〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年 8月21日 『消えた村、消えた家』

 

米軍の動向

f:id:neverforget1945:20190806041122p:plain

《AIによるカラー処理》輸送船舶(1945年8月21日撮影)/ Boats & Transports.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/371213.jpg

第3水陸両用軍団司令部の外観(1945年8月21日撮影)

View of III Amphibious Marine Corps Command Post.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/328548.jpg

那覇にある物資補給所(1945年8月21日撮影)/ The Quartermaster Depot at Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/371085.jpg

補給物資販売所とタイプライター修理店(1945年8月21日撮影)

Quartermaster Sales Store and Typewriter repair shop.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

嘉手納基地

『沖縄の建物の60パーセントから70パーセント沖縄戦の結果、全壊したものと思われる。破壊を免れた建物の多くもブルドーザーで倒され、道路、飛行場、その他の軍事施設に姿を変えた。こうして、嘉手納の村落は完全にブルドーザーでつぶされ、軍用道路の重要な交差点カデナ・ロータリーになった。石垣は道路の下地に使われた。道路は村落を突っ切って建設され、道路の途中にある遺跡や建物は全て破壊された。例えば比謝の村落は完全に地上から姿を消した。』(290-291頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」290-291頁より》

f:id:neverforget1945:20190806041410p:plain

《AIによるカラー処理》Aerial shot at Kadena Strip in Okinawa where the greatest fleet of Douglas C-54s ever assembled on one field spread over a two square mile area. They were parked wing to wing along service aprons and taxiways after coming from Brisbane, Cairo, London, Honolulu, Manila and other places. Each plane carried its own five man crew also another crew, as well as five ground force personnel.

嘉手納飛行場。ダグラスC-54輸送機が2平方マイルの敷地に並ぶブリスベンやカイロ、ロンドン、ホノルル、マニラ、その他の地域からそれぞれ5人の乗組員に加え、もう一組の乗組員と地上勤務の5人の軍人を輸送して来た飛行機は誘導路に沿って翼を並べて駐機した。(1945年8月21日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

f:id:neverforget1945:20190820114050p:plain

《AIによるカラー処理》 Headquarters area of the 7th Air Force on Okinawa, Ryukyu Retto, including tents housing Quartermaster, Personnel, Officers Offices and Aircraft & Equipment units.
【和訳】 兵站部、人事部、将校室、航空機・設備部隊の揃う第7空軍司令部区域。沖縄。
撮影日: 1945年 8月21日


 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/15-15-3.jpg

第7空軍基地内売店(PX)。沖縄。(1945年8月21日撮影)

Post Exchange counter at the 7th Air Force base on Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-11-2.jpg

日本軍が連合軍の降伏条項を受諾したと聞き、丘の隠れ場から出てきた二人の日本兵とその彼らに質問する陸軍翻訳官。沖縄。(1945年8月21日撮影)

An army interpreter questions two Japs who came out of hiding in Okinawa's hills following announcement that Japan had accepted Allied surrender terms.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/98-17-1.jpg

太平洋における戦争が終結した後、沖縄で最初に投降した日本兵たち。(1945年8月21日撮影)

The first group of Japs to surrender at Okinawa following the end of hostilities in the Pacific.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

集落や建物を失った住民たち

『軍政府の保護下に置かれたあとも住民は収容所を転々と移動させられた。収容所に落ち着いたかと思ったその2、3週間後、あるいは2、3ヵ月後に集団移動させられたこともある。基地建設のため住民を移動させる必要が出てきたからである。あるいは日本軍の空襲から住民を守るために集団移動させることもあった。

忘れてならなのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、4月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が侵入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。2、3日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。2ヵ月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約2万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。

こうして沖縄住民は一人残らずアメリカ軍の上陸の結果、家を失い、村を離れ、全くの混沌の中に放り投げられてしまったのである。多くの住民が死に、生き残った者は出身地がどこであるにしろ収容所に入れられ、アメリカ軍の保護を受けることになった。沖縄群島のいくつかの離島でそこの住民が散り散りになることが余りなかっただけである。』(288-289頁)

『…空襲、艦砲射撃、砲攻撃は大規模な破壊をもたらした。…アメリカ軍の空襲や艦砲射撃は特に校舎や大きな建物を狙い射ちにした。それは兵舎の可能性があるからだ。』(290頁)

『無抵抗のまま占領された地区に残っていた校舎も片っぱしから破壊された。住民全てが避難し、人っ子一人いない名護の街に砲弾の雨を浴びせ、街はほとんど全壊した。軍政府将校が街の偵察に出て、無人の街だと知ったとたん、味方の砲弾が飛んできて、あわてて退却するという一幕もあった。このように不必要な破壊の結果アメリカ軍は利用できる建物を失い、住民は狭い収容所の建物にぎっしり詰め込まれることになった。』(290頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」288-289頁より》

嘉手納町

日本軍が飛行場を造るため村民の土地を接収した。家や畑がつぶされた。「全部壊すんだよ。山も人の家も。畑を切って、捨てて、飛行場になった」住民を徴用してやっと造った飛行場は日本軍が使うことはなく、45年4月、米軍は上陸後すぐに飛行場を占領し、整備拡張した。あっという間に米軍の出撃拠点となった。それが現在の嘉手納基地である。< 中略 >

 米軍に捕まった後は久志村(現名護市)や宜野座村の収容地区で暮らした。戦後、テニアンに残った兄2人が手りゅう弾で自決していたことを知った。

 敗戦から数年後、集落があった中部地域に戻れることになった。喜びは相当なものだった。「お祝いをするほど、うれしい気持ちだった。生まれジマ(故郷)に帰れるのだから」

 しかし、緑豊かな野里の集落は既に基地となっていた。知念さんの生家があった土地は住民の立ち入りが禁じられ、思い出に残る「生まれジマ」は、手が届かないフェンスの向こう側になった。

 野里の住民は広大な嘉手納基地をはさみ南側の旧北谷村と分断され、北側の嘉手納村に組み込まれた。周辺の土地を分けられ、かやぶきの家を造った。嘉手納基地からアメリカ人が捨てた木材を担ぎ、資材にした。

 十数年後、軍の作業員として基地内に入った時、集落があった場所を近くで見る機会があった。幼いころ、水遊びをしていた「野里橋」の石垣を見つけて懐かしく思った。立ち入れない故郷を今も思っている。「本当は帰りたい。向こうに」とつぶやく。

嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん - 琉球新報

 

沖縄愛楽園

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-14-3.jpg

説明する日本人:沖縄の離島にあるハンセン病療養所所長早田皓医師からハンセン病は感染力が極めて弱いことについて説明をうけるフレンチ少尉。2人の間にいるのは第1海兵師団衛生大隊隊長コンウェイ准将。疫学者である准将はハンセン病患者について研究している。フレンチ少尉は、“日本降服”を認めないこの島の全ての日本兵にその旨伝えよとの伝令を携え、療養所を訪れた。(1945年8月21日撮影)

A JAP EXPLAINS: Marine 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., listens to Dr. Hiroski Hayato,a Jap physician in charge of a leper colony on an island off Okinawa, explain that leprosy is not easily contracted. Between Fre

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者註: リンク先の原文キャプションが途中で途切れているため、和訳の内容と合致しない)

『早田園長の戦争記録によると、5万坪の愛楽園に投下された爆弾は約600、ロケット弾約400、艦砲弾約100、22ミリ機銃弾10万発、焼夷弾・黄燐弾に至ってはその数はかり知れず、施設は殆んど爆撃されつくされ、焦土と化した、とある。』(108頁)

《「語りつぐ戦争  市民の戦時・戦後体験記録  第1集」(名護市戦争記録の会・名護市史編さん委員会(戦争部会)・名護市史編さん室 編集/名護市役所) 108頁より》

 一九四四年(昭和十九)九月には、日本軍の日戸軍医を中心とした人たちが、沖縄県下から四〇〇名ほどを強制収容してきた。この時にも私がわかるだけでも読谷から三人が連れてこられていた。畑から即連行ということで、家に帰れずそのままトラックに乗せて連れて来られた人もいたそうだ。長浜、渡慶次、座喜味の人だった。だからね、戦前に読谷からこっちに来ていた人は、私が知っている分で一二、三人ほどいたんじゃないかな。
 こんなふうに友軍に無理矢理連れて来られた人からすれば、こんな人権侵害はないわけ。日本軍のやり方に反感をもつのも当然でしょう。日本軍の収容で連れてこられたのは、一回ではないよ。少なくとも三回はあった。私は収容された時の様子も見ていた。着の身着のままで連れて来られた人たちが、荷物を降ろすみたいに次々とおろされて、すぐにそれぞれの部屋に割り振って入れられていく。部屋といってもね、四畳半の部屋にね、夫婦であれば二組をいれるんだ。今からいえばこれも人権問題だよね。食堂も部屋にして人を押しこめていたからね。一九四四年(昭和十九年)には入園者が九〇〇名以上になり、収容しきれないということで、施設も建て増しされた。< 中略 >

四月半ばを過ぎた頃、愛楽園はひどい爆撃を受けた。そして四月二十二日に米兵が園に入ってきた。この時、園内患者の中に英語が堪能な者がいて、「ここは、ハンセン病患者の療養所だ」ということを米兵に告げた。それを聞いた米兵は、白い布に赤十字のマークを上空から見えるように書くよう指示し、すぐに無線で連絡を取っていた。その布を、現在のスコアブランド広場にある「希望と自信の鐘」がある高台に広げた。すると間もなく、米軍機からの爆撃は止まった。こうして一か月間続いた壕内での生活が終わり、愛楽園での戦争が終わった。< 中略 >

家族は無事ではあったが、ここでも悲しいことがあったことを後で知った。ようやく収容所まできた私の家族に対して、当時の役場職員が「癩家族」ということで、同じ字の人が集まっているところに私の家族を入れなかったというんだ。その人は戦後も村民のリーダーとして人望も厚い方であったが、病気ではない家族に対して、収容先でさえ排除していたことを知り、改めて世間のこの病気への偏見の根強さを思わずにはいられなかった。そして、当事者や家族にしか分かり得ない辛さ、悔しさ、悲しみを思ったさ。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 男性の証言

  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

奪われた故郷

  1. 嘉手納基地: 嘉手納基地に飲み込まれた“生まれジマ” 知念文徳さん - 琉球新報
  2. 牧港住宅地区: 土地の接収 そして返還後のまちづくり 屋冨祖良栄さん - 琉球新報
  3. 普天間基地: 故郷は“世界一危険な基地”普天間飛行場 玉那覇祐正さん - 琉球新報

 

ospreyfuanclub.hatenadiary.jp