〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月21日 『消えた村、消えた家』

ヘンリー・スタンリー・ベネット嘉手納

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を足場に更なる基地拡大を進めた。

沖縄の建物の60パーセントから70パーセント沖縄戦の結果、全壊したものと思われる。破壊を免れた建物の多くもブルドーザーで倒され、道路、飛行場、その他の軍事施設に姿を変えた。こうして、嘉手納の村落は完全にブルドーザーでつぶされ、軍用道路の重要な交差点カデナ・ロータリーになった。石垣は道路の下地に使われた。道路は村落を突っ切って建設され、道路の途中にある遺跡や建物は全て破壊された。例えば比謝の村落は完全に地上から姿を消した

《「沖縄戦トップシークレット」 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」290-291頁》

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海兵隊: One of the most unusual sights on Okinawa is this traffic circle, designed and built by the Seabees to lessen congestion of heavy military traffic near the Kadena Airfield.
沖縄ではめったに見かけないロータリー。嘉手納飛行場近辺の軍用車両の渋滞を緩和するため米海軍設営部隊によって建設された。  1945年6月14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

日本陸軍沖縄中飛行場はいまや米軍「嘉手納飛行場」となった。

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Aerial shot at Kadena Strip in Okinawa where the greatest fleet of Douglas C-54s ever assembled on one field spread over a two square mile area. They were parked wing to wing along service aprons and taxiways after coming from Brisbane, Cairo, London, Honolulu, Manila and other places. Each plane carried its own five man crew also another crew, as well as five ground force personnel.

嘉手納飛行場。ダグラスC-54輸送機が2平方マイルの敷地に並ぶ。ブリスベンやカイロ、ロンドン、ホノルル、マニラ、その他の地域からそれぞれ5人の乗組員に加え、もう一組の乗組員と地上勤務の5人の軍人を輸送して来た飛行機は誘導路に沿って翼を並べて駐機した。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Headquarters area of the 7th Air Force on Okinawa, Ryukyu Retto, including tents housing Quartermaster, Personnel, Officers Offices and Aircraft & Equipment units.
兵站部、人事部、将校室、航空機・設備部隊の揃う第7空軍司令部区域。沖縄。撮影日: 1945年 8月21日

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

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An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

民間人の服装で投降する日本軍兵士

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The first group of Japs to surrender at Okinawa following the end of hostilities in the Pacific.

太平洋における戦争が終結した後、沖縄で最初に投降した日本兵たち。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

潜伏し続ける敗残兵

6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁を生きのびた大田昌秀らは7月下旬、国頭突破のために北上するが、8月中旬から1か月間八重瀬町小城の第24師団第2野戦病院2半部壕に潜伏した。

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元軍医の手記によると、壕の建設は45年2月上旬に着手され、2カ月ほどで完成した。「ヨ」の字形の内部には50メートルの通路が3本あり、最高300人余りの負傷者を収容したという。高さ約30メートルの丘にあったが、現在は入り口も岩でふさがれ、内部の様子はうかがい知れない。大田さんはこの壕で、45年8月中旬から1カ月余り身を潜めた。

大田さんは沖縄師範学校男子部在学中の1945年3月、鉄血勤皇隊として日本軍に動員された。首里の司令部壕を5月に出た後、糸満市摩文仁など県南部を転々。9月下旬ごろ、「八重瀬周辺の野戦病院」で投降した。それがどの壕だったのか分からないまま、今年 (2017年) 6月に92歳で亡くなった。

沖縄戦、大田元知事の投降場所 野戦病院2半部壕を確認 八重瀬 - 琉球新報

8月下旬から9月下旬まで潜伏、その後、投降した経緯

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日本が降伏したことを知らされたのは日本兵の白井兵長によってでした。東京文理大学 英文科を出た白井兵長は、大田さんが拾ってきたアメリカ兵の読み捨てた雑誌の英文をスラスラと読んで聞かせてくれたのです。

大田さん「自分の無知さ加減を知って、そのほうにショックを受けた。戦争に負けたショックよりもね。自分があまりにも学問の無いことに対して、ショックを受けたよね」

65年前のこのころ (9月下旬)、ようやく敗戦を知った大田さんは、白井兵長らと共に投降しました。大田さん「彼はもしも生き延びることができたら、君も東京に来て英語を勉強しろよ、と一言言ってくれたわけ」

その後、勉学に励んだ大田さんは県知事となり、基地問題などで再びアメリカと向き合うことになりました。

65年前のきょうは1945年9月23日(日) – QAB NEWS Headline

「生きて残った者は米軍に投降しなさい」と、「右命令は朕の命令である」ってビラ張ってあるんだ。そのビラを見たけども、まだこれは米軍の宣伝だっていうことでね、本気にしなかったよ。これはたくさんあったんだ。

笹森 兼太郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・ 

奪われた生まれ島

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沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中尉は、アメリカ人の宣教師の息子として鳥取県に生まれ育つ。沖縄戦では米軍の軍医と情報部将校として従軍し、沖縄について貴重な報告書を残している。退役後は高名な細胞学研究者となるが、退役後は沖縄戦について書き記すことはなかった。

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沖縄戦を記録した軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット (1910-1992) について - Battle of Okinawa

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐の報告書

軍政府の保護下に置かれたあとも住民は収容所を転々と移動させられた。収容所に落ち着いたかと思ったその2、3週間後、あるいは2、3ヵ月後に集団移動させられたこともある。基地建設のため住民を移動させる必要が出てきたからである。あるいは日本軍の空襲から住民を守るために集団移動させることもあった。

忘れてならなのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、4月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が侵入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。2、3日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。2ヵ月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。(ブログ註・実際には本部半島はリクリエーションだけというのではなく、本部飛行場など数カ所の飛行場建設、また兵站基地として軍事拠点化された。) そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった約2万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。

《「沖縄戦トップシークレット」) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」288-289頁》

6月27日から28日、米軍は本部半島の住民を大浦崎収容所へ移送した。人々は枝木をあつめて日陰を作るしかない状態だった。

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米海軍: Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。  1945年7月8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

こうして沖縄住民は一人残らず、アメリカ軍の上陸の結果、家を失い、村を離れ、全くの混沌の中に放り投げられてしまったのである。多くの住民が死に、生き残った者は出身地がどこであるにしろ収容所に入れられ、アメリカ軍の保護を受けることになった。沖縄群島のいくつかの離島でそこの住民が散り散りになることが余りなかっただけである。

… 空襲、艦砲射撃、砲攻撃は大規模な破壊をもたらした。…アメリカ軍の空襲や艦砲射撃は特に校舎や大きな建物を狙い射ちにした。それは兵舎の可能性があるからだ。

無抵抗のまま占領された地区に残っていた校舎も片っぱしから破壊された。住民全てが避難し、人っ子一人いない名護の街に砲弾の雨を浴びせ、街はほとんど全壊した。軍政府将校が街の偵察に出て、無人の街だと知ったとたん、味方の砲弾が飛んできて、あわてて退却するという一幕もあった。このように不必要な破壊の結果アメリカ軍は利用できる建物を失い、住民は狭い収容所の建物にぎっしり詰め込まれることになった。

《「沖縄戦トップシークレット」) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」288-289頁》

 

嘉手納 - 消えた村、消えた家

嘉手納町の歴史

第2次世界大戦時、本町は米軍の沖縄本島最初の上陸地点となり、その集中砲火は熾烈を極めました。その砲撃により住家をはじめ、一木一草に至るまで焼き尽くされ、1945年8月15日の終戦を迎えるに至りました。

嘉手納町の歴史 | 沖縄県嘉手納町(かでな町)

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米海軍: Kadena village on Okinawa in the Ryukyus demolished by naval gunfire.
艦砲射撃により破壊された嘉手納村の村落。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 4か月後の嘉手納

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米空軍: Aerial shot at Kadena Strip in Okinawa where the greatest fleet of Douglas C-54s ever assembled on one field spread over a two square mile area. They were parked wing to wing along service aprons and taxiways after coming from Brisbane, Cairo, London, Honolulu, Manila and other places. Each plane carried its own five man crew also another crew, as well as five ground force personnel.

嘉手納飛行場。ダグラスC-54輸送機が2平方マイルの敷地に並ぶ。ブリスベンやカイロ、ロンドン、ホノルル、マニラ、その他の地域からそれぞれ5人の乗組員に加え、もう一組の乗組員と地上勤務の5人の軍人を輸送して来た飛行機は誘導路に沿って翼を並べて駐機した。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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嘉手納飛行場によって南北に分断され、またキャンプ桑江とキャンプ瑞慶覧によって東西に分断された北谷町

戦後は、1948年4月頃まで嘉手納飛行場内の部分的通行が可能でしたが、その後米軍の飛行場管理が強化され、全面的に通行立ち入りが禁止されたため、北谷村々域は完全に2分されました。このため嘉手納地域の住民は、役場へ用をたすために遠く謝苅(北谷)廻りかあるいは越来村(現沖縄市)を迂回しなければならなくなり、交通の発達していなかった当時、日常生活をはじめ村行政運営にも著しく支障をきたしました。そのため、1948年12月4日人口約3,800人をもって北谷村より分村、「嘉手納村」としての第一歩を踏み出しました。

その後、朝鮮戦争の勃発等により米軍は嘉手納飛行場を重要視し、逐年整備拡張が行われ、そのつど、宅地や農地は軍用地に姿を変え、狭小な住居地域を一層せばめていきました。膨大な面積を同飛行場地域に接収され、残された僅かな地域に住民はひしめきあった生活を強いられました。

また、住居地域が同飛行場に近接しているため、爆音、飛行機墜落事故、燃料流出、井戸汚染等枚挙にいとまがない程の基地被害をこうむり、「基地の町」として、嘉手納は沖縄の縮図だといわれてきました。

嘉手納町の歴史 | 沖縄県嘉手納町(かでな町)

現在も嘉手納町の面積82%が米軍基地に占有されている。

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日本軍が飛行場を造るため村民の土地を接収した。家や畑がつぶされた。「全部壊すんだよ。山も人の家も。畑を切って、捨てて、飛行場になった」住民を徴用してやっと造った飛行場は日本軍が使うことはなく、45年4月、米軍は上陸後すぐに飛行場を占領し、整備拡張した。あっという間に米軍の出撃拠点となった。それが現在の嘉手納基地である。< 中略 >

米軍上陸の数日前、知念さん一家は本島北部へ逃げた。食糧を探しながら、羽地村(現名護市)(ブログ註・田井等収容所地区) 川上の山中をさまよった。やっと見つけたイモは腐って糸を引いていたが、構わず食べた。車のタイヤの跡にたまった水を飲み、ソテツで飢えをしのいだ。

 米軍に捕まった後は久志村(現名護市)や宜野座村の収容地区で暮らした。戦後、テニアンに残った兄2人が手りゅう弾で自決していたことを知った。

敗戦から数年後、集落があった中部地域に戻れることになった。喜びは相当なものだった。「お祝いをするほど、うれしい気持ちだった。生まれジマ(故郷)に帰れるのだから」

しかし、緑豊かな野里の集落は既に基地となっていた。知念さんの生家があった土地は住民の立ち入りが禁じられ、思い出に残る「生まれジマ」は、手が届かないフェンスの向こう側になった。

野里の住民は広大な嘉手納基地をはさみ南側の旧北谷村と分断され、北側の嘉手納村に組み込まれた。周辺の土地を分けられ、かやぶきの家を造った。嘉手納基地からアメリカ人が捨てた木材を担ぎ、資材にした。

十数年後、軍の作業員として基地内に入った時、集落があった場所を近くで見る機会があった。幼いころ、水遊びをしていた「野里橋」の石垣を見つけて懐かしく思った。立ち入れない故郷を今も思っている。「本当は帰りたい。向こうに」とつぶやく。

嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん - 琉球新報

  

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奪われた故郷

沖縄の米軍基地

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