〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月26日 『マイナスからの再建』

レーションマイナスからの再建

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

米軍は沖縄戦で生き残った民間人を12の収容所地区に収容し、基地建設を加速させた。軍事施設のなかにはいくつもの保養施設も含まれていた。

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MARINES BUILD POOL IN OCEAN: Marines of the 5th Reg. watch the results of a dynamite blast in the coral reef off Okinawa where they are building a swimming pool. 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., in charge of the blasting, decided the pool would be better for swimming than the Pacific ocean. The reef extends a mile beyond the beach.

海兵隊が水泳プールの建設を進めているリーフでダイナマイトを爆発させて、その結果を見守る米海兵第5連隊の兵士たち。爆破責任者であるフレンチ少尉が、「太平洋」より「プール」で泳いだ方が良いと決定。リーフは海岸から1マイル(約1.6キロ)にわたって延びている。(1945年8月26日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

いくつもの海軍建設大隊 (seabee) が、ありとあらゆるインフラと軍事施設を建設していった。

第7建設大隊のクルーズブック

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《 7th Naval Construction Battalion Cruisebook 1945, p. 48 & p. 68. 》

中・南部で基地建設が進むにつれ、中・南部の住民が北東海岸の収容所へと移送され、過密のテント小屋や茅で作られた仮設住宅に収容された。

第20海軍建設大隊のクルーズブックから

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Just resting before being taken to their new home.

彼らの新しい家に連れて行かれる前のちょっとひとやすみ。

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Human freight debarks to began a new life.

人間貨物は新しい生活の始まりに船出する。

《 20th Naval Construction Battalion Cruisebook 1945, p. 119. 》

※ 「新しい家」とは収容所を指す。

 

第32軍の敗残兵

屋嘉収容所 - Kレーション

塹壕での非常携帯食として開発された Kレーションは使用目的と異なり頻繁に使用されたため米兵には人気がなかったが、捕虜収容所や民間人収容所で日常食として配給された。

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Designed for foxhole use, K-rations point the way for pocket-size camping meals of the future. Packed in breakfast, dinner and supper units, they stay fresh for indefinite periods thanks to new methods of packaging.
壕用に作られたKレーション。朝食、夕食、軽い夕食がセットになっている。新技術のおかげで長期間新鮮さを保てる 撮影日: 1945年 7月19日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

阿嘉島から投降した兵士の証言

島にいた時の、食物についての危機的・絶望的状態からみれば、収容所の中は天国の生活であった。1日3回、定刻になると、〝Kレーション〟というボール紙箱に包んだ米軍の野戦用携帯食糧が1個ずつ配給された。その箱の中には、更に蠟で厚く包んだボール紙の箱に詰め合わせになっており、記号〝B〟(ブレックファスト)の場合には、ビスケット4枚、コーヒー1袋、角砂糖4個、煙草4本入り1箱、フルーツバー1本、卵の缶詰1個、チューインガム1枚が入っていた。

また〝D〟(ディナー)の場合は、缶詰はチーズ、コーヒーの代わりにレモネードパウダー、チョコレートかキャラメル、その他はBと同じ、〝S〟(サパー)の場合は、缶詰が豚のひき肉で、コーヒーの代わりにスープパウダーが入っていた。(後になると、これよりやや高級の〝Cレーション〟と呼ばれる、2個で1食分となっていて中味はKとほぼ同じだが、肉の方はいろいろな種類のある缶詰に変った。いずれにしても、日本軍の乾パンに金平糖という携帯食糧からみると比較にもならないご馳走であった)

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 217頁》

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写真 (1)(2)(3) 朝食用、昼食用、夕食用のKレーション。卵やハムなどの缶詰は直径7cmx3cm程度。Kレーション - Wikipedia

写真 (4) 屋嘉収容所で捕虜に配られるKレーションの段ボール、右から朝食用、昼食用、夕食用で12人分ある。屋嘉捕虜収容所の日本人兵士 - YouTube

私は身体が弱っていた上に、マラリヤのためのだるさがとれないせいもあって、チーズは口にできなかった(私としては、チーズなど口にするのは、はじめてのことであったが・・)ので、チーズ缶は他の者の卵かひき肉缶と交換してもらっていた。もっとも、日本兵でチーズを見るのもはじめてというのは、私だけではなく、従って新来の捕虜はいずれも入所当初にはこれをもて余していたが古参の捕虜達は慣れたもので、チーズはパクパク食い、またKレーションの内箱にある蠟を缶の蓋などで掻き落として貯め、これを燃料として大きな空缶の中に入れ、上に針金で作った五徳をかけ、手に入れた米軍の野戦用の金属コップまたはフライパンをのせて、肉缶とビスケットを一緒に煮たり、コーヒーを沸かして飲むなどしていた。(ただし米軍は、テントの中でこうした火を用いることを厳禁しており、抜打ちの検査で現場を発見すると3日間くらい〝食事止め〟の体罰を科した)新参のわれわれは、とてもこんな技も道具もまたその余裕もなかったので、手数をかけることもせずに、そのまま生水をのみながら食うだけであった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 217-218頁》

 

護郷隊と剣隊

大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊 (特務隊) とは、米軍上陸前に各離島に潜伏し、諜報・防諜・宣伝活動等を行い、常に沖縄戦の選挙を大本営へ送信するとともに、状況によっては住民を遊撃戦闘員に仕立て上げ、米軍の後方かく乱を行うことを主任務とする部隊である。さらに『陸軍中野中学校』(中野校友会) には、「米軍に占領されてしまってからも、可能な限り潜伏して諜報活動を行い、その報告を無線によって本部 (大本営) に直接報告する」と記されており、彼らの任務は、沖縄戦況の報告以上に、米軍占領後の諜報活動が重要とされていたと考えられる (p.184)

1945年8月大本営ポツダム宣言を受諾した後も、剣隊は山中に潜伏していた。彼らは最低でも3年間北部やんばるの山中に潜伏する計画だったという。宮城 (註・当時16歳) は次のように述べる。

「私らは通信隊だから武器はあったが使うということはなかった。私らの任務はアメリカに占領されても部隊がなくなっても、3ヶ年は生き延びて地下に潜ってでもやりなさいと言われていた。川上カンパンから逃げ帰った時、(北一郎隊長が戦死していたので) 堀内さんが代行になっていた。堀内さんが「3年は頑張ろう」と言っていた。だから彼らは私たちを家に返さなかったですよ。任務がそのまま続行。護郷隊は解散しているが、私らは最後まで解散しなくて、だいたいは大湿帯 (集落) にいた。しかしもう食料がなくなった。それと戦況がね。もう日本は負けたという宣撫工作もあって、そういうので私らもそろそろ解散しようということで判断して(1945年) 11月か12月に解散した。めいめい家に帰りなさいと。

《『陸軍中野中学と沖縄戦~知られざる少年兵「護郷隊」』川満彰 (吉川弘文館, 2018) 》

 

そのとき、住民は・・・

失われた公文書

米軍情報将校が分析した沖縄: ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐

…日本との敵対行為が終了すれば、全沖縄住民に住居を供給せねばならない。沖縄住民はこれからの長期間、仮小屋に生活せねばならないだろう。その仮小屋さえもまだ手がついていない現状である。
どこの村や町でも公文書が破壊を免れた例はない。どうやら、日本軍はわれわれアメリカ兵が公文書を入手することを防ぐことには成功したらしい。もちろん、アメリカ軍も公文書破壊に手を貸してしまった。

住民が不動産権利証書税金支払証明書銀行預金通帳郵便貯金通帳などを健気に守ろうとしたことは歴然としていた。洞窟や防空壕の片隅、あるいは地中に埋めた壺や派手な金庫の中にこれらの書類がきれいに包まれているのを数多く発見した。住民は命からがら逃げ回り、大事に保存していた書類を最後には全部放り出してしまった。銀行はすべて破壊され、実際、通帳には何の意味もなかった。それよりも何よりも、戦争の恐ろしさに住民は自分の命さえ助かれば、という気になっていたのである。

こうして今、行政や経済の基盤となる全ての文書が失われたという事実にアメリカ軍は直面している。戦後の財産権争いの調停の基礎資料などどこにもなかった。議会記録、防衛召集記録なども失われていた。全く何もない所から始めなければならない。

《「沖縄戦トップシークレット」第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」291-292頁より》

 

マイナスからの再建

住む家と土地と財産を失った住民は、度重なる基地計画の再編で転々と収容所を移転することを強いられた。

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米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island. Shacks for homes.
 沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。住居用の掘っ立て小屋。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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民間人の家を建てるために使うロープを紡いでいる。那覇郊外の収容所にて。

Making rope to be used in building civilian houses in compound outside of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawans building homes in compound near city of Naha, Okinawa.

那覇市近郊の収容所で家を建てる沖縄人。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawans building homes in compound near city of Naha, Okinawa.

那覇市近郊の収容所で家を建てる沖縄人

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Ishiakawa native compound under seabee supervision

シービーが指揮し建設した石川収容所の住居区域

《 15th Navy Construction Battalion Cruisebook 1945 》 

 

8年後の沖縄

8年後の人々の暮らし

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石川市の教員住宅。当時、カバヤーもまだ多かった。(1953)

写真でつづる那覇戦後50年 1945-1995, p. 100

石川市の教員住宅 : 那覇市歴史博物館

長い収容所生活と仮設暮らしから脱し、1947年4月にやっと故郷に帰還できた読谷村楚辺の集落の人々は、再び1951年に立ち退き命令を受ける。

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米陸軍: New street at the new Sobe resettlement, Yomitan-son, where 700 families are building a new life after moving from old Sobe, under the United States Civil Assistance, RYCOM.
イカム米民間援助の下、700世帯が旧楚辺部落から移った読谷村新楚辺部落の通り 1953年 8月24日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍住宅は何度もの沖縄での台風被害の教訓を踏まえ、頑丈な作りが考案された。

8年後のキャンプ瑞慶覧 (キャンプ・フォスター)

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米陸軍: Overall view of the dependent housing area in the Sukiran area.
瑞慶覧地区にある家族用住居の概観 1953年 9月 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米陸軍: General view of the American dependent housing area(1200 area) on Okinawa. In the rear are the commissary, bank, and post office.
アメリカ人家族用住居(1200地区)の概観。後方に見えるのはコミッサリー、銀行、郵瑞慶覧  1953年10月12日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本のゼネコンと沖縄人の土地と労働力

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米陸軍: On this proposed site, a portion of 279 family dwellings will be erected under the supervision of the Okinawa Emgr district for the use of US Army dependents on Okinawa. American technique, a Japanese contractor, and native Okinawan labor is being used to mass produce the typhoon-resistant homes at a lower unit cost than previously attained in this stle of construction.
米陸軍家族用に279の住宅の建設現場。米国の技術を使い日本人の土建業者を通し、沖縄の労働者を使って防風住宅を大量にしかも低コストで建築する方法が定着した 1953年10月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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