〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年9月6日 『ご苦労さまでした』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ⑦

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。9月4日、日本側の代表者らが読谷飛行場に到着。降伏に関する詳細な指示が書かれた文書などを受け取り、翌5日には一旦部隊へと戻った。

9月6日、納見敏郎中将(陸海軍総司令官)、村尾繁二海軍大佐、一瀬壽(ひさし)大佐、杉本一夫中佐の一行が午後3時に読谷飛行場に到着し、特別尋問センターへ向かう。一方、徳之島から高田利貞陸軍少将と中溝中佐は午後6時に同じく読谷飛行場に到着、奄美からは加藤雄海軍少将、佐藤貞雄海軍中佐、坂田朝太郎海軍大佐らが到着した。その夜、日本側一行に「無条件降伏文書」のコピーが渡され、内容の確認がおこなわれた。

Headquarters Tenth Army

7, September, l945

Surrender

The undersigned Japanese Comnlanders, in conformity with the general surrender executed by the lmperial Japanese Government, at Yokohama, on 2 September l945, hereby formally render unconditional surrender of the islands in the Ryukyus within the following boundaries:

30 North l26 East, thence 24 North l22 East, thence

24 North l33 East, thence 29 North l31 East, thence

30 North l31 30 East, thence to point of origin

納見敏郎

Toshiro Nomi Lieutenant General Commander Japanese Forces Sakishima Gunto

高田利貞

Toshisada Takada Major General Commander Japanese Army Forces Amami Gunto

加藤唯雄

Tadao Kato Rear Admiral Commander Japanese Navy Forces Amami Gunto

Accepted

W. Stilwell, General, United States Army Commanding

※ "surrender of the islands in the Ryukyus" を琉球列島の「降伏」と解釈するか「譲渡」と解釈すべきだったのか議論がある。

 

第32軍の敗残兵

恩納(おんな): 第4遊撃隊

9月6日の朝だった。絶望のなかでじっと林の奥に潜伏している私たちの山塞に、下方の谷間の入口あたりから熊笹がざわざわ鳴って、何者かが近づいてくる気配がした。「スワッ敵襲」とばかり緊張したところ、

日本兵はおるか。44飛行場大隊の者はいないか」と、突然、四方の静寂をやぶって大声がした。

私たちが断崖上からオドオドしながら、谷間の声の主をたしかめてみると、米軍の服こそ着て腕に腕章を巻いているが、なんと、まぎれもない、わが部隊の小寺主計少尉と、中折帽子をかむっている4人の島の人たちではないか。

やっと安心した私たちは、ふらつくように小寺少尉の前に姿を現した。小寺…少尉…は、

「私は恥ずかしいしだいながら、6月に本部半島で捕虜になり、目下、米軍の保護下にある・・・みなさん、おどろいてはいけない・・・」

と前おきして、「じつは8月15日に戦争は終わった。みなさんの生命は連合軍によってジュネーブ条約により保証されている」と一気にいうと「ご苦労さまでした。諸君は立派に任務を果たされたのである・・・」とつづけた。まさに青天の霹靂---私たちはただ呆然となってしまった。とてもすぐに信ずることはできなかった。いろいろなことをたしかめてゆかなければ・・・しかし、何をたしかめるのか? 胸のなかにワーッと感動の波が起って、整理がつかなかった。

とてつもなく重大な出来ごとは、まったくただ感動のうちにすぎてしまうものだ。しばらくして気がつく。「そうだったのか・・・」張りつめていた気持ちがグラグラっとすると、私は無言のうちに6発残った拳銃弾のすべてを抜きとってシダの林のなかに投げすてていた。祖国は敗れた! ・・・歴史的のこの一瞬! だが私も戦友もだれも涙を流さなかった。出る涙はもう、戦争中にぜんぶ出しつくしていた、というのが真実であろう。

その晩、私たちは早速、下方の谷間にいる海軍兵2名に連絡をとってやった。彼等は私たちよりも1日おくれて投降することに決った。

小寺少尉がマッカーサーは9月2日に伊江島に立寄って (註) から、厚木基地に飛び立ったという話をして、岡本上等兵が、「そういえばそのころ伊江島の方が爆音で騒々しかった」といった。私たちは小寺少尉から贈られた缶詰と、たくわえてあった食糧ぜんぶを開けて、一晩中戦友たちと語り合った。(257-258頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 257-258頁より》

(投稿者註: マッカーサーが沖縄に滞在したのは、文中にある9月2日ではなく、8月29日〜30日である。)

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《AIによるカラー処理》One batch of the large number of Japs who chose to surrender rather than be killed or commit hara kiri on Okinawa. Those who surrendered were a poorly garbed, emaciated lot--but the number surrendering indicated that the japs finally were coming to their senses

沖縄で自決するよりも降伏を選んだ大勢の日本兵。身なりはみすぼらしくひどく衰弱しているが、投降する日本人の数は彼らがようやく正気を取り戻してきていることを表しているといえる。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Okinawa. American soldier brings in a group of Japanese prisoners.
日本兵捕虜の集団を連れて来た米兵。沖縄にて。
撮影日: 1945年 9月

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

収容所での生活

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《AIによるカラー処理》An M.P. stands nearby as Japanese Prisoners of War load food rations onto a truck from a Boeing B-29 of the 7th Air Force at Bolo Field, Okinawa, Ryukyu Retto.
ボロ飛行場(読谷)で、日本兵捕虜が第7空軍のボーイングB-29からトラックへ軍用食の上げ下ろしをするのをそばで監視する憲兵
撮影地: 読谷 (1945年10月14日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

その時、住民は・・・

収容所での生活

 宜野座には、国民学校に米軍の駐屯本部があり、その周辺に難民収容所がありました。収容所に着くと、身分確認が行われ、十四歳以上の男性とその他に振り分けられました。十四歳以上の男性は、金網で囲われた収容所のほぼ真ん中にさらに二重の金網があり、その中に収容されました。その他の人たちは、軍用の丸テントの中に、二十数人が押し込められ、夜寝るときは寝返りもできない状態でした。ここの難民は、ほとんどが首里や知念村、玉城村からの避難者や戦争中に南部で収容されて連れてこられた人たちで、読谷の出身者はほとんどいませんでした。

 収容所では、一日三回、おにぎり一個と空き缶一杯のおつゆが配られるだけでした。

 二重の金網に入れられた男性は、読谷や嘉手納飛行場の基地整備や、戦死者の遺体収容などに駆り出されていました。また、看護婦だった次女の※※は、収容所に入ると同時に呼び出され、惣慶にあった米軍の野戦病院で働かされました。長女も看護助手として、呼び出されましたがその仕事は、傷ついた日本兵の傷口にたかる蛆を取り除くことでした。こうした労働に対しては、一個か二個余分のおにぎりが支給されていましたが、長女は一日でやめてしまいました。

 たまたま、大久保の浜の近くに祖母の遠縁の人が住んでいるのが分かり、母はそこで大きな鍋を借り、塩水をくんできて一日煮詰めて食塩を作り、これでイモや野菜などの食料と交換したりしていました。

 米軍は、伝染病予防のため、毎日収容所の上空や近くの川の上にセスナ機でDDTを散布していましたが、トイレは、広場に細長い穴を何条か掘り、ソテツの葉を周辺に立てただけのもので、三日程度で一杯になると、別の所に穴を掘るというもので、とにかく生活環境は劣悪でした。< 中略 >

 そのうち、名護や恩納などの米軍のゴミ捨て場には、缶詰などの食料品が沢山あるというので、私も友達数人と密かに金網をくぐり抜け、山越えして恩納まで行ったことがあります。山中には、まだ日本軍が残っていたのでしょう、米軍が山狩りをしていました。彼らは、子供が山中を歩いてもどうもせず、ガムなどを与えていました。当時米兵は、子供を見るとトラックの上からよく「バッド・トウジョウ」(東条の悪者)と叫び、これをまねるとお菓子をくれていました。私たちは、米兵の集団と出会うたびに「バッド・トウジョウ」といっていました。「鬼畜米英」が「バッド・トウジョウ」に変わっていました。

 半日かけて、命がけで山越えしてきたものの、恩納では食料を手に入れることはできませんでした。やむなく野菜代わりになるイモのツルを一抱え、肩に乗せて帰ることにしました。途中の山中で米軍の動きがおかしいので、ひるんでいると銃を向けて「早く行け」と身振りで私たちを追い立てました。走ってその場を逃れ、しばらくして振り向くと、二十歳ぐらいの娘とその母親らしい人が口を押さえられ、数人の米兵に茂みの中に連れ込まれるのが目に入りました。しかし、私たちにはどうすることもできません。私たちは、ただ黙々と急ぎ足で逃げるほかありませんでした。あの母娘は、その後生き延びたか死んだのか、今でも気がかりです。そして、米兵の暴行事件があるたびに、あの光景が鮮やかに蘇ってきます。

 沖縄での組織的な戦闘が終結した六月末から七月のはじめ頃、二重金網の中に収容されて労働させられていた男性も解放され、家族と生活するようになりました。炊き出しによる食糧支給もなくなり、米や缶詰などの配給があり、各家庭で食事を作るようになりましたが、宜野座の食糧事情はよくありませんでした。

 石川にいた親戚や読谷出身者の話では、石川は十分な食糧の配給があるということでした。しかし、当時収容所間の移動は禁じられていました。そこで私たちは、石川にいる親戚からの呼び寄せの申請を出してもらい、ようやく石川への移動が認められ、一九四五年(昭和二十)の年の瀬も押し迫った十二月末に大久保の収容所を出て石川に向かいました。

 移動証明書を手にした私たちは、早朝に大久保を発ち、夜遅く石川に到着しました。石川には、親戚や親志の人たちも大勢おり、それに読谷山岳を隔てて古里読谷があると思うだけで嬉しさが込み上げてきました。

 石川は、当時沖縄の民政の中心となっていたせいか、配給物資も宜野座に比べると多かったような気がします。また、石川では、軍作業などへの動員があり、働くとタバコや食料品などの支給があったようです。それに「戦果」と称し、米軍物資を隠して持ち帰ることもできたようで、宜野座と比べてはるかに物資は豊富でした。

 しかし、戦前の一部落に過ぎなかった石川に、三万人を越す人たちが収容されていたので、住宅事情は同じく劣悪で、私たちが割り当てられたのは、米軍テントで、すでに入っていた三所帯のなかに割り込む形で、四〇人ほどが一つのテントで暮らすことになりました。

1946年8月になってようやく読谷の一部が開放されるようになり、各地に散らばっている村民は、ふるさとに帰れるようになりました。村民は村建設隊を結成し、みんなで力を合わせて戦災で荒れ果てた村の復興に取り組みました。しかし、親志は米軍の弾薬庫になっていて自分の土地、家に帰ることはできませんでした。親志の人たちは、高志保や波平などに仮住まいするよう割り当てがありました。< 中略 >

親志は、戦後五十数年が過ぎた今でも米軍基地として接収され、一人として自分の土地に帰ることはできません。わが家は、高志保に移って間もなく、今度は波平に移されることになりました。しかし、そこも長くは住めず再び座喜味に移ることになりました。ここで初めて、戦前の親志の人たちが集まり、集落を復活させることができ、現在まで続いております。当初は、親志に最も近い現在の国道五十八号(当時は軍用道路一号線と呼ばれた)に面する村有地が割り当てられたのですが、軍用道路沿いは米軍の女性への暴行など治安面で不安ということで、主要道路から奥に入った現在地に変更して住むことになりました。

 当時は、誰もがこの地は仮の住まいで、それほど遠くない時期に自分の土地に帰れるものと信じていたのですが、現在でも親志は全体が米軍の基地として使用され、自分の土地に戻れません。戦争のために財産を奪われた親志の人たちにとって戦後はまだ終わらないのです。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 子どもたちの証言

 

  

郵便の復活

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きょう、新聞が住民待望の郵便の復活を伝えました。

当時の1通の手紙。残っているのはこの封筒のコピーだけです。終戦直後、貨幣経済は崩壊していたため、郵便は無料で、切手は貼られていません。戦禍で街も破壊されたため、住所は戦前の番地制ではなく、区や班という表記になっています。

当時の郵便事情に詳しい當銘由八郎さん「(内容は)ほとんどが安否確認だと思います。というのも、散り散りばらばらになって生きてるかどうかわかりませんので」

65年前のきょう、うるま新報に「手紙が出せます」という見出しが踊りました。8月に沖縄諮詢会が発足した際、住民からは離れ離れになった家族の安否が知りたいという声が多く寄せられたといいます。そして、翌月。本島と周辺離島で戦後の郵便が復活しました。

當銘さん「多分(住民は)嬉しかったと思いますね。安否確認ができますので」手紙は軍政下にある為、検閲を受けるなど、制限の多いものでしたが、それでも家族や知人の無事を知ることのできた住民の喜びはとても大きかったといいます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年9月6日(木)

 

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死ぬこと、それ自体が「崇高な目的」になっていた日本の戦争

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「母親のしたたかさで生き延びて」 馬場 當さん(シナリオライター)|NHK 戦争証言アーカイブス