〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』

参謀たちの脱出 /  復讐という名の住民虐殺 / ひめゆり解散という名の追い出し / 女子学徒の処刑 / 摩文仁の死の道 

 

米軍の動向

新・第10軍司令官 - ガイガー少将

前日18日、バックナー中将が戦死し、ガイガー少将が司令官に。

バックナー中将の戦死は、第10軍参謀長からニミッツ元帥に報告され、…19日、第3海兵軍団長のR・S・ガイガー少将が中将に昇進するとともに第10軍司令官に任命された。海兵隊将官が軍司令官に任命されたのはこれが初めてだった(ビーニス・M・フランク『沖縄』)。もっともその後6月23日には、J・W・スチルウェル陸軍中将が東南アジア戦域の副司令官から沖縄の第10軍に移ってガイガー司令官と交替した。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

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MajGen Roy S. Geiger

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

南進する米軍 - 最後の追い込み

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

アメリカ軍が89高地と称していた牛島の洞窟のある断崖は、摩文仁の南約400ヤードにあった。これは与座岳と八重瀬岳および国吉の大地を結ぶ最後の抵抗線から南に約1マイルの地点にあった。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 335頁より》

ほとんどの地域を制覇した米軍は同士討ちを避けるために近接戦闘に集中する。

日本軍の保持している地域はほとんどなくなり、これまでどおり空軍による大量の爆撃や海軍の艦砲支援射撃を集中すれば、友軍に損害を与えるおそれがあったので、陸軍の指揮官たちは海空軍の支援を要請することを躊躇していた。そのため、将兵疲労していたにもかかわらず、日本軍の最後の抵抗を歩兵の近接戦闘によって排除しなければならなかったのである。ある戦史家は、この時機における戦闘についてこう述べている。「彼らは、火炎放射器や爆破により、あるいは戦車を使用して、抵抗拠点の一部を奪取するか、これをいくつかの小さな陣地に分断し、人が無数の蛇を踏みつぶすように日本兵一人残らず殲滅するという方法で、これをやってのけた」

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 336頁より》

Pfc. Alden A. Fisher, Morganton, Ga., fires a bazooka, Pfc. William Miller, Oceanside, Long Island, is the loader. They are firing at a Japanese cave on Okinawa.【訳】バズーカ砲を構えるフィッシャー一等兵と弾を装填するミラー一等兵。彼らは日本軍壕に向かって発砲しようとしている(1945年6月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

《註・AIによるカラー処理では火焔の色が再現されていません》Flame throwing tank operating against Japanese cave. Two caves were burned out with at least five Japanese killed. The action took place on Mezado Ridge.【訳】日本軍壕を攻撃する火炎放射戦車。この真栄里高地での戦闘で、2つの壕が焼け落ち、少なくとも5人の日本兵が死んだ。(1945年6月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

復讐という名の虐殺 (2) - 国吉・真栄里の虐殺

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9]

バックナー中将が狙撃された後は、相次いで住民虐殺が起こったといわれている*1

国吉での虐殺

…「そこ、そこ」と指さしながら恐怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。日付は1945年(昭和20年)6月19日と推定される。バックナー米第10軍司令官戦死の翌日であり、国吉は…中将戦死の真栄里とは隣接集落である。

「私は…戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、首里からの退却部隊とごっちゃになり混乱していた。時どき、自宅の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の5人だった。自宅に帰って4、5日目の午後3時ごろ、5人の米兵が屋敷に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男はこれがもとで間もなく亡くなった。5人の米兵は南隣りの屋敷へ入って行った」

「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るようにせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵7、8人が隣の屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とどなる。出てきた男たちは一列に並ばされる。パンパン、バタバタ・・・。ひんぷん(屏風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)のかげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタバタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背筋の凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 205頁より》

真栄里での虐殺

米第10軍司令官バックナー中将が戦死した翌日の1945年(昭和20年)6月19日午後5時すぎ、…良正さん(当時27歳)は米兵につかまり、射殺されたのち、戦車にじゅうりんされた。場所は同中将戦死の丘から東北約千メートル。

良正さんの妻の証言:

「19日夕方5時から6時ごろでした。…壕にかくれていたのですが、捕虜になることを決め、夫らといっしょに壕を出ました。夫は防衛隊員でした。具志頭村方面に行っていたのですが、けがをして村に帰ってきていました。戦闘帽をかぶったままでしたので米兵が日本兵扱いをしたらしいのです。米兵はまず日本兵と沖縄の住民を引き離そうとしていたようです。夫はそれに抵抗しようとして鉄砲で撃たれました・・」

「撃たれてピクピク動く夫にとりすがった義弟…は、銃剣を構えた米兵に足蹴にされた。そのとき戦車が夫を轢き去って、南の方へ行った。夫はあとかたもありませんでした」

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 203頁より》

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Natives walking back from front without escort. Hundreds came along this beach road South of Mezado Ridge during the day in similar groups.【訳】(米軍の)護衛なしで前線から離れようと歩く地元民。日中、多くの人々が真栄里の丘陵地南に位置するこの海岸沿いを歩いてきた。(1945年6月19日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Patrol trying to flush a Jap sniper from a canebreak.【訳】サトウキビ畑の切れ目で日本軍の狙撃兵を排除しようとしている偵察兵。(1945年6月19日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

手を挙げていた者、あるいは、手を挙げようと思っていた者を殺すことは、必ずしも残虐行為ではなかったアメリカ軍の歩兵で、それまでの本人の道徳的信条がどうであろうと、多少なりとも怪しいところがあると思われた日本兵を射殺しないと自分がやられる、ということに疑問をもっている者はいなかった。彼がアメリカ兵を殺すかもしれなかったからである。このような考え方は、沖縄における仮借のない現実を反映していた。… 第一線にいるほとんどのアメリカ兵の気持ちは、だいたいいつもはっきりしていた。戦友との絆は、彼らを撃った者への憎しみにつながるものだった。日本に対して一般にどのように感じていたにせよ、彼らは個人的に愛していた者を殺した日本人をひどく嫌った。ある者はこう語った。「私は以前は日本人を嫌っていたわけではなかった。いちばん親しい戦友がばらばらにされて横たわっているのを見た瞬間に、憎しみが湧いてきたのだ。毎日一緒にいた男、愛した男が死んだのだ。私はあの畜生どもを憎んだ。それは今日まで続いている。私は戦友が殺されるのを見たんだ」

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 311、312頁》

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第7師団の前線の後方の収容所へ向かう途中、年上の住民にサポートしてもらう足を怪我した少年。(1945年6月19日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

摩文仁の司令部壕  - 「無敵皇軍参謀」最後の姿

牛島司令官は前日6月18日、最後の命令を出した。それは、最期まで戦闘を敢闘せよ、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁の軍司令部壕では、軍服を脱ぎ捨て民間人になりすまし鉄血勤皇隊の少年兵を随行して脱出する準備が進んでいた。

八原高級参謀の回想:

19日の夕迫れば、参謀室内は異常の重苦しい空気に包まれる。人々は多くを語らず、ときどき低声私語するのみである。軍司令官、参謀長への申告を終えるや、彼らは出撃の服装にかえた。両将軍の自決に立ち会い、軍司令部の最期を見届けた後、なおもし生あらば、新任務に就くべしと深く決意している私に対し、若い参謀たちは、私の運命を優しく労わる如く、万感罩めてお別れの挨拶をした。そして矢張り両将軍を残して、去り行くのが気に懸かるのか、口を揃えて軍司令官、参謀長のお世話をよろしくお願いします、と言った。私もこの若い人々の、武運長久を心から祈り、そしていかなる危難に遭遇しても、不屈不撓、特に功を急ぐことなく、人知を尽くして任務を遂行するように注意した。… ときどき至近弾に洞窟の側壁が崩れ、灯も消えなんとする。かくてはあらじと思ったのか、いちばん若い長野が、「私が先頭を致します。皆様万歳‼︎」と叫び、決然として、洞窟の外に突進した。これをきっかけに、三宅、薬丸、木村の順序に、数分を間して、次々と死の出撃を了し終わった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 417-418頁より》

4人の参謀は脱出するが、

鉄血勤皇隊「千早隊」大田昌秀の証言

私は、増永隊長に報告のため、軍司令部の壕へ駆けつけた。…一歩壕内に入った途端、私が全身で受けとめたものは、まぎれもない「敗戦」の実感であった。

骸骨のように痩せ衰えた将兵が狭い壕の両側にうごめき、嘔吐を催す膿臭と血の匂い。… 流通に悪い湿った熱気。そして呻きとも嘆きともつかぬ声が、洞窟の低い天井に重苦しく交響し、… その様は、まさしく地獄絵図だ。その中を通り抜けて、混乱に中をようやく増永隊長を探し当ることができた。私はそれまでの経過を逐一報告した。すると隊長は、伝令のことについては一言も触れず、

お前たちは本日を以って一応解散せよ。そして国頭へ集結して時機を待て。今後はいかなるところにあっても、召集がある時は、ただちにやってこい。万一敵に捕まっても、決して死んではいかん。そして常に敵の背後に出て工作することを忘れるな。いいか、わかったか。よし、帰って皆に伝えろ」というなり、あわただしく壕の奥へ消えた。

解散!」一瞬、私はガーンと一撃くらわされたように、めまいがするのを感じた。

…すると、垂直坑道に出る奥の軍司令室の方から、金モールの参謀肩章を肩から胸に吊った第一装の参謀たちが、つぎつぎに姿を現した。…そしてしばらくすると、長身の薬丸情報参謀や三宅参謀木村後方参謀が、地元住民の黒い着物に着替えて出てきたのを見て私は唖然とした。

参謀たちの透きとおるばかりの白い手や毛脛が、民間人の着物から不恰好にはみ出し、日頃の威風堂々たる風彩とはまるでそぐわない。参謀たちの日常を知る者には、その変装は余りにも哀れであった。

かつては「無敵皇軍」の参謀として羽ぶりがよかった参謀たちの、この最後の姿ほど私を惑乱させ、深刻な衝撃を与えたものはなかった。反面、守備軍参謀の随員として行く学友たちに、私はわけもなく一種の羨望を感じていた。と同時に、私の目には、一行の前途に、この戦争の結末を象徴するかのような不吉な影がどす黒く尾を曳いているように感じられてならなかった。

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 157-160頁より》

…日本軍のこの動きは、6月18日から19日にかけての夜に発覚し、前面と後方で、たちまち米軍の機関銃が猛烈に火を吹いた。夕暮れと夜明けには、照明弾が宙に浮かび、機関銃は一晩中、鳴りひびいていた。

日本軍の暗夜の移動は、数日後には最高に達し、第7師団などは502人もの日本兵を殺した。日本兵は攻撃には出なかった。彼らは、自分の身を守るに十分な兵器だけしか、携行していなかったのだ。それにおもな目的は、北部に逃げることであり、また民間人のあいだにひそむことであった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 500頁より》

戦後の調査によれば、三宅は八重瀬岳東麓において、木村は与那原西方において、ともに戦死し、薬丸、長野は脱出後の消息は全然不明である。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 418頁より》

 

投降する日本兵

沖縄戦の最初の70日間は、第10軍管轄下で捕虜になる守備軍兵士の数は、1日平均4名ていどだったのが6月18日頃には50名にふえ、翌19日には400人名近くが自発的に投降した。一方、日本軍の損害も日を追うて増大し6月の初めから月半ばにかけて平均1000名ほどだったのが6月19日の時点では2000名に倍増、3日後には4000名以上を数えるにいたった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-04-2.jpg

Jap prisoners sit down in defeat while Mars of 4th Regiment, keep a watchful eye on them. Okinawa.

敗北に沈み込む日本兵捕虜を監視する第4連隊の海兵隊員。沖縄。(1945年6月19日〜20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-04-1.jpg

More Jap prisoners taken at front lines. Note many hundreds, even thousands of Japs soldiers surrendered figuring it was better to live than die for their Son on Heaven. Okinawa.【訳】前線で連行される日本人捕虜たち。何百何千という日本兵が死よりも生を選び投降した。沖縄。(1945年6月19日〜20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ひめゆり - 解散という名の追い出し

6月18日、ひめゆりの学徒たちは突然解散を命じられる。翌19日早朝、伊原第三外科壕が米軍のガス弾攻撃を受ける。

[ひめゆり開館30年 新しい世代へ]/生きた証し後世に/戦火の90日間 136人犠牲 | 沖縄タイムス

南部撤退後、陸軍病院第三外科壕に配属されていた軍医や看護婦、ひめゆりの生徒たちは、「伊原第三外科壕」に避難しました。「解散命令」直後の6月19日早朝、米軍による攻撃を受け、壕に隠れていたひめゆりの生徒たち50人中42人が亡くなりました。生き残った8人の生徒と教員は、壕を脱出しましたが、その後、3人が亡くなりました。戦後、伊原第三外科壕の上に、沖縄戦で亡くなった生徒や教員を慰霊するひめゆりの塔が建立されました。

南部撤退 - 特別展ひめゆりとハワイ Himeyuri and Hawaii

西平先生はですね、「軍から解散命令が出た」と。そのわけは、「もうそこにアメリカの兵隊が来てる」と。「それでこの壕にみんな一緒にいると壕にもう弾が一発入れられたら、みんな全滅するんだ」と。「だからこの夜でね、今日の夜でこの壕からは脱出しなければいけない」と。「だけどみんなで一緒に脱出すると目立つから、グループを作って出なさい」とおっしゃったんですよ。… 「それはどこへ行っても、どこが安全でどこが危険ていうことは、もう僕には言えない」という話をしておられて。… 「ケガしたらもう置いてけ」と。

本村ツルさん「卒業式会場上空を飛ぶ砲弾」|NHKアーカイブス

もう投げ出されたのも同然ですから、… とにかく本部ヘ行って校長、部長、西平の先生方から直々のお話が聞きたいものと本部へ行きましたが、そこは散々攻撃されて跡形も無くなっていました。仕方なく第三外科壕(現ひめゆりの塔前の壕)へ行きましたが、満員で駄目だと怒鳴られました。やむなく伊原の壕に行きましたが、また怒鳴られそうなので入口で立ち止まり、奥の方へは行きませんでした。

古堅さん証言・読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 女性の証言

解散命令が出た。皆これからは球部隊ではない。軍属を拝命した一高女生は今後も軍が責任を持つ。他の生徒はそれぞれ行きたいところを決めて、この壕を出なさい」と宮崎婦長に言い渡されたのは6月19日でした。寝耳に水で、皆ただ呆然とたたずむばかりでした。… 。 突然パアーンパアーンと音がして、 真っ白い煙がもくもくと立って、 一 寸先も見えなくなってしまったんです。

「ガスだー。ガスだー」と言う叫び声があっちでもこっちでも上がりました。全然見えない。 誰が側にいるのか分からないんです。 首が ぎゅっぎゅっと締められていくのです。 息も絶え絶えに なり、苦しい苦しいと言って石のごつごつした所に顔を突っこんで......。 少しでも顔を上げたら、もう息が出来ま せんでした。「苦しいよー、 苦しいよー」「お母さん、助けて。 お父さん、助けて」とあっちこっちで叫んでいるのです。 友達を呼ぶのもいます。… … 周りを見ると、顔も腫れ、口が裂けた人もいますし自分のお腹をモンペでぎゅっぎゅっと締めつけたみたいに倒れている人もいるんです。 私はこの人たちが死んで いると思わなかったんですよ。 「一寸、あっちに寄って頂戴。寄って、寄ってったら」と言っていたんです。聞かないんですね。そしたら大城好子さんが、「何言ってるの。皆死んでいるのよ。 あんたも3日目に生き返ったのよ」 と言うんです。… 意識を取り戻してから4日位で過ごしたと思います。 死体は全部蛆が湧き出ていました。

ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 2004年 101-102頁》

 

そのとき、住民は・・・

日本兵に虐殺された女子学徒

看護敵軍の面前で壕から放り出された学徒は戦場で死の放浪を強いられた。数人づつ壕から脱出しても弾雨のなかで友とはぐれてしまい、地獄の戦場を一人でさまようことも少なくなかった。以下は、日本の負傷兵を南部まで看護し続けた女子学徒を、解散後に日本兵が虐殺した事例の証言。

独立高射砲第27大隊 大度海岸

そのころ本部壕で思わしい事件が起こった。日の暮れ方、ひとり女学生が本部壕に迷い込んで来た。モンペの上に白いセーラー服を着け、地下足袋をはいていた。彼女は「病院が解散になり、みんなと一緒に壕を出ましたが、途中みんな弾に当たってひとりになってしまったのです」といった。米須の患者壕で負傷兵の手当をしていたひめゆり部隊篤志看護婦にちがいなかった。壕内の兵隊たちは、この女学生の処置に困った。 いま彼女を手離したら、この壕内にまだ将兵たちの潜伏していることを敵に知れてしまう怖れがある。壕の奥から「その女を処置せよ」という将校の低い声が聞えてきた。だが、彼女は戦友たちの世話をしてくれた篤志看護婦で ある。誰も応じようとはしなかった。すると、このとき「俺がやる」といった者があった。(以下の証言は、観念した女学生が手を合わせ東の方向を向いて拝むなか抵抗もなく処刑されたという定型的な話が続く。) … 彼女は芝山の教えた方向を向いて坐り、両手を合わせた。芝山はそのうしろから、ヤッとばか りに銃剣を突き立てた。… この事件は薄暗い内を一層重苦しいものにした。 梅田大尉のでこの噂を聞いた山之内は激怒し、「何という恐ろしいことをするやつじゃ。芝山は俺が殺してやる」と息まいた。

渡辺憲央『逃げる兵 - サンゴ礁の碑』(1979年) 221-222頁》

後に米軍に収容された独立高射砲第27大隊の捕虜は、そのほかにも壕をさまよう女性や学徒をスパイとして「処刑」していた。

一人の中年婦人が壕の中に迷い込んで来た。彼女はどこから来たのか、小ざっぱりした衣類を身につけ、壕内に同居している部落民のように薄汚れていなかった。 それを見とがめたか、兵隊の中に「おかしいぞ」という者があった。「米軍に頼まれて様子を見に来たんじゃないか。」するとその声に応じて奥の方から「その女を出すな!」という命令が聞えた。間もなくの奥で「兵隊さんが私を殺す。 助けて下さい。兵隊が私を....」 と女の泣き叫ぶ声が聞えた。とたん女の悲鳴とともにパーンという小銃の発射音が壕内にこだました。いったい何のために撃ったのかわからない。まるで行きがけの駄賃としかいいようがなかった。

渡辺憲央『逃げる兵 - サンゴ礁の碑』(1979年) 206頁》

身内とはぐれた住民は懸命に壕をまわって身内を探そうとするが、壕に潜む日本兵はそれをスパイ行為として疑い、多くの住民が虐殺された。

親族を探しに壕を訪れた学生を射殺

私はスパイではありません。助けて下さい
… 学生は殺気を感じたか、真っ青になって手を合わせた。
「よし、助けてやるから行け」と高尾がいった。「ありがとうございます」
学生が駆け出すように去ろうとしたとき、その背に高尾の小銃が鳴った。学生は声も立てずにばったりと倒れた。

渡辺憲央『逃げる兵 - サンゴ礁の碑』(1979年) 211-202頁》

 

摩文仁の「死の道」

アメリカ軍は夜襲されるのを警戒して、夜になると照明弾を放って地上を照らし出し、動くものがあると絶え間なく砲弾を浴びせかけてきたという。

糸満の国吉集落付近で避難する住民の列に砲弾が撃ち込まれる様子を目撃した現地召集兵の証言:

『「とにかくひどかったんですよね。人間の肉切れ、手足の切れたものと思われるようなものが、ずーっと散って飛び上がるでしょ。もう本当、いろいろな無残な死体でしょ、バラバラになった。住民は夢遊病者みたいになって歩いていましたね」

逃げ惑う人が砲弾に直撃されたのを目撃した人の証言:

「砲弾の破片なんか大きいんですよ。手のひらの大きさの鉄板ね。もう熱くて火になっているから。バーンって浮くんですよ、首ね、さーっと切れてね。首と胴体が目の前に落ちよった」

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 151頁より》

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沖縄戦の絵】「逃げ場を失った住民たち

昭和20年6月19日、米軍の攻撃で逃げ場を失った避難住民。松葉杖をついているのが國吉さん。この時、すでに海、空、そして陸上から攻撃を受けて、避難住民たちは袋のねずみとなり、逃げ場を失った状況になった。付近一帯の道路は爆撃などによって負傷者や死体でいっぱいとなり、道の脇では腹をけがした男性が「もう逃げ場がない!」と叫んでいた。國吉さんは「阿鼻叫喚とはこんなものか」と感じたという。

逃げ場を失った住民たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

19日の朝、私たちは米須まで逃げ延びてきた。どこへ行くのか、わずかばかりの身の回りのものを持って、疲れ切った足どりで歩く民間人や、全く武装もせずただボロボロに破れ汚れた軍服を着た亡霊のような兵隊の群が、この一角で右往左往していた。一帯は文字どおり死の道で、道路の真ん中といわず、傍といわず、至る所に人間が折り重なって息絶えていた。その惨状な情景は、明日に迫るこの島の運命を暗示しているようで、私たち自身が何らかの結末を迫られている思いだった。摩文仁の部分を過ぎる頃、喜屋武岬の方から、あの特徴のある戦車砲の金属音がタンターンと近づいてきた。包囲の網の目は、ジリジリと、そして確実に、狭められてきた。にもかかわらず、指揮系統を失って彷徨する武器なき兵たちや、行く先もない住民たちが、その網目にほころびから脱出しようと最後の空しいあがきを続けた後、空しく瀧のように落下する敵弾の好餌となっていった。死の道はかくしてつぎつぎに作られてゆくのだった。

《「鉄血勤皇隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」(大田昌秀著/那覇出版社) 156頁より》

途中の道には避難民が右往左往していましたし、道ばたで亡くなった人もたくさんいました。小さい子どもが亡くなったお母さんのオッパイを吸っているんですよ。また、子どもたちが、わたしたちが通ると、「お姉ちゃん助けて!」と足にしがみついてくるんですが、それを振り払ってどんどん逃げていくんです。あの子どもたちのことを今から考えると後悔して胸がいたみますが、あの時は、自分が生きることしか考えられない状態でした。

摩文仁では、死体がいっぱい倒れていて、映画などに出てくる、あんなものではないですよ。とても想像もつかないような死体の数ですよ。死体のなかに足を突っこんだり、踏みつけながら今の健児之塔のところから降りていくと、井戸がありますが、その井戸の上のほうの岩の下にかくれました。井戸に水をくみに行くと、水の中に死体が浮かんでいるのですが、それでも水は飲まないと生きられないので、そんな水をのんでいました。

百名女子青年団の悲劇  『玉城村史 第六巻 戦時記録編』(2004年)

 

 

 

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*1:沖縄県史の住民座談会では、そうした例が確認できなかったとある一方で、米軍側のレポートに猛攻撃と虐殺記録があることは無視できない。