〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月16日 『沖縄の人々は従順である』

米軍の沖縄人観日本軍の沖縄人観 / 基地建設と収容所

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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米軍は4月1日読谷嘉手納の飛行場を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

B-29などのような重爆撃機を安定して運用するためには、滑走路に30cmの厚さの石灰岩を舗装する必要があった。

伊江島飛行場

伊江島飛行場(伊江島東・中・西飛行場) ➔ [米軍] 伊江島補助飛行場

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Four airfields to handle medium bombers, heavy bombers and fighter aircraft were built facing northeast-southwest on this island. Construction done by 935th Hqs. EAB Co., 805th 1873rd, 1892nd and 1902nd and 1903rd EABS. The first strip to start construction was “A“ on May 1, 1945, the day of the initial landing. Due to heavy and concentrated Jap air attacks, EABS underwent additional hardships plus muddy conditions. Planes used in the defense of Ie Shima and Okinawa flew from these strips. Ie Shima has a great abundance of coral, which was used to build the airstrips. Ie Shima, Ryukyu Retto.

中型・重爆撃機及び戦闘機用の4本の飛行場が北東南西方向に、第935司令部第805、1873、1892、1902、1903工兵航空大隊によって建設された。1945年5月1日の大上陸の日にA滑走路の工事が始まった。日本軍の激しい攻撃のため工兵航空大隊は更なる困難とぬかるみの中での作業を強いられた。伊江島と本島を防衛する飛行機はここから飛び立った。伊江島には滑走路建設に必要な石灰岩が大量にある(1945年7月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇空港

海軍小禄飛行場(海軍那覇飛行場)➔ [米軍] 那覇飛行場

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那覇飛行場周辺、南側概観。(1945年7月16日撮影)

An aerial view of the surrounding area just south of Naha Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

普天間飛行場

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B-29スーパーフォートレス普天間飛行場南端の採石場からTNT火薬を使って取り出した石灰岩をまとめるロレイン・ショベル。滑走路を建設する第806工兵航空大隊のトラックは石灰岩を降ろし、爆撃機に耐えうる規定の厚さに基盤を固める。右方では誘導路と舗装駐機場の建設が第854工兵航空大隊によって進められる。この7,500フィート滑走路の建設工事は1945年6月15日に開始、同9月1日頃完工した。(1945年7月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小飛行場の建設

米軍は1945年だけで沖縄に20あまりの小飛行場 (cub air strips) を建設した。

糸満小飛行場

日本海軍が建設途中で放棄した小型特攻機用の糸満秘密飛行場(海軍与根飛行場)を米軍が接収し再構築。南部の戦線から傷病兵を中部の野戦病院に送るのに活躍した。

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Aerial view of the cub strip at Ters on the west coast of Okinawa, Ryukyu Retto. The strip was used by Piper L-4s for artillery spotting, and Vultee L-5s were used for evacuation of wounded from the island.

空から見た本島西海岸の台地の補助飛行場。大砲を設置するパイパーL-4機や傷病兵救助用のヴァルティL-5機が利用する。(1945年7月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(糸満の北の直線道路から) 6月15日、港川からの第24軍の死傷者の空中搬送が開始された。6月末までに、1,232人の負傷者が小型飛行機によって野戦病院に搬送された。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 16]

 

米軍記録が記す「従順な」沖縄人観

琉球諸島の軍政下に入った住民は40万1500人で、人口の40パーセントは15歳以下の子どもであり、21歳から50歳までの男子はわずか2万9千人、7.2パーセントにすぎなかった。50歳の男子は21歳の男子の2倍いた。

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 353頁より》

米軍の「沖縄人」観

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米国海軍: Okinawans are unmindful of the battle raging around them.
沖縄人は身に迫る戦火もどこ吹く風である。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.

米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

収容所で暮らす沖縄住民の様子について、米軍の資料には「我々に協力的」、「従順」、「積極的に働く」といった表現が度々出てきますが、それとは別に印象に残った記述があります。「他人の畑の作物を収穫することに困惑する住民達がいた」というものです。

沖縄戦下の住民による「軍作業」 - Nichimy Corporation U.S. Office ニチマイ米国事務所

沖縄を占領した米軍は、沖縄の人々は従順であると認識していたようだ。… 保護した住民たちとの関係からそう確信したのだろう。沖縄を日本から分離しても、銃剣で住民を追い出し家や畑をブルドーザーで敷きならして基地を作るような、少々手荒なことをしても米軍に抵抗できないだろうと高をくくっていたのかもしれない。しかし住民が米軍に抵抗しなかったその背後には、日本軍による数々の残虐行為や横暴があり、日本軍によって裏切られたという経験があった。彼らは、日本軍によって虐げられ、それに反発し、戦時体制下にくりかえし叩き込まれたイデオロギーとその宣伝のウソを体験し、そうした教え(命令)に反して投降した。日本軍やそれにつながる権力者たちを排して、自らの運命を自らの決断で切り拓こうとする人々が沖縄戦のなかで次々と出てきた。権力者の言いなりにはならないという重要な経験を、あまりにも大きな犠牲を払いながらも、積み重ねたのである。権力者の宣伝をそのまま鵜呑みにするような人々ではなくなってきつつあった。沖縄戦のなかでの人々の意識と行動を見ると、そうした新しい契機が生まれつつあることがわかるだろう。…

彼らはけっして皇民化イデオロギーに盲目的に従ったわけではなかった。沖縄の人々が主体的に考え、行動しうる基盤が、戦争の体験のなかから育まれつつあった。そうした経験と営みが、日本から見捨てられたなかで米軍の先制支配に立ち向かう沖縄の人々のたたかいの基盤となっていったと言ってよいだろう。

もちろん戦前戦中は日本にへつらい、米軍時代になると米軍にへつらう、事大主義的な指導者や民衆の存在も無視できない。しかし彼らを超えるような主体も育ちつつあった。そうした沖縄の人々の変化を米軍は理解していなかったのではないだろうか。

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 365-366頁より》

米兵は沖縄人を "Gooks" (注・まぬけ、のろま、汚らわしいなどの意がある東洋人への蔑称) と呼んだ。長年アメリカ人がアフリカ系アメリカ人奴隷制に「満足」していると考えたのと同様に、沖縄人が軍占領に「満足」していると考えた。

レオ・ノワク ~ スーパーマンと沖縄戦 - Basically Okinawa

米国海兵隊: Okinawans at work.
働く沖縄人  1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

助けてーしても、男の人も誰も助けることができませんでした。もし男の人が助けようとすると、アメリカーは銃を持っていて、撃つんですから、どうにもなりませんでした。ほんとに撃ち殺すんですよ。

沖縄戦証言 北谷町砂辺 - Battle of Okinawa

 

第32軍の敗残兵

日本軍の「沖縄人」観 - 「スパイ」説の流布

5月4日に沖縄を脱出した神参謀に触発され森脇弘二中尉も沖縄脱出を願い出る。

神参謀出発の決したとき、一つの茶番劇が起こった。混成旅団司令部付の森脇中尉が神の前に立ち「参謀殿。飛行機を操縦する方法を教えて下さい」と奇問を発した。神が驚いて「籔から棒に、なんという質問だ」とやり返すや否や、森脇は、「私は友軍のでも、敵のでもよい。飛行機を捜し出して、自分で操縦し、本土に帰りたいのです」といった。

《 八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀の手記』読売新聞社 (1972年) 》

森脇弘二は7月16日 (or15) に本土に到着する。後の国会で貴族院議員の伊江朝助はその際に森脇が拡散したスパイ説を批判している。

男爵伊江朝助君: これ以上申上げる必要もないのでありまするけれども、尚一つご參考の為に、むこうの方の事情をほんの五分間ぐらいお話致します。… (沖縄南部の) これらの者は男女とも皇軍と共に奮戦してみな討死したものと思いまするが、沖縄終戦の三日前に、盛脇 (森脇弘二) という陸軍の中尉が牛島司令官の命を受けて沖繩から脱出した。その道案内をした者が海軍の二等兵曹の上地という男、この男は沖繩出身で、大学の学生でありましたけれども、召集されまして海軍に入った男であります、それが万難を冒して盛脇という中尉を連れて脱出して、奄美大島の徳之島まで行つた、盛脇中尉は非常に感謝しておったのでありますが、徳之島に上陸すると、盛脇中尉は、今回の沖繩戰線の失敗は琉球人の「スパイ」行為によると云ふことを放送した。その上地二等兵曹は非常に憤慨しまして、刺し違えてやろうという考えを起した。しかるに考えて見ると、司令官の命令で脱出して大使命を持って居るからといふのでそのままにしていった。そうしてこの人が九州地方をまわった。九州の疎開地に今回の沖繩戦線は沖繩県人の「スパイ」によつて負けたのだというようなことが流行って、沖繩五万の疎開民が受入地から非常に脅迫されたという事情もあるのであります。我々から考えますと、非常に殘念に思うのであります。そうして疎開地の人間は、迫害されたために、帝国臣民たる光栄に對して疑問を起すというまで憤慨している次第であります。

第89回帝国議会 貴族院 衆議院議員選挙法中改正法律案特別委員会 第2号 1945年12月13日

また、同様に本土に帰還した神直道参謀の日誌『神日誌』にも、「政府に対する連絡」事項として、沖縄人へのすさまじい偏見と縷言と偽情報が列記されている。

二 沖縄県人は支那人(ママ)に似る、精神的中核なし、かつ無気力、神社仏閣極少

(一) 軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするものすこぶる多し

(二) 学徒は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除のやむなきに至る。*1 最後まで戦い続けているのは一中、男師範のみ。いずれも他県人校長。*2

(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断 *3
(四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けてくれぬ 何を考えているか分からぬ*4

『神日誌』~ 第32軍の沖縄県民への根深い差別と不信感 ~ 「沖縄守備軍」の実態 - Battle of Okinawa

沖縄の土地と人々を利用し尽くし、挙句の果てに本土に逃れた第32軍の参謀たちは、差別で増幅されたデマを仕立てあげ、敗北は沖縄人と沖縄人「スパイ」のせいだとする自己保身に懸命にすがりついていた。

 

 

野戦病院の捕虜 ➁ 収容所内の不審死

多くの捕虜は収容所内で横行した「お礼参り」だけではなく、所内での「不審死」をも証言している。明らかに自殺ではないと思われるものもいくつかみられる。

梅村少佐の事件に引きつづいて、日本兵仲間の患者の間でも、妙な事件がおきた。私の隣りの幕舎に弱り果てた1人の栄養失調患者が送られてきた。彼をめぐってよくないうわさが立った。… 栄養失調の男は軍曹であった。彼はピストルを持っていて、性のよくない男で、まっ先に疑いをかけられていた。(「国頭突破」中に殺されたという) 戦友のことを彼は問いただされた。「誰が射ったのか、お前は現場を目撃していたはずだ」というわけである。しかし、栄養失調の男は「言えない」と頑固に口をつぐんだ。殺された戦友のために事実を彼に吐かそうと、2人は彼を追及して暴力をふるうことになった。しかし、栄養失調の男は気を失うまで口を割らなかった。2人は彼を抱えてベッドにはこんだが、あくる朝栄養失調の男はベッドの上で死んでいた。

衛生兵はこの事件を知っていたが、受け持ちの患者が殺されたと報告すると面倒なことになる。軍医にことのいきさつを報告しなかったので病死ということになった。… 梅村少佐の事件のあとにこの事件はおきたのだが、この男よりも梅村少佐の方がもっと悪党のように思われた。梅村は無事に家族のもとに帰れるのに、この男はついに家族の顔をみることができなくなったのだ。彼も「運が悪かった」ということであろう。

《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 177-178頁より》

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日本兵捕虜の病院にあるX線撮影テント。沖縄本島にて。テントの外にいるのは、先ほど担架で運ばれてきた、日本軍の負傷兵2人。

X-ray tent at hospital for Japanese prisoners on Okinawa, Ryukyu Islands. Two recently arrived wounded Jap soldiers are outside on stretchers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

捕虜尋問調書

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Enemy prisoner of war as he is questioned by the interpreter. A tag is filled out and attached to some part of his clothing. Data included on the tag is his name, rank, outfit, and date captured. Additional material about the things he may know concerning Japanese troops in the Pacific may be added.
通訳から質問を受ける捕虜。タグに名前や階級、所属、捕らえられた日付を入れ衣類に取り付ける。太平洋戦争における日本軍に関することなどをこの捕虜が話せば、それもまた加えられるだろう。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

国立公文書館には、沖縄戦捕虜尋問調書850人分ほどが保存されている。戦争に関わる当時の国際法では、捕虜は保護されるべき対象であり、氏名、階級、認識番号等最小限のことだけを述べればいいことになっていた。ところが沖縄戦捕虜の場合、軍歴は言うにおよばず、戦争全般について多くを語っているのが特徴的である。

死から生へと帰還できた捕虜たちは、米軍尋問官に対して戦場下での体験を肉声でもって述べている。捕虜たちは、それまで内に秘めていた感情を一挙に放出すかのように語り、調書に書かれた字面は戦場のうめきや吐息のように見える。その時、誰も尋問調書が公開されるなど考え及ばなかったであろう。ある沖縄県出身上等兵は、上官と撃ち合いとなり部隊逃亡したと述べている。傷の痛みに耐えかね、沖縄人に強いられた差別に怒りを顕わにし、彼は尋問官のいるところで男泣きしている。大阪出身者からなるある部隊の生存者7人は、ひたすら生き残ることだけを考え集団で最前線を逃げ回ったという。… 万巻の書を紐解き戦争の何たるかを理解するより、わずか一枚程度の調書がいかに心打つか本捕虜の証言は教えている。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ- 上』紫峰出版 (2015/8/1) p. i 》

  

そのとき、住民は・・・

基地建設と民間人収容所

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人々は南部の収容所から北部の収容所へと移送された。

6月15日から30日にかけては、日本軍の組織的戦闘が終了した関係からか、南部エリアの人口が急増しているが、7月15日になると南部エリアの人口が減少する傾向が表れ始めている。このような傾向は、1945年7月の1ヶ月間に限定した人口動態でより明らかである。おおむね人口が増加傾向にある沖縄北部のなかでも、とりわけ北部東海岸宜野座エリア」の人口が突出して急増しており、1945年7 月のわずか1ヶ月間でほぼ倍増している。一方の沖縄南部の野嵩、安谷屋、喜舎場、コザ、島袋では 1 ヶ月間で人口はほぼ半減しており、… 多くの人々が基地建設によって沖縄本島南部から沖縄本島北部に退去させられたことがうかがえる。

《清水史彦『沖縄戦下の民間人収容所の展開に関する考察 : 米軍基地建設計画と関連して』(2017) p. 69.》

 

前原民間人収容所

うるま市 戦後復興 pdf

当初、シモバルと呼ばれた泡瀬周辺には6000人の住民が集められたが、泡瀬に飛行場建設と諸所の軍施設が建設されると、住民は5月15日から北側の高江洲などに移動させられた。さらに6月には海軍建設大隊 (CB) の拠点が建設されるため、勝連半島には23,000人の住民が集中した。

具志川村美里村南部、勝連半島一帯をさして「前原地区」と呼ばれるようになり、
昭和20年9月、市会議員選挙と市長選挙が行われ、南風原収容所を加えた「前原市」が 発足すると、高江洲市が廃止されました。

うるま市「戦後復興」pdf

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Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation.

沖縄本島の前原の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Educational program for natives in Marbaru [Maebaru] village on Okinawa in Ryukyus. They copy the words down on paper and use their own writing as translation.

沖縄本島の前原の集落に住む地元民への教育プログラム。地元民が紙に言葉を書き写し、日本語に翻訳している。(1945年7月16日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

収容所の学校 - 百名初等学校

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65年前のきょう (1945年7月16日)、玉城村百名で小学校が開校。その目的は、子どもたちの命を守ることでした。

南城市玉城百名の百名初等学校跡地。百名には収容所が置かれ、避難民が続々と集まっていました。食料の乏しい収容所でお腹を空かせた子どもたちは、アメリカ軍の車にたかって物をねだったり、不発弾をいじって遊んだり、危険きわまりない状況だったといいます。

城間富雄さん(当時12歳)「アメリカ軍車両をどこまでも追っかけていって。物欲しさに。何もないですから。そこから、この青空学校が始まったんじゃないかなと思いますけどね。教育熱心な方々が、これではいけないから子どもを集めてどうにかしようと」

65年前のきょう、玉城の人々は子どもたちの命を守ろうと、地元の有志から提供された土地に学校をつくりました。校舎も教科書もなく、630人の児童に対して、職員はわずか11人。しかし、城間さんをはじめ、子どもたちには笑顔が戻ってきました。

城間さん「学校では歌を歌ったり遊戯をしたり。教科書がないものですから、木切れでもって地面に字を書いて。ここがあったから我々子孫もあるなという感じです

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月16日(月)

開設当時の児童の体容

当時、戦乱の余塵いまだ生々しく、戦争の疲れはなはだしく、生気なくやせ衰へ、特に皮膚病、胃腸障害多かりき、皮膚病疾患者は実に全校の3分の1、約200余名に上る。衣服着替へなき者、男133人、女104人、計237名も居たるも、逐次配給をなし、11月頃には全部配給を完了せり

《『知念村史』知念村 (1994年) 》

 

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書籍紹介

無意識の植民地主義増補改訂版 日本人の米軍基地と沖縄人 [ 野村浩也 ] 楽天ブックス送料無料 2,860円

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*1:解除してくれていたら、召集された学徒の戦死者率が過半数を超えることはなかった。召集解除していないどころか、最後まで戦場で利用し、また学徒以外にも、11歳の少年から年寄りまで防衛召集している。

*2:植民地主義沖縄県人への差別を利用した誤情報。実際には他県からきた校長で、本土に帰還、学生を動員するだけで顧みなかった等色々であり、沖縄県人は駄目だ、という言説を振り回すことで、他県人よりも強烈な服従を強いることができた。

*3:後のインタビューで、神直道は目撃したことはないし、スパイ事案もなかったと証言している。

*4:軍は労働力や食糧や資材に至るまで供出を強制、接収した土地の金額も支払っていない。その点について神直道は戦後自ら証言した。