〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月20日 『見せしめのために殺す』

久米島住民虐殺沖縄諮詢会の発足

 

米軍の動向

f:id:neverforget1945:20190806040325p:plain

《AIによるカラー処理》夜間戦闘部隊の新生タイガーキャット飛行中隊(VMF(n)533)の副隊長、ビービー少佐(ミネソタ州出身)。彼は太平洋戦での2回目の遠征である。彼の強力な新生タイガーキャット(F7F)は、夜間パトロールの準備をしている。(1945年8月20日撮影、金武滑走路)

Executive officer of the new Tigercat squadron (VMF (n) 533) of Marine night fighters, Major John W. Beebe, 27, of 31 Lake Avenue, White Bear Lake, Minn., is on his second tour of Pacific duty. His plane, one of the hard-hitting new Tigercats (F7F) is shown being readied for night patrol.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

慶良間諸島 - 下山し投降する兵士たち

阿嘉島渡嘉敷島では引き続き投降交渉が行われていた。

f:id:neverforget1945:20200820043811p:plain

投降する日本兵(1945年8月20日撮影、慶良間列島

Jap soldiers surrendering at Kerama Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200820044011p:plain

投降する日本兵(1945年8月20日撮影、慶良間列島

Jap soldiers surrendering at Kerama Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

久米島住民虐殺事件 ④ 谷川一家7人虐殺

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

f:id:neverforget1945:20190819161948p:plain

友軍の手下となって友軍に情報を提供した人はもう全部死んでいないですから。今だからその辺まで言えるということです。戦争というのは、そういうところが一番怖いところだと。口に出せない、話せない怖さがあると。話せないぐらい怖いものだって知ってもらいたいんです」

特集 島は戦場だった 封印解いて語る思い – QAB NEWS Headline

 https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/neverforget1945/20200628/20200628051239.png

昭和17年ごろ谷川ウタさんが久志の実家に送った親子の写真

最後に、谷川昇という朝鮮釜山(プサン)出身の行商人の一か8人が衆人環視の中で虐殺された。

谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかではない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるい朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。

当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。

8月20日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵約10名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子供を抱えてきて父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くてふしもぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられていたので、私たち地元の警防団員は、涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声はいまも耳に残っているようです」

《「沖縄戦の真実と歪曲」(大城将保/高文研) 133-134頁》

なんで朝鮮人だからと、このような目に合わなければならないのでしょうか。朝鮮人が何かわるいことをしたのですか

知念カマド『谷川ウタは私の娘』

 『…1943年から住みついた朝鮮出身の谷川昇(具仲会)さんという人は、沖縄出身のウタさんと結婚し谷川姓になったと書かれている。夫婦の間には10歳、7歳、5歳、2歳、そして生後数か月の赤ん坊がいた。ウタさんは国防婦人会に入っていた。< 中略 >

8月20日、谷川さんがスパイとして、処刑されるといううわさが島内に広がり、鹿山隊は野良着を着て住民に変装し、上江洲の谷川家に向かった。近くの住民が急を知らせて、ウタさんは子ども2人を連れて逃げ出す。それを追ってきた兵隊が切りつけて殺したという。鹿山隊はそこから谷川家に戻り、震えていた長女と次女を連れ出し、近くの雑木林の中で首を絞めて殺した。そのあと虐殺部隊は海岸の鳥島地区に行き、次男を連れて隠れていた谷川さんの首に縄をかけて引きずって行き、息絶えていた谷川さんを護岸から突き落とし、遺体にすがって「父ちゃん、父ちゃん」と泣き叫ぶ次男を刺し殺したという(『久米島の戦争』より)

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

(投稿者註: 事件の詳細は、文献や資料によって若干異なる)

f:id:neverforget1945:20200817234451p:plain

『日本軍によって殺された島民の名前が刻まれた痛恨の碑。 』Photo by Ryuichi HIROKAWA

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

久米島具志川村農業会会長 (当時) の日記から

8月21日 (旧7月13日盆)

旧7月盆祭りを営む。

鹿山曹長の暴悪

7月の初日字北原の宮城一家族及び議員、区長計9名を凶殺してから8月18日の夜は仲村渠明勇妻子共三名を中里村字比嘉にて惨殺し、引き続き20日の夜朝鮮人親子7名を字上江洲と鳥島にて惨殺した。

鹿山曹長はそれにてもなおやまず次は農業会長をはじめアメリカ軍と接触する者等をカタッパシから惨殺するという計略ありとの内密通報するものもあるが、あらかじめ通信部隊へは当方から密偵を差しまわし鹿山の行動を監視付きにしてあった。そして万一の場合があれば島の在郷軍人を招集し米軍の援助を求め鹿山の山賊を討伐せねばならぬ状態まで近づいていたのである。

鹿山兵曹長、彼れは四国の生まれとかにて性極めて凶暴で戦地にもありながら部下を愛せず常に凶悪性を有した生意気もので一般民衆からの嫌われ者であった。ウフクビリ山頂に通信部隊として駐屯して以来、海軍本部からの支給の途が杜絶し食糧難になってからはもっぱら島民の供出物資により維持せねばならぬ状態に置かれたので、両村では両村農業組合の協力により補給することになったのである。

然るに駐屯地が具志川村に近く地理的関係から鹿山は具志川農協組合にすべてを求め仲里村では何等の交渉もないというわけで具志川村の負担が甚だ過重となった。それで再三におよび仲里村農業組合と五分五分に負担させてもらうよう交渉したが、横暴な鹿山は、命令だ、軍の都合により供出させるのだ、具志川に物資がなくなったら仲里に要求するから軍の命令に従うべしと抜かして応じない。そのため具志川農業組合は飯米の提供、諸野菜類及牛豚肉、鶏肉、鶏卵に至る彼等の要求に応じるには火の車になって組合職員がテンテコマイしている。それも最初の一ヶ月は計算に現金支給をなしたが、2ヶ月目からは脅迫されて無償供出ということになり、組合は赤字だらけで組合の維持にさえ困難をきたしていた。鹿山兵曹長はそんなことには無頓着で一日組合の退避先なる西銘の仮事務所に来たりて曰く、

戦争は日に悪化し供出に困るだろう。民衆から取り立てに困難なら軍自体で徴発するから現金3万円程供出したらどうか。若し君らがこれに応じかねるなら銃弾と交換しても良い、と日本刀仕込みの軍刀に手をかけ脅迫をなした。

居合わせた仲村渠昌高訓導その他二三人がスワ一大事と色をなし逃げさったが、私はかくのごとき脅迫には応ぜなかった。

銃弾を送るなら送れ、日本刀が飛ぶなら飛べ、軍が島民と共に苦しみ最後まで協力して戦い抜くと言うならともかくだが、島民を搾り軍だけが米食肉食を続け、あげくは凶暴に出るなんて死すとも民衆のため斯くのごときの暴行には従わなぬいう決意が読めたのか、抜刀斬り付けんばかりの彼れの手は軍刀つばを離れ、覚えていれ、と陰険な台詞を残して無言のまま立ち去った。

ところが同行してきた青木兵曹だけは去らず居残っていて真に相すまぬという表情であいすまぬという表情で吉浜様、吉浜様誠に済みませんがよろしくお願いいたします、私は食料の係ですから実は自分の貯金まで引出して使い尽くしたのです。鹿山はあんな性格だから地元の事情なんかで話せる人間ではないのですと、…(中略)…

青木氏は立派な態度で帰ったが性極めて暴悪な鹿山は自らは一婦女子を携え山間を逃げ回りながら、部下には切り込みを強要し、数日帰らない一兵曹を自ら殺害するほか、北原の住民宮城、比嘉の家族及び議員区長団長ら9名を一時に殺害する等、その凶暴は実に言語に絶するもので、さらに仲村渠の妻子3名朝鮮人家族7名の幼児等を殺害せる凶悪は史上永遠に残る皇軍の汚名と言わねばならぬ。

「戦時日記(抄)」久米島具志川村農業会会長の証言

f:id:neverforget1945:20190819172928p:plain
朝鮮人の父親の一家が虐殺されたとき、女の子たち2人がここに連れてこられて殺された。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN 

 

久米島の離島残置工作員「上原敏夫」の戦後

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

そのとき、住民は・・・

沖縄諮詢会の発足

f:id:neverforget1945:20190808085315p:plain

終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します

1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。日本の無条件降伏が決定した8月15日、アメリカ軍は各地の捕虜収容所から住民の代表120人余を石川に集め、敗戦を知らせるとともに、沖縄諮詢会発足を命じます。

沖縄戦による沖縄県庁解体後、最初の行政機構です。当時の会議録には「一日も早く各自の家に帰って生活したい」「一層教育上にもご留意」など、住民の切実な思いが記されてます。戦後沖縄の政治・経済・教育・文化の出発点となった沖縄諮詢会。戦火を逃れた建物は現在も戦後復興の歴史を物語る記憶とともに、ほぼそのままの形で残っています。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月23日(木)

1945年(昭和20)8月20日、沖縄島中部にある石川(現うるま市石川)で沖縄諮詢会が発足しました。軍政は「戦闘」から「駐留」の段階に移っており、米軍政府は、住民代表で構成する諮問機関の設置を急ぎました。
ポツダム宣言受諾により日本が無条件降伏した1945年(昭和20)8月15日、沖縄の米軍政府は、全島39カ所の収容地区から124名の住民代表を石川に招集し、仮沖縄人諮詢会を開催しました。沖縄諮詢会委員候補24名が選ばれ、さらに8月20日15名の委員が選挙されて、沖縄諮詢会が発足しました。

f:id:neverforget1945:20180802122331p:plain

 沖縄諮詢会の施設には、戦火を逃れた民家が使われました。左の写真は今も残る沖縄諮詢会堂跡。[2006年(平成18)3月13日撮影]

f:id:neverforget1945:20180802122408p:plain
右の写真は、沖縄諮詢会堂前での沖縄諮詢会委員の集合写真。前列左から3人目が委員長の志喜屋孝信。『軍政期の写真・スライド』より【0000036621】

 沖縄諮詢会は、米軍政府と住民との橋渡し役として、食糧配給や土地所有権認定措置法案、戸籍法の整備、旧村への住民移動、教育・公衆衛生、人口調査、初めて婦人参政権を認めて実施した市長および市議会議員選挙など、行政の基盤となる事業に取り組みました。

1945年8月20日「沖縄諮詢会」発足 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

書籍紹介

沖縄戦の真実と歪曲 [ 大城将保 ] 楽天ブックス 1980円