〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月13日 『収容所を転々と・・・』

11歳 沖縄少年兵の移送 / やんばる移送ハッピーシティー

 

米軍の動向

補給基地と軍港の建設

6月末に沖縄での組織的な敵の抵抗が停止すると、海軍建設部隊は基地建設に集中することができ、その後の2か月間でその任務の達成に向けて重要な進展が見られた。7月中も最終的な降伏まで、多くの狙撃兵による行動が続いた。7月から8月にかけて追加の建設部隊が到着し、… 7月初旬、基地建設地域の分割と海軍建設旅団の配置計画が発効した。各海軍建設旅団は、特定の地域でのウォーターフロント、飛行場、一般建設などの種類の作業を担当した。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30] 

米国陸軍通信隊 1945年 6月〜 7月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

軍の近くの考えられうるすべての浜で物資が降ろされた。… 7月17日までに、荷降ろし量は1日あたり35,000トンに増加した。これは6月に比べて1日あたり1万5000トンの増加だった。7月中に1,015,374トンの貨物が荷揚げされ、206,000トンが積み込まれた。

Building the Navy's Bases in World War II [Chapter 30]

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。戦車揚陸艦から補給物資が荷揚げされるのを待つトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Trucks waiting to unload supplies from LSTs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

補給物資の荷下ろしなどに日本兵捕虜の労働力は不可欠のものだった。

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年7月13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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荷揚げされる積み荷。沖縄にて。補給物資を積むため、戦車揚陸艦にバックして入るトラック。(1945年7月13日撮影)

Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu Island. Truck backing into LST for supplies.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本の敗残兵

国頭突破の命令

生き残った兵士は北部をめざした。

8月29日まで壕に潜伏していた第24師団第32歩兵連隊の兵士

国頭(くにがみ・沖縄本島の北部)突破というのは聞いたことあるでしょう。北の方はアメリカの兵力が薄いから、そっちへ行ったらいいんじゃないかということ、山もあるしね。それがなんのね、全然石川辺はあんな狭いところでしょう?そこに敵がぞろっといるわけです。そこをどうやって、ね、そんなことは情報にないから、皆が出て行ったんですよね。動ける者は。次の朝、何時ごろかわからないけど、12~13名帰って来ましたよね。どこまで行ったと言ったら1キロぐらいしか行ってないのね。1晩中かかって。30何人で出て行って、12~13。あと半数はいなくなっちゃった。

Q:どうなったんですか。

亡くなったんだよね。発見されて、撃たれて、みんな亡くなったのね。

濱本 俊則さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3,000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。

[証言記録 兵士たちの戦争]沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~NHK 戦争証言アーカイブス

 

ハワイの捕虜収容所に到着した沖縄の少年兵

米軍は増大する捕虜数に対処するため、3回に分けて沖縄人捕虜と朝鮮人軍夫をハワイの収容所に移送した。オアフ島のホノウリウリ収容所やサンドアイランド収容所は、最初はハワイの日系人を強制収容した施設であったが、彼らが解放されると入れ替わるように沖縄から移送された捕虜収容施設となった。ハワイに移送された沖縄人捕虜の中には、学徒兵や小さな少年兵の姿も多かった。

米軍は11歳の日本兵捕虜を写真記録している。

米国陸軍通信隊: SGT Eugene M Cox, of Sweet Home, Oregon, pictured with an eleven year old Japanese prisoner of war.

11才の日本人捕虜と一緒に写るユージーン・M・コックス軍曹。オアフ島 1945年7月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本軍はこのような小さな沖縄の少年も学徒兵や護郷隊として利用し、下級生で構成された通信隊での戦死率は非常に高いものだった。米軍は彼らを親族らがいる民間人収容所に送ることなく、兵士と同様に捕虜収容所に収容し、さらには海外の収容所に移送した。オワフ島に到着した彼らの表情には子供らしい笑顔もみえる。

米国陸軍通信隊: Adolescent prisoners of war captured on Okinawa, upon their arrival in the Hawaiian Islands for internment. / 【和訳】沖縄で捕虜となり、強制収容されるためハワイ諸島に到着した少年たち。オアフ島 1945年7月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

たくさんの沖縄の学徒兵がオアフ島の抑留施設に集められ尋問を受けた。

米国陸軍通信隊: Japanese prisoners of war captured on Okinawa, await questioning by the intelligence section of the army. After arrival in Hawaiian Islands for internment.

ハワイに到着後、抑留のため陸軍情報部の尋問を待つ沖縄で捕らえられた日本人捕虜。オアフ島 1945年7月13日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

沖縄の米軍基地建設には捕虜の労働力が不可欠であったが、それに満たない沖縄の少年兵は、そのためハワイに移送されたと思われる。しかし一部の少年捕虜はハワイの収容所からも労働に不適当とみなされ、転々と移送、帰還あるいはアメリカ本土の収容所に送られていった。

捕虜送還リストの一例

1945年9月26日付「フィラリアか身体的障害のある捕虜の送還予定者リスト」… には、フィラリア菌に感染している 8 人の沖縄人捕虜だけでなく、戦闘により四肢の一部を失った者(沖縄人13人、日本人13人)、身体が衰弱していた者(沖縄人49人、日本人39人)が含まれる。さらに「16 歳以下で身体が小さいため作業の詳細に不適合」とされた 61人、「45歳以上で厳しい仕事には不向き」とされた95人の沖縄人・日本人捕虜が併記されている。注目すべきは、全ての項目に「労働に不適当」という文言が使用されていることである。… このように、ホノウリウリから沖縄へ、または(アメリカ)本土へ、労働に不向きとされた人びとが、まるで排除されるかのように送り出された。管理側の望む年齢に適合しない捕虜たちが、沖縄に送還されていない点は不明であるものの、体格が成人並みでない少年や重労働を課せない老年の者を除外し、労働力の均一化を図るかのような傾向がハワイでの捕虜利用政策に確認できる。

秋山かおり「沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所史―ホノウリウリからサンドアイランドへ―」(2018)

オワフ島ホノウリウリ収容所内にあるカンパン7番に収容された。

Honouliuli Internment Camp

裸船に乗せられて

7月のある日、沖縄出身の捕虜だけが集められて、日系2世のハワイ出身の米軍人に名前を呼び上げられました。名前を呼ばれた者はトラックに乗るようにと言われ、私もトラックに乗せられました。それから北谷の海岸に連れて行かれました。船に乗せられた時、私は「どこへ連れて行かれるのだろうか。アメリカは、我々を奴隷にするために連れて行くのだろう」と思っていました。その時、ハワイやアメリカ本土に行くとは考えられず、「ひょっとするとどこか南洋の島に連れて行かれ、奴隷のような作業をさせられるのではないか」と考えたりしていました。それから船が出港すると、甲板から遠く小さくなっていく沖縄本島を見て涙ぐむ人もいました。
船での食事の量は、非常に少なかったです。アメリカ式の小さいお椀の半分くらいにメリケン粉(小麦粉)とジャガイモ、人参、それらをケチャップで味付けした食べ物が1日2食配給されました。私たちが乗った船は軍人輸送船で、柱で仕切られたキャンバス(簡易ベッド)が4段あって、そこを寝る場所にしていました。この船での生活は、パンツと袖つきTシャツそれぞれ1枚で過ごしました。それが汚れると洗濯をしましたが、乾くまでは丸裸で過ごしました。

ハワイでの捕虜収容所生活

ハワイの収容所の食事は、非常に良かったです。伊江島で捕虜になった人たちが先に来ていて、炊事係をやっていました。米軍人用の丸い食器があって、それにいっぱいご飯を入れてくれました。「もっと欲しい」と言うと、更に入れてくれました。欲しい分だけご飯が食べられました。しかも白米でした。沖縄戦が始まって以来、食べたことがないような美味しい白米でした。ハワイに来た捕虜は、みんな驚いていました。こんなに美味しい白米を食べられる日が来るなんて、思ってもみませんでした。
サンフランシスコでの捕虜収容所生活
8月のはじめ頃、… ウィスコンシン州 (ブログ註・フォート・マッコイ) テキサス州 (ブログ註・クリスタル収容所) それぞれの捕虜収容所から、沖縄出身の捕虜はサンフランシスコの収容所 (エンジェル島収容所)*1 へ送られました。そこから沖縄へ帰すためでした。そして、テキサス州から来た14〜15名ほどの捕虜は皆、着古した服を着て靴も破れていました。肌の色も黒くなっているので話を聞いてみると、大変な重労働をさせられたと言っていました。大木を伐採し、輪切りにした木を担がされたり、そのような重労働をさせられたと言っていました。それに対して、ウィスコンシン州から来た捕虜たちは、アメリカの日系2世部隊のような綺麗な格好をしていました。服装や靴など綺麗な身なりをしていて、髪油(ポマード)もつけていました。彼らに話を聞くと、ウィスコンシンの収容所は食事も美味しかったそうです。日給25セントの賃金をもらう事ができて、その賃金で買い物も出来たと言っていました。

安里祥徳「アメリカでの捕虜生活と私の戦後」 – 戦世からのあゆみ

 

そのとき、住民は・・・

知念半島からやんばるへの強制移送

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米軍は12の民間人収容所地区を設置し、基地建設の都合にあわせ住民を転々と移送した。

米軍は知念半島を住民の安全地帯として指定していたが、一転、軍事拠点化するために住民を北西部の収容所へと移送し始める。知念半島には1946年10月から1949年12月まで米国軍政府が置かれ、沖縄の占領政策の中心地となった。知念補給地区 (知念キャンプ) は1974年に返還された。

やんばるへの立ち退き

7月11日 佐敷村の収容所  540人

7月12日 玉城村垣花二区 (親豐原) 630人

7月13日 知念村知名2-3区 590人

7月15日 知念村知名・安座間 770人

8月13日 玉城村垣花一区 1400人

8月18日 玉城村垣花一区 2400人

《『南城市沖縄戦 資料編 (第2版)』南城市 (2021年) 》

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Cargo being unloaded on Okinawa, Ryukyu, Is.
荷揚げされる積み荷。沖縄にて。(1945年 7月 13日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

瀬嵩収容所と大浦崎収容所

米軍は中南部での基地建設のため住民を次々と北部の収容所へと移送した。急増する人口で収容所は「東喜市」や「瀬嵩市」となる。米軍は東喜市を「ハッピーシティー」と呼んだようだが、北東部の海岸にあるこれらの収容所は最も粗悪な管理下におかれ、多くの人が飢餓やマラリアなどで命を奪われた。

7月13日新里から与那原港までトラックで運ばれ、現在の与那原中学校の下の浜から米軍の大型上陸用舟艇LSTに乗せられた。艇は、金武湾沖をとおって久志大浦湾に入り辺野古崎の海岸で下船し、ここから歩いて、久志村二見のシジンダ屋取に辿り着いた。米軍はここにハッピーシティーと皮肉な地名を付けていたようだが、東喜市という避難民収容所になった。知念村民が入る数日前に玉城村親慶原と佐敷村新里からも避難民が入っていた。…

7月13日、大浦湾周辺に瀬嵩市が誕生し、嘉陽市は嘉陽区となった。海岸近くの道路の両脇に知名、安座真の避難小屋が立ち並んでいた。山から木を切り出し共同作業で小屋を建て、土間に木の枯草の葉を敷きここに寝た。マラリアが流行し、また壕疲れの栄養失調で多くのお年寄りと子供たちがこの地で斃れ、合同墓地に埋葬された。

《『知念村史』知念村 (1994年) 》

住民の収容が開始されて間もない頃、瀬嵩地区一帯でマラリアが蔓延し多くの住民が死亡した。瀬嵩公民館に保存されている「墓地台帳」(昭和20年11月作製)には、当時の瀬嵩区の収容者(同年8月現在で人口669人)のうち、613人がマラリアや栄養失調などで亡くなっている。年齢は60歳以上と10歳以下が多く、出身地は中、南部の人がほとんどだったという(『証言沖縄戦琉球新報社参照)

読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上

 

野嵩収容所 - 収容所を転々と・・・

野嵩収容所は住民の南部から北部への移送の中継点となっていた。

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「32」という数字が書かれたヒンプン。野嵩に残る収容所時代の貴重な戦跡だ。

この数字は野嵩の家屋が難民収容施設として使われていた頃、米軍が住居管理するために家の壁に書いた数字、いわゆる「ハウスナンバー」なのだ。このナンバーを基に収容人数の把握、食糧配給などがなされていた。今ではこの一箇所しか残っていないという。

戦跡を巡る② 「野嵩」 収容所設置で多くの人が行き交った過密ポイント | HUB沖縄

1945年4月1日の米軍の本島上陸から数日後に民間人の捕虜収容所として設置されました。民家の母屋をはじめ、家畜小屋に至るまで収容施設として使われ、戦後初期のピーク時には、宜野湾の人だけではなく、那覇や島尻方面の人たちも含め、1万人余りの人々が収容されていました。

ぎのわん市の沖縄戦~”あの日の記憶”を語り継ぐ/宜野湾市

野嵩の収容所に行った男性の証言:

糸満近くの浜で、米軍の水陸両用戦車に乗せられ、さらに戦車もろとも沖合で上陸用舟艇LSTに乗せられ1時間くらいたったろうか。女たちは最初、このまま海に投げ捨てられると泣き、LSTに乗せられてからはアメリカに連れ去られるのではないかと泣いた。

LSTが止まり、戦車は再び海におどり出た。一体どこに連れていかれるのだろうか。外が全く見えないので皆目方向が分からない。やがて戦車が陸地に乗り上げて止まった。ここはどこだろうと見渡すいとまもなく、こんどはまた、目の前に待機している大型トラックに乗り移らされた。トラックが走り出し、しばらくして見覚えのある北谷モーシーの墓を見つけて、やっと桑江あたりに上陸したことを知った。

トラックは普天間から宜野湾街道に入り、しばらくして左折し、とある部落に入った。部落に入って人々は皆自分の目を疑った。そこにはあの島尻のような焼けただれた部落ではなく、濃い緑に包まれた昔ながらの部落があったからである。そこが、その後7ヵ月間私が収容所生活を送った宜野湾村字野嵩で、野嵩という地名も初めて聞く名であった。

トラックから見渡すと、部落の周囲は全部有刺鉄線で囲まれ、たった一か所設けられた出入口にはMPテントがあり、3、4人のMPがカービン銃を持って警戒に当たっていた。トラックがMPテント横の広場に着くと、たちまち黒山のような人だかりができて、家族や知人を見つけた人たちが互いに呼び合い、抱き合って泣くという光景があちこちに繰り広げられた。

この光景を見て初めて自分たちよりほかにも大勢の捕虜がいること、殺されることはないということを知った。そうすると、いままで張りつめていた気もいっぺんに緩み、トラックから降りるとフラフラと道端に倒れ込み、横になった。

あおむけに寝ていると、いろいろのことが思い出されて涙が止まらなかった。つい10日ほど前の2人の肉親の無残な爆死、生き別れになった兄弟、そして、ただ一人重傷の身でここまで来たのに、この先15歳という子供の身で一体どうなるのだろうか等々、傷の痛みと不安でもう動く気力もなかった。

何時間たったろう、もう日が傾きかけていた。その間も続々捕虜になった人たちが重い足どりで頭上を通り過ぎて行った。突然「進ヤアラニ(進むじゃないのか)」と呼ぶ声がした。見上げると、私と同じ赤平町の金城さん一家が通り過ぎるところであった。これを逃しては大変と追いすがり、そのグループの後についていくと、白い腕章をした人が先導していて、着いたところは門の横の石垣に白いペンキで「104」と大書された野嵩でも北西の一番端にある家だった。

人々は家の中に上がり込むと、家族ごとや仲間ごとに場所をとり、わずかばかりの荷物を解いて収容所第一夜の支度に取りかかった。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 18-19頁》

 

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*1:エンジェル島は東海岸のゲートとして、移民局と併設して強制収容所があった。多くの捕虜が米国本土の収容所からエンジェル島収容所を経て帰還した。