〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月9日 『この島を取りに来ている強い米軍』

米軍の心理戦 / 鹿山隊の山賊化 / 「名護に入るべからず」 / 今帰仁の強制収容 / 田井等収容所大浦崎収容所 /

 

米軍の動向

小飛行場の建設

米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。

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1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場 (cub airstrips)、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

第13小飛行場 - 当間小飛行場

中城村当間の小飛行場。

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Aerial view of Cub Airstrip #13. There were approximately 20 Cub Airstrips throughout Okinawa, Ryukyu Retto. 163rd Liaison Squadron, newly arrived from the States, operated here.【訳】第13小飛行場。沖縄本島にはおよそ20の小飛行場があった。沖縄での活動のため米本国から着いたばかりの第163連絡中隊。1945年7月9日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄戦と心理作戦 (psyop)

7月9日、米軍の心理戦が効力を発していることを伝える米『ライフ』誌。

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【訳】日本兵の投降が増加 - 心理作戦が効力を証明する

ジャップの戦陣訓である武士道は降伏を許さない。ゆえに日本の兵士は死ぬまで戦わなければならない。太平洋で自爆的ジャップと戦ったアメリカ人は、武士道が絵空事ではないことを知っている。しかし、過去数週間で、米国の心理戦部隊の紙爆撃が効力を発揮し始めた。米国がその島を奪還してから10か月後のグアムでは、35人の日本人歩兵が壕から出て降伏した。沖縄のための血なまぐさい戦いの最後の日、日本兵はこの戦争で初めて大きな規模で降伏している。より勝る敵軍と闘ったことを考慮しても、沖縄での9,498人の日本兵の捕獲は、硫黄島(1,038人)、サイパン(2,161人)、グアム(524人)、またはタラワ(150人)での以前の戦闘よりも捕虜の著しい増加を示している。捕虜の数が急増しているのは、もう後戻りできないほど敗北が明らかであり、米軍に降伏したとしても殺されることはないということが証明されたことによるものだ。米国のプロパガンダはまた戦争が日本兵の祖国にもたらした酷い状況を強調しており、それ自体が降伏プロパガンダの目的である。

…  日本をプロパガンダのビラや放送で充満させることで、アメリカ人はこれらの妄信の核心を突き崩そうとしている。平均的な日本人の天皇への熱狂的献身を認識したうえで、プロパガンダは民間人と軍階級「グンバツ」との間のくさびを打ち込もうとするものだ。「グンバツ」が日本列島の現在の悲しい状態に主要な責任があることを示すビラ(下)は、日本の歴史の教訓である。それらは、いかに東条のような軍閥政府のなかに入り込み、外交政策を乱用し、ついに国と皇帝を愚かで血なまぐさい絶望的な戦争へと追いやったかをしめしている。

《『ライフ』1945年7月9日 67-68頁 》

米軍は「この島を取りにきている」。

米軍は、無数の対住民用のビラを使って心理作戦を行なったが、「住民に告ぐ」というビラでは、要旨、つぎのように述べている。

アメリカ軍は、支那や日本の内地を攻めるためこの島を使いたいのです。それでアメリカ軍は、マキン、サイパンパラオ等の島々を日本軍から取ったように軍艦、落下傘部隊、飛行機、戦車、重砲その外皆さんが聞いたこともないような新しい武器を澤山使ってこの島を占領しますアメリカ軍はこの様に恐ろしい武器を持っているばかりでなくまた戦いも非常に上手です(中略)この戦争に関係ない皆さんが無敵な米軍に反対するのは馬鹿らしくありませんか。それよりも早く安全な奥地へ行きなさい。米軍は皆さんとくに女の人や子供たちに日本兵のように無駄な死に方をさせたくない。この島を取りに来ている強い米軍の進む道から逃げなさい」。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 182-183頁より》

Psyop leaflet 「生きている姿」

「沖縄で投降した日本軍将兵は7,519名に上がっており、軍属を加えれば11,000人に達しておる (7月5日まで)。一日に数百名が投降した日もあり、中には将校に指揮された部隊もありました。相当な地位にある高級幹部の投降も、もう珍しいことではなくなりました。ー 恥じることはありません。」

OKINAWA PSYOP

また「住民はこの戦争にたいしてどんな義務がありますか」というビラでは、なぜ勝つ見込みのない戦争に負け貧乏に暮らしたいのか、と反問し、「皆さんはこの戦争で何か得られることがありますか。日本の軍隊は皆さんの島を安全に守ってくれますか。この戦争は皆さん方の戦争ですか。それとも皆さん方を何十年も治めてきた内地人の戦争ですか」と述べているのである。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 183頁より》

 

日本兵の動向

「山賊化」する鹿山隊

  1. 6月26日: 米軍、久米島へ上陸
  2. 6月27日: 鹿山隊による有線電話保守係を惨殺
  3. 6月29日: 16歳の少年を含む9名の住民を惨殺
  4. 7月5日: 斬り込み命令と部下の処刑

久米島鹿山隊の隊長は16歳の少女を連れまわし山に引きこもりながら次々と住民を虐殺。そんななか住民は、下山するな、と命じる鹿山隊と、里にもどって耕作せよという駐留米軍との板挟みに置かれた。

吉浜智改「戦時日記(抄)」より

七月九日 鹿山隊山賊化す

山を出て自宅に帰れば日本軍これを好まず帰家する者は危害を加ふベシと云う宣伝がきびしく流布され今や島民は皇軍に対し山賊のごとく恐れをなし退山するものが西銘、上江洲、仲地、山里、具志川、仲村渠には目立って少なかったようだ。

それに米兵は1日も早く退散して帰宅耕作すべし、左ならずば日本軍とみなして山を掃討すべしという布告を発せられたからたまらない。民衆は山に居れず里にも居れず、里と山とに迷う皇軍を恐れ敵に怯え帰するところを知らず。

呼々信頼セシ皇軍は、完全に山賊と化し民衆の安住を妨害す。

民衆は1日も早く山を出て耕せざれば生活に窮迫をつげている現状を不知。只管自己の安逸をむさぼる鹿山兵曹いつまでにげまわるつもりだろうか。

沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 - Battle of Okinawa

久米島具志川村警防日誌によると、この日、鹿山隊は再び兵士を「処刑」したという。

7月9日、鳥島と上江洲の青年、真久保において銃殺される。逃げたためだという。米軍、宣伝ビラを播く

総務省|一般戦災死没者の追悼|久米島町(旧具志川村・仲里村)における戦災の状況(沖縄県)

 

そのとき、住民は・・・

名護の立ち入り禁止令

米軍は本部 (もとぶ) 半島を飛行場や軍の保養地として軍事拠点化。組織的戦闘はなかった地域にもかかわらず、住民は本部・名護から排除され、収容所に強制収容された。

Bilingual signs warn natives to slay away from Nago and nearby military installations. Nogo was principal city of this section and had a peacetime population of 10,000. Located half-way up the island, it was badly damaged by the First Marines when they made their invasion sweep northward.【訳】二か国語の警告版は、島の住民に対し、名護や近くの軍事施設から離れるように警告している。名護はこの地域の主要都市であり、平時の人口は 10,000 人でした。島の中腹に位置し、第一海兵隊が北に侵攻した際に大きな被害を受けました。

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》

一、民間は名護市内及び付近に入るべからず

二、軍事工事及び陣地に侵入するべからず

米軍司令官

《第87海軍建設大隊メモリアルブックより》

備瀬小飛行場

米軍は本部 (もとぶ) 半島を軍事拠点化し、本部飛行場のほか少なくとも3カ所に小飛行場 (宮里小飛行場・備瀬小飛行場・崎山小飛行場) を建設した。そのため、6月25日から本部住民は大浦崎収容所や田井等収容所に強制収容された。備瀬小飛行場は現在の備瀬フクギ並木の東側にあった。

崎山小飛行場 (今帰仁) と戦果 - Basically Okinawa

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米空軍: Cub Airstrip on Beasley Field directly across from Ie Shima. These are Vultee L-5 ”Sentinels” of the 157th Liaison Squadron, 3rd Air Commands that made the long trip from Laoug, Luzon, Philippine Islands to Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】 伊江島の真正面にあるビースリー・フィールド(本部補助飛行場)の小飛行場。停泊しているのはフィリピン諸島ルソン島ラオアグから長旅をしてきた第3空軍第157連絡中隊の哨戒機ヴァルティL-5センチネル。1945年7月9日

 

田井等収容所へ

6月17日から、今帰仁村の謝名・越地から東側の住民が田井等収容所に移送された。

本部半島住民に告ぐ

米軍心理戦リーフレット沖縄作戦 - Basically Okinawa

島袋徳次郎さん証言

(6月頃) 羽地村大川集落での避難生活は大変だったので、また3世帯が一緒になって山中での避難生活を始めました。そこには食べ物もなく、ソテツなどを発酵させて食べました。1番の御馳走はツワブキで、避難前から食べ慣れていたものでした。食料は、ラード(豚の脂)が少しあるだけで、他には米も何もありませんでした。… そこにまた米兵がやって来て、食料を探しに行った兄さん(先輩)たちが殺されました。その兄さんたちの遺体は、木の葉で隠して埋葬しました。

… (田井等の) カンパン(労働者収容所)で事務職をしているお姉さん2人が、私たちに新しい避難先や (米兵に連行された) 父の情報を教えてくれました。川上集落の新島先生の家に住む場所を準備しているから、すぐに山を下りるようにと言われました。一方では「山を下りるな」という話もあり、山を下りると(スパイ容疑で)日本兵に殺されると言われていました。しかし、父がカンパンで元気に暮らしていると聞いたので、私たちは山を下りました。 

田井等収容所 - Basically Okinawa

収容所内で射殺された遺体は見せしめのためそのまま置いておかれた。

通路付近で煙草やお菓子を抱えたまま殺されている人がいました。私はかわいそうに思い、遺体を覆う布を取って見ようとすると、米兵が監視塔から見ているからダメだとお姉さんに止められました。

 名護市広報「市民のひろば 」 no. 585 (2020年)  - Battle of Okinawa

労働力となる男性はカンパンと呼ばれる金網に入れられ、その他は混雑した指定の集落に収容された。

【訳】避難民。あらゆる体格や年齢の住民たちが田井等の選別場に群がる。

《第38海軍建設大隊メモリアルブックより p. 328.》

田井等収容はすし詰めの状態となった

… 働ける男は逃げられないよう金網を囲ったカンパンへ入れられた。集落の家にはすでに中南部からの避難民が住み着いていたため、多くの地域住民は自分の家へ帰ることはかなわなかった。働ける男を除く女や子ども、老人は米軍から支給されたテントや残っている家に何家族もすし詰めになって暮らした。女は、米軍の軍服の洗濯や裁縫などの仕事を与えられ、子どもは水くみや薪集め、また米軍が道ばたに捨てるたばこの吸い殻を集め食料と交換したりした。

名護市広報「市民のひろば 」 no. 585 (2020年)  - Battle of Okinawa

 

大浦崎収容所へ

6月25日から今帰仁村の西側と本部半島の住民がおもに大浦崎収容所強制収容された。戦闘もなかった本部半島で、ただ単に米軍が保養地と基地を建設するためだけに、住民が真夏の日陰もない荒れ果てた地に移送され、餓死やマラリアの犠牲者が後を絶たなかった。

米海軍: Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。1945年7月8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

伊江島から今帰仁そしてさらに大浦湾へ、住民は極限まで疲弊した。危険を承知で、女性や子どもたちが

伊江島から今帰仁村兼次に疎開していた女性

(兼次の山中から) そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。

今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の塵捨て場から罐詰の空き缶を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵に "ギブ、ミー。ギブ、ミー" と物乞いをするありさまであった。

飢餓のあまり、女性や子どもたちが危険を承知で収容所を抜け出し、六日がかりで辺野古から今帰仁の山中を往復。今帰仁の米軍の補給基地には海岸などに食料が大量に破棄されていたという話だった。

私たちは、久志から今帰仁まで片道二〇キロの道を歩いて食糧さがしに出向いた。往きに二日、探すのに1日、帰りに二日、計六日がかりだった。米、麦、みそなどが主だった。最初は欲ばってたくさん担いだが、重いので、途中で少しずつ捨てて減らしていった。また、名護の東江原あたりに来ると敗残兵にねらわれて、食糧を分けたりしてますます少くなった。家に持ち帰るのはごくわずかなので、また出かけるのだった。三回目の旅のときだった。みそと塩をさがしての帰り道だった。仲間の老人が引いていた山羊が死んだので、山中でそれを料理して食べている間に、荷物を全部敗残兵に盗まれてしまった。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

辺野古、大浦崎収容所から久志岳をみる。

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Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。1945年 7月 8日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

渡久地昇永さん「ここで生きる生活ができるのかなと思ったんですよ。」沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日以降も、およそ5か月間にわたり捕虜生活は続き、深刻な食糧不足と恐ろしい熱病マラリアに襲われ、1日4〜5人の死者を出すこともあったといいます。「死体をね、箱に入れるんでもないよ。山から竹を切ってきて、それを編んでこれの上に乗せて、4人でかついでいったんです。(土にそのまま)埋めるんですよ。」地上戦を生き抜いたにもかかわらず、大浦崎収容所で、無念にも命を奪われていった人たちの遺骨収集は未だ、行われていません

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 辺野古大浦崎収容所で生まれた医師 – QAB NEWS

新基地建設が進む沖縄県名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ内に残る遺跡「大浦崎収容所跡」の一部について、米側の意向で現状保存を行わないことが7日、分かった。

シュワブ内に残る収容所跡、米軍意向で保存せず 施設建設予定地 - 琉球新報

 

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