〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月13日 『ハンセン病患者と沖縄戦』

 

米軍の動向

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。補給物資を積むため、戦車揚陸艦にバックして入るトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Truck backing into LST for supplies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。戦車揚陸艦から補給物資が荷揚げされるのを待つトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Trucks waiting to unload supplies from LSTs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年 7月 13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年 7月 13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

ハンセン病患者と沖縄戦

米軍が記録した愛楽園

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本の隔離政策

『日本のハンセン病に対する政策は、1907年制定の法律「癩予防に関する件」以来、患者を隔離するというものだった。それが1931年に全面的に改正されて「癩予防法」となり、全患者の隔離が打ち出された。ハンセン病は治療法のない恐ろしい伝染病であるから患者を隔離するという考え方で、療養所では患者に対する断種までおこなわれた。

ハンセン病は慢性の伝染病であるが、伝染力はきわめて弱く、通常の接触では感染せず、感染してもほとんど発病しない病気であり、患者の完全隔離は必要ないし、患者の人権の観点からも問題があることは当時のヨーロッパではすでに認識されていたが、日本はそれに逆行して完全隔離政策を採用した。

ハンセン病患者についての最初の全国調査がおこなわれたのは1900年であるが、このときの調査では患者数は3万359人(沖縄は547人)と報告されている。その後、患者数は減りつづけるが、沖縄では逆に増加し、1940年には全国で1万5763人と半減したのに、沖縄では1453人になっている。この時点で有病率(人口比)において、沖縄は本土の18.5倍という高い比率を示していた犀川 202、265頁)

沖縄では取り組みが遅れ、1931年宮古島に県立宮古保養院(のち宮古南静園)が、38年本部半島のすぐ側の屋我地島に臨時国立国頭愛楽園(52年に沖縄愛楽園)が設けられた。41年7月に両者とも厚生省の管轄となり正式に国立となった。43年1月末時点で県下のらい病患者は2つの療養所に収容させている者718名、未収容者624名、計1342名となっている(『沖縄県史料 近代1』416-420頁)。』(148-150頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 148-150頁より》

 

宮古南静園の開設 (1931年)

南静園についてはこちらを ▶ 1945年8月14日 『宮古の沖縄戦』

宮古島の北端近くの海岸添いに位置する宮古南静園は、1931(昭和6)年、平屋三棟による「県立宮古保養院」として開院した。当初の入所者は15人。1933(昭和8)年に「臨時国立宮古療養所」となり、1941(昭和16)年に「国立療養所宮古南静園」と改称。

太平洋戦争末期、宮古島は米軍上陸を食い止める「水際作戦」の前線地となり、島内各地に日本軍の軍事施設がつくられ、3万人の軍隊が配備された。1944(昭和19)年の「十・十空襲」(10月10日)をかわきりに宮古島および諸島が散発的な空襲に見舞われ、南静園も壊滅的な被害を受けた。南静園の職員は全員職場放棄をし、取り残された入所者たちは海岸付近の自然壕に避難したが、病気の悪化や極度な栄養失調や赤痢マラリアに苦しみ、1945(昭和20)年、その年においてだけでも110名あまりが命を落とした。園内および近辺には、日本軍が築いた機関銃壕や、銃弾跡、また入所者たちが避難していた海岸の自然壕「ぬすとぅぬガマ」などがいまも残っている。なお、戦時中に日本軍による強制収容が行われた結果、南静園には400人を超える入所者がいたとの証言もある。

終戦後、南静園は沖縄愛楽園とともに米軍政下に置かれ、再び患者の収容が強化された結果、1950(昭和25)年には入所者数は338人に増大した。

国立療養所 宮古南静園 | 日本のハンセン病療養所

 

愛楽園の開設 (1938年11月10日)

愛楽園についてはこちらを ▶  1945年7月10日『沖縄愛楽園』

『愛楽園が開設されたのは1938年であるが、それまで沖縄本島には、らい療養所がなかった。いくつかの候補地は地元の反対で挫折するが、とくに大きな社会問題となったのは1931年から32年にかけての嵐山事件だった。これは北部の羽地村嵐山(現名護市)に県が密かに療養所を建設しようとしたことに始まった。村ぐるみの反対運動は周辺の町村をも巻き込んで拡大したが、32年6月には県下の警察官が大動員されて弾圧がおこなわれ、100人以上が検挙されるまでにいたった。結局、県は療養所の建設を断念した犀川 194-195頁)。』(152頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 150-151、152頁より》

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面会室。右手に患者地帯と職員地帯を隔てていたコンクリート塀が見える(沖縄愛楽園自治会所蔵)

室内は壁によって2つの区画に分けられ、面会は壁越しに行われた。職員立ち会いの下、面会が行われることもあり、隔離されていることを実感する場面となった。また、面会後の履き物の消毒など厳重な管理下で行われ、面会者に恐ろしい病気であるかの印象を与えた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

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撤去される前の監禁室(沖縄愛楽園自治会所蔵)

1916年(大正5)に癩予防ニ関する件の法改正で療養所長に懲戒検束権が附与され、療養所内に監禁室が設置された。園長の権限で監禁室は使用され、処罰は減食、監禁などであったが、その基準は曖昧なもので、在園者から恐れられた。准看護学院建設 (ブログ注=1973年開校) により撤去されるまで存在していた。

施設紹介|国立療養所 沖縄愛楽園 National Sanatorium OKINAWA AIRAKUEN

 

日本軍による大規模収容

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日本軍の大収容(早田皓「戦時と敗戦直後の沖縄のらい」1973年)

昭和19年、あのときは兵隊さんが激しくなってね、友軍の兵隊が『兵隊のおるところに病者は置けない』と言った。『愛楽園まで行きなさい。急ぎなさい』されてね。怖かったよ、日本の兵隊よ。兵隊の靴の音聞いたらね、すぐ隠れた」

沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年、渡口忠榮さん(男性)証言)

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 / 吉川由紀 / 沖縄国際大学非常勤講師 | SYNODOS -シノドス-

『こうしたなかで沖縄戦を迎えることになった。第32軍が44年3月に創設されてまもなくの6月11日、渡辺軍司令官が愛楽園を訪問し講話をおこなった。その4日後には広池文吉軍医らが訪問している。それに前後して5月には読谷から、7月には伊江島から患者が送られてきた。飛行場建設にあたって村内にいた患者を退去させたと見られる。日本軍がハンセン病患者の問題に当初から注目していたことは間違いない。その後、8月初めに牛島司令官が着任してから事態が動いた。日戸軍医ハンセン病対策の担当となり、本島内を調査し、9月に大規模な強制収容をおこなった。各地から乱暴なやり方で連行して収容したとみられ、野良仕事をしているときに有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されない者も少なくなかったという。9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった。当時の早田晧園長も軍に在宅患者の死を求めていたようであり、従来からの内務省厚生省の完全隔離政策を、多数の日本軍が進駐してきたのを機会に一気に実現しようとしたと見られる。また軍の立場から言えば、兵士が感染して戦力が低下することを防ぐために隔離しようとしたものと見られる(『命ひたすら』にくわしい)宮古南静園でも同様に強制収容がおこなわれ、定員300人(41年時点での実員は231人)のところに400人余りが収容されたみやこ・あんなの会『戦争を乗り超えて』190頁)

日本軍の記録では、45年2月10日に南部の玉城村にいた独立混成第15連隊がl「地区内癩病患者退去命令を発」して村内の4人を退去させている(沖縄150)。この4人の名前まで記されているが、30歳、31歳、44歳、53歳の男である。彼らは愛楽園に収容されたのだろうか、わからない。この4人は前年の強制収容のさいには免れていた者たちだろう。

2つの療養所に収容された患者たちは自活を余儀なくされた。愛楽園の早田皓園長が45年3月に、遠縁にあたる第62師団長本郷中将を訪問したさいに、入園者に手榴弾を支給してもよいと申し出を受けたが、「非戦闘員である患者は当然無抵抗で対処すべきだと固辞」したという。しかし4月に米軍の砲爆撃によって65棟のうち62棟を失い、ほとんど灰燼に帰した。4月21日米軍が上陸してきたが、ここがらい療養所であることを説明すると米軍は誤爆を陳謝した。その後、米軍が食糧や建設資材を提供して沖縄戦終結前には復興しはじめたという(『命ひたすら』118-119頁)。』(150-151頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 150-151、152頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail05_img.jpg

 【沖縄戦の絵】「空襲を受ける沖縄愛楽園」

昭和19年10・10空襲で、当時国民学校6年生…が学校帰りに見た光景。昼ごろ雑木林の中を歩いていると5、6機の戦闘機が現れ、日本軍機と思って手を振ると機銃掃射を始めたので、とっさに松の木陰に隠れた。翼には米軍機を示す星のマークが見えた。戦闘機はハンセン病療養所の現在の沖縄愛楽園へ向かい、機銃を撃ちながら急降下を繰り返し、建物のセメント瓦の屋根が銃撃で砕けた。急上昇する機体からは黒い爆弾が落とされた。米軍機に憎しみを感じると同時に、攻撃のすさまじさに圧倒された。…沖縄愛楽園の自治会で入所者の証言などを集め編集している事務局によると、10・10空襲については当時の園長の手記に、爆弾の破片で2~3人が軽いケガをしたと記されているとのこと。攻撃の理由は、軍事施設と思われたのではないかとも言われているが、正確なことは分かっていない。』

空襲を受ける沖縄愛楽園 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006227/kiji1Img.jpg?uid=20170713210749

過酷な労働や栄養失調、マラリア等で多くの患者が亡くなった早田壕

沖縄愛楽園早田壕 | たびらい

 

米軍統治下の愛楽園 (1945年4月21日)

防空壕などに避難していたために米軍の砲爆撃による死者は幸い1人だけで済んだが、1945年一年間の入園者の死者が252人、入園者の27パーセントに達している。それまでの年では死亡率は数パーセント(42年2.3パーセント、43年3.3パーセント、44年6.2パーセント)にすぎなかったが、長い壕生活や栄養失調、マラリアアメーバ赤痢などによって、多くの犠牲者を出した犀川 97-98頁)

宮古南静園でも、米軍の上陸はなかったが、空襲によって施設は壊滅的に破壊され、職員が職場を放棄して避難したために、患者たちは海岸付近の壕などに隠れたが、400人あまりの患者のうち110人が飢えやマラリアなどによって死亡した(『戦争を乗り越えて』174-177頁)。直接戦火の犠牲になったわけではなかったが、社会から隔離されたなかで、多大の犠牲を出したのである。

…米海兵隊員として北部に行ったH・L・ピーターセンさんの証言によると、北部でハンセン病患者が小屋に閉じ込められていた。住民から、「誰にも感染させたくないので、小屋を焼き払いたい、しかし患者を閉じ込めたままでは焼きたくないので、患者は外に出して米軍の手で殺して欲しい」と頼まれた。住民は小屋に火を放ち、髪が垂れ下がった患者を縄で縛って連れてきた。軍医の許可を得て、米兵が射殺したという吉田健正『沖縄戦 米兵は何を見たか』148-9頁)。』(151-152頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 151-152頁より》(投稿者注: 「米兵に射殺された」という事件は、『ハンセン病差別被害の法的研究』93頁によると、吉田健正『沖縄戦 米兵は何を見たか』に記述された事件発生時期は、1945年4月とのこと。》

戦後第1期(1945〜52)は、沖縄における第3次の療養所への大規模収容が行われる時期である。その始期は、宮古群島では米軍が進駐する1945年12月であると考えることができるが、沖縄島・周辺諸島ではこの始期を確定するのは難しい。というのは、米軍が愛楽園のある屋我地島に上陸するのは1945年4月21日であり、同月27日には軍医らが愛楽園を視察して、屋我地島において療養所を維持せしめ、「隔離と治療のために沖縄のすべてのらい患者をそこに移送すること」等の5項目の勧告を行っている。同時にこの視察団は「田井等の4人のらい患者」(「4人のうち3人は前入所者であった」)を愛楽園に連行していた。記録に現れる米軍による最初期の収容である。さらに5月27日にも愛楽園の視察が行われ次の3点が報告されている。「(a) 深刻な食糧不足。これが原因でらい患者の中には沖縄本島に渡っていく者がいる。(b) 不十分な住居。その結果、500人以上の患者が依然として洞穴に暮らしており、そのため管理統制は殆ど不可能になっている。(c) 医薬品と医療器具の不足。そのため医師の診察を受けてきた患者や近隣住民の適切な治療が妨げられている」。この状況を改善するために、2日後の5月29日に食糧や医薬品が愛楽園に届けられた。

しかし!いずれにせよこの時期は交戦中であり、日本兵も愛楽園に来て食糧の提供を要求している。また、…米軍により破壊された施設内で壕生活を強いられた入所者に多数の死亡者が出たのは、十・十 空襲後の約一年間においてである。』(180頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 180頁より》

『…米軍は屋我地島上陸の6日後に「隔離と治療」の方針を早くも打ち出しており、「戦争中四散した患者や新患者を発見次第、愛楽園に送り込んだので、愛楽園はますます、衣食住の問題で混乱し、虚脱状態になり生き地獄の様相を示した」。』(181頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁より》

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ハンセン病療養所の主任医師早田氏と勤務中のスタッフ。(1945年7月13日撮影

Dr. Hayata, standing, is head doctor in the leper colony and office staff at work.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…読谷村楚辺で民間人のために病院を開設したロバート・リビングストンら6人の軍医は、同時に付近にハンセン病患者らの囲いを設けた。しかし、米軍が本部半島を制圧すると、「屋我地島で日本人によって運営されていたらい療養所が現在もあり、2人の日本人医師がその施設で勤務の継続を許可されている」ことを知らされ、その数日後に彼らは、「私たちの15人のらい患者をこれらの医師の1人である早田皓医師のもとに護送するように連絡を受けた」。15人のうちの何人かは愛楽園の前入所者であった。「早田は私よりも私の患者らをより温かく迎えた」、とリビングストンは感じた』(184-185頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 184-185頁より》

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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ハンセン病療養所の墓地。(1945年7月13日撮影

View of the burial tomb for the leper colony.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Leper Colony. ハンセン氏病療養所
撮影地: 屋我地 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Leading the visitors at the Airaku-En Leprosarium, located on Yagachi Island, during open house, (left to right) are: Dr. Rolfe Von Scorebrand (in Sunhelmet); Major General Robert S. Beightler, Commanding General RYCOM, and Mrs. Beightler.
ハンセン氏病療養所愛楽園の訪問日に訪問者を案内する(写真左から)スコアブランド医師(日除けヘルメット着用)、琉球軍司令官ビートラー少将、ビートラー夫人
(1951年11月18日)

1971年、沖縄県名護市済井出のハンセン病療養所施設・沖縄愛楽園。職員と入所者の居住地を隔てる門の前で、当時35歳だった入所者の H.S. さん(82)は、職員を呼び出す拍子木を割れんばかりに打ち鳴らした。「婦長を呼べ、妻を帰せ」。妻は強制堕胎のために婦長に連れて行かれた。これまで2度妊娠したが、いずれも堕胎させられた。拍子木の音は、国に奪われた人生と新たな命を取り戻す始まりを告げていた。その後生まれた子は現在、47歳となる。「子どもは希望、生きる糧だよ」。15歳で強制隔離されて67年。報道の取材に初めて実名を明かした。

 H さんは36年に与那国島で生まれた。13歳でハンセン病を発病し、51年に愛楽園に入所した。親族と共に与那国から3日をかけて園に着いた。応対した職員は患者と知ると、出した茶を下げた。「刑務所に入れられたような感覚だった」 

 米軍統治下、軍の支給はあったとはいえ、物資は常に不足。病気の影響で手足の感覚がまひする中、ドラム缶で煮炊きした。やけどに気付かず、指先を失った。「風船のように膨らんでから気付いても治療はままならない。手遅れとなり切断するしかない」。多くの入所者が手足を失った。…

「流産させるために那覇から先生が来ている」。拍子木の音で現れた婦長が言い放った。H さんが怒声を上げた。「絶対に堕胎させない。これ以上、奪われてなるものか」園内で出産しないことを条件に妻は解放された。その後、石垣で長女を出産した。76年には長男も園外で出産。2人の子は親類の下で育てた。
 一部の園職員からは「国に養われているのに、子どもがいるのは許されない」という言葉を浴びせられた。それでも離れた子を思い、がむしゃらに働き、生活費を送った。「どんな言葉を言われようが、子のことを考えれば耐えられた」。仕事で園外に出る機会も増えた。帰ることはないと思っていた実家にも、子に会うために帰ることができた。「子どもと一緒に暮らすことはできなかったけれど、子どもがいるだけで生きることができた」… 愛楽園は10日、開園80年を迎えた。ハンセン病への差別、偏見はいまだ残る。「よく分からない、知らないから差別する。私たち元患者は恥じることは何もない。堂々と外に出て、会話を重ねれば、お互い理解し合えるよ」

2度の強制堕胎、3度目に「もう奪わせぬ」 辛い過去を回顧「子が生きる糧に」 実名明かし証言 - 琉球新報

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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名護 沖縄愛楽園 園内施設 1959年

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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