〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月9日 『この島を取りに来ている強い米軍』

小飛行場 / 米軍の心理戦 / 山賊化 / 名護に入るべからず

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

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那覇飛行場

米軍は日本海小禄飛行場を占領後、整備し米軍那覇飛行場を建設した。

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Former Jap strip of Naha located on the southwest coast of Okinawa was put back in operation. Craters were filled and graded and bomb shell fragments that laid on the field were removed. Planes of the ATC used the field for bringing in supplies and equipment for the depot that was stationed here. Originally the Nips had three runways, but only one was being used for landings and take-offs by our planes. The others were used for parking the transports. Okinawa, Ryukyu Retto.

日本軍が使用していた那覇南西海岸の滑走路。弾孔は埋められ、爆弾の破片は取り除かれた。空輸部隊の飛行機は兵站部に供給する物資をそこに運び入れる。もともと3本の滑走路を日本軍は使っていたが、米軍は1本を離着陸用に2本を駐機場に利用している。(1945年7月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

牧港飛行場

米軍は日本陸軍仲西飛行場を占領、拡張し牧港飛行場を建設した。今の牧港補給地区である。

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Looking north on Machinato airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

牧港飛行場を北向けに望む。(1945年7月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

小飛行場の建設

米軍は20あまりの小飛行場 (cub air strips) を建設した。

第13小飛行場 - 当間小飛行場

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Aerial view of Cub Airstrip #13. There were approximately 20 Cub Airstrips throughout Okinawa, Ryukyu Retto. 163rd Liaison Squadron, newly arrived from the States, operated here.

第13小飛行場。沖縄本島にはおよそ20の小飛行場があった。沖縄での活動のため米本国から着いたばかりの第163連絡中隊。(1945年7月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

備瀬小飛行場

米軍は本部 (もとぶ) 半島を軍事拠点化し、本部飛行場のほか少なくとも3カ所に小飛行場 (宮里小飛行場・備瀬小飛行場・崎山小飛行場) を建設した。そのため、6月25日から本部住民は大浦崎収容所や田井等収容所に強制収容された。備瀬小飛行場は現在の備瀬フクギ並木の東側にあった。

崎山小飛行場 (今帰仁) と戦果 - Basically Okinawa

上の1945年8月末に米陸軍によって作成された地図には特に記されていないが名護湾貯油施設の西側、現在、辺野古の埋め立てなどで採掘され山を大きく削られている部間・塩川は1972年まで米軍基地「本部採石場」であった。*1

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Cub Airstrip on Beasley Field directly across from Ie Shima. These are Vultee L-5 ”Sentinels” of the 157th Liaison Squadron, 3rd Air Commands that made the long trip from Laoug, Luzon, Philippine Islands to Okinawa, Ryukyu Retto.

伊江島の真正面にあるビースリー・フィールドの小飛行場。停泊しているのはフィリピン諸島ルソン島ラオアグから長旅をしてきた第3空軍第157連絡中隊の哨戒機ヴァルティL-5センチネル。(1945年7月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦と心理作戦 (psyop)

米軍は、無数の対住民用のビラを使って心理作戦を行なったが、「住民に告ぐ」というビラでは、要旨、つぎのように述べている。

アメリカ軍は、支那や日本の内地を攻めるためこの島を使いたいのです。それでアメリカ軍は、マキン、サイパンパラオ等の島々を日本軍から取ったように軍艦、落下傘部隊、飛行機、戦車、重砲その外皆さんが聞いたこともないような新しい武器を澤山使ってこの島を占領しますアメリカ軍はこの様に恐ろしい武器を持っているばかりでなくまた戦いも非常に上手です(中略)この戦争に関係ない皆さんが無敵な米軍に反対するのは馬鹿らしくありませんか。それよりも早く安全な奥地へ行きなさい。米軍は皆さんとくに女の人や子供たちに日本兵のように無駄な死に方をさせたくない。この島を取りに来ている強い米軍の進む道から逃げなさい」。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 182-183頁より》

Psyop leaflet 「生きている姿」

「沖縄で投降した日本軍将兵は7,519名に上がっており、軍属を加えれば11,000人に達しておる (7月5日まで)。一日に数百名が投降した日もあり、中には将校に指揮された部隊もありました。相当な地位にある高級幹部の投降も、もう珍しいことではなくなりました。ー 恥じることはありません。」

OKINAWA PSYOP

また「住民はこの戦争にたいしてどんな義務がありますか」というビラでは、なぜ勝つ見込みのない戦争に負け貧乏に暮らしたいのか、と反問し、「皆さんはこの戦争で何か得られることがありますか。日本の軍隊は皆さんの島を安全に守ってくれますか。この戦争は皆さん方の戦争ですか。それとも皆さん方を何十年も治めてきた内地人の戦争ですか」と述べているのである。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 183頁より》

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米軍の心理戦が効力を発していることを伝える米『ライフ』誌

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日本兵の投降が増加 - 心理作戦が効力を証明する

ジャップの戦陣訓である武士道は降伏を許さない。ゆえに日本の兵士は死ぬまで戦わなければならない。太平洋で自爆的ジャップと戦ったアメリカ人は、武士道が絵空事ではないことを知っている。しかし、過去数週間で、米国の心理戦部隊の紙爆撃が効力を発揮し始めた。米国がその島を奪還してから10か月後のグアムでは、35人の日本人歩兵が壕から出て降伏した。沖縄のための血なまぐさい戦いの最後の日、日本兵はこの戦争で初めて大きな規模で降伏している。より勝る敵軍と闘ったことを考慮しても、沖縄での9,498人の日本兵の捕獲は、硫黄島(1,038人)、サイパン(2,161人)、グアム(524人)、またはタラワ(150人)での以前の戦闘よりも捕虜の著しい増加を示している。捕虜の数が急増しているのは、もう後戻りできないほど敗北が明らかであり、米軍に降伏したとしても殺されることはないということが証明されたことによるものだ。米国のプロパガンダはまた戦争が日本兵の祖国にもたらした酷い状況を強調しており、それ自体が降伏プロパガンダの目的である。

…  日本をプロパガンダのビラや放送で充満させることで、アメリカ人はこれらの妄信の核心を突き崩そうとしている。平均的な日本人の天皇への熱狂的献身を認識したうえで、プロパガンダは民間人と軍階級「グンバツ」との間のくさびを打ち込もうとするものだ。「グンバツ」が日本列島の現在の悲しい状態に主要な責任があることを示すビラ(下)は、日本の歴史の教訓である。それらは、いかに東条のような軍閥政府のなかに入り込み、外交政策を乱用し、ついに国と皇帝を愚かで血なまぐさい絶望的な戦争へと追いやったかをしめしている。

《『ライフ』1945年7月9日 67-68頁 》

 

敗残の日本軍

「山賊化」する鹿山隊

  1. 6月26日: 米軍、久米島へ上陸
  2. 6月27日: 鹿山隊による有線電話保守係を惨殺
  3. 6月29日: 16歳の少年を含む9名の住民を惨殺

久米島鹿山隊の隊長は、山で16歳の少女を「愛人」にし住民を虐殺して「山賊化」した。そんななか住民は、下山するなという鹿山隊と、里にもどって耕作せよという駐留米軍との板挟みに置かれた。

吉浜智改「戦時日記(抄)」より

七月九日 鹿山隊山賊化す

山を出て自宅に帰れば日本軍これを好まず帰家する者は危害を加ふベシと云う宣伝がきびしく流布され今や島民は皇軍に対し山賊のごとく恐れをなし退山するものが西銘、上江洲、仲地、山里、具志川、仲村渠には目立て少なかったようだ。

それに米兵は1日も早く退散して帰宅耕作すべし、左ならずば日本軍とみなして山を掃討すべしという布告を発せられたからたまらない。民衆は山に居れず里にも居れず、里と山とに迷う皇軍を恐れ敵に怯え帰するところを知らず。

呼々信頼セシ皇軍は、完全に山賊と化し民衆の安住を妨害す。

民衆は1日も早く山を出て耕せざれば生活に窮迫をつげている現状を不知。只管自己の安逸をむさぼる鹿山兵曹いつまでにげまわるつもりだろうか。

沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

名護の立ち入り禁止令

米軍は本部 (もとぶ) 半島を軍事拠点化し、本部飛行場のほか少なくとも3カ所に小飛行場 (名護・備瀬・崎山) を建設した。そのため、住民は本部・名護から排除され、収容所に強制的に移された。

Bilingual signs warn natives to slay away from Nago and nearby military installations. Nogo was principal city of this section and had a peacetime population of 10,000. Located half-way up the island, it was badly damaged by the First Marines when they made their invasion sweep northward.

二か国語の警告版は、島の住民に対し、名護や近くの軍事施設から離れるように警告している。名護はこの地域の主要都市であり、平時の人口は 10,000 人でした。島の中腹に位置し、第一海兵隊が北に侵攻した際に大きな被害を受けました。

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》

一、民間は名護市内及び付近に入るべからず

二、軍事工事及び陣地に侵入するべからず

米軍司令官

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》

 

田井等収容所へ

6月17日から今帰仁村の謝名・越地から東側の住民が田井等収容所に移送された。

本部半島住民に告ぐ

米軍心理戦リーフレット沖縄作戦 - Basically Okinawa

島袋徳次郎さん証言

(6月頃) 羽地村大川集落での避難生活は大変だったので、また3世帯が一緒になって山中での避難生活を始めました。そこには食べ物もなく、ソテツなどを発酵させて食べました。1番の御馳走はツワブキで、避難前から食べ慣れていたものでした。食料は、ラード(豚の脂)が少しあるだけで、他には米も何もありませんでした。… そこにまた米兵がやって来て、食料を探しに行った兄さん(先輩)たちが殺されました。その兄さんたちの遺体は、木の葉で隠して埋葬しました。

… (田井等の) カンパン(労働者収容所)で事務職をしているお姉さん2人が、私たちに新しい避難先や (米兵に連行された) 父の情報を教えてくれました。川上集落の新島先生の家に住む場所を準備しているから、すぐに山を下りるようにと言われました。一方では「山を下りるな」という話もあり、山を下りると(スパイ容疑で)日本兵に殺されると言われていました。しかし、父がカンパンで元気に暮らしていると聞いたので、私たちは山を下りました。 

田井等収容所 - Basically Okinawa

収容所内で射殺された遺体は見せしめのためそのまま置いておかれた。

通路付近で煙草やお菓子を抱えたまま殺されている人がいました。私はかわいそうに思い、遺体を覆う布を取って見ようとすると、米兵が監視塔から見ているからダメだとお姉さんに止められました。

田井等収容所 - Basically Okinawa

労働力となる男性はカンパンと呼ばれる金網に入れられ、その他は混雑した指定の集落に収容された。

避難民。あらゆる体格や年齢の住民たちが田井等の選別場に群がる。田園地帯をあてもなく歩き回っていたところ一斉に集められ、ここで文民当局と軍当局から尋問を受けている。次に、彼らは村への帰還かカンパンへの強制収容に分類されます。ポールの上に投げられた防水シートは、一時的な滞在者の居住区となっています。見張りの攻撃に応じることができないため、夜間に先住民にとって安全な場所はカンパンまたは米兵が警備する村 (収容所) だけだった。

《第38海軍建設大隊メモリアルブックより p. 328.》

山から下りた住民は、ノミやシラミを駆除するため、DDT(有機塩素系の殺虫剤・農薬)を頭からかけられた。人事監督署で家族構成などを聴取され、働ける男は逃げられないよう金網を囲ったカンパンへ入れられた。集落の家にはすでに中南部からの避難民が住み着いていたため、多くの地域住民は自分の家へ帰ることはかなわなかった。働ける男を除く女や子ども、老人は米軍から支給されたテントや残っている家に何家族もすし詰めになって暮らした。女は、米軍の軍服の洗濯や裁縫などの仕事を与えられ、子どもは水くみや薪集め、また米軍が道ばたに捨てるたばこの吸い殻を集め食料と交換したりした。

《名護市広報「市民のひろば 」 no. 585 (2020年) 》

 

大浦崎収容所へ

6月25日から今帰仁村の西側と本部半島の住民が大浦崎収容所や田井等収容所に強制収容された。人々は住む場所もないまま木陰すらない荒地に放り出された。

米国海軍: Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。1945年7月8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

伊江島から今帰仁村兼次に疎開していた住民

(兼次の山中から) そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。

今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の塵捨て場から罐詰の空き缶を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵に "ギブ、ミー。ギブ、ミー" と物乞いをするありさまであった。

私たちは、久志から今帰仁まで片道二〇キロの道を歩いて食糧さがしに出向いた。往きに二日、探すのに1日、帰りに二日、計六日がかりだった。米、麦、みそなどが主だった。最初は欲ばってたくさん担いだが、重いので、途中で少しずつ捨てて減らしていった。また、名護の東江原あたりに来ると敗残兵にねらわれて、食糧を分けたりしてますます少くなった。家に持ち帰るのはごくわずかなので、また出かけるのだった。三回目の旅のときだった。みそと塩をさがしての帰り道だった。仲間の老人が引いていた山羊が死んだので、山中でそれを料理して食べている間に、荷物を全部敗残兵に盗まれてしまった。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

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Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年 7月 8日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

渡久地昇永さん「ここで生きる生活ができるのかなと思ったんですよ。」沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日以降も、およそ5か月間にわたり捕虜生活は続き、深刻な食糧不足と恐ろしい熱病マラリアに襲われ、1日4〜5人の死者を出すこともあったといいます。「死体をね、箱に入れるんでもないよ。山から竹を切ってきて、それを編んでこれの上に乗せて、4人でかついでいったんです。(土にそのまま)埋めるんですよ。」地上戦を生き抜いたにもかかわらず、大浦崎収容所で、無念にも命を奪われていった人たちの遺骨収集は未だ、行われていません。

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 辺野古大浦崎収容所で生まれた医師 – QAB NEWS

 

シュワブ内に残る収容所跡、米軍意向で保存せず 施設建設予定地 - 琉球新報

 

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