〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月6日 『軍作業』

普天間飛行場朝鮮人捕虜と沖縄人捕虜 / 今帰仁の強制収容

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 普天間飛行場

中部地域の米軍基地 (1972年当時)

沖縄県「米軍基地環境カルテ」(2017年) より作成

米軍は住民を収容所に排除しているあいだ多くの米軍基地を建設した。普天間基地6月15日に着工。普天間の町は破壊され、埋められ、巨大な地ならし機が導入された。破壊された建材の一部は土台として再利用された

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854th Engineer Aviation Battalion laid a 54 inch corrugated pipe across #2 strip at Futema, to carry the water of a small stream that ran at the south end. The stone base for holding the pipe outlet was from a native building.

第854工兵航空大隊は、普天間の南端を流れる小川の水を排水するため、54インチコルゲート管を第2滑走路を横切るようにして設置した。排出口を支える土台の石材は、地元の建造物のものを使用した。(1945年7月6日撮影)(投稿者注: 上の和訳は、リンク先の原文を基に投稿者が翻訳したもの)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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To handle the large Boeing B-29 ”Superfortresses” a very firm strip was needed. Here a sheeps-foot roller of the 806th EAB is seen packing down the fill on #2 strip at Futema  which was 8500 feet long  and 200 feet wide, with a 12 inch coral surface.

ボーイングB-29スーパーフォートレスには頑丈な滑走路が欠かせない。普天間の第2滑走路では、第806工兵航空大隊の地ならし機が長さ8500フィート、幅200フィートそして厚さ12インチの石灰岩の地表にあるくぼみを埋めている。(1945年7月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Turnapull used in construction of airfield.
飛行場建設に使われたターンナプル 普天間 (1945年)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

朝鮮人軍夫の投降

背後は慶良間列島慶留間島

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米国海軍: A small detail from a seaplane tender head back to their ship with their 19 Korean prisoners.

朝鮮人軍夫捕虜19人と共に、水上機母艦に戻る小規模の特派部隊。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

捕虜収容所では、朝鮮人、沖縄人、将校、下士官、一般兵に分けられ収容された。以下は沖縄島南部の激戦地で収容された朝鮮人軍夫の証言から。

7月7日に投降し石川収容所※ (おそらく屋嘉収容所) に収容された朝鮮人軍夫の証言

正門で、一人のぶっきらぼうな日本語通訳兵が、簡単な訊問をする。「あなたチョウセンジンですか。」

チョウセンジン! 私は、この言葉を聞いて、うれしさのあまり、目を見張った。我々は日本人から、この「チョウセンジン」という言葉をいくどとなく聞いてきた。しかし米国人が言う場合と、日本人が言う場合とでは、言葉は同じでも根本的に意味が異なる。日本人が「チョウセンジン」という時、それは我々を民族的に軽蔑し一段下のものとして卑しめる言葉以外の何者でもないが、米国人の場合それは「被圧迫民族」に対する同情をこめた「チョウセンジン」であり、圧迫者である日本人と、区別する意味での「チョウセンジン」なのだ。それで私は生まれて初めて「チョウセンジン」という言葉を聞いて、うれしいと思った。

「はい! 」

私は感動して力強く答えると、彼はこっくりとうなずく。本籍、住所、氏名、年齢、所属部隊、部隊長の名前、捕虜になった場所など尋ねられるままに答えると、いちいち記録され、それから、鉄条鋼の中に入っていく。

古い軍服に、黒いインクで書かれた PW。これが捕虜の表示だ。上着の背と胸、ズボンのお尻と膝にも、手のひら大に PW が書かれた服一着と、缶詰を2個ずつもらって、引率者についていく。テントの中には、カマスが何枚かしかれているだけで、人影は見えない。 …(中略)…

《金元栄『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房 1992年》

朝鮮人軍夫と沖縄人捕虜

あいているもの、とばかり思っていた、向こうのテントの裾が掲げられ、同じ PW 二人だ、目をこすりながら出てきて、あくびをしては、深いため息をつく。その要望から、一見して、琉球の人であることがわかる。

こういう所では、誰でも、先に入った方が先輩だ。私がまず立ち上がって、頭を下げ、苦笑いしながら、挨拶すると、彼らは、さらに鄭重なおじぎを返してくる。互いに、民族は異なっても、置かれている環境と立場が同じなので、10年の旧友にも劣らぬ人情がかよう。我々が朝鮮人であることを明かすと、彼らはとても喜び、お互いに、忌憚のない会話がはずむ。

朝鮮とわが沖縄は、同じ苦難の道を歩んできました。朝鮮も、日本に併合されてから、 もう三十五、六年になるのではありませんか。沖縄はすでに、八十年にもなります。しかし今度、朝鮮は独立するでしょう。 私はハワイに出稼ぎに行っていたことがあるんですがね、その頃、ハワイには多くの朝鮮人が住んでいましたよ。職業からいっても、日本人よりもよい職業を営みながら、独立運動をしていました。立派な人士が精神的な指導をする一方、世界の列強とも絆を固めていることを私は知っていました。そこへ行くと、我が沖縄の人々は、そんな闘争など一度もできず、草の上を風が吹くように風の吹くまま、波の寄せるままに、八十年余りを過ごしてきました。弱者が強者の支配を受けることは、当然だと思ってきたのですよ。我々など、独立する資格もなければ、立ち上がる力もありません。たとえ誰かが、独立させてくれると言っても、戸惑うばかりでしょう。ただ、日本という主人が、米国という主人に変わるだけでしょうよ。」

《金元栄『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房 1992年》

 

そのとき、住民は・・・

今帰仁村 - 住民の排除

沖縄 – 日本軍慰安所マップ

今帰仁 (なきじん) は日本軍の拠点となっていたが、米軍の爆撃で拠点が壊滅し敗走。本部半島を軍事拠点化する米軍は、住民を排除し、本部半島に本部飛行場のほか少なくとも3カ所に小飛行場 (名護・備瀬・崎山) を建築した。

今帰仁村の強制収容: 6月17日に今帰仁村の謝名・越地から東側の住民が田井等収容所に強制移送された。

看護婦として米軍から要請でナース班長となった女性の証言

今帰仁村などから疎開してきた人たちが田井等地区にいました。今度は戦争の爪痕、シラミと皮膚病、マラリア、栄養失調など、戦争より恐ろしかったです。毎日何人か死んでいきました。どんなに介抱しても栄養失調とマラリアで震える人、一日に14、15名が死んでいくこともありました。穴を掘って、その上に次の人を次々と埋めていきました。夜になると (黒人) やアメリカーが住民地区にやってきてきました。女目当てです。

『語り次ぐ戦争』(第3集)

6月25日には平敷から東側の住民が大浦崎収容所に強制移送された。しかし収容所の食糧事情は劣悪で、収容所から本部まで食糧を探しに行かなければならない状況だった。

比嘉サエ(崎山出身:現名護市辺野古)証言

(大浦崎に着いたら)広っぱに集められて、何もなかった。だからまず家を作った。五〇人組を作って、山から木を切ってきてカヤブチヤーを作ったよ。木はたくさんあるさ。小さい掘っ立て小屋だからね、すぐ出来る。(床がないから)草を敷いていた覚えがある。山に入ってみんなで草を刈ってきて。そこでお産をした人もいたよ。 … (中略) …

今帰仁の崎山にはアメリカさんがいっぱいいたよ。飛行場も造っていた。うちのすぐ隣りにガライダーの小さな飛行場があった。今は土地改良されて畑になっているけど、今でもその土地は「飛行場」と呼んでいるよ。

『語り次ぐ戦争』(第3集)

 

収容所で射殺された住民

こちらは1945年6月末わずか3日間で2万人以上が集められたという大浦崎収容所の様子です。今帰仁村本部町伊江村の人たちを地区別にわけて収容していることがわかります。また辺野古崎の先にあるアメリカ軍のキャンプ内に食糧倉庫や病院、さらにアメリカの諜報部隊CICが置かれていたことも人々の証言から明らかになっています。

11年かけ400人の証言集「やんばるの沖縄戦」 – QAB NEWS Headline

本部町備瀬から辺野古 (大浦崎収容所) に送られた証言者

主人の両親も鍋や釜を取りに出掛けたところを米兵に捕まり、射殺されてしまった。夜が明けても戻って来ないので、みんなで手分けして探しに出掛けたが、新里の畑に埋めて棒を立ててあったとのことであった。

またその頃は、強姦事件も起こっていたし、実際に泣き寝入りさせられている者もいたので、村に戻って来ても、若い子持ちの女性などは天井裏に隠し、食べものも下から上げるほどの警戒ぶりであった。

久志の収容所にて

私たちは間もなく捕まって久志へ逃れて行かれたが、そこではまず、米軍の船から陸揚げされた荷物を運ぶ作業に狩り出された。また、食べものがどうしても不足だったので、米兵に襲われることを警戒しながらも、山奥まで行ってヨモギなどを摘んで来るのがつねであった。... <中略> ... やがて、作業に出ると配給があり、トウモロコシを砕いたものをもらって来て、米に混ぜて食べるようになり、いくらか暮らしよくなった。とはいえ、食糧が足りなかったばっかりに、金網の中へ盗みに入ろうとして、米兵に射殺されたものもいた。

また、はるばる本部まで食糧を取りに帰る途中、米兵に襲われた婦人たちの話はたびたび耳にしたし、働き手のない家族では、十二、三歳の少年を本部まで大人たちについて行かせたものの、途中で敗残兵に荷物を全部奪われて、何も持たずに戻って来る例もあった。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

米軍心理戦部隊が作成した住民用のビラ。軍の指示に違反すれば射殺されると警告しているが、実際に多くの証言が収容所内で老人ですら容赦なく射殺されたことを示している。

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OKINAWA PSYOP

 

「軍作業」としての米軍基地建設

収容所で生きることに必死の住民は、軍作業にも駆り出された。しかしこの時点での基地建設労働を主に担ったのは主には捕虜収容所の元日本兵であったといわれている。

野嵩収容所にいた男性の証言:

私が野嵩に来たころには、すでに前に捕虜になった人たちは軍作業に出ていた。軍作業は強制でなく、出たい人たちが早朝MPテント前の広場に何百人と集まり、続々迎えにくる米軍トラックに、迎えに来た米兵が要求する人数だけMPが数えて送り出す方法をとっていた。中にはちゃんと作業先が決まっている人たちがいて、そういうグループの場合責任者として班長制度もとられていた。そういう以外の人たちは、トラックが着くたびに作業にありつこうと押し合いへし合いを繰り返した。軍作業はもちろん無給だが、作業先で、収容所では食べることができないような食事にありつけたし、食糧、衣服、たばこ等の余得があるので、皆必死だったのである。そういうことで朝のMPテント前広場は大変活気にあふれていた。

《「忘られぬ体験  市民の戦時・戦後記録 第一集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 100頁より》

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米空軍: Use of native labor was kept at a minimum in the construction of air fields on Okinawa. Reports from men at the field stated that women were eager to work and trucks bringing them to the construction area were constantly filled. Shown here are some of the women laborers laying coral on the low spots of Machinato Strip.

米空軍「飛行場での地元住民の労務は最小限に抑えられた。現場の兵士の報告によると、女性たちは労役に意欲的で、作業場までいくトラックはいっぱいだったという。この写真に写るのは、マチナト[牧港]滑走路の低地に石灰岩を敷く女性労働者。浦添」(1945年7月6日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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