〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年 8月24日 『阿嘉島から屋嘉収容所へ』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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《AIによるカラー処理》墓の正面にある第11空挺師団第511パラシュート歩兵連隊の指令所(1945年8月24日撮影)

511th Parachute Infantry Regiment Command Post, 11th Airborne Division directly in front of an Okinawan Tomb.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/326112.jpg

読谷飛行場の北側の1号線沿いにある第148航空路保安管制兼通信作業部隊(1945年8月24日撮影)

The 148th A. A. C. S. located on Route 1 north of Yontan Airfield.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

阿嘉島から屋嘉収容所へ

阿嘉島海上挺進第2戦隊は、8月22日に投降し、翌23日には沖縄島へと移送され、その夜には、屋嘉収容所に収容された。

ある日本兵の回想:

『夜が明けると、早々にわれわれのいる柵のまわりに人が集まってきた。その人垣の向こうには三角形のカーキ色のテントが並んでみえ、右手には点々と船と飛行艇が浮かんでいる海が、そしてその向こうに低く長く続く陸地と、2、3の島が見えた。

集まってきた群衆の大半は帽子はかぶっていても半裸体で、そのズボンの腿と尻に、また上衣を着ている者は胸と背に、どれもこれも〝PW〟と黒く大きくしるされていた。それらの者は、われわれが島で見合ってきた人間とはまるで異なっていて、その皮膚は茶色に焼け、水滴をはねのける程に脂肪の光沢があり、肩に、胸に、隆々とした筋肉がついていた。

その中に、かつて阿嘉島にいた朝鮮の軍属の顔が見え、特別な眼付を示しながら早口に同僚と話していた。また、同じく戦闘中に島から脱出した基地隊・整備中隊の兵隊も多くがここに来ており、こちら側からも仲間を見出して話合っている姿も見られた。

そのうち、上衣をつけた者達が、われわれが入ってきたゲートに並び、次々とくるトラックに20人くらいずつ乗り組んで出て行った。』(210-211頁)

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 211-214頁》

http://heiwa.yomitan.jp/DAT/LIB/WEB/4/p0168.jpg

屋嘉収容所

『陽が高くなると、熱線が容赦なく照射し、下の砂は焼けて苦痛になってきた

ようやく柵の外の見物人が散って行った頃、入口の方で野太い声がした。

見ると、サングラスをかけ、ハンチングに似た米軍の作業帽をかぶり、鼻ひげを生やした力士のような体格の日本人がいて、背の高い米軍将校と下士官の服装に眼鏡をかけた小柄な日本人が並んで立っていた。

ひげの男は、われわれに向って、

これから持物の検査をする。5人ずつ出ろ

と、東北弁とわかる声で号令をかけた。疲れ切っている私には、こうした先輩格の捕虜の号令に対しても反撥するだけの気力もなかった。

柵の中央を東西に通じている広い通路に出た。毛布か携帯用テントの上に持ち物を全部展示するのを、米軍将校が点検するのであったが、その傍らについている眼鏡の小柄な下士官は、日本人二世の通訳係であった。

刃物の所持はいっさい禁じられたが、滑稽なのは、煙草を吸う連中が、島の海岸で拾った吸い殻や、海水でふやけたものを天日で乾かして空瓶に入れたものであった。米軍将校はそれが何であるかわからないらしく、通訳に説明を求めていた、わかると呆れとも軽蔑ともわからない笑いを浮かべた。

装具検査が終わった頃、朝鮮人の一団が、日の丸を黒く塗って、まわりに羽のようなものを描いた旗を立て、口々に何か言いながら近づいてきた。その先頭の一人が大声でこちらに叫ぶと、これに応じて私の近くにいた同じ中隊の仲間である兪村が、「おう」

と声をあげて出て行った。彼らは取り囲んで、数人が尋問口調で話しているようであったが、すぐ彼はその群れに組みこまれ、歓声をあげながら引揚げて行った。それが一年の間同じ中隊長直轄として暮らしてきた彼との最後であった。

そのうち誰かが先輩の捕虜から聞いてきたらしく〝ポツダム宣言〟とか〝無条件降伏〟という言葉や、または〝朝鮮が独立したのだ〟という話もあったが、急には事態がのみこめなかった。

しかし、時の経過と共に、いろいろなことが耳に入ってきた。たとえば〝天皇は戦争の責任をとって退位することになる〟ということや、〝日本は幾つかの州か邦に分割されることになる〟という話、〝沖縄はアメリカの保護の下に、独立国にされる〟等々であった。それらは、われわれにとっては予想もしなかった情報であったが、そうしたことを聞き集めてくると、なるほど無条件降伏というものは、単に日本軍の歴史上始めてのものという漠然とした認識以上に、これから先は大変なことになるのだなあ、とおよそのことがのみこめるようになった。

そうした大きな情報から、一方では小さな事項についての情報もあった中で、われわれにも直接関係がある最も興味を持ったことは、慶留間で戦死したものと思っていた篠崎や松本が、大下少尉と共に舟艇で出撃して沖縄本島に来、首里近辺の戦闘で戦死したという話であり、これからは慶良間海峡で米軍の艦船に対して攻撃し、駆逐艦1隻、輸送船2隻を沈めた功績が大本営発表となり、特別進級としたというのであった。

まもなく米軍の衛生兵が2人来て広場に連れて行き、10数人ずつ並ばせて衣類の全部をとるように指示した。われわれが身にまとっているものは、シャツから褌(ふんどし)に至るまで、垢としらみの跡などで汚れに汚れていた。褌一つになる(もっとも褌のない者も相当いた・・)と、衛生兵は首を振って全部とれという仕ぐさをし、素裸になって並ぶと全身白い粉(これはDDT)をふりかけ、皮膚病の者には塗り薬を渡した。脱いだものは、目の前でガソリンを撒いて点火した

先輩の捕虜が持ってきた米軍の古着を着ると、手も脚も20センチ程も余り、かかしのような格好になった。』(211-214頁)

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 211-214頁》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/111-12-4.jpg

慶良間列島で投降した日本兵(撮影日不明)

Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

阿嘉島朝鮮人軍夫

そして、私たちに船に乗れといわれて、見たら、黒人が銃を構えていたんです、数人が、船に。それで、服を脱がないと船に上がっていくことができないんです。そこの米軍が、黒人がポケットを触って調べてから手を引っ張り上げて載せるんです。私たちにビスケットやお菓子、タバコを1個ずつ配るんです。いや、世の中にこんなこともあるんだと、妙な気がしました。(米軍が)見たら、捕虜になったら、殺すと日本人が宣伝したんです。「あれ見て、見て、朝鮮人を処刑して燃やしている」。ゴミを燃やしているの見て、私たちにそう宣伝しました。皆、あのようになるんだと。火で燃やすと。
向こうにあるのが座間味(島)といって、座間味、知っているでしょう。阿嘉島の向こうにあるんですけど、そこから煙が立ち上ったら、(実際は)掃除をしたので、煙がもうもうと立ち上ったんです。片付けるために、燃やしているのを。それで、私たちは捕虜になったら、殺されると思ったんです。なのに、そうでもなく、(船に)乗ってみたら、ポケットからタバコなどを出してくれるんです。本当に。生まれて初めてでした。それで、座間味に行ったら、朝鮮人が米軍服を着て髪も整えて紳士になっていたんです、先に行っている人たちは。何で、ここに来てこんな格好にしているのか。私たちは飢えて、そんなことに関心がなく、死にそうなのに。そこにいたら、米ご飯を炊いてその匂いがし、牛肉のスープの匂いがして。夢中になって食べまくって。< 中略 >

「内鮮一体」って、日本は内地で、韓国は朝鮮なので、同じだ、同じ処遇を受けるということですけど、結局、そのときはそうではなかったんです。仕事するときは内鮮一体で、仕事しないときは・・・。そうでしょう。それのどこが内鮮一体ですか。ただの内鮮一体です。私たちをこき使うために、そのときは内鮮一体と言ったんです。あとになって、「内鮮一体」なんてなかったんです。後になったら、ないんです。知らん顔したんです。それはないでしょう。それがちょっと残念に思われます。
「内鮮一体」といった以上は、同等に待遇してくれるべきではないですか。自らひどいことした上に、たくさんこき使って知らん顔し。これはないでしょう。人間としてやってはいけないことです。命を捧げ、死んだ人が半分になるというのに、その態度は何ですか。最も無情な態度に出ました。人間扱いしてくれなかったんです。それのどこが内鮮一体ですか。

イム・ビョンファンさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

渡嘉敷島 (第3戦隊) の投降

『午後、同じ慶良間の渡嘉敷島に残っていた第3戦隊が、隊長以下集団で投降してきた。彼らは、われわれに比べるとまだ服装も整い体力ある身体つきをして、一応軍隊らしい形を保っていた。

…長い1日も終わろうとしていたが、われわれの入るテントが決まらず、終日何もない砂地の上におかれて焼きつくような陽に照らされたので、弱い者はぐったりと倒れ込み、まだ元気のある者も気がイラ立つらしく、立ったり坐ったりを繰り返していた。

夜に入っても、ここを囲った有刺鉄線の外に数ヵ所の高い監視所があって、強い電光のサーチライトが点ぜられているため、収容所の中は明るかった

その夜半、裏山の方角から機関銃の音が聞こえ、砂地の上に段ボール紙を敷いて寝ている上を、〝ピューン〟と流れ弾の音が走った。

古参の者の話によると、この裏山の奥にはまだ陸軍少佐に率いられた2、3百人の日本兵がいるということで、銃音のするたびに、

「友軍は、中々やるなあ」とか、「脱走してもう一戦やってみるか」という声などが聞こえた。』(214-215頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 214-215頁》

 

戦場の学徒兵

南風原: 一中通信隊 (電信第36連隊第6中隊へ配属)

そこは9月の初めだから、10月11月、2か月、もうほとんど3か月くらいね、そこにじっとこもっていて、外との情報とかのもほとんどなくて。捕虜になったら確実に虐殺されるという、考え方だけですよね。< 中略 > そこで長く居座って、言えば、こもった。というのもやっぱりある事情があるわけです。普通大体6月23日ころ、玉砕して、すぐ捕虜になった人、というのはほとんど囲まれて逃げ場を失って捕虜になった。あるいは、もう10月ころ、また9月10月になったら、もう日本は負けたから投降しようという、大部隊で、言えば、部隊ごと投降したようなところもあるわけですよね。こういう人らはやっぱり、そういうことを米軍から、あるいはそれを説得しに来る人がいるわけです。< 中略>

それで、やっと11月の末ですよ。僕は23日というふうに今あれですけど、そのころになってね、じゃ出ようと。壕を出ましょうというふうに話がついたわけです。

 

宮平 盛彦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 当時15歳で学徒隊員だった宮平盛彦さんは、殺害の謀議に加わった。「生きて返せば、自分たちの居場所が米軍にばれて殺される、と思った」と当時の思いを明かす。

 45年10月、すでに終戦したことも知らず、大人の兵隊6人と南風原町津嘉山にある旧日本軍の壕だった洞窟に身を潜めていた。ある日、「山、山」と合言葉を言い、奥へと入ってくる二人がいる。「戦争は終わった。本土に一緒に帰ろう」。投降を呼び掛けに来た日本兵だった。

 洞窟の奥で、兵隊たちが話し合い、結論はすぐに出た。「日本が負けるはずはない。米軍のスパイに違いない。生きて返すわけにはいかない」。入り口を土の塊でふさぎ、出ようとした二人を背中から射殺した。宮平さんの耳にも、発砲音は届いた。

 戦後五十年がたち、宮平さんが新聞に証言したことで、殺された一人が北海道の人と分かった。今も毎年、慰霊の花を手向ける。

東京新聞:4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇:伝言 あの日から70年特集

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「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。

慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属した2人でしたが、戦後の状況は全く違っていました。終戦を知らず11月の半ばまで南部を逃げ回っていた宮平さん。一方で、8月下旬には既に家族とともに、名護で暮らし始めていた井口さん。それはある日本兵のお陰でした。

井口さん「ある日本兵この人たちは学生だよって英語で言うのね。デイアースクールボーイズって」『彼らは学生だ』壕から出て捕虜になった時、そばにいた日本兵が井口さんをかばってアメリカ兵に伝えたこの一言。そのおかげで、まだ少年だった井口さんは兵隊と一緒に収容所に連れていかれることなく、家族とも早くに再会することができたのです。

あれから65年。井口さんは今でも、なぜ幼い少年までもが戦争に駆り出されたのか問い続けています。井口さん「家族を持ち、恋をして。そういうこともできなくて、日本は負けない、絶対勝つと信じていたんでしょう。こんなことは起きないように、人間性を失うような戦争はやるべきではないと感じます」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月24日(金)

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

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  1. 宮平 盛彦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス
  2. 沖縄慰霊の日:癒えない自責の念 87歳元少年兵 - 毎日新聞
  3. 東京新聞:4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇:伝言 あの日から70年:特集・連載(TOKYO Web)