阿嘉島の投降交渉 / 久米島の最初の犠牲者 / スパイと間違えられるひめゆり学徒 / ハワイへの捕虜の移送 / 本部半島住民の強制移送
米軍の動向
米軍司令官、第32軍の摩文仁司令部壕を視察する。
Gen. Stilwell (center) talks to Marine and Army Generals after inspecting cave in hill #89 which was Japan's 32nd Army General Command Post ( LtGen Ushijima). The cave's mouth can be seen in the background.【訳】日本陸軍第32軍総司令部(牛島中将総司令官)の置かれた89高地 (投稿者註: 摩文仁の丘) の壕を視察した後、海兵隊や陸軍の司令官と話すスティルウェル大将(中央)。背後にその壕の入口が見える。1945年 6月27日撮影
〝沖縄〟という米軍基地の建設
軍港の工事が各所で進む。
港湾開発工事がはじまったのは4月末で、まず中城湾の勝連半島に1500メートルの鉄舟桟橋をつくり、同じく金武湾、牧港、比謝川河口にもつくった。6月末には与那原にも240メートルの鉄舟桟橋が建設中だったが、それと同時に、恒久的な桟橋工事も並行して行われていた。
那覇港と那覇市 - 旧那覇市中心部は戦後長らく米軍の管理下に置かれ立ち入り禁止区域となった。また那覇の港湾施設は那覇軍港として今に残る。
那覇では、6月に入ってから、港湾の片づけを開始したが、那覇港が主要港として使用されるようになるまでには、数ヵ月を要するとみられていた。
Aerial view of ordnance area at Naha, looking west.【訳】那覇の補給地区。西向きの写真。(1945年6月27日撮影)
与那原飛行場 - 日本軍が建設途中で放棄した西原飛行場には「与那原飛行場」と米海軍基地「バックナービル」が建設予定。東海岸は米海軍の拠点となる。
Aerial view of ordnance area near Yonabaru, looking south.【訳】与那原の補給地区。南向きの写真。1945年6月27日撮影
「鉄の暴風」の残骸
Empty brass shells gathered for salvage.【訳】廃品回収された真鍮製の空薬莢(やっきょう)撮影地 与那原 (1945年)
読谷村残波岬 (ボーローポイント) 読谷村の全域が米軍基地として占領され基地化された。
An anti-aircraft artillery seachlight on Point Bolo. In the background is the Mark-20 early warning radar emplacement of Battery G, 2nd Anti-Aircraft Artillery Battalion.【訳】残波岬 (ボーローポイント) の高射砲サーチライト。後方に見えるのは第2高射砲兵大隊G中隊の20型早期警戒レーダーの砲座。1945年6月27日撮影
名護と本部半島からも、下記に見るように6月17日から住民が排除され基地化される。
米陸軍: SCR 584 and Mark-20 rader emplacements of Battery C, 8th Antiaircraft Artillery Battalion, south of Nag Wan.【訳】 名護湾の南側にある第8高射砲兵大隊C中隊のSCR584と20型レーダー。1945年 6月27日
第32軍の敗残兵
阿嘉島での投降交渉 - 染谷少尉の活躍
阿嘉島(あかじま): 海上挺進第2戦隊(野田少佐 / 阿嘉島・慶留間島)
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2] に加筆
阿嘉島では住民の虐殺や朝鮮人軍夫を虐殺・銃殺し、部下の将校からも離脱が続いた野田部隊がいた。米軍は阿嘉島に潜む日本軍に武装解除と降伏を求めるため、降伏交渉団を派遣した。交渉には、3月28日にこの部隊から朝鮮人軍夫を連れて投降した染谷少尉が尽力した。
米軍の捕虜調書に記録されている染谷少尉
… 彼は、1930年代初期に大学を卒業しており、その時代は大学の自由な雰囲気が残っており、自由にものを考える時間があったという。彼は、戦前から「親米派」であるが、新時代で成長した士官らは、軍国主義に染まり国に対しては絶対服従であったと次のように述べている。
「捕虜が言うには、自分は長い間軍閥に対し反対してきた。そのため (軍閥を) 打ち倒すことが、何にも増して必要だと主張している。また自分が投降したのは、自決しても『何の意味もないからだ』と考えたからだと述べている。彼は、アッツ島やタラワ島以来一般的になった玉砕主義 (The doctrine of Death to the Last man) には反対だという。… 」
《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版2015年196-197頁》
染谷少尉らは船上から投降を呼びかけ、さらに阿嘉島に上陸し竹田少尉に直に降伏交渉の設定を提案する。染谷は既に屋嘉収容所で捕虜になっていた座間味の梅澤隊長を説得。担架にのせて交渉式に連れ出した。しかし野田隊長は投降を拒絶した。
… 6月26日午前9時、交渉団一行はウタハの浜に拡声器と黄色の旗を携えて上陸した。…午前11時頃、ついに、正装した野田少佐が2人の軍曹と数人の武装護衛兵を伴って交渉団の前に姿を現した。(188頁)
… 日米会談2日目の6月27日午前9時、交渉団は座間味島米軍守備隊から派遣された護衛兵を伴い、歩兵上陸艇でウタハの海岸に向け出発した。… 10時15分、竹田少尉と2人の軍曹からなる日本軍側の交渉団一行が現れた。しかし、その中に野田少佐の姿はなかった。… 竹田少尉は「野田少佐がこの場に直接出席できないのは残念だが」と前置きしながら、野田少佐の回答をクラーク中佐に手渡した。… 回答の内容は次のとおりだった。
1. 天皇やその代理の者からの命令が無い限り、降伏はできない。これは全軍の総意である。
中村仁勇『沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記』(2013年) - Battle of Okinawa
久米島鹿山隊住民虐殺事件 ① 有線電話保守係の虐殺
久米島: 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長)
6月26日 - 米軍はおよそ1000人の兵で久米島に上陸した。
久米島は那覇市の西方100 km の東シナ海に浮かぶ周囲48 km、人口約一万数千人の島で、 沖縄戦では米軍の作戦計画(アイスバーグ作戦)の攻撃目標からもはずされ、日本軍の守備部隊も配置されない孤立した島であったから、本来は戦争の惨劇とは程遠い平和の島のはずであった。しかしこの無防備の小島にも皇軍は存在した。鹿山正海軍兵曹長 (33歳) が率いる海軍見張隊 (電波探知隊) 35名の小隊が駐屯し、島の北部のウフクビリ山に電波探知機を設置して、付近に侵入してくる敵の潜水艦や飛行機を探知して小禄の海軍沖縄方面根拠地大本部へ通報する任務を負っていた。
《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) p.127》
この時、沖縄島南部からクリ舟で久米島に到着していた兵士は久米島の海軍部隊をこのように記述している。
沖縄島からクリ船で脱出し久米島に到着した兵士の証言
私は本島がだめになったので、再起をはかって脱出して来ましたと答えた。本島は決してだめにはなっていないぞ、貴様らは、脱走兵だなあーっと、いい放って、私たちはいやというほど殴られた。気の毒なのは二人の海軍であった。帽子をとり、火のついた煙草を頭のてっぺんにのせ、髪の毛が、ちりちり臭い出すまで焼かれていた。そのやり方が陰気で、しつこいと思った。沢田兵曹長のうしろで黙って見ていた男は目のふちが黒ずんで、あごひげを伸ばし杖を持っていたこの男は鹿山隊長であった。なんとなく暗い感じのする男であった。
6月27日 - 最初の虐殺犠牲者、安里正次郎
第一号の犠牲者は、首里出身で久米島郵便局の電話保守係として駐在していた安里正次郎さんであった。6月26日米軍上陸の情報を聞いていったん山奥の避難小屋に隠れた。暗くなるのを待って生活道具を取りに集落に降りてきて、夜が明けたら山小屋へ帰るつもりだったが、27日未明、武装米兵に取り囲まれ米軍陣地に引致された。そこで (米軍) 部隊長から日本軍への降伏勧告状を鹿山隊長に届けるように命ぜられ、拒否すれば米兵に殺されると思ったのであろう、勧告状を持って見張り隊の本部陣地へ届けたところ鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。
安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) p.131》
しかし虐殺から2日後、「自殺」前の妻にあっている人物は次のように証言している。
沖縄島からクリ船で脱出し久米島に到着した兵士の証言
私はその足で世話になった人たちに別れの拶挨をしようと、郵便局長の安里さんの住いを訪ねた。安里さんは二日前、海軍にスパイ容疑で殺されたと、奥さんは、とり乱している所であった。私を見ると、もーっとかきすがって、一緒に山に逃げてくれと哀願していた。アメリカも憎い、海軍はなお憎い、もう私にはたよれる者はいないと、わめくばかりであった。
そこへ父親が現われ、私は、明日投降するので別れの挨拶に来ました、というと、自分の息子がこうなるまでには、具志川ではたくさんの人命が、むざむざ皇軍の名で殺されています。この戦争は負けます。天皇も日本国民もみな捕虜になるはずですから、貴方は投降することを、ちっとも恥と思ってはなりません、といっていた。
私はその言葉で、気分が非常に楽になっていた。そうするうちに奥さんも気を落ちつけている様子であった。私は形見にと、時計と、ありったけのお金を置いて来た。
家族まで皆殺しにする鹿山隊が安里さんの妻に接触したかどうかは不明である。
その後も鹿山隊の住民虐殺は続く。
摩文仁の海岸 - さまよう「ひめゆり学徒」
摩文仁からたったひとりとなり、北に「突破」したら、日本兵にスパイと間違えられ、日本兵に監視された17歳の少女。
球3109野戦砲兵隊勤務の師範予科3年(17歳)
6月19日です。次は兵長が爆雷2個と手榴弾を10個位持って、壕に入って来ました。
「手榴弾は患者の枕元に1個ずつ置きなさい。あなたたち2人は2個ずつ取りなさい。」… 別に薬も渡しますので、何ですかと聞きました。患者の頭の側に置いておきなさい」と言います。毒薬でいないかと思いましたが、まさかと打ち消して言われた辺りに置いたんです。兵長は私たちが置くのを見届けてから出て行きました。その時戦車が現れたんです。2人はびっくりして、爆雷は重いので入口に置き、手榴弾だけ救急鞄に入れ、壕から飛び出し逃げたんです。海岸に辿り着いたら人がいっぱいでした。夕方海岸伝いに歩き出した時パパーンとやられたのです。キクちゃん (積徳高女 上原キク) がいません。右往左往してキクちゃんを探しました。海に浮いた死体も確かめたりして探したのです。キクちゃんの名を呼び続けましたが、それからひとり戦場を彷徨う日が始まったのです。6月27日、摩文仁海岸から海岸伝いに具志頭を敵中突破し、辿り着いたのが西原城跡です。1人で歩いていたら、スパイに間違えられてしまいました。「名前は。どこの者か。いや、スパイだろう。島尻は女スパイがいるという情報がある。お前はスパイだろう」と行動を監視しています。潜伏も兵隊が見える所でしろと言います。あげくの果ては、姉ちゃん炊事してくれとあれこれ言いつけます。言われる通りにしました。
「突破したらスパイにされた」金城豊 『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』 2004年版
兵士と共に投降した学徒。投降したら女性はひどい目にあわされると日本兵から聞いてきた彼女たちは、四面楚歌の状況に置かれていた。
病院本部壕19歳のひめゆり学徒 (師範本科2年第一外科勤務)
本部はすっかり爆破され変り果てていました。… 中から古見喜代さんが「喜舎場さん」と飛びつかんばかりに寄って来ました。 彼女も頬と腰に負傷し、皆にはぐ れ残されてしまったと言います。奥は真っ暗で見えませんが、 負傷兵5、6名。元気な兵隊4、5名。 それに宮城看護婦もいました。 拾った食べ物を皆にあげたら兵隊たちは、自分らも残飯を拾いに行こうと相談していましたが、27日早朝、壕入口で足音がし、「出て来い。 出て来い。 出なかったら火炎放射器をぶっ放すぞ」 と、 投降呼びかけが流暢な日本語で始まったのです。 兵隊たちは何度も、 女学生は出て行きなさいと勧めましたが、一緒に死にますと動きませんでした。その時兵長が、 「今裸で出るから、 弾は撃つなー」と叫びながら、 禅一本で飛び出して行ったのです。
世嘉良利子「傷ついて戦場をさまよう」ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 2004年版
ハワイ捕虜収容所への移送
日本兵の捕虜を収容した屋嘉収容所。
米陸軍: Island command prisoner of war stockade taken from guard tower. 【訳】監視塔からの島の捕虜収容所の光景。1945年6月27日
捕虜数の増大に伴い、米軍は数回に分けて沖縄出身の学徒兵と防衛隊員をハワイの収容所へ移送した。二度めの移送である27日には、屋嘉捕虜収容所から朝鮮人捕虜と沖縄人捕虜約1500人が送られた。
- 第1回目、6月10日頃・嘉手納収容所から(180人)
- 第2回目、6月27日頃・屋嘉収容所(現金武町)から沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)
- 第3回目、7月3日頃・沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)
である。こうした3回のハワイまでの移送航路は、いずれもサイパン島やテニアン島を経由し、2週間から20日間程の行程であったと考えられている。
《秋山かおり「沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所史――ホノウリウリからサンドアイランドへ」(2018年) 》
屋嘉捕虜収容所から、
米陸軍: Japanese prisoners of war are marched down the road toward dock where they will be loaded on LCM and taken to the ship which will carry them back to Hawaii.【訳】ハワイへ帰路する船に搭載される中型揚陸艇に乗せられるため、波止場への道を行進する日本人捕虜たち。1945年6月27日
炎天下のなか、トラックに乗せられている捕虜。沖縄の学徒兵の姿が多く見られる。
米国陸軍通信隊: Prisoners of war in truck at ISCOM POW stockage waiting to be taken to ships for evacuation to Hawaii.【訳】ハワイへ移送する船に連れて行かれるため、トラックで待機する島司令部捕虜収容所の捕虜たち。1945年6月27日
米軍は、17日後の7月13日、ハワイに到着した少年兵の姿を記録している。その少年兵の中には11歳の小さな子どももいた。大勢の住民の命が失われる中、更に家族とすら引き離され長期収容されたのは、彼らが日本軍の兵として徴用されたためであった。
そのとき、住民は・・・
本部半島 - 辺野古・大浦崎収容所への強制収容
米軍は本部半島の住民 (今帰仁村、伊江村、本部町) を辺野古の大浦崎収容所に移送し始めた。ひとつには、米軍の名護と本部半島の軍事化 、今帰仁の補給基地と小飛行場の建設に弊害となる住民を排除するためであったと考えられる。
米軍の本部半島での基地建設
沖縄の米軍基地 - Wikipedia / 本部飛行場と備瀬の飛行場
6月25日、平敷以西は久志村の大浦崎への疎開の命令がでた。この措置は日本本土上陸準備のため兵站補給基地を村内の海岸段丘上に設置する目的であったと思われる。この作戦で字内に残っていた民家は焼き払われ、運天港から仲宗根に至る直線的広い道路が、耕作地の中に敷設のためコーラル採取後の大きな穴が残されている。
今帰仁の平敷周辺に巨大な補給基地と小飛行場 (崎山小飛行場) が計画され、住民は辺野古の大浦崎収容所 (現キャンプシュワブ内) に強制移住させられた。
辺野古・大浦崎収容所
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米軍の撮影隊は今帰仁村平敷の住民移住を記録している。最初は撮影隊に笑顔を見せる余裕のあった住民も、翌28日、到着した大浦湾での記録写真では、疲弊した固く暗い表情となる。
米軍がキャプションに記す「新しい家」とは、大浦崎で炎天下にテントにも事欠く粗悪な収容所であった。
As the natives of Heshiki can take only as much as they can carry to their new home, they do a careful job of packing in the courtyard of their old home.【訳】新しい家へは持てるだけの荷物しか運べないので、慎重に荷物をまとめる平敷の人々(1945年6月27日撮影)
Women of the family loaded and leaving the yard to take their gear to where the trucks are loading.【訳】トラックに荷物を積むため(家の)庭を離れる一家の女性(1945年6月27日撮影)
Families loaded and bring their possessions down the road to a central loading point.【訳】荷物を持って中央荷積所に集まる家族(1945年6月27日撮影)
Natives with their gear in the foreground stand in line waiting for the trucks to take them to their new home.【訳】新しい家へ行くため列をつくってトラックを待っている地元民。手前は彼らの荷物(1945年6月27日撮影)
The truck has arrived and the men are loading the truck with gear. The women and children are waiting to go up next.【訳】到着したトラックに荷物を積む男性と、(荷物の)次にトラックに乗ろうと待つ女性と子供(1945年6月27日撮影)
All aboard truck, sitting on their bundles of clothes and rice waiting to see their new homes.【訳】衣服や米の包みに座り、トラックで新しい家へ向かう人々(1945年6月27日撮影)
米海軍の軍医が記録する辺野古の大浦崎収容所。住民を受け入れる準備が全くなされていないなか、住民が東海岸へと輸送され、放り出された。飢餓とマラリアが住民を襲うことになる。
忘れてはならないのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、四月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が浸入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。二、三日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。二か月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約二万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。
軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa
大浦崎収容所『今泊誌』より
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