〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月13日 『収容所を転々と・・・』

米軍の動向

民間人収容所 - 民間人と補給物資の移送

米軍は12の民間人収容所地区を設置し、基地建設の都合にあわせ住民を転々と移送した。

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米軍は知念半島を住民の安全地帯として指定していたが、一転、軍事拠点化するために住民を北西部の収容所へと移送し始める。知念半島には1946年10月から1949年12月まで米国軍政府が置かれ、沖縄の占領政策の中心地となった。知念補給地区 (知念キャンプ) は1974年に返還された。

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やんばるへの立ち退き

7月11日 佐敷村の収容所  540人

7月12日 玉城村垣花二区 (親豐原) 630人

7月13日 知念村知名2-3区 590人

7月15日 知念村知名・安座間 770人

8月13日 玉城村垣花一区 1400人

8月18日 玉城村垣花一区 2400人

《『南城市沖縄戦 資料編 (第2版)』南城市 (2021年) 》

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。補給物資を積むため、戦車揚陸艦にバックして入るトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Truck backing into LST for supplies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。戦車揚陸艦から補給物資が荷揚げされるのを待つトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Trucks waiting to unload supplies from LSTs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年 7月 13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年 7月 13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

瀬高収容所 「ハッピーシティー

翌7月13日新里から与那原港までトラックで運ばれ、現在の与那原中学校の下の浜から米軍の大型上陸用舟艇LSTに乗せられた。艇は、金武湾沖をとおって久志大浦湾に入り辺野古崎の海岸で下船し、ここから歩いて、久志村二見のシジンダ屋取に辿り着いた。米軍はここにハッピーシティーと皮肉な地名を付けていたようだが、東喜市という避難民収容所になった。知念村民が入る数日前に玉城村親慶原と佐敷村新里からも避難民が入っていた。…

7月13日、大浦湾周辺に瀬嵩市が誕生し、嘉陽市は嘉陽区となった。海岸近くの道路の両脇に知名、安座真の避難小屋が立ち並んでいた。山から木を切り出し共同作業で小屋を建て、土間に木の枯草の葉を敷きここに寝た。マラリアが流行し、また壕疲れの栄養失調で多くのお年寄りと子供たちがこの地で斃れ、合同墓地に埋葬された。

《『知念村史』知念村 (1994年) 》

住民の収容が開始されて間もない頃、瀬嵩地区一帯でマラリアが蔓延し多くの住民が死亡した。瀬嵩公民館に保存されている「墓地台帳」(昭和20年11月作製)には、当時の瀬嵩区の収容者(同年8月現在で人口669人)のうち、613人がマラリアや栄養失調などで亡くなっている。年齢は60歳以上と10歳以下が多く、出身地は中、南部の人がほとんどだったという(『証言沖縄戦琉球新報社参照)

読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上

 

日本の敗残兵

国頭突破の命令

生き残った兵士は北部をめざした。

8月29日まで壕に潜伏していた第24師団第32歩兵連隊の兵士

国頭(くにがみ・沖縄本島の北部)突破というのは聞いたことあるでしょう。北の方はアメリカの兵力が薄いから、そっちへ行ったらいいんじゃないかということ、山もあるしね。それがなんのね、全然石川辺はあんな狭いところでしょう?そこに敵がぞろっといるわけです。そこをどうやって、ね、そんなことは情報にないから、皆が出て行ったんですよね。動ける者は。次の朝、何時ごろかわからないけど、12~13名帰って来ましたよね。どこまで行ったと言ったら1キロぐらいしか行ってないのね。1晩中かかって。30何人で出て行って、12~13。あと半数はいなくなっちゃった。

Q:どうなったんですか。

亡くなったんだよね。発見されて、撃たれて、みんな亡くなったのね。

濱本 俊則さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3,000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。

[証言記録 兵士たちの戦争]沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

野高収容所 - 収容所を転々と・・・

野嵩収容所は住民の南部から北部への移送の中継点となっていた。

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「32」という数字が書かれたヒンプン。野嵩に残る収容所時代の貴重な戦跡だ。

この数字は野嵩の家屋が難民収容施設として使われていた頃、米軍が住居管理するために家の壁に書いた数字、いわゆる「ハウスナンバー」なのだ。このナンバーを基に収容人数の把握、食糧配給などがなされていた。今ではこの一箇所しか残っていないという。

【戦後76年 慰霊の日】戦跡を巡る② 「野嵩」 収容所設置で多くの人が行き交った過密ポイント | HUB沖縄(つながる沖縄ニュースネット)

1945年4月1日の米軍の本島上陸から数日後に民間人の捕虜収容所として設置されました。民家の母屋をはじめ、家畜小屋に至るまで収容施設として使われ、戦後初期のピーク時には、宜野湾の人だけではなく、那覇や島尻方面の人たちも含め、1万人余りの人々が収容されていました。

ぎのわん市の沖縄戦~”あの日の記憶”を語り継ぐ/宜野湾市

野嵩の収容所に行った男性の証言:

糸満近くの浜で、米軍の水陸両用戦車に乗せられ、さらに戦車もろとも沖合で上陸用舟艇LSTに乗せられ1時間くらいたったろうか。女たちは最初、このまま海に投げ捨てられると泣き、LSTに乗せられてからはアメリカに連れ去られるのではないかと泣いた。

LSTが止まり、戦車は再び海におどり出た。一体どこに連れていかれるのだろうか。外が全く見えないので皆目方向が分からない。やがて戦車が陸地に乗り上げて止まった。ここはどこだろうと見渡すいとまもなく、こんどはまた、目の前に待機している大型トラックに乗り移らされた。トラックが走り出し、しばらくして見覚えのある北谷モーシーの墓を見つけて、やっと桑江あたりに上陸したことを知った。

トラックは普天間から宜野湾街道に入り、しばらくして左折し、とある部落に入った。部落に入って人々は皆自分の目を疑った。そこにはあの島尻のような焼けただれた部落ではなく、濃い緑に包まれた昔ながらの部落があったからである。そこが、その後7ヵ月間私が収容所生活を送った宜野湾村字野嵩で、野嵩という地名も初めて聞く名であった。

トラックから見渡すと、部落の周囲は全部有刺鉄線で囲まれ、たった一か所設けられた出入口にはMPテントがあり、3、4人のMPがカービン銃を持って警戒に当たっていた。

トラックがMPテント横の広場に着くと、たちまち黒山のような人だかりができて、家族や知人を見つけた人たちが互いに呼び合い、抱き合って泣くという光景があちこちに繰り広げられた。

この光景を見て初めて自分たちよりほかにも大勢の捕虜がいること、殺されることはないということを知った。そうすると、いままで張りつめていた気もいっぺんに緩み、トラックから降りるとフラフラと道端に倒れ込み、横になった。

あおむけに寝ていると、いろいろのことが思い出されて涙が止まらなかった。つい10日ほど前の2人の肉親の無残な爆死、生き別れになった兄弟、そして、ただ一人重傷の身でここまで来たのに、この先15歳という子供の身で一体どうなるのだろうか等々、傷の痛みと不安でもう動く気力もなかった。

何時間たったろう、もう日が傾きかけていた。その間も続々捕虜になった人たちが重い足どりで頭上を通り過ぎて行った。突然「進ヤアラニ(進むじゃないのか)」と呼ぶ声がした。見上げると、私と同じ赤平町の金城さん一家が通り過ぎるところであった。これを逃しては大変と追いすがり、そのグループの後についていくと、白い腕章をした人が先導していて、着いたところは門の横の石垣に白いペンキで「104」と大書された野嵩でも北西の一番端にある家だった。

人々は家の中に上がり込むと、家族ごとや仲間ごとに場所をとり、わずかばかりの荷物を解いて収容所第一夜の支度に取りかかった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 18-19頁》

 

宜野座収容所と宜野座野戦病院

中南部から次々と収容者が送られ、宜野座村だけでも10万人余となった。収容所内の野戦病院は7月にピークを迎え、多くの民間人が亡くなったといわれる。

宜野座野戦病院 (現在の宜野座小学校周辺)

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米陸軍: Sick call for natives in dispensary at AMG hospital.

米軍政府病院の診療室で沖縄の住民のための診療呼集。(撮影地: 宜野座

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)
五月中旬頃、地元の住民と玉城村・東風平村・南風原村・大里村・佐敷村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていたが、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。難民の数は約四万人宜野座収容所には米軍の野戦病院が置かれ、収容所の女性たちは病院の看護助手として働らかされ、男性は死者の埋葬に追われた。福山の共同墓地死亡者名簿で見ると、六〇三人の死者が確認されている。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

銀原の診療所

米軍政府は、沖縄本島上陸とともに救護班を編成、戦場の傷病者を野戦病院に収容、民間人収容地区に、テント張りコンセット(かまぼこ型プレハブ)、崩れ残った民家利用などの地区診療所を設けた。ピーク時の45年7月には、北部金武村の中川、銀原の診療所に5,000人もの外来患者があり、731人が述べ997日入院した。

宜野座野戦病院

宜野座の病院では、7月10日には南部や中部の診療所から大挙移ってきた患者が、1日で1,500人のピークに達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病。外科手術をしても34%は術後死亡した。容態が悪化しているのと衰弱が原因だった。患者は一時4,000人にも達し、7割が女性だった

《「那覇女性史(戦後編)なは・女のあしあと」(那覇市総務部女性室 編/琉球新報社)46頁より》

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宜野座野戦病院では、テント張りに寝台を置いただけの病棟に、戦場である沖縄島の中南部で捕虜にした民間人(老人、婦人、子供など)が収容され、ケガや病気の治療が施されていました。野戦病院に収容された患者は、戦場で負ったケガで破傷風になった者や火傷を負った者、栄養失調で弱った者、マラリア等の病気になった者がいました。病院では1日2回の食事が出ましたが、十分な量はなく衰弱して亡くなる方もいました。このように、沖縄戦時の宜野座村地域では1日に15名程が亡くなりましたが、多い日には32名が亡くなることもあり、遺体は9か所の共同墓地に埋葬されました。

「宜野座野戦病院跡 」 沖縄の戦跡 | OKINAWAN PEARLS 沖縄総合事務局

宜野座村教育委員会の発掘調査員

あれはもう墓とは呼べません。穴の壁に背をもたれた遺骨のそばで、うつぶせ、あおむけの遺骨が折り重なっていて、投げ捨てられた状態でした。いくつかは遺骨のそばに遺品が置かれ、墓と呼べるようなものもありました。当時としては精いっぱいの弔いだったと思います。

「戦禍を掘る」取材班)1983年8月14日掲載

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宜野座村地域に収容された者の多くは、老人、婦人、子供であり、日本兵や働き盛りの若い男性の多くは、屋嘉収容所(現在の金武町)に入っていたため、墓穴を掘る作業は老人や子供が主体となっていました。埋葬の際、米軍は1つの墓穴に1人を埋めるように指示していたようですが、作業は老人や子供が担っていたため、日々、運ばれてくる遺体の数量に埋葬が間に合わず、仕方なく1つの墓穴に2人以上(多いときは4~5人)を埋めることもありました。なお、宜野座村地域で亡くなった方の多くは、老人、婦人、子供でした。宜野座村の指定文化財(歴史資料)である「古知屋共同墓地」および「福山共同墓地」の死亡者名簿には、合計で1029名の埋葬者が記載されています。

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沖縄総合事務局「沖縄戦時の共同墓地 」 沖縄の戦跡 | OKINAWAN PEARLS

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宜野座村立博物館に、村内の収容所ごとにつくられた、共同墓地に埋葬された人の名簿が残っています。

宜野座村 野戦病院共同墓地|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

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