせては困ると思って皆をなだめて鹿山を幕舎へ連れ戻した。
「鹿山のビンタを張った」久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021年) - Battle of Okinawa
戦後27年後、それでも「私は悪くない」と語る鹿山。本土メディアと沖縄メディアで鹿山の態度は180度変わる。「日本軍人として当然のことをやった」「久米島は離島で一植民地である」と語る鹿山の背景にあるものとは
久米島住民虐殺 ~ 鹿山正「私は悪くない」 (1972年琉球新報インタビュー記事) を再読する - Battle of Okinawa
恩納岳 - 敗残兵の投降
4月1日、米軍上陸時に読谷で捨て石にされた特設第1連隊。恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の9月6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、9月7日、投降する運びとなった。
翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。
私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。「いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。
アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。
… トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。
石川民間人収容所の食糧配給所
捕虜を乗せたトラックはいったん石川民間人収容所に立ち寄り、屋嘉捕虜収容所に到着する。
土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた。私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった。
トラックは金武湾岸を北上してゆく。… 遂に「屋嘉」にきたのだ。どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。
素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた。収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。
その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。
そのとき、住民は・・・
なぜ沖縄戦を語るのか
一中鉄血勤皇隊の元学徒兵の証言
あれはね、実はね、昭和25年か24年です。(東京に) 行ったときに、… 今の豪徳寺というところかな、あの辺だったと僕は思う。… そこの屋敷からピアノの音が聞こえるんですよ。あのときは僕は「エリーゼのために」なんて知らなかったんですよ。聞いたことないし。タンタン…って鳴るでしょう。そうしたら僕は一瞬立ち止まりましたよ。玉砂利の敷かれた立派なところですよ。
いったい誰が戦争したんだと。俺がこんなみじめなかっこして、あんなみじめな思いして、振り返ってみて。僕が1週間前に出てきた石川は、ネズミ、シラミの生活で、みんな虫みたいにうごめいた生活をさせられているんですよ。やぶけた天幕の中で。ああいうことをさせられている沖縄の人間。… いったい誰が戦争をしたんだと。悔しいやらなんやらで、一瞬立ち止まっていましたよ。それから、わたしは当時はやまとぐち、日本語があまり話せない、話せないっておかしいけど、受け答えぐらいしか。だって家庭で日本語で話するところないですから。そうしたら、そこにまた差別というのがあったんですよ。僕は知らなかったの。差別というのがあって、お前、琉球人かなんて言われたら、あれっと思ったんですよ。なんだろうと思った。そういうのが重なって、僕はそのピアノの音を聞いたとき一瞬立ち止まって、「いったいどうなっているんだ、この国は。誰が戦争して、なんのために僕はこんなみじめな格好してここに立ちすくんでいるんだ」って。悔しいやらなんやらもう複雑な気持ちだったですね。
1953年の石川の教員住宅。米軍のテントとサルベージ廃材で作られている。
写真でつづる那覇戦後50年 1945-1995, p. 100
あの時、瀕死の学徒の親友にたのまれ手榴弾を手渡してしまった苦しみに、何度も何度も何度も向かい合う。
いま生き長らえて、生かされてきたもんだから、いろいろな思いが湧いてくるんであってね。このあいだ、あそこ (壕のある森の中) で「辰夫」って言ったら「はい」って言うんだよ。そういうのあるのかね。振り返ったら誰もいないのに、「辰夫」と言ったら「はい」というもんだからうれしくてね。そういうことあるのかね。・・・帰りましょうよ。
戦争の記憶と向き合い語ることは当事者にとって想像を絶する苦しみだ。それでもなぜ沖縄戦を語るのか。
その後も父 (ブログ註・山田義邦さん) は、話を聞きたいと訪ねてくる人たちには、戦争体験を包み隠すことなく語った。ある時は、親友に手榴弾を渡した場面を語りながら「私は人を殺したのです」とまで言った。何が父をそこまで追い詰めたのか。
父は今の政権が、また沖縄に軍事基地を造り、さらに憲法まで変えようとしていることに、強い危機感を抱いていた。「勇ましいことばかり言うが、若い人たちは本当の戦争を知らない」 戦争を知らない裕福な閣僚たちが、隣国への敵意や憎しみを煽っている。若者たちが、権力者の意のままに、戦場に送られてしまうのではないか。かつての自分と同じように取り返しのつかない過ちを犯してしまうのではないか――そう心配していたのだ。
沖縄戦とは何だったのか
沖縄戦では約20万人あまりもの人が亡くなりました。そのうち日本兵の戦死者は6万6000人、アメリカ兵の戦死者は1万2500人です。沖縄県民の犠牲者は一般住民が約9万4000人、沖縄出身の軍人・軍属が約2万8000人で、合計約12万2000人です。朝鮮半島から連れてこられた人々も、少なくとも300人以上が亡くなりました。軍人・軍属よりも一般住民の犠牲者が上回ったことが、沖縄戦の大きな特徴です。
3月23日からの沖縄戦169回のシリーズを経て、これまで見てきたように、日本軍は、圧倒的な戦力を誇る米軍を面前に、現地調達主義で住民から食糧や資材を収奪するありとあらゆる方法を講じ、また住民を未成年者から中高年まで現地召集し使役した一方、「スパイ」と称して夥しい住民殺害に手を染めた。
それだけではない。同じ隊内で「処分」と称して見せしめの隊員の虐待や処刑を行い、傷病兵の大量殺戮を行いながら撤退した。玉砕や散華といった宗教的なレトリックを使って国家のための死を美化する一方、浄化能力のない「真空地帯」となった軍は、性をはけ口として組織的に推奨・黙認する。このため日本軍が駐屯する地はどこでも「酒」と「慰安所」が必須のものとなり、隊長らは公然と「愛人」と同居した。
壮大で実行不可能な命令が次々と下り、嘘の報告で誤魔化すことが常習化した。その嘘情報に基づいて次の壮大な作戦が立てられ、上部への報告義務を果たすためだけや、命令の対面を保つためだけに、大勢のいのちが無残にも湯水のように使い捨てられた。
ー これらの点において、沖縄戦における日本軍は、対する米軍にとっては考えられない突出した特質を持っていた。
「名誉」の戦死とされているものの、実質は無残にも「友軍に殺された」住民や兵士や軍属の数はどれだけにのぼるのだろうか。「友軍」とよばれた沖縄の日本軍は、ある局面では、米軍と戦うのではなく、むしろ住民や兵士・軍属に対して軍刀を振り回し、戦争を戦っていた。
なぜならば、沖縄そのものが、米軍に差しだす日本の「捨て石」であったからである。
この国は、「捨て石」にすると決めた者たちの声は聞かない。
それは今も同じではないか。
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