米軍の動向
〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 読谷村
日本軍の飛行場があったため上陸地点となった読谷村では、沖縄戦で村土の約95%が占領され、全村域で基地化されることとなった。
写真左: 昭和19年頃 (1944年) の読谷山村の航空写真。中央の北飛行場は昭和18年夏に計画され、旧9173部隊の指揮下で総面積73万坪、2,100m滑走路をもつ東洋一の飛行場とし県下各地から動員された徴用労務者等によって1年6か月余にわたって工事が進められた。
写真右: 1945年12月10日撮影の航空写真。米軍は上陸後早々に本土攻撃の飛行基地建設に着手、北飛行場跡に沖縄で最初の中距離爆撃機用飛行場(2,000m)が1945年6月17日に完成した。その後、残波岬南の長距離用(2,550m)のボーローポイント飛行場も完成した。
《「平和の炎Vol.10」読谷村 (1998) 》
読谷飛行場の北側の1号線沿いにある第148航空路保安管制兼通信作業部隊(1945年8月24日撮影)
The 148th A. A. C. S. located on Route 1 north of Yontan Airfield.
第32軍の敗残兵
慶良間諸島 - 阿嘉島と渡嘉敷島
阿嘉島から屋嘉収容所へ
阿嘉島の海上挺進第2戦隊は、8月23日に武装解除し投降、その夜には、屋嘉収容所に収容された。
夜が明けると、早々にわれわれのいる柵のまわりに人が集まってきた。その人垣の向こうには三角形のカーキ色のテントが並んでみえ、右手には点々と船と飛行艇が浮かんでいる海が、そしてその向こうに低く長く続く陸地と、2、3の島が見えた。
集まってきた群衆の大半は帽子はかぶっていても半裸体で、そのズボンの腿と尻に、また上衣を着ている者は胸と背に、どれもこれも〝PW〟と黒く大きくしるされていた。それらの者は、われわれが島で見合ってきた人間とはまるで異なっていて、その皮膚は茶色に焼け、水滴をはねのける程に脂肪の光沢があり、肩に、胸に、隆々とした筋肉がついていた。
その中に、かつて阿嘉島にいた朝鮮の軍属の顔が見え、特別な眼付を示しながら早口に同僚と話していた。また、同じく戦闘中に島から脱出した基地隊・整備中隊の兵隊も多くがここに来ており、こちら側からも仲間を見出して話合っている姿も見られた。
そのうち、上衣をつけた者達が、われわれが入ってきたゲートに並び、次々とくるトラックに20人くらいずつ乗り組んで出て行った。
陽が高くなると、熱線が容赦なく照射し、下の砂は焼けて苦痛になってきた。
ようやく柵の外の見物人が散って行った頃、入口の方で野太い声がした。
見ると、サングラスをかけ、ハンチングに似た米軍の作業帽をかぶり、鼻ひげを生やした力士のような体格の日本人がいて、背の高い米軍将校と下士官の服装に眼鏡をかけた小柄な日本人が並んで立っていた。
ひげの男は、われわれに向って、
「これから持物の検査をする。5人ずつ出ろ」
と、東北弁とわかる声で号令をかけた。疲れ切っている私には、こうした先輩格の捕虜の号令に対しても反撥するだけの気力もなかった。
柵の中央を東西に通じている広い通路に出た。毛布か携帯用テントの上に持ち物を全部展示するのを、米軍将校が点検するのであったが、その傍らについている眼鏡の小柄な下士官は、日本人二世の通訳係であった。
刃物の所持はいっさい禁じられたが、滑稽なのは、煙草を吸う連中が、島の海岸で拾った吸い殻や、海水でふやけたものを天日で乾かして空瓶に入れたものであった。米軍将校はそれが何であるかわからないらしく、通訳に説明を求めていた、わかると呆れとも軽蔑ともわからない笑いを浮かべた。
装具検査が終わった頃、朝鮮人の一団が、日の丸を黒く塗って、まわりに羽のようなものを描いた旗を立て、口々に何か言いながら近づいてきた。その先頭の一人が大声でこちらに叫ぶと、これに応じて私の近くにいた同じ中隊の仲間である兪村が、「おう」と声をあげて出て行った。彼らは取り囲んで、数人が尋問口調で話しているようであったが、すぐ彼はその群れに組みこまれ、歓声をあげながら引揚げて行った。それが一年の間同じ中隊長直轄として暮らしてきた彼との最後であった。
そのうち誰かが先輩の捕虜から聞いてきたらしく〝ポツダム宣言〟とか〝無条件降伏〟という言葉や、または〝朝鮮が独立したのだ〟という話もあったが、急には事態がのみこめなかった。
しかし、時の経過と共に、いろいろなことが耳に入ってきた。たとえば〝天皇は戦争の責任をとって退位することになる〟ということや、〝日本は幾つかの州か邦に分割されることになる〟という話、〝沖縄はアメリカの保護の下に、独立国にされる〟等々であった。それらは、われわれにとっては予想もしなかった情報であったが、そうしたことを聞き集めてくると、なるほど無条件降伏というものは、単に日本軍の歴史上始めてのものという漠然とした認識以上に、これから先は大変なことになるのだなあ、とおよそのことがのみこめるようになった。
そうした大きな情報から、一方では小さな事項についての情報もあった中で、われわれにも直接関係がある最も興味を持ったことは、慶留間で戦死したものと思っていた篠崎や松本が、大下少尉と共に舟艇で出撃して沖縄本島に来、首里近辺の戦闘で戦死したという話であり、これからは慶良間海峡で米軍の艦船に対して攻撃し、駆逐艦1隻、輸送船2隻を沈めた功績が大本営発表となり、特別進級としたというのであった。
まもなく米軍の衛生兵が2人来て広場に連れて行き、10数人ずつ並ばせて衣類の全部をとるように指示した。われわれが身にまとっているものは、シャツから褌(ふんどし)に至るまで、垢としらみの跡などで汚れに汚れていた。褌一つになる(もっとも褌のない者も相当いた・・)と、衛生兵は首を振って全部とれという仕ぐさをし、素裸になって並ぶと全身白い粉(これはDDT)をふりかけ、皮膚病の者には塗り薬を渡した。脱いだものは、目の前でガソリンを撒いて点火した。
先輩の捕虜が持ってきた米軍の古着を着ると、手も脚も20センチ程も余り、かかしのような格好になった。
Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands.
渡嘉敷島 (第3戦隊) の投降
渡嘉敷島の赤松隊は、8月16日にも米軍に投稿勧告文を持たされた住民を2人殺害したが、その翌日から投降交渉を続けていた。
午後、同じ慶良間の渡嘉敷島に残っていた第3戦隊が、隊長以下集団で投降してきた。彼らは、われわれに比べるとまだ服装も整い体力ある身体つきをして、一応軍隊らしい形を保っていた。
…長い1日も終わろうとしていたが、われわれの入るテントが決まらず、終日何もない砂地の上におかれて焼きつくような陽に照らされたので、弱い者はぐったりと倒れ込み、まだ元気のある者も気がイラ立つらしく、立ったり坐ったりを繰り返していた。
夜に入っても、ここを囲った有刺鉄線の外に数ヵ所の高い監視所があって、強い電光のサーチライトが点ぜられているため、収容所の中は明るかった。
その夜半、裏山の方角から機関銃の音が聞こえ、砂地の上に段ボール紙を敷いて寝ている上を、〝ピューン〟と流れ弾の音が走った。
古参の者の話によると、この裏山の奥にはまだ陸軍少佐に率いられた2、3百人の日本兵がいるということで、銃音のするたびに、「友軍は、中々やるなあ」とか、「脱走してもう一戦やってみるか」という声などが聞こえた。』
久米島の離島残置工作員「上原敏夫」
住民虐殺を繰りかえす鹿山隊の久米島には、陸軍中野中学の離島残置工作員もいた。
宮平さん「軍隊服は着ないで普通の住民の服を着ているから、だれが兵隊かわらない。だからそれが怖かった」さらに、日本軍はスパイを養成する陸軍中野学校の卒業生を教師として住民の中に潜伏させ、諜報活動をしていました。上原敏夫(本名:竹川実)は1945年1月に久米島の具志川国民学校に赴任。村長の娘と結婚し、住民たちからも厚い信頼を得ていました。上原先生の任務は「アメリカ軍に情報を流出させないこと」。つまり、住民たちをスパイにさせないよう見守ることでした。
島袋由美子さん「鹿山隊長が山から降りてきて役所とか農業会でいろいろ用事をして、帰りはそこ(上原先生のところ)に寄ってずっと話をしたり、そういうことはやってましたって」上原先生の下宿には、当時、鹿山隊長が頻繁に訪れ情報交換をしていたと言います。
… アメリカ軍が上陸すると住民から情報が漏れることを恐れた上原先生。譜久里さんにだけ、こんな計画を吐露しました。譜久里さん「久間地の部落に集結させて玉砕させると言いよった。自分の家族を犠牲にしたくないから、会わないようにした」
譜久里さんは66年間、胸にしまっていた思いを話してくれました。譜久里さん「あの時は、もう本当に軍国少女だから。ずいぶん尊敬していました」譜久里さんは軍国少女として、命を投げ出して戦おうとする上原先生に憧れ、鹿山隊長へ尊敬の念を抱き、日本軍にも率先して協力していました。
しかし、自宅近くにアメリカ軍の兵舎が設営され、小さな姪にアメリカ兵が缶詰や菓子を渡したとたん、その思いは裏切られます。譜久里さん「米軍と接触したということで(日本軍の虐殺)リストに載ったわけです。うんと山の兵隊に協力したのに(虐殺)リストにあがっているんですよ。あと2日後にやるということで」アメリカ軍の兵舎が近くにあった譜久里さん一家を含め、9件の家族が2日後に虐殺されることになっていたのです。
日本軍に協力して裏切られ、アメリカ軍と接触したといって虐殺される譜久里さんは戦争の不条理さを嘆きます。譜久里さん「もう二度と戦争は起こすな。もうこれ以外はないです。人間が人間でなくなる」
久米島には2人の残置離島工作員がいた。鹿山隊が9月7日に投降し武装解除した以降も、彼らは島に残り続けた。
中野学校の教育で、残置諜報員は現地に溶け込むために地元の有力者の娘を妻にして信用を得るようにと指導されていた。「上原先生」は、具志川村の助役の娘で具志川校に勤めていたSさんと結婚 (偽名を使っているので正式な結婚ではない)、 仲里村青年学校の「深町指導員」は、久米島で初の金鵄勲章をもらった在郷軍人の娘と結婚した。 《久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 93頁》
1946年3月24日、上原敏夫、深町尚親2名は米軍の船艇に連行された。Sさんは上原の帰りを待ち続けた。
「上原敏雄」は、戦後具志川国民学校の具志川分校で妻のSさんと教鞭を執り、高校受験を目指す生徒を自宅に集め受験指導をしていた。… 久米島に永住するつもりでいたようだが、1946年の3月米軍舟艇が来て収監された。残されたSさんは、その年の5月に男児を出産した。
陸軍中野学校の“正史”。「離島残置工作員」の箇所では1人だけ実名を伏せてある
竹川さんは、沖縄本島の収容施設に送られ、二度と久米島に戻らなかった。同年(1946年) 11月に本土へ帰った後、神戸で教員を務め、小学校の校長として定年を迎えている。家族によると、1991年に68歳で亡くなるまで、工作員の経験を明かすことはなかったという。当時の心境をうかがわせるのは、師範学校卒業30年の記念冊子だ。多くの卒業生が、戦中・戦後を努めて前向きに振り返る手記を寄せるなか、竹川さんの書きぶりは異様とも映る。
「沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体何をしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような30年とさえ思われます」「この30年は虚仮(こけ)の半生だったと悔やまれます」。
そのとき、住民は・・・
漢那収容所の恐怖
沖縄島に設置された12の民間人収容所
安谷屋収容所にいたころ、金武村中川収容所への移動が、米軍隊長より発表されたとき、大方の避難民は不安に動揺した。なんとかして中止させたい、と隊長に陳情する動きもあった。中川の収容所は、山の中の不便なところで、そのうえ敗残兵が出没して、住民をおびやかしているといううわさがあった。それで、あんな物騒なところに行くのはいやだと騒いだのだ。わたくしは家族を北部に疎開させていたので、北部に近づく喜びで、むしろ移動の実施を心ひそかに待ち望んだ。米軍による中川収容所への移動計画は、避難民の意思におかまいなく進められた。七月中旬から米軍のトラックで輸送が始まり、八月初旬までに三万人余りの移動が終わった。
わたくしたちの収容された中川は、金武岳のふもとにひろがる雑木の山とカヤの丘、そして細長い谷の多いところであった。その山の中やカヤ原に、先に収容された人々の手で、一間半に四間の掘っ立て小屋(屋根も壁もカヤ、内部は土間のまま)が何百も建てられていた。それがわたくしたちの住家であった。市長は、北谷村長の経歴を持つ新垣実氏、警察署長には、巡査の経験こそないががっちりした体格を買われた宮平某、小学校長は校長の経歴のある当山真志氏(戦後、立法院議員)であった。隊長はタムソンという少佐で、見るからに温厚そうな知識人であった。さて、こう書いてみると、中川収容所は山間の平和郷のように想像されるだろう。ほんとうにそうであってほしかった。わたくしたちは、どんなに平和を祈ったことか……。終戦のみことのりも下って、米軍も住民を保護してくれるし、敗戦の悲しみはあっても、恐怖にさらされることはなくなっていた。ところが、全く残念なことには、ここ中川収容所には、住民を恐怖のどん底に落とし入れる事件が、夜な夜な頻発した。しかもそれは、敵だった米兵ではなく、わが友軍の敗残兵によるものであった。群盗にひとしいその略奪、暴力ざたをいちいちしるせば、枚挙にいとまないほどである。
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