〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月20日 『見せしめのために殺す』

久米島住民虐殺沖縄諮詢会の発足

米軍の動向

金武飛行場は後にキャンプ・ハンセンとなる。

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Executive officer of the new Tigercat squadron (VMF (n) 533) of Marine night fighters, Major John W. Beebe, 27, of 31 Lake Avenue, White Bear Lake, Minn., is on his second tour of Pacific duty. His plane, one of the hard-hitting new Tigercats (F7F) is shown being readied for night patrol.

夜間戦闘部隊の新生タイガーキャット飛行中隊(VMF(n)533)の副隊長、ビービー少佐(ミネソタ州出身)。彼は太平洋戦での2回目の遠征である。彼の強力な新生タイガーキャット(F7F)は、夜間パトロールの準備をしている。(1945年8月20日撮影、金武滑走路)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

慶良間諸島

住民や朝鮮人軍夫の虐殺が続いた慶良間諸島8月16日、赤松隊は投稿勧告文を持たされた住民をスパイとして処刑したが、その翌日から米軍との投降交渉を始めた。

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投降する日本兵(1945年8月20日撮影、慶良間列島

Jap soldiers surrendering at Kerama Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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投降する日本兵(1945年8月20日撮影、慶良間列島

Jap soldiers surrendering at Kerama Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

久米島住民虐殺事件 ④ 谷川一家7人虐殺

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

8月20日、10歳、7歳、5歳、2歳、生後数か月の赤ん坊を含む谷川一家7人の惨殺。

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昭和17年ごろ谷川ウタさんが久志の実家に送った親子の写真

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「友軍の手下となって友軍に情報を提供した人はもう全部死んでいないですから。今だからその辺まで言えるということです。戦争というのは、そういうところが一番怖いところだと。口に出せない、話せない怖さがあると。話せないぐらい怖いものだって知ってもらいたいんです…

特集 島は戦場だった 封印解いて語る思い – QAB NEWS Headline

谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかではない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるいは朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。

当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。

8月20日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵約10名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子供を抱えてきて父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くてふしもぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられていたので、私たち地元の警防団員は、涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声はいまも耳に残っているようです」

《「沖縄戦の真実と歪曲」(大城将保/高文研) 133-134頁》

…1943年から住みついた朝鮮出身の谷川昇(具仲会)さんという人は、沖縄出身のウタさんと結婚し谷川姓になったと書かれている。夫婦の間には10歳、7歳、5歳、2歳、そして生後数か月の赤ん坊がいた。

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

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『日本軍によって殺された島民の名前が刻まれた痛恨の碑。 』Photo by Ryuichi HIROKAWA

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

デマと虐殺

当時、農林学校の学徒の証言

谷川さんは島の人に慕われていた。ナービナクーをしてあちこち回っていたから。中には彼が朝鮮人だということで嫌いな人もいるわけで、その人たちが作り話で噂を立ててそれが、山の兵隊鹿山に伝わったのだ。久間地にも住んでいててよく知っていたので谷川さんの家族殺害のことはあまり話したくなかった。彼は決してスパイではなかった。

2、3人の兵隊が谷川昇さんを隠れていた家から引きずり出してきて護岸の方へ首に縄をかけて引っ張っていった。僕は殺すところは見なかったが、鳥島の青年たちに聞いたのだが首を絞めて殺し護岸から突き落としたらしい。遺体は鳥島の警防団と青年団が片付けたそうだ。谷川昇さんを殺した後そこから引き返して字上江洲に行った。家には妻と子供たちがいた。兵隊たちが誘いだしたらびっくりして、妻は子供を負ぶって逃げた。ンジュノハタ(溝の端)、當間さんの家の前に灌漑用の溝があり、小道が通っていて傍にガジマルの木があった。今もあるかもしれない。その下に母子をつれてきた。電信長は日本刀を持っていた。ワラに包んで肩にかけていた。刀を抜いて後ろからばっさり袈裟切にした。そこから再び谷川さんの家にいった。女の子が2人いて、兵隊が、お父さん、お母さんのところに連れて行ってやるからと連れ出し、今度は山里の方へ行った。… 女の子たちの遺体は山里の青年団が片付けた。母親と子供は、久間地の青年団が片付けた。

「谷川一家虐殺事件」久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』 インパクト出版会 (2021) 33-34頁 》 

なんで朝鮮人だからと、このような目に合わなければならないのでしょうか。朝鮮人が何かわるいことをしたのですか

知念カマド『谷川ウタは私の娘』

スパイリストを作り、また16歳の少女を連れまわしていた。

久米島具志川村農業会会長 (当時) の日記から

8月21日 (旧7月13日盆) 旧7月盆祭りを営む。

鹿山曹長の暴悪

7月の初日字北原の宮城一家族及び議員、区長計9名を凶殺してから8月18日の夜は仲村渠明勇妻子共三名を中里村字比嘉にて惨殺し、引き続き20日の夜朝鮮人親子7名を字上江洲と鳥島にて惨殺した。

鹿山曹長はそれにてもなおやまず次は農業会長をはじめアメリカ軍と接触する者等をカタッパシから惨殺するという計略ありとの内密通報するものもあるが、あらかじめ通信部隊へは当方から密偵を差しまわし鹿山の行動を監視付きにしてあった。そして万一の場合があれば島の在郷軍人を招集し米軍の援助を求め鹿山の山賊を討伐せねばならぬ状態まで近づいていたのである。

「戦時日記(抄)」久米島具志川村農業会会長の証言 沖縄県史 久米島篇

 

久米島を「一植民地」と語った鹿山は、16歳の少女を連れまわしていた。

鹿山隊長は、自分は16歳の少女を連れて逃げ回り、住民に対しては「退山する者は、米軍に通ずる者として殺害すべし」と宣伝して、脅迫していた。住民が山を下りてしまえば、山には日本軍だけが残ることになり、そうなると米軍が徹底的に日本軍の掃討戦を行うであろうと恐れていたのだ。

「住民の避難状況」久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』 インパクト出版会 (2021) 119頁 》

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朝鮮人の父親の一家が虐殺されたとき、女の子たち2人がここに連れてこられて殺された。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN 

 

  

そのとき、住民は・・・

沖縄諮詢会の発足

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終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します

1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。日本の無条件降伏が決定した8月15日、アメリカ軍は各地の捕虜収容所から住民の代表120人余を石川に集め、敗戦を知らせるとともに、沖縄諮詢会発足を命じます。

沖縄戦による沖縄県庁解体後、最初の行政機構です。当時の会議録には「一日も早く各自の家に帰って生活したい」「一層教育上にもご留意」など、住民の切実な思いが記されてます。戦後沖縄の政治・経済・教育・文化の出発点となった沖縄諮詢会。戦火を逃れた建物は現在も戦後復興の歴史を物語る記憶とともに、ほぼそのままの形で残っています。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月23日(木)

1945年(昭和20)8月20日、沖縄島中部にある石川(現うるま市石川)で沖縄諮詢会が発足しました。軍政は「戦闘」から「駐留」の段階に移っており、米軍政府は、住民代表で構成する諮問機関の設置を急ぎました。
ポツダム宣言受諾により日本が無条件降伏した1945年(昭和20)8月15日、沖縄の米軍政府は、全島39カ所の収容地区から124名の住民代表を石川に招集し、仮沖縄人諮詢会を開催しました。沖縄諮詢会委員候補24名が選ばれ、さらに8月20日15名の委員が選挙されて、沖縄諮詢会が発足しました。

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沖縄諮詢会の施設には、戦火を逃れた民家が使われました。左の写真は今も残る沖縄諮詢会堂跡。[2006年(平成18)3月13日撮影]

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右の写真は、沖縄諮詢会堂前での沖縄諮詢会委員の集合写真。前列左から3人目が委員長の志喜屋孝信。『軍政期の写真・スライド』より【0000036621】

沖縄諮詢会は、米軍政府と住民との橋渡し役として、食糧配給や土地所有権認定措置法案、戸籍法の整備、旧村への住民移動、教育・公衆衛生、人口調査、初めて婦人参政権を認めて実施した市長および市議会議員選挙など、行政の基盤となる事業に取り組みました。

1945年8月20日「沖縄諮詢会」発足 – 沖縄県公文書館

 

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