〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月16日 『沖縄の人々は順応である』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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《AIによるカラー処理》通常は輸送管を海に入れる際、その端を保護するために用いられるそり。しかし今回は珊瑚礁があるために輸送管を浮かせ、そりは使われていない。(1945年7月16日撮影)

Sled generally used to protect end of pipeline as it is pulled into the sea. The sled was not used in taking the line out in this case however, because of coral formations, the line being floated out.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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那覇飛行場周辺、南側概観。(1945年7月16日撮影)

An aerial view of the surrounding area just south of Naha Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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B-29スーパーフォートレス普天間飛行場南端の採石場からTNT火薬を使って取り出した石灰岩をまとめるロレイン・ショベル。滑走路を建設する第806工兵航空大隊のトラックは石灰岩を降ろし、爆撃機に耐えうる規定の厚さに基盤を固める。右方では誘導路と舗装駐機場の建設が第854工兵航空大隊によって進められる。この7,500フィート滑走路の建設工事は1945年6月15日に開始、同9月1日頃完工した。(1945年7月16日撮影)

Lorrain shovels are busy removing the loosened coral that was blasted free by TNT from the coral hill located at the south end of the B-29 “Superfortress“ Futema Airstrip on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. Trucks of the 806th EAB that were constructing the runway are dumping the coral sand on the strip, building up the base to the required thickness to handle the super bombers landing force. At the right of the strip the taxiway and hardstands for parking of the bombers progressed satisfactorily under the construction of the 854th EAB. Work was begun on 15 June 1945 for this 7500 foot long strip and was finished about the 1st of September.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》空から見た本島西海岸の台地の補助飛行場。大砲を設置するパイパーL-4機や傷病兵救助用のヴァルティL-5機が利用する。(1945年7月16日撮影)

Aerial view of the cub strip at Ters on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. The strip was used by Piper L-4s for artillery spotting, and Vultee L-5s were used for evacuation of wounded from the island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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中型・重爆撃機及び戦闘機用の4本の飛行場が北東南西方向に、第935司令部第805、1873、1892、1902、1903工兵航空大隊によって建設された。1945年5月1日の大上陸の日にA滑走路の工事が始まった。日本軍の激しい攻撃のため工兵航空大隊は更なる困難とぬかるみの中での作業を強いられた。伊江島と本島を防衛する飛行機はここから飛び立った。伊江島には滑走路建設に必要な石灰岩が大量にある(1945年7月16日撮影)

Four airfields to handle medium bombers, heavy bombers and fighter aircraft were built facing northeast-southwest on this island. Construction done by 935th Hqs. EAB Co., 805th 1873rd, 1892nd and 1902nd and 1903rd EABS. The first strip to start construction was “A“ on May 1, 1945, the day of the initial landing. Due to heavy and concentrated Jap air attacks, EABS underwent additional hardships plus muddy conditions. Planes used in the defense of Ie Shima and Okinawa flew from these strips. Ie Shima has a great abundance of coral, which was used to build the airstrips. Ie Shima, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

野戦病院の捕虜 ➁ 収容所内の不審死

証言の中には捕虜収容所内でのいくつかの「不審死」も記録されている。

梅村少佐の事件 に引きつづいて、日本兵仲間の患者の間でも、妙な事件がおきた。私の隣りの幕舎に弱り果てた1人の栄養失調患者が送られてきた。彼をめぐってよくないうわさが立った。

梅村少佐と同じように、彼の仲間も先に入院していた。その仲間に見つけられたのが彼の運のつきであった。

彼の仲間は沖縄南部から北部へ敵中を「強行突破」することになり、夜間潜行を続けた。ひと夜ふた夜と潜行を続けているうちに、仲間は1人2人と脱落していった。逃げ回っているうちに、夜のことで方向を間違えるのがいたり、単独行動を有利と思って脱けがけするのもいたにちがいない。

そのうちに、1人の仲間がアメリカの夜間歩哨のカービン銃で足を射たれて、歩行困難となった。「生きたい」という執念にとりつかれた彼は仲間にしがみついた。仲間が彼を放って行くならば、大声をあげてアメリカ兵を呼んでやる、と駄々をこねた。仕様ことなしに仲間は交替して2人で彼を両脇から抱えて潜行を続けた。彼はみんなにとって重荷となった。誰もが自分のからだでさえ持てあましているときに、けが人を抱えて行動するということは困難を通り越した一大難事であった。

4日目の昼、仲間の2人が水をさがでぃに出かけて戻ってきたら、けがしていた男が死んでいた。2人が理由をきいても返答するものがいなかった2人はそれ以上詮索しなかった。誰かが「やった」のだ、と直感したからである。その後、仲間はばらばらになり、たまたま病院でその仲間の2人が出会い、そこへ栄養失調になった今1人の男が現れたわけである。』(176-177頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 176-177頁より》

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日本兵捕虜の病院にあるX線撮影テント。沖縄本島にて。テントの外にいるのは、先ほど担架で運ばれてきた、日本軍の負傷兵2人。

X-ray tent at hospital for Japanese prisoners on Okinawa, Ryukyu Islands. Two recently arrived wounded Jap soldiers are outside on stretchers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『栄養失調の男は軍曹であった。彼はピストルを持っていて、性のよくない男で、まっ先に疑いをかけられていた。戦友のことを彼は問いただされた。「誰が射ったのか、お前は現場を目撃していたはずだ」というわけである。しかし、栄養失調の男は「言えない」と頑固に口をつぐんだ。殺された戦友のために事実を彼に吐かそうと、2人は彼を追及して暴力をふるうことになった。しかし、栄養失調の男は気を失うまで口を割らなかった。2人は彼を抱えてベッドにはこんだが、あくる朝栄養失調の男はベッドの上で死んでいた。

衛生兵はこの事件を知っていたが、受け持ちの患者が殺されたと報告すると面倒なことになる。軍医にことのいきさつを報告しなかったので病死ということになった。ようやく戦争を生きながらえた栄養失調の男は、病院に入れられて、そこで戦友たちに殴り殺されてしまったのだ。それも、彼が戦友を射ち殺したのか、ほかの仲間が射ったのか、はっきりしないままに彼は殺されてしまったのである。

梅村少佐の事件のあとにこの事件はおきたのだが、この男よりも梅村少佐の方がもっと悪党のように思われた。梅村は無事に家族のもとに帰れるのに、この男はついに家族の顔をみることができなくなったのだ。彼も「運が悪かった」ということであろう。』(177-178頁)

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 177-178頁より》

 

捕虜尋問調書

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Enemy prisoner of war as he is questioned by the interpreter. A tag is filled out and attached to some part of his clothing. Data included on the tag is his name, rank, outfit, and date captured. Additional material about the things he may know concerning Japanese troops in the Pacific may be added.
【和訳】 通訳から質問を受ける捕虜。タグに名前や階級、所属、捕らえられた日付を入れ衣類に取り付ける。太平洋戦争における日本軍に関することなどをこの捕虜が話せば、それもまた加えられるだろう。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

国立公文書館には、沖縄戦捕虜尋問調書850人分ほどが保存されている。戦争に関わる当時の国際法では、捕虜は保護されるべき対象であり、氏名、階級、認識番号等最小限のことだけを述べればいいことになっていた。ところが沖縄戦捕虜の場合、軍歴は言うにおよばず、戦争全般について多くを語っているのが特徴的である。

死から生へと帰還できた捕虜たちは、米軍尋問官に対して戦場下での体験を肉声でもって述べている。捕虜たちは、それまで内に秘めていた感情を一挙に放出すかのように語り、調書に書かれた字面は戦場のうめきや吐息のように見える。その時、誰も尋問調書が公開されるなど考え及ばなかったであろう。ある沖縄県出身上等兵は、上官と撃ち合いとなり部隊逃亡したと述べている。傷の痛みに耐えかね、沖縄人に強いられた差別に怒りを顕わにし、彼は尋問官のいるところで男泣きしている。大阪出身者からなるある部隊の生存者7人は、ひたすら生き残ることだけを考え集団で最前線を逃げ回ったという。さらに沖縄出身のある兵卒は、親の介護に腐心し徴兵を逃れてきたが、沖縄戦開始後ついに動員されてしまった。彼の尋問調書は、家族の安否にあふれている。戦争は自分に関係ないことだと述べる傍ら、生き別れの妻子に自分は負傷してしまい何もしてやれない悲しみを訴えている。万巻の書を紐解き戦争の何たるかを理解するより、わずか一枚程度の調書がいかに心打つか本捕虜の証言は教えている。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ- 上』紫峰出版 (2015/8/1) p. i 》

 

そのとき、住民は・・・

国頭村の収容所

津波、宮城、白浜の3か字は羽地村田井等収容所へ、大保から以北 の略館までの7か宇は喜如嘉収容所へ、大宜味、大兼久は饒波収容所へ、田嘉里、謝名城は地元で 「収容された (『大宜味村史』)

七月には国頭山地の全面的な掃討作戦があり、七月十五日が下山の期限であった。大宜味村では、七月十五日に村長以下多くの住民が白旗をかかげて饒波収容所に降りてきたという。

また喜如嘉収容所の設置については…(中略)…喜如嘉の部落民は「すでに部落内に他部落の人たちが収容されているが、部落の人は必ず自分の家に入れること」という条件を出して、十六日全員下山したという。
 戦前八〇〇〇人台だった大宜味村の人口は、収容者の増加により一万四〇〇〇人に達したといわれ、さらにマラリアの蔓延により「喜如嘉収容所を例にとると、七月三〇名、八月七四名、九月六二名、十月五六名、十一月三〇名、十二月二三名とわずか五か月半のうちに二六九名が病死している」という(『大宜味村史 通史』二四五頁)。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所》

 

米軍の記録が記す「協力的」で「従順な」沖縄人

琉球諸島の軍政下に入った住民は40万1500人で、人口の40パーセントは15歳以下の子どもであり、21歳から50歳までの男子はわずか2万9千人、7.2パーセントにすぎなかった。50歳の男子は21歳の男子の2倍いた。…人々は軍政のはじめから非常に協力的であり、軍政方針に従った

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 353頁より》 

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沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。陸軍の士官がカードを掲げ、カードに書かれていることを地元民が読みあげている。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. An Army officer holding up cards and the natives recite orally.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沖縄を占領した米軍は、沖縄の人々は従順であると認識していたようだ。…保護した住民たちとの関係からそう確信したのだろう。沖縄を日本から分離しても、銃剣で住民を追い出し家や畑をブルドーザーで敷きならして基地を作るような、少々手荒なことをしても米軍に抵抗できないだろうと高をくくっていたのかもしれない。しかし住民が米軍に抵抗しなかったその背後には、日本軍による数々の残虐行為や横暴があり、日本軍によって裏切られたという経験があった。彼らは、日本軍によって虐げられ、それに反発し、戦時体制下にくりかえし叩き込まれたイデオロギーとその宣伝のウソを体験し、そうした教え(命令)に反して投降した。日本軍やそれにつながる権力者たちを排して、自らの運命を自らの決断で切り拓こうとする人々が沖縄戦のなかで次々と出てきた。権力者の言いなりにはならないという重要な経験を、あまりにも大きな犠牲を払いながらも、積み重ねたのである。権力者の宣伝をそのまま鵜呑みにするような人々ではなくなってきつつあった。沖縄戦のなかでの人々の意識と行動を見ると、そうした新しい契機が生まれつつあることがわかるだろう。』(365頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 365頁より》

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《AIによるカラー処理》沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『彼らはけっして皇民化イデオロギーに盲目的に従ったわけではなかった。沖縄の人々が主体的に考え、行動しうる基盤が、戦争の体験のなかから育まれつつあった。そうした経験と営みが、日本から見捨てられたなかで米軍の先制支配に立ち向かう沖縄の人々のたたかいの基盤となっていったと言ってよいだろう。

もちろん戦前戦中は日本にへつらい、米軍時代になると米軍にへつらう、事大主義的な指導者や民衆の存在も無視できない。しかし彼らを超えるような主体も育ちつつあった。そうした沖縄の人々の変化を米軍は理解していなかったのではないだろうか。』(365-366頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 365-366頁より》

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《AIによるカラー処理》沖縄本島の前原(?)の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

収容所の学校 - 百名初等学校

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65年前のきょう (1945年7月16日)、玉城村百名で小学校が開校。その目的は、子どもたちの命を守ることでした。

南城市玉城百名の百名初等学校跡地。百名には収容所が置かれ、避難民が続々と集まっていました。食料の乏しい収容所でお腹を空かせた子どもたちは、アメリカ軍の車にたかって物をねだったり、不発弾をいじって遊んだり、危険きわまりない状況だったといいます。

城間富雄さん(当時12歳)「アメリカ軍車両をどこまでも追っかけていって。物欲しさに。何もないですから。そこから、この青空学校が始まったんじゃないかなと思いますけどね。教育熱心な方々が、これではいけないから子どもを集めてどうにかしようと」

65年前のきょう、玉城の人々は子どもたちの命を守ろうと、地元の有志から提供された土地に学校をつくりました。校舎も教科書もなく、630人の児童に対して、職員はわずか11人。しかし、城間さんをはじめ、子どもたちには笑顔が戻ってきました。

城間さん「学校では歌を歌ったり遊戯をしたり。教科書がないものですから、木切れでもって地面に字を書いて。ここがあったから我々子孫もあるなという感じです

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月16日(月)

百名小学校 沿革

7月と言えば島尻南部港川以西に於いては日本軍最後の抵抗戦で激戦最中であった。避難民は百名に続々収容され、子供たちは道路に氾濫し、米軍の車が通る度に、これにたかり物をねだる始末。危険極まりない有様であった。そこで子供たちを守ろうと一ケ所に集め、世話することとなり、ここに自発的、献身的な私設学校的、区立学校が発足した。 

学校紹介 | 百名小学校 | 南城市教育委員会 | NANJO CITY Board of Education

 

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書籍紹介

 

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