〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月20日 『見せしめのために殺す』

金武飛行場と失われた町 / 久米島の鹿山隊 一家7人の虐殺 / 隊長たちと「戦後日本」 / 沖縄諮詢会の発足

 

米軍の動向

金武飛行場と海軍建設大隊

現在、北部やんばるの広大な土地を占有する米軍基地「キャンプ・ハンセン」の南端、施設地区は、1945年の戦時占領で建設された金武飛行場に由来する。

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金武飛行場 (Chimu Airstrip) ~ キャンプ・ハンセン (Camp Hansen) の形成 - Basically Okinawa

金武飛行場は5月6日から建設を開始し、7月1日海兵隊のコルセア戦闘機用の滑走路として稼働を開始する。住民は他の収容所に排除され、金武の町は破壊された。

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Executive officer of the new Tigercat squadron (VMF (n) 533) of Marine night fighters, Major John W. Beebe, 27, of 31 Lake Avenue, White Bear Lake, Minn., is on his second tour of Pacific duty. His plane, one of the hard-hitting new Tigercats (F7F) is shown being readied for night patrol.【訳】夜間戦闘部隊の新生タイガーキャット飛行中隊(VMF(n)533)の副隊長、ビービー少佐(ミネソタ州出身)。彼は太平洋戦での2回目の遠征である。彼の強力な新生タイガーキャット(F7F)は、夜間パトロールの準備をしている。1945年8月20日撮影、金武滑走路。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は当初、金武を民間人収容所として指定していたが、護郷隊の襲撃や飛行場建設のために住民は6月20日に北部の収容所に移送されている。その後の金武町の様子をシービーズは以下のように記録している。

【訳】(4月28日) 私たちは荷を下ろした海岸 (ブログ註・現在の米軍基地「金武レッドビーチ」) の近くに一時的なキャンプを設営した。数日後、私たちは人口2万人の金武町に移りましたが、そのほとんどが老人と子供のようでした。私たちが到着してから数日後、金武の子供たちは、文字通り大群で、私たちからタバコや食糧をむしり取り、通り過ぎるトラックに向かって「ハバ、ハバ」と叫びました。

7月までに(註・6月20日)、私たちが「グーク」※ と呼んでいた沖縄人が島の北部に移住させられ、町は私たちの隊員と重機によって破壊され、ゴーストタウンになった。瓦礫の山だけが残った。

第40海軍建設大隊 (40th NCB) と金武飛行場 - Basically Okinawa

※ Gook (グーク) とは、主にアジア系住民を示す蔑称。オックスフォード英語辞典 (OED) は、その語源を「不明」としているが、歴史的に米軍兵士によって使用され、米軍が戦場で出会う異質な他者としての住民、つまり時系列的にフィリピン人、沖縄人、日本人、韓国人、ベトナム人、に対して広くこの言葉を使ってきたという歴史がある*1

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【訳】私たちは「グーク」の労働力すら利用する。石灰岩の丘は爆破され滑走路の舗装に使われる。

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【訳】給油スタッフとグーク

第40海軍建設大隊 (40th NCB) と金武飛行場 - Basically Okinawa

 

第32軍の敗残兵

久米島住民虐殺事件 ④ 谷川一家7人虐殺

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久米島の海軍電波探知機部隊鹿山正隊長 (兵曹長) と30人ほどの鹿山隊は、久米島で20人もの住民を虐殺している。通信基地のため、戦況はだいたい把握できていたと考えられるが、惨殺事件のどれもが、6月23日の組織的戦争の終結後、そして8月15日の日本の終戦後に連続しておこっている。

8月20日、鹿山隊は10歳、7歳、5歳、2歳、生後数か月の赤ん坊を含む谷川一家7人の惨殺事件をおこす。

昭和17年ごろ谷川ウタさんが久志の実家に送った親子の写真

終戦」を知りつつ、島を日本刀と惨殺の恐怖で支配した離島の日本軍。

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「友軍の手下となって友軍に情報を提供した人はもう全部死んでいないですから。今だからその辺まで言えるということです。戦争というのは、そういうところが一番怖いところだと。口に出せない、話せない怖さがあると。話せないぐらい怖いものだって知ってもらいたいんです…

特集 島は戦場だった 封印解いて語る思い – QAB NEWS Headline

谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかではない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるいは朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。

8月20日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵約10名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子供を抱えてきて父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くてふしもぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられていたので、私たち地元の警防団員は、涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声はいまも耳に残っているようです」

《「沖縄戦の真実と歪曲」(大城将保/高文研) 133-134頁》

琉球放送 戦後70年の地平から「久米島での住民虐殺」 - YouTube

幼い子ども5人を殺す。家族全員を皆殺しにするのは証拠隠滅もねらう軍のやり方だ。

2、3人の兵隊が谷川昇さんを隠れていた家から引きずり出してきて護岸の方へ首に縄をかけて引っ張っていった。僕は殺すところは見なかったが、鳥島の青年たちに聞いたのだが首を絞めて殺し護岸から突き落としたらしい。遺体は鳥島の警防団と青年団が片付けたそうだ。谷川昇さんを殺した後そこから引き返して字上江洲に行った。家には妻と子供たちがいた。兵隊たちが誘いだしたらびっくりして、妻は子供を負ぶって逃げた。ンジュノハタ(溝の端)、當間さんの家の前に灌漑用の溝があり、小道が通っていて傍にガジマルの木があった。今もあるかもしれない。その下に母子をつれてきた。電信長は日本刀を持っていた。ワラに包んで肩にかけていた。刀を抜いて後ろからばっさり袈裟切にした。そこから再び谷川さんの家にいった。女の子が2人いて、兵隊が、お父さん、お母さんのところに連れて行ってやるからと連れ出し、今度は山里の方へ行った。… 女の子たちの遺体は山里の青年団が片付けた。母親と子供は、久間地の青年団が片付けた。

「谷川一家虐殺事件」久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』 インパクト出版会 (2021) 33-34頁 》 

デマと差別が虐殺を生む。米軍に病気の子どものための薬をもらいに行った。それで「スパイ」とみなされた。

当時、農林学校の学徒の証言

谷川さんは島の人に慕われていた。ナービナクー(註・行商の鍋直し屋)をしてあちこち回っていたから。中には彼が朝鮮人だということで嫌いな人もいるわけで、その人たちが作り話で噂を立ててそれが、山の兵隊鹿山に伝わったのだ。久間地にも住んでいててよく知っていたので谷川さんの家族殺害のことはあまり話したくなかった。彼は決してスパイではなかった。

「谷川一家虐殺事件」久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争―私は6歳のスパイ容疑者』 インパクト出版会 (2021) 33-34頁 》 

なんで朝鮮人だからと、このような目に合わなければならないのでしょうか。朝鮮人が何かわるいことをしたのですか

知念カマド『谷川ウタは私の娘』『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 久米島編

鹿山隊は、スパイリストを作り、ほかの住民も惨殺する計画を立てているとの情報があった。鹿山は16歳の少女を「愛人」として連れまわしていた。

久米島具志川村農業会会長 (当時) の日記から

8月21日 (旧7月13日盆) 旧7月盆祭りを営む。鹿山曹長の暴悪

7月の初日字北原の宮城一家族及び議員、区長計9名を凶殺してから8月18日の夜は仲村渠明勇妻子共三名を中里村字比嘉にて惨殺し、引き続き20日の夜朝鮮人親子7名を字上江洲と鳥島にて惨殺した。鹿山曹長はそれにてもなおやまず次は農業会長をはじめアメリカ軍と接触する者等をカタッパシから惨殺するという計略ありとの内密通報するものもあるが、あらかじめ通信部隊へは当方から密偵を差しまわし鹿山の行動を監視付きにしてあった。そして万一の場合があれば島の在郷軍人を招集し米軍の援助を求め鹿山の山賊を討伐せねばならぬ状態まで近づいていたのである。

「戦時日記(抄)」久米島具志川村農業会会長の証言 沖縄県史 久米島篇

 

隊長たちの「戦後日本」

戦後、米軍占領下で久米島の犠牲者の遺族は鹿山の住民殺害を警察に告発したが、鹿山らが捜査の対象になることはなかった。1972年、沖縄復帰を目前に、日本のメディアが鹿山事件を一連の記事にしたことで、世間の注目を浴びる*2。その際、取材に対し、久米島を「いち植民地」と語った鹿山は、戦後もやってきたことに誇りを持ち、そのことに良心の呵責はないと主張。

「島は小さかったが食糧はあった。言葉は琉球語であるが、日本教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地である」

… 鹿山正元海軍兵曹長は「わしは悪いことをしたとは考えてないから、良心の呵責もないよ」「日本軍人として当然のことをやったのであり、軍人としての誇りを持っていますよ」と軍隊口調で平然と語っていた。

《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) P.127-137》

鹿山隊は住民に「突撃命令」すら下す。命令を受けた与那さんら40人がカマを持ち集合。不審な動きに米兵が発砲した。命からがら山に逃げた。「鹿山はひきょう者。自分は山に隠れて、住民を見張り、特攻もさせた」。吐き捨てた。72年、週刊誌の取材に鹿山は語った。「スパイ行為に厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に島民にやられる。島民を掌握するためにやった。良心の呵責もない

戦わぬ軍、住民スパイ視 1945年・久米島「鹿山隊」20人虐殺(上)【心縛「共謀罪」と沖縄戦・12】 | 沖縄タイムス

また国会でも瀬長亀次郎喜屋武眞榮がこうした沖縄での明らかな戦争犯罪に国として向き合うよう質疑するが、扇情的にメディアに取り上げられた後、なんの公的な調査はなく、「植民地」で「日本軍人として当然のことをやった」という鹿山が、どんな「植民地」でどんな戦争をしてきたのか。沖縄に移駐する前も含めて、どれだけの民間人を殺してきたのか、明らかにされることがないまま、国として戦争責任に向きあうことはなかった。

喜屋武眞榮の質問に対して委員長は 

簡単に願います。質問だけ、簡単に願います。

第68回国会 参議院 予算委員会 第5号 昭和47年4月5日

第32軍司令官の自刃以降に10名、「玉音放送」後にも10名の住民を惨殺しながら、なんの記録もされず問題にも問われず、復員して地方の農業団体役員を務めていた鹿山。一方で、鹿山隊に「徴発」された16歳の少女は、その後、鹿山の子どもを産み、母子ともに、安心して住める居場所も、幸せな人生も奪われる。

久米島で鹿山隊に虐殺された人たちの遺族は、いま遺族会をつくって、政府への慰謝料要求と新日本軍(自衛隊)の沖縄入り反対の運動を始めている。しかし、このような遺族会の声に、責任ある回答はまだなにもない。

沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかね。日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ。」

「現地妻が告白する『沖縄の怨』」『サンデー毎日』(1972年6月4日) - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

沖縄諮詢会の発足

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終戦から5日後、沖縄に初めて住民による行政組織・沖縄諮詢会が設立します

1945年8月、戦闘終結が近づくにつれ、アメリカ軍政府は「戦闘」状態から「駐留」の段階に移ります。日本の無条件降伏が決定した8月15日、アメリカ軍は各地の捕虜収容所から住民の代表120人余を石川に集め、敗戦を知らせるとともに、沖縄諮詢会発足を命じます。

沖縄戦による沖縄県庁解体後、最初の行政機構です。当時の会議録には「一日も早く各自の家に帰って生活したい」「一層教育上にもご留意」など、住民の切実な思いが記されてます。戦後沖縄の政治・経済・教育・文化の出発点となった沖縄諮詢会。戦火を逃れた建物は現在も戦後復興の歴史を物語る記憶とともに、ほぼそのままの形で残っています。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月23日(木)

1945年(昭和20)8月20日、沖縄島中部にある石川(現うるま市石川)で沖縄諮詢会が発足しました。軍政は「戦闘」から「駐留」の段階に移っており、米軍政府は、住民代表で構成する諮問機関の設置を急ぎました。
ポツダム宣言受諾により日本が無条件降伏した1945年(昭和20)8月15日、沖縄の米軍政府は、全島39カ所の収容地区から124名の住民代表を石川に招集し、仮沖縄人諮詢会を開催しました。沖縄諮詢会委員候補24名が選ばれ、さらに8月20日15名の委員が選挙されて、沖縄諮詢会が発足しました。

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沖縄諮詢会の施設には、戦火を逃れた民家が使われました。左の写真は今も残る沖縄諮詢会堂跡。[2006年(平成18)3月13日撮影]

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右の写真は、沖縄諮詢会堂前での沖縄諮詢会委員の集合写真。前列左から3人目が委員長の志喜屋孝信。『軍政期の写真・スライド』より【0000036621】

沖縄諮詢会は、米軍政府と住民との橋渡し役として、食糧配給や土地所有権認定措置法案、戸籍法の整備、旧村への住民移動、教育・公衆衛生、人口調査、初めて婦人参政権を認めて実施した市長および市議会議員選挙など、行政の基盤となる事業に取り組みました。

1945年8月20日「沖縄諮詢会」発足 – 沖縄県公文書館

8月20日志喜屋孝信が沖縄諮詢会の委員長に選出される。

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Q+リポート 地元の歴史を学ぶ「志喜屋孝信物語」 – QAB NEWS Headline

志喜屋が校長を務めた県立第二中学校や開南中学校の学徒では、多くの学徒が戦死した。二中で動員された学徒140人中114人が、また開南中学で動員された学徒71人中67人が戦死している。8月にはまだ「終わらない戦場」で敗残兵として壮絶な潜伏生活を送っている学徒も少なくなかった。

※ 開南中学の動員/戦死者数が不明とされている件については 8月19日を参照。

出典:  沖縄県沖縄戦に動員された21校の学徒隊」pdf

こうして、沖縄の8月20日沖縄諮詢会発足といえども、文字通りそれぞれがそれぞれの場所で社会的に切り裂かれ寸断された状態におかれていた。

 

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