〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年9月6日 『ご苦労さまでした』

「ご苦労さまでした」 / 「いつか命はない」 / 郵便の復活 

 

米軍の動向

琉球列島の降伏文書調印式まで

琉球列島の日本軍降伏受諾に関し、米第10軍司令官は8月29日に徳之島と宮古島の日本軍司令部に連絡をとりつける。9月4日宮古島から納見敏郎中将が到着、翌5日に一旦部隊へ持ち帰る。9月6日、陸海軍総司令官として納見敏郎中将、村尾繁二海軍大佐、一瀬壽大佐、杉本一夫中佐の一行が午後3時に読谷飛行場に到着し、特別尋問センターへ向かう。一方、徳之島から高田利貞陸軍少将と中溝中佐が午後6時に到着、奄美から加藤雄海軍少将、佐藤貞雄海軍中佐、坂田朝太郎海軍大佐らが到着した。その夜、日本側一行に「無条件降伏文書」のコピーが渡され、7日の調印式まで内容の確認がおこなわれた。

 

第32軍の敗残兵

宣撫班の仕事

また米軍は、日本兵捕虜を敗残兵の説得にあたらせた。

敗戦の日以来、残存将兵たちへの投降の呼びかけが連日活発に行なわれたが、容易に成果が上がらなかった。摩文仁の海岸洞窟にひそむ日本兵も民間人も、日本の敗戦を信じようとせず、米軍の掃蕩兵に撃たれたり、逆に米兵が殺されたり、相変わらずの戦闘状態が続いていた。これに手を焼いた米軍は、捕虜の中から希望者を募り、宣撫班を組織したが、呼びかけに行った者が日本兵から射撃される始末であった。しかし、戦友たちのひそんでいるのありかを知っている者たちは、MPに同行して仲間を探し出し終戦詔勅を読んで聞かせ、納得出来ない将兵には収容所を見学させるなど辛抱強く救出に努めた

こうした活動が効を奏したか、どうして生きていたのかと思われるような兵隊たちが連日、続続と収容所に送り込まれて来るようになった。いずれもボロボロの軍衣に、伸び放題の髯、頰はげっそりと痩せこけて目ばかりがギロリと光っていた。投降して来る将兵が増えるに従って、捕虜カードを作る指揮班の仕事がにわかに忙しくなってきた。

渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) - Battle of Okinawa

9月6日の朝だった。絶望のなかでじっと林の奥に潜伏している私たちの山塞に、下方の谷間の入口あたりから熊笹がざわざわ鳴って、何者かが近づいてくる気配がした。「スワッ敵襲」とばかり緊張したところ、「日本兵はおるか。44飛行場大隊の者はいないか」と、突然、四方の静寂をやぶって大声がした。

私たちが断崖上からオドオドしながら、谷間の声の主をたしかめてみると、米軍の服こそ着て腕に腕章を巻いているが、なんと、まぎれもない、わが部隊の小寺主計少尉と、中折帽子をかむっている4人の島の人たちではないか。やっと安心した私たちは、ふらつくように小寺少尉の前に姿を現した。小寺…少尉…は、

「私は恥ずかしいしだいながら、6月に本部半島で捕虜になり、目下、米軍の保護下にある・・・みなさん、おどろいてはいけない・・・」と前おきして、「じつは8月15日に戦争は終わった。みなさんの生命は連合軍によってジュネーブ条約により保証されている」と一気にいうと

ご苦労さまでした。諸君は立派に任務を果たされたのである・・・」とつづけた。まさに青天の霹靂---私たちはただ呆然となってしまった。とてもすぐに信ずることはできなかった。いろいろなことをたしかめてゆかなければ・・・しかし、何をたしかめるのか? 胸のなかにワーッと感動の波が起って、整理がつかなかった。

とてつもなく重大な出来ごとは、まったくただ感動のうちにすぎてしまうものだ。しばらくして気がつく。「そうだったのか・・・」張りつめていた気持ちがグラグラっとすると、私は無言のうちに6発残った拳銃弾のすべてを抜きとってシダの林のなかに投げすてていた。祖国は敗れた! ・・・歴史的のこの一瞬! だが私も戦友もだれも涙を流さなかった。出る涙はもう、戦争中にぜんぶ出しつくしていた、というのが真実であろう。その晩、私たちは早速、下方の谷間にいる海軍兵2名に連絡をとってやった。彼等は私たちよりも1日おくれて投降することに決った。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 257-258頁より》

米国海兵隊: The stern look on this marine's face and his rifle with fixed bayonet serve as warning to the Jap prisoners that he could become a stern taskmaster. He's Pfc. Ralph T. Clayton of 1426 East Federal St., Baltimore, Md.
【和訳】 険しい表情と銃剣で、容赦ない監視員であることを日本兵捕虜に示す海兵隊員クレイトン1等兵(メリーランド州出身)。1945年 9月 3日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

ある朝、三人がいつものように手榴弾を両側に並べて朝飯を食べているとき、突然、石垣の向うから日本兵数名が現われた。中のひとりが、「自分は○○部隊の○○中尉じゃ」といった。そのとたん西畑が、「副官どのではありませんか」と目を輝かした。副官はうなずき、

「みんなご苦労であったが、戦争は負けた」と、もの静かな口調でいった。「きみたちだけではない。日本人全部が負けたんだ。自分もこうして捕虜になっている。武器を捨てて一緒に行こう」

「嘘だ。こいつをやっつけよう」と浦田がいった。
「待って下さい。自分の上官です」
西畑があわてて止めた。副官たちは捕虜収容所から派遣された宜撫班であった。道路わきに停められたジープには、アメリカ兵がハンドルにもたれてタバコを吸っていた。

渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) - Battle of Okinawa

米国海兵隊: Marines issue POW tags to Jap enlisted men before transferring them to prison camp. At typewriter listing names of prisoners is Pfc. W. C. Lowe of 9 Clark St., Holyoke, Mass. Standing, is Sgt. J. G. McLean of 334 North 11th St., Easton, Pa.
【和訳】 捕虜収容所へ移送する前に、日本軍の下士官兵に捕虜札を発行する海兵隊員。タイプライターで捕虜名簿を作成しているのは、ロウ1等兵(マサチューセッツ州出身)。立っているのはマックリーン3軍曹(ペンシルベニア州出身)。1945年 9月 3日    

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

捕虜収容所と軍作業

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米軍は沖縄島に7カ所の捕虜収容所を設置し、捕虜は基地の労働 (軍作業) に従事した。

米軍の日本人捕虜への対応。

牧港捕虜収容所

牧港でのはじめの数カ月の使役は、毎日毎日、トラックや大型トレーラーへの積み込み、積み卸し、廃棄作業である。生活用品をはじめ、食糧、壊れた機械類、車、飛行機の部品などの積み込みである。さらに、大きなトレーラーに肉、野菜、菓子、戦線での弁当「レーション」 などを積む。この積み込み作業があまりに不思議なので監視の兵士に聞いてみた。戦争が予想より早く終わったので物資があまってしまったのだと言う。つまり帳尻合わせのための廃棄処分なのだ。われわれには理解しにくい、贅沢な無駄の極みである。「もったいない」という概念はないのか......。 廃棄場所は読谷の渓谷である。谷底を見ると小型飛行機、機械、トラック、肉、野菜、菓子類など、ありとあらゆるものが捨ててある。廃業のトレーラーが入れ代わり立ち代わりやってきては物資を捨てる。農民、市民がそれを拾うために習集する。谷底まで降りていって肉、野 菜、缶詰やチョコレートなど、食糧を担いで登ってくる。いちばんの人気は、やはり肉の塊であった。作業する捕虜は腹が減っているので車のそばに落ちている食糧を拾おうとすると、監視兵に強く怒鳴られ引き戻された。 「捕虜はジュネーブ条約で決められているカロリーの食事は与えられているはずだ。食中毒な どの病気にでもなられたら監督責任を問われるから駄目だ」と言う。

上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』幻冬舎ルネッサンス (2008) 

楚辺捕虜収容所は、実際には読谷村楚辺ではなく高志保のボーロー飛行場内にあった。

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《AIによるカラー処理》An M.P. stands nearby as Japanese Prisoners of War load food rations onto a truck from a Boeing B-29 of the 7th Air Force at Bolo Field, Okinawa, Ryukyu Retto.
ボロ飛行場(読谷)で、日本兵捕虜が第7空軍のボーイングB-29からトラックへ軍用食の上げ下ろしをするのをそばで監視する憲兵
撮影地: 読谷 (1945年10月14日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

私たちは毎日米軍部隊へ作業に出かけ、監視兵の拘束を受け働いた。作業は単純作業であったが、澄んだ空の下で、屈折した心をもっていやいや働くことは疲れた。作業にも収容所生活にも馴染んでくると、夜の時間が退屈となった。いつしかトバクが拡まった。翌日分の食糧となる米軍のレーションが前日の夕方渡されたが、それを賭けるのである。三食分とも負ければ翌日は絶食となるが、なんとか要領よく切り抜けた。

楚辺収容所収容者の証言 | 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

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米空軍: Food rations unloaded from a Boeing B-29 of the 7th Air Force are stacked beside the plane by Japanese Prisoners of War as other men load the boxes onto a truck at Bolo Field, on Okinawa, Ryukyu Retto.
ボロ飛行場(読谷)では日本兵捕虜が、一方では第7空軍ボーイングB-29から軍用食を降ろして飛行機のそばに積み、他方ではそれをトラックに積み込む。1945年10月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米空軍: Japanese Prisoners of War unload food rations through the bomb bay hatch of a Boeing B-29 of the 7th Air Force at Bolo Field on Okinawa, Ryukyu Retto.
ボロ飛行場(読谷)で第7空軍ボーイングB-29の爆弾倉から軍用食の積み荷を降ろす日本兵捕虜。1945年10月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本軍は捕虜にさせないため、負傷兵を「処分」しながら撤退した。そのため自分が捕虜となったこと、自分がしたこと、生き残った者が入ってこないかという、罪深さと恐怖が混ざりあった。

楚辺捕虜収容所「特中」の片山さん証言 ~ なぜ何度も脱走を図ったか

… 楚辺収容所で「特中」というてね、何で特中というか、逃亡者ばかり集めとるん。逃亡したり、米軍と喧嘩したり。札付きの人間ばかり集めたのんが特別中隊、それで「特中」という。柵の中にまた柵があるんやからね。もう一つ金網があるんだよ、「特中」は。 

… 具志頭の掘っ建て小屋にいたとき、とにかく捕まったらいかんからやってこい(手りゅう弾投げて殺してこい)と。捕虜になったらいかんと、そのために殺してきておるでしょう (註・隊長命令で負傷兵の小屋に手榴弾を投じ爆破した)。そのやってきた人間が現在捕虜になって生きとると。… これは「いつかは命はない」と。 … ほんで誰か知った人間が来ないか思うて、毎日トラックが来るたんびに門の所へ見に行く。挙げ句の果てには (爆破を命じた) 隊長が (収容所に生きて) 帰って来とった。隊長にしたかって、僕らが生きとるやということも夢にも思わんかったやろね。そんなんで、ほんまに死んだ人が気の毒になってしまって。

… (B29の配線も切った) 赤や黄やら緑やら、いろんな配線が固まっていますね。仲間の連中が糧秣下ろしてるでしょう後ろで、監視はそっち見てるでしょ、その間にペンチでやね。

… 日本の国のため、自分はそない思うてやった。ほんやけど僕は二回命拾いしとんのや。最初は南風原陸軍病院でね、毒を飲まされそうになって危なかったということね。あれ、一つ間違ごうとったら飲まされてる。もう一つはやね、手りゅう弾の安全ピンを抜いて、ここまで行ったんです。「もっと生ける、今ここで死ぬな」と、手りゅう弾の安全ピンをまた元に戻したんです。二回死にそこねて、おかしなもんでな、ぜったい死にたくないんよ。こりゃもう、体が動けなくなったら別かもしれんが、自分で動ける間はね、自決するやなんて自決の「自」も思いつかんかった。

楚辺収容所で「特中」生活 | 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所 体験記

 

  

その時、住民は・・・

瑞泉学徒隊 - 南部、米須で捕虜となる

現在、辺野古新基地建設の埋め立て土砂として国は南部激戦地から採掘計画を進め、県民は当然ながら反対の声を上げている。死の道と化した糸満市米須は、沖縄戦で住民1259人のうち735人が亡くなり、その戦没率は58.4%であつた。

米須には後退してきた日本軍兵士と避難民が押し寄せ、米軍の攻撃が激化するなかで … 米須の住民のなかでもとくに子どもと高齢者の犠牲率が高く、家族半数以上が戦没した世帯が 43.2%、さらに一家全滅は 14.1%と、7分の1の世帯はまるごと消えてしまった。1945 年の米須は、地元の身近な人びとが数多く死者となる場と化し、米須住民の戦没者にさらに避難民と日本軍の戦没者が重なり、戦後、大量の遺骨が残される場となった。

《小林多寿子「オーラルヒストリーと地域における個人の<歴史化> 沖縄戦体験を語る声と沖縄県米須の場合」(2010) 4頁》

首里高等女学校瑞泉学徒隊の徳元文子 (十六歳) さんは、糸満市米須のアマンソー壕で生きのびる。9月6日、寝たきりの状態のなか、投降して百名収容所で捕虜となる。

… 6日の晩にその壕をみんないっせいに出たですね。… わたしは、「信姉さんいいよ、わたしはどうせ短かい命だからね、信姉さんは富さんと出て行きなさい、信姉さんだけでも元気であればいいんだから出ていっしょに行って頂戴い」といったら、信姉さんは、「いやだよ、あなたたちを放ったらかして行くとあなたの罰が当ってわたしも死ぬだろう、わたしたち二人はどこまでもいっしょだよねえといったんだから」といってですね。その人がいっしょになってくれたわけですよ。それでわたしも今のように助かっているわけですけれどね。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 米須 ( 2 ) - Battle of Okinawa

 

郵便の復活

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きょう、新聞が住民待望の郵便の復活を伝えました。

当時の1通の手紙。残っているのはこの封筒のコピーだけです。終戦直後、貨幣経済は崩壊していたため、郵便は無料で、切手は貼られていません。戦禍で街も破壊されたため、住所は戦前の番地制ではなく、区や班という表記になっています。

当時の郵便事情に詳しい當銘由八郎さん「(内容は)ほとんどが安否確認だと思います。というのも、散り散りばらばらになって生きてるかどうかわかりませんので」

65年前のきょう、うるま新報に「手紙が出せます」という見出しが踊りました。8月に沖縄諮詢会が発足した際、住民からは離れ離れになった家族の安否が知りたいという声が多く寄せられたといいます。そして、翌月。本島と周辺離島で戦後の郵便が復活しました。

當銘さん「多分(住民は)嬉しかったと思いますね。安否確認ができますので」手紙は軍政下にある為、検閲を受けるなど、制限の多いものでしたが、それでも家族や知人の無事を知ることのできた住民の喜びはとても大きかったといいます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月6日(木)

 

 

 

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死ぬこと自体が「崇高な目的」になっていた日本の戦争

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