〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月16日 『戦争は終わったのか?』

 

米軍の動向

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《AIによるカラー処理》嘉手納飛行場の第389空軍通信センター。(1945年8月16日撮影)

The 389th Air Service Group message center at Kadena Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

第32軍の敗残兵

恩納: 第44飛行場大隊

…すでに8月15日もすぎていたと思うが、ある夕暮どき、山麓近くの田んぼで穂をつむ戦友を残して、私は大胆にも、あたりはまだ明るいというのに、1人で蟹を捕らえるために海岸への軍用道路を飛びこえた。このとき那覇方面からジープが1台疾走してくるのに出会ってしまった。危い!距離300メートル、しまった!と思ったがもう戻ることは不可能だ。「見つかったら殺される」わたしは突嗟にブルドーザーで海中に横倒しされている松の枝の中に退避した。

「どうか見つからないでくれ」祈るような数秒。米兵に対する恐怖の心臓が時計の秒針のように激しくうつ。と、ジープは私の3メートルくらい高い頭上で停った。見つかったのだ。中から自動小銃を手にした大男が出てきた。私は拳銃の引き鉄に手をかけたが、少しでも海中に身をすくめるように観念の眼を閉じた。熱帯疥癬の体に波がザブンと打ちよせては返す。自動小銃をいじくっているような金属音がきこえてくる。絶対絶命、こんどこそ殺されると思った私はだれにも知られず、こんなみじめな姿で死んでゆくいとおしさに、妙に肉親の面影が浮んできた。どれほど時間が経ったかわからない、私の一生でこれほど長い時間はなかったろう。そのうち米兵は用便をすますとジープを始動して名護方面に走り去っていった。

まったく奇蹟的なできごとである。救われたのだ。わたしは死の緊張からグッタリとなった夕闇のその場で、目に見えぬ運命の神、亡き戦友の霊に心から祈らずにはいられなかった。米兵がなぜ私を射殺しなかったかは、いまもって解けぬ謎である。

谷茶の浜に再三出没する日本敗残兵はきっと米軍のリストにも載っていた筈だ。やがてこうした大胆な行動は、みずから敵の掃討戦をまねく結果となった。それから1週間くらい経ったある日の朝、静寂だった谷茶部落の山麓一帯にかけて、自動小銃の音がけたたましく鳴りだした。

パパパパーン、ダダダダー

戦場に生きる者にとって銃声は研ぎすましている音だ。私たちは「掃討戦だ」と気がついて緊張した。その音は山麓から次第に私たちの潜んでいる山上の谷間の方まで近づいてきた。私たちもあわてて世帯道具のナベ、カマ、食糧などを背負い、小屋からぬけだして背後の灌木林や、雑草の生えている稜線に避難路をもとめた。ところが、山の稜線の小径には、萱で結んだ厳重な包囲網が形成されていた。敵はこんな近くまできていたわけである。私たちはその萱で結んである下をかい潜って泳ぐように屋嘉岳の方に逃げた。敵は50メートルくらい高所にいて、追いたてられてくる敗残兵をまるで兎射ちでもするように、樹木の枝葉をふるわせるように機銃を射ちこんできた。みんな黙ってひそんでいると、付近に生えている蘇鉄の幹を銃弾が貫いて、枝葉が2、3枚ばさりと地に落ちた。まったく生きた心持ちもしないような激しい掃討戦であったが、このときも私たちは、敵からわずかばかりの至近距離に潜んでいて助かった。私たちの谷間の避難小屋は無事だった。

だが、この掃討戦で麓の方の谷間にいた敗残兵は全滅した。私たちがいつか月夜の晩に田圃の穂つみで出会ったことのある石部隊の兵隊も全滅をくった。その中で籾干しに小屋を離れた1人だけ奇蹟的に助かった。その晩に、暗がりの中をその兵隊は、私たちの小屋の灯りをたよりに沢の下方からよろめくようにざわざわと登って、助けを求めてきたのである。その兵隊はまるで悪夢から醒めきらぬように、恐怖が抜けきらない表情で黙りこくっていた。(256頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より》

 

慶良間列島

阿嘉島(あかじま): 海上挺進第2戦隊(戦隊長: 野田義彦少佐/阿嘉島慶留間島)

渡嘉敷島(とかしきじま): 海上挺進第3戦隊(戦隊長: 赤松嘉次大尉)

『…阿嘉島では戦闘らしい戦闘はなかったが、野田少佐ら日本兵と多数の住民は投降することなく、飢えと不安の壕生活を続けていた。8月15日が過ぎても沖縄戦が終わったことも、日本が降伏したことも知らず、あるいは認めず、暗黒の世界で暮らしていた。

8月16日

渡嘉敷島では386人の島民が山の洞窟を抜け出し、アメリカ軍に投降した。その話では、渡嘉敷島の赤松部隊は近日中にアメリカ軍に斬り込み攻撃をかけるということだった。戦争は終わったというのに何ということだ。斬り込みを止めさせ、早めに降伏させねばならない。8月1日から全アメリカ軍の指揮を握った陸軍サービス・コマンドのG2将校らは渡嘉敷と阿嘉で投降した日本兵捕虜に相談した。』(27頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 27頁より》

 

宮古島 - 餓死兵のむくろ

「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸(むくろ)焼きし宮古(しま)よ八月は地獄」…

高沢さんは仲宗根さん宛ての手紙に「毎日、飢えながら、栄養失調とマラリアで亡くなった兵士を荼毘(だび)に付していました」と当時の惨状を記し、「兵隊は現地で悪いことをしていたので、私はもう宮古島へは行けません」と伝えた。…

制海権と制空権を米軍に奪われ、内地からの輸送は途絶えた。武器弾薬はおろか、食料も医薬品も届かない。マラリアに侵されても、医薬品がないから、百二十人の軍医を擁しても、なすすべもなかった」 

宮古島の沖縄戦 - Battle of Okinawa

 

敗戦の知らせ - 竹富島の大石部隊

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玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び・・・」

65年前のきのう、ラジオを通じて、多くの日本国民は敗戦を知る瞬間を共にしました。一方、沖縄では戦争の混乱などもあり、玉音放送を聴くことができたのは、ごく一部の人だけだったといいます。

竹富島に住む当時8歳だった阿佐伊孫良さん。当時の竹富島の様子をこう話します。阿佐伊孫良さん「おそらく(竹富島にほとんど)ラジオはなかったんじゃないかと思います。玉音放送は一切聞いていない」当時、竹富島には大石隊という部隊が駐屯していましたが、その隊長すらも終戦の一報を電文で受け取ったのは、翌日の16日でした。

阿佐伊さん「すすり泣きをしていたんです。島民も。それから兵隊も。異様な雰囲気だなということで、なんだろうと。戦争が終わったと。(両親は)ホっとしたような気分だったんじゃないでしょうか」玉音放送から遅れることおよそ1週間後の22日頃、隊の大石隊長は国民学校の運動場に島民や兵士を集め、終戦詔勅を伝えたのでした。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月16日(木)

 

そのとき、住民は・・・

敗戦の知らせ - 米軍野戦病院

米軍野戦病院: 久志村

沖縄本島北部に設けられた米軍の野戦病院に入院していた民間人は、戦争が終わったことを知って泣いていた。

『「日本人としての意識 --- 愛国心 --- 天皇陛下に対して申し訳がないという皇国思想からか」「実質的に、自分たちは米軍に投降したという罪の意識からか」「戦争に駆り出された肉親は、今、生きているだろうか? 生きていたとして、これからどうなるか?」その他の思いが入り交じった複雑な沈黙、そして涙であったと思う。

その日を境に病棟にしんみりした空気が漂うようになった。夜、消灯後、闇が恥とか外聞とかいう余分なものを塗りつぶしていた。

Aさん 「一人息子が入った部隊は全滅という。でも、私は息子が元気でいると信じている」

Bさん 「島尻へ逃げる途中、母とはぐれた。さがしに戻ろうとしたが、迫撃砲の集中射撃で、それができなかった。私は母を捨てたのではない。はぐれてしまったのです」…

Cさん 「夫が防衛隊で伊江島へ行ったがどうなったか。悪い夢ばかり見ているが、死んでしまったのですかね」

Bさんの話が私の胸に突き刺さった。私も祖母とはぐれた。しかし、さがしにいかなかった。私は意識的に寝返りをうった。それで祖母への思いから身をそらそうとしたのだ。』(116-118頁)

《「狂った季節」(船越義彰/ニライ社) 116-118頁 より、》

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《AIによるカラー処理》軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。

Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

収容所で日本兵をかくまった話

首里から子供を連れ南部に、その途中で出産した27歳女性の証言

大けがをして身体には弾の破片が入っていましたが、これで死ねると思ったので割合と元気でした。上にあがる途中、友軍の兵隊が私の弟として一緒に逃れていってほしいとたのみました。海軍の兵隊というその人は民間人にみえるよう、かすりの着物などもつけていました。「ハイ」とも「イイエ」とも云わなかったが、その人も一緒に上にあがったら直ぐ目の前にアメリカ兵が銃を持って立っていました。…(中略)…

私の身体には、直撃弾をうけた時の弾の破片がまだ残っていたので、それをとる為、志喜屋にあった仲間先生の病院に通いました。そこに一緒にいっていたのが、私の弟と偽って、捕虜になった海軍の兵隊さんで、その人もけがをしていました。その人は兵隊である事をかくしていましたので、私の子供にもおじさんと呼ばせ、町内会長や婦人会長の名前も私から聞いておぼえていましたが、いっも自分の身分がばれないかとおそれていた様です。

名前も私の姓を使って、あわぐにですといっていましたが、沖縄では、あわぐにと書いてあぐにというのですよと教えていました。二日位一緒に通院していましたが、丁度その頃民間人といつわっていた日本軍の少尉がそのうそがばれ制裁にかけられるという事件があり、みせしめの為にかそれを私達にも見せていました。そんな事があってその人も制裁をおそれて「本当の事を云いますから姉さんによろしく伝えて下さい」と伝言して名乗りでたらしいですが、何という人だったか名前すら聞いていませんでした。

首里市民の戦争体験 沖縄戦証言 首里 (1) - Battle of Okinawa

首里から南部で捕虜となった30歳男性の証言

それから三、四日過ぎた頃、私が杖を片手に持って休んでる所へ見知らぬ、びっこ[ママ]の若い男が、近寄ってきて、話かけてきました。彼は内地人の兵隊で、本名は千田○○だが偽名を使って、大城重次として、「捕虜」になったそうです。当時兵隊や、郷土出身の防衛隊等は、殆んど屋嘉収容所に収容されて、ハワイに連れられていかれたそうです。後で本上召集の兵隊が、帰還できるようになったので、申し出て屋嘉収容所に移動しましたが、現在本土で養豚業を営んで、元気で過されているとのことで、年賀状も送ってきます。

そして、彼の言うには、私も怪我してみんなといっしょに作業も出られないし、他に那覇出身の力で、儀保さんという方がおりますが、三名いっしょになってくれませんか、とのことでしたので、私も承諾して、三人で食糧さがしに出かけたりして、こじき同様な共同生活に入りました。

米の配給は、二、三日に一回茶碗一杯分ぐらいしかありませんでした。その頃、大城君がなれない野生の植物等食べたせいか、胃腸をこわして下痢をして、痩せ衰えましたので、同じ仲間の苦しんでいるのを、見捨てるわけにもいけませんので、私と儀保君と二人分のわずかな配給米を二人は食べたいごはんも我慢して、彼に、おかゆを炊いて食べさせておりました。大城さんを、他の班の方に頼んで、医務室に治療を受けさせに行きましたが、怪我人が多くて受付を断られて、診てもらえなかったと言って帰ってきましたので、私は下痢患者を甘く見ている医務室の態度に憤慨いたしました。

奇跡の生還後 沖縄戦証言 首里 (2) - Battle of Okinawa

 

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