〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月9日 『この島を取りに来ている強い米軍』

伊江島の避難民

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

『米軍は、無数の対住民用のビラを使って心理作戦を行なったが、「住民に告ぐ」というビラでは、要旨、つぎのように述べている。

アメリカ軍は、支那や日本の内地を攻めるためこの島を使いたいのです。それでアメリカ軍は、マキン、サイパンパラオ等の島々を日本軍から取ったように軍艦、落下傘部隊、飛行機、戦車、重砲その外皆さんが聞いたこともないような新しい武器を澤山使ってこの島を占領しますアメリカ軍はこの様に恐ろしい武器を持っているばかりでなくまた戦いも非常に上手です(中略)この戦争に関係ない皆さんが無敵な米軍に反対するのは馬鹿らしくありませんか。それよりも早く安全な奥地へ行きなさい。米軍は皆さんとくに女の人や子供たちに日本兵のように無駄な死に方をさせたくない。この島を取りに来ている強い米軍の進む道から逃げなさい」。』(182-183頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 182-183頁より》

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日本軍が使用していた那覇南西海岸の滑走路。弾孔は埋められ、爆弾の破片は取り除かれた。空輸部隊の飛行機は兵站部に供給する物資をそこに運び入れる。もともと3本の滑走路を日本軍は使っていたが、米軍は1本を離着陸用に2本を駐機場に利用している。(1945年7月9日撮影)

Former Jap strip of Naha located on the southwest coast of Okinawa was put back in operation. Craters were filled and graded and bomb shell fragments that laid on the field were removed. Planes of the ATC used the field for bringing in supplies and equipment for the depot that was stationed here. Originally the Nips had three runways, but only one was being used for landings and take-offs by our planes. The others were used for parking the transports. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『また「住民はこの戦争にたいしてどんな義務がありますか」というビラでは、なぜ勝つ見込みのない戦争に負け貧乏に暮らしたいのか、と反問し、「皆さんはこの戦争で何か得られることがありますか。日本の軍隊は皆さんの島を安全に守ってくれますか。この戦争は皆さん方の戦争ですか。それとも皆さん方を何十年も治めてきた内地人の戦争ですか」と述べているのである。』(183頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 183頁より》

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牧港飛行場を北向けに望む。(1945年7月9日撮影)

Looking north on Machinato airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第13小飛行場。沖縄本島にはおよそ20の小飛行場があった。沖縄での活動のため米本国から着いたばかりの第163連絡中隊。(1945年7月9日撮影)

Aerial view of Cub Airstrip #13. There were approximately 20 Cub Airstrips throughout Okinawa, Ryukyu Retto. 163rd Liaison Squadron, newly arrived from the States, operated here.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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伊江島の真正面にあるビースリー・フィールド(本部補助飛行場)の小飛行場。停泊しているのはフィリピン諸島ルソン島ラオアグから長旅をしてきた第3空軍第157連絡中隊の哨戒機ヴァルティL-5センチネル。(1945年7月9日撮影)

Cub Airstrip on Beasley Field directly across from Ie Shima. These are Vultee L-5 ”Sentinels” of the 157th Liaison Squadron, 3rd Air Commands that made the long trip from Laoug, Luzon, Philippine Islands to Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

給料日

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第10軍主計局で下士官兵への配分額を計算する3人。左からグローズベックT/5、コフィー2等軍曹、アーヴポン軍曹。(1945年7月9日撮影)

Three men handle the enlisted men's allotments of the Section of X Army Finance. L to R: T/5 T. R. Kennedy, Groesbeck, Tex.; T/Sgt. R. Mayes Coffey, Myrtilo, Miss.; and Sgt. Eugene Urreve-Pon, San Francisco, California.
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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金庫に陸軍第10軍財政資金を納めるイゴ少佐。金庫は軍票日本軍票(円)と重要書類などで一杯である。金庫は古い海軍船橋で出来ている。(1945年7月9日撮影)

Maj. C. E. Ego places the 10th Army Finance currency into the vault. The vault is full of American invasion money, the Military Japanese yen and important papers. The vault is an old Navy pontoon.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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軍票、日本軍票(円)を計算に入れた給料を受け取るために、第1太平洋地域管区中隊事務室の外に集まった陸軍第10軍の下士官兵たち。(1945年7月9日撮影)

Outside of the 1st Pacific Ocean Area Province Company orderly room, 10th Army enlisted men gather for their pay, figured in Japanease yen, American invasion money.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

ニ日間燃え続けた嘉手納弾薬集積場の爆発火災

7月5日から6日にかけて16時間にも及んだ嘉手納弾薬集積場の爆発火災

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M/Sgt. A. Lynch, Jackson Heights, Long Island, N. Y., is carrying a fire fighting apparatus which was used in fighting fire in Ammunition Dump Area #c, Artillery Section, ISCOM.
島司令部砲兵局のC弾薬集積場で火事の際使われた消火器具を運ぶリンチ上級曹長
撮影地: 島司令部 (1945年 7月 9日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

敗残の日本軍

久米島の鹿山隊「山賊化す」

久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

ある男性の戦時日記より:

七月九日 鹿山隊山賊化す

山を出て自宅に帰れば日本軍これを好まず帰家する者は危害を加ふベシと云う宣伝がきびしく流布され今や島民は皇軍に対し山賊のごとく恐れをなし退山するものが西銘、上江洲、仲地、山里、具志川、仲村渠には目立て少なかったようだ。

それに米兵は1日も早く退散して帰宅耕作すべし、左ならずば日本軍とみなして山を掃討すべしという布告を発せられたからたまらない。民衆は山に居れず里にも居れず、里と山とに迷う皇軍を恐れ敵に怯え帰するところを知らず。

呼々信頼セシ皇軍は完全に山賊と化し民衆の安住を妨害す。

民衆は1日も早く山を出て耕せざれば生活に窮迫をつげている現状を不知。只管自己の安逸をむさぼる鹿山兵曹いつまでにげまわるつもりだろうか。

沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

やんばる

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福元藤吉さん「残っている兵隊、壕に入っている兵隊が、時々、攻撃したりしているんです。それも8月、9月までやっているみたいでした」

糸満市米須の福元藤吉さんは当時10歳。激戦地の南部で家族とともに捕虜になり、7月には金武へと移りましたが、そこではアメリカ軍と日本兵の銃撃戦が続いていたのです。金武に向かう途中、福元さんの兄夫婦と妹、祖母の4人が戦死。向かう道はおびただしい死体だったといいます。

福元さん「歩く道、全部、もう死体が転がってですね、10歳の子供が真っすぐ歩ける道じゃなかったですね」

福元さんは戦争を「怒り」と表現しました。

福元さん「国民、住民を騙して、捕虜にとられたら戦車に轢かれるとか、いろんなデマを飛ばして、住民を助けようとしなかったのが怒りなんです。いくさというのは、もう二度とやってはいけない」

65年前のきょうは1945年7月9日(月) – QAB NEWS Headline

 

伊江島の避難民

伊江島の戦闘で住民の約半数の命が奪われたが、生きて米軍に収容された伊江のひとびとは、慶良間諸島の渡嘉敷に送られるか、久志の大浦崎収容所に送られた。どちらも劣悪な状態であり、そこでもまた命を奪われるものが多かった。

渡嘉敷の伊江島住民

しばらくして、私たちは全員、渡嘉敷島にL・S・Tで運ばれました。渡嘉敷の人びとはまだ山にかくれたままでしたから、民家は空家になっており、そこに私たちは分宿させられました。部落のはずれにはアメリカ軍が針金を張りまわしてそれに手投弾をぶらさげて、地雷がわりに使っていました。それは、山にたてこもる日本軍ーつまり赤松隊ですがーの侵入を防ぐためだったのでしょうが、とても危険で、伊江島の人の中にも、ソテツやハブキをとりに行って、それにふれて死んだ人が少くありません。

渡嘉敷で一番困ったのは、食糧でした。伊江島から持っていったのはハッタイコだけでしたので、それを水でこねて食べたり、ソテツはもちろん、雑草でも食べられるものはなんでも食べました。例えばツハブキも食べつくしてしまい、あざみの茎のトゲを除いて蒸して食べたり、ザーギナといういやな臭のする灌木の葉をたべたりしました。ソテツの中毒症もひんぱんに起りました。とくに、子どもたちは無知ですから、飢えの余り、未処理のものをつまみ食いして、中毒しました。私も危く死ぬところでした。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

太陽がまぶしく目が痛い程であった。私たちは、アメリカ軍のトラックに乗せられ、西のナーラ浜につくられた収容所につれていかれた。収容所に、たくさんの住民が生き残って収容され、それらの人たちが私たちと巡って健康に日焼けしているのが私にはにわかには信じられなかった。その日が、何日だったか確かでないが、その時聞いた話では、あと二日で上陸の日から一か月になるということだった。ナーラで二、三日すごしたあと、慶良間に連行された。

渡嘉敷島では、山中に赤松隊がたてこもっており、アメリカ軍との間にしばしば小ぜりあいがあった。渡嘉敷島の住民も山中に避難したままで、私たちはその民家に分宿させられたが、家の軒先を弾がかすめてとぶありさまであった。

そのころ、伊江島の戦闘は完全に終っており、その平和になったところから、なぜ、まだ戦闘のつづいているところに伊江島住民を連行したのか、私は不思議でならない。おそらくは、渡嘉敷住民を下山させるための囮ではなかったかと思うがどうだろうか。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

 

久志・大浦崎収容所の伊江島住民

そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村の兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。

今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の塵捨て場から罐詰の空き缶を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵に "ギブ、ミー。ギブ、ミー" と物乞いをするありさまであった。

私たちは、久志から今帰仁まで片道二〇キロの道を歩いて食糧さがしに出向いた。往きに二日、探すのに1日、帰りに二日、計六日がかりだった。米、麦、みそなどが主だった。最初は欲ばってたくさん担いだが、重いので、途中で少しずつ捨てて減らしていった。また、名護の東江原あたりに来ると敗残兵にねらわれて、食糧を分けたりしてますます少くなった。家に持ち帰るのはごくわずかなので、また出かけるのだった。

三回目の旅のときだった。みそと塩をさがしての帰り道だった。仲間の老人が引いていた山羊が死んだので、山中でそれを料理して食べている間に、荷物を全部敗残兵に盗まれてしまった。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

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Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。
撮影地: 辺野古 (1945年 7月 8日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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