〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月26日 『久米島の悲劇の始まり』

八原高級参謀の投降米軍、久米島に上陸

 

米軍の動向

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《AIによるカラー処理》ラッキー大佐率いる第15海兵連隊に所属する5人の砲兵(バージニア州出身)。拡声器を通して沖縄戦勝利を祝賀記念するラジオ番組に耳を傾けている。(1945年6月26日撮影)

Five Virginia Marine artillerymen of the 15th Marines, commanded by Colonel R. B. Luckey, are shown listening to a radio program over a loud speaker commemorating and celebrating the victory of Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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第3水陸両用軍団司令部を視察する米第10陸軍司令官スティルウェル大将。右は、米海兵隊第3水陸両用軍団の軍団長ガイガー中将。後は第3水陸両用軍団の参謀長シルヴァーソーン准将。(1945年6月26日撮影)

General Joseph Stilwell, USA, head of the 10th Army, inspects III Amphibious Corps Headquarters. With Gen. Stilwell are, right, Lt. Gen. Roy S. Geiger, USMC, head of III Phib. Corps, and rear, Brig. Gen. Merwin H. Silverthorn, USMC, Chief of Staff, III Ph

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戦場の片付けと備品整備

f:id:neverforget1945:20200624225124p:plain日本軍の迫撃砲火を浴びた戦車の修理に当たる、第15海兵砲兵連隊輸送部隊所属の海兵隊員3名インディアナ州出身)。(1945年6月26日撮影)Three Indiana Marines, members of the Motor Transport section of the 15th Marine Artillery Regiment, are shown working on and repairing one of their trucks that was hit by Japanese mortar fire.写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20200624225208p:plain第10軍通信隊臨時集積所で第585通信中隊の在庫点検をするバーベリTec5(1945年6月26日撮影)Tec 5 Mario Barberi, (ll****) Cameron Ave., Highland Park, Mich., checks the stock for the 585th Signal Depot Company at the U. S. Tenth Army Signal dump.写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20190625231748p:plain《AIによるカラー処理》USS MORRIS (DD 417), damaged by Jap suicide plane while operating off Kerama Retto.

【和訳】 慶良間沖海戦で日本軍特攻隊により被害を受けた米艦船モリス号
撮影地: 慶良間 (1945年 6月26日)
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《AIによるカラー処理》USS DOUGLASH FOX (DD 779), damaged by Jap suicide plane while operating off Kerama Retto.
慶良間沖海戦で日本軍特攻隊により被害を受けた米艦船ダグラス・フォックス号 撮影地: 慶良間 (1945年 6月26日)

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《AIによるカラー処理》USS SICARD (DM 21), damaged by Jap suicide plane while operating off Kerama Retto.
慶良間沖海戦で日本軍特攻隊により被害を受けた米艦船シカード号
撮影地: 慶良間 (1945年 6月26日) 

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無傷のまま読谷や嘉手納でろ獲された日本の特攻兵器「桜花」はコードネームで日本の馬鹿にちなんで "baka bomb" と呼ばれた。

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A Japanese suicide plane ”Baka” captured intact by U.S. Marines when they invaded Okinawa. The plane is being studied by experts at NAM Unit. Baka, has a fuselage nearly 20 ft. long and a 16 ft. wing span. Nose of plane carries a 2,645 pound bomb and back of the cockpit are three rockets which can be fired at same time or alternately. 26 June 1945.
【和訳】 海兵隊が上陸したときに鹵獲(ろかく)した日本軍の特攻機、いわゆる「バカ」。海軍航空機改修部(NAM)の専門家が調査中。全長約20フィート、全幅16フィートで、機首に2645ポンドの爆弾を搭載。操縦席の後方に3つのロケットエンジンがあり、同時または交互に作動させることができる。(撮影日: 1945年 6月26日)

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米軍政府病院

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沖縄における看護師。地元の看護師と民間人医師。一緒に写っているのは、海軍の看護師と医師。後ろに写るのは診療所。左から、海軍予備役のトイ中尉(下士官)、海軍予備役のウィリアムズ中尉(下士官)、スタイン海軍大尉(下士官)、ホール海軍大佐(衛生兵)(沖縄本島担当官)、海軍予備役のタスカー中尉(下士官)、海軍予備役のウィリアムズ中尉(下士官)。

(1945年6月26日撮影)Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. Okinawan nurses and a Japanese civilian surgeon with Navy nurses and doctors. Dispensary in background. (L-R): Lt. (jg) P. E. Toy, (NC) USNR; Lt. (jg) D. B. Williams, (NC) USNR; Lt. M. E. Von Stein, (NC) USN; Capt. William W. Hall, (MC) USN (island staff); Lt. (jg) K. E. Tasker, (NC) USNR; Lt. (jg) M. E. Williams, (NC) USNR.

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日本軍は慰安婦として連れてきた朝鮮人女性にも救護法を教え看護助手として従軍させた。米軍の捕虜となった後も軍の病院で看護にあたった。

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沖縄における看護師。日本人捕虜の病院にいる海軍の看護師が、朝鮮人看護助手と話しているところ。左から、海軍予備役のウィリアムズ中尉(下士官)、海軍予備役のタスカー中尉(下士官)、スタイン海軍大尉(下士官)、海軍予備役のトイ中尉(下士官)。(1945年6月26日撮影)

Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. Navy nurses at the hospital for Japanese prisoners talk with Korean nurse's assistants. (L-R): Lt. (jg) D. B. Williams, (NC) USNR; Lt. (jg) M. E. Williams, USNR; Lt. (jg) K. E. Tasker, (NC) USNR; Lt. M. E. Von Stein, (NC) USN; Lt. (jg) P. E. Toy, (NC) USNR.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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沖縄における看護師。日本軍の看護師(左)と地元民の助手。日本兵捕虜の病院にて。(1945年6月26日撮影)

Nurses on Okinawa, Ryukyu Islands. A Japanese Army nurse (left) with native assistants at the hospital for Japanese prisoners.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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地元の女性が、米軍政府病院の産科病室で赤ん坊を入浴させている。そばで見守るのは、ボーダー海軍中尉(下士官)。(1945年6月26日撮影)

A native Okinawan woman bathing a young baby in the maternity ward of the U.S. Military Government hospital while Lt. (jg) M. D. Border, (NC) USN, watches.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

周辺離島の制圧 - 久米島

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久米島(くめじま): 米軍は、伊平屋島粟国島など沖縄本島の外郭に位置する島々を次々と占領していった。

『1945(昭和20)年 6月26日 米軍、久米島に上陸(30日までに占領)』(254頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著/琉球新報社) 254頁の「沖縄戦主要年表」より》

『1945(昭和20)年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。』(17頁)

『6.20 6:44 上陸 7:15海岸に橋頭堡確保。敵の抵抗なし。』(81頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁の「太平洋戦争の年表」、81頁「第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊 A中隊」の「作戦概要 1945.6.22から7.31」1945.8.2付より》

『1945(昭和20)年 6月26日 米軍、久米島に上陸(30日までに占領)』(254頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著/琉球新報社) 254頁の「沖縄戦主要年表」より》

『1945(昭和20)年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。』(17頁)

『6.20 6:44 上陸 7:15海岸に橋頭堡確保。敵の抵抗なし。』(81頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁の「太平洋戦争の年表」、81頁「第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊 A中隊」の「作戦概要 1945.6.22から7.31」1945.8.2付より》

米軍は、26日の上陸前に偵察隊を送り込んでいた。その際、米軍は島民数名を拉致、うち1人を射殺している。

『1945(昭和20)年 6月13日 アメリカ偵察隊深夜、北原部落に上陸、男子3人を拉致。そのうち40歳ぐらいの男を射殺(偵察隊)。』(16頁)

『45.6.13・14 偵察上陸 北海岸の東地区担当 B中の小隊 53名(将校3名) 5隻のゴムボードで上陸、3つに分かれて偵察 23:30・3:00 各グループとも捕虜を捕まえる任務 兵士とも住民とも会わなかった』(81頁)

『45.6.14 西地区担当 59名(将校2名)駆逐艦 Kinzerで接近 23:15 3つに分かれて偵察第2偵察隊 小屋に寝ていた男を連衡 叫び声をあげて回りの住民に知らせた。沖縄語で話して日本語を話せないのでうまく尋問できず第3偵察隊 2人と出会う、40歳ぐらいの男はこん棒で襲いかかってきたので射殺、16歳ぐらいの少年を捕まえる(非常に頭がよさそうで、捕虜として価値があると思われる)。射殺した男は3000ヤード北の海に棄てた。この少年を駆逐艦 Scribnerに連れて行く』(81頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁の「太平洋戦争の年表」、81頁「艦隊付海兵隊水陸両用偵察大隊 アクション・レポート」の「久米島攻略並びに占領 アクション・レポート」1945.8.15付、「久米島北海岸東地区および西地区偵察報告」1945.6.14付より》
一方、日本軍はこの動きを察知し、住民に「布告」を行った。

『1945(昭和20)年 6月14日 鹿山兵曹長よりの「布告」--- 拉致されたる者が帰宅せし場合、自宅にも入れず、直ちに軍駐屯地に引致、引渡すべし、若し此の命令に違反したる場合、その家族は勿論、字区長警防団長は銃殺すべし』(16-17頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 16-17頁の「太平洋戦争の年表」より》

 

第32軍の敗残兵

八原博通 - 民間人として投降する高級参謀

司令部壕を脱出した沖縄戦の作戦参謀八原は、具志頭の洞窟でついに米軍に包囲された。軍人であることを隠すためのいろいろな設定を周到に計画しており、民間人として投降した。

いつの間にか、私は指導者の地位に立っていた。洞窟の外では、アメリカ兵が、「早く出て来い。出て来なければ、いよいよ攻撃を始めるぞ」と叫んでいる。

最後の決断をなすべきときがきた。私は、私の前もって考えていた方針に従い、自らの掌握下にはいった難民をリードし、その一員として、今後の方途を策するに決意した。避難民の身の上を考えても、彼らは、敵手に落ちれば虐殺暴行されるものと思い込んでおればこそ、ここで憐れな生活に耐え忍んでいるのだ。

私は二年間の駐米生活で、アメリカ人の本質は承知している。今私の支配下にある数十名の難民を敵手に委しても、現在以上不幸な境地に陥るとは考えられない。彼らの生命を救うべきである。彼らは、潔くこの洞窟を出て行くのがよい。私は難民たちに呼びかけた。「諸君は、今やアメリカ軍の要求通り、洞窟の外に出て行くのが、最も賢明である。皆様が、もし賛成ならば、私が代わってアメリカ軍と交渉する」

私の提案に対し、ほとんど全員危険の色を浮べている。三人の年ごろの娘を連れた例の品の良い老夫婦は、「そのようなことは、なんとかせぬようにしてくれ」と哀願の態である。娘たちは泣いている。佐藤、新垣は当惑気である。「大丈夫だ。心配するな。私の言う通りにせよ!」と決然たる態度を示した。

恐怖のあまり判断力を失い、自失した人々を指導する急場においては、断固たる態度が必要である。私は、回廊の出口に立っているアメリカ兵に、「この洞窟の中には、数十名の老若男女が避難している。今から皆が私と一緒に出て行くから発砲するな」と英語で話しかけた。彼は「よろしい。一切の武器を棄てて出て来い」と答える。「射つな!」「武器を棄てよ!」と交互に繰り返しつつ、とうとう私は洞窟外に一歩を踏み出した。

温和そうなアメリカ兵だ。彼のすぐ後ろにも、二名のアメリカ兵が微笑して控えている。戦う者の荒々しい気持ちは感じられない。岩間を通して見える五、六十メートル向こうの海岸には、アメリカ兵約一個中隊が物々しく展開して、攻撃部署につき、さらにその後方には、南国の海が陽光に輝いて広々とひろがっている。私とアメリカ兵の和やかな対談振りに安心したのか、私の声に応じて、老人、女、子供、そして負傷したわが兵士らしいものが、続々と出てきた。攻撃部署を解いた部隊の中から、多数のアメリカ兵が躍び出して、老人の手をとり、あるいは子供を抱えて一同を援助する。美しい場面だ。今や敵も味方もない。人間愛に充ちた光景である。かつて豪雨のある夜、フィラデルフィアの南郊外で、自動車を路外に暴走させて困却した際、付近に住む青年たちが、雨をおかして駆けつけ、助けてくれたことをつい思い出してしまった。

《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》

 

通信隊 - 最年少の学徒隊

旧制中学では上級生が鉄血勤皇隊に、13歳~16歳の下級生が通信隊に編成された。

那覇市立商業高校15歳の通信兵

 「キビ畑の溝を見つけては、散乱している日本兵の死体をいくつか引き寄せて隠れみのにしていました。米兵の近づく足音が聞こえ、どうやら生存者捜しをしているらしい。私は完全に“死体”になり切ったものです」腐乱した死体にはハエやウジがいっぱい。耳や鼻、さらに肛門にまで入り込もうとするので、必死だったという。

 このように逃げまどいながら、いつしか摩文仁までやってきていた。摩文仁には「鉄血勤皇隊」として結集された学徒兵たちの姿が何人も見られた。「彼らも私同様、必死で生き延びてきたのですが、“五体満足のものは突っ込め”との将校の命で次々と敵に切り込みをかけ、散っていきました」。国吉さんもどさくさの中で気を失ってしまった。

那覇市立商業高校 たった一人生き残った15歳の通信兵 - Battle of Okinawa

第24師団 (山部隊) に配属された通信隊

6月26日午後5時過ぎ、糸満(いとまん)・大度(おおど)集落の裏にある小高い森で、山部隊の通信兵が米軍に捕らえられ、そのまま捕虜となった。森にあった人工壕から水を求めて出た直後、入り口付近で4人の米兵に取り囲まれた。米兵の1人が銃の先でつつき、別の1人が手を挙げろというようなしぐさをした。通信兵は、この人工壕で国民学校時代の同級生と2人で潜んでいた。壕の中には死んだ日本兵が転がっていて異臭を放っていた。もう何カ月も食事らしいものを口にしたことはなく、ただ、水だけを求めて壕から出ては近くの民家へ行き、古井戸の中をのぞき込んだ。砲弾が飛び交う命がけの水探しをする毎日だった。サトウキビの水分で喉を潤すこともあったが、折るとパラパラ音がするため、敵に感づかれないよう、そのままかじる必要があった。

その頃、多くの住民がサトウキビを隠れみのにして畑の中に潜んでいたが、夕方になると米軍のセスナ機が飛来し、ガソリンをまいてサトウキビ畑に火をつけたこともあった。米兵に取り囲まれた通信兵は、軍服姿で鉄帽をかぶり、ベルトには自決用の98式手榴弾を携帯していた。当時、軍服姿の日本兵は、短剣やピストルなどの武器を所持している可能性があったため、捕まった際に服を脱がされ、フンドシ一枚にされていた。

日本兵の中には、投降する際に民間人の衣服を着て、軍人と見抜かれないようにした者もいた。この通信兵の場合は、突然の出来事だったために着替えることもできず、また、手榴弾を持っていたため、それを見た米兵が服を剥ぎ取り、フンドシ一枚となった。その後、一緒に捕まった民間人の同級生とは引き離され、両手を挙げたままの状態で約8キロ先の潮平(しおひら)にあった収容所まで歩かされた。水を探し求めていたある日、爆風で吹き飛ばされて死んでしまった母親の傍らで途方に暮れていた同級生を見かけ、声をかけた。その後は一緒に壕で身を隠していたが、この時に別れてしまったこの同級生は戦後、栄養失調で亡くなった。フンドシ一枚にされても、恥ずかしいという気持ちはなく、ただ、殺す前にせめて腹いっぱい水を飲ませてくれないだろうかと、考えていた。

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 265-268頁より抜粋、要約》

沖縄水産学校15歳の通信兵

 県立水産学校・通信隊

入り口付近に声がしたので行ってみると、何やら捜し物をしている兵隊がいる。兵隊は瀬底さんに気づいて驚いたが、「ばか、ここで何をしてる。司令部は玉砕したから、早く壕から去れ」と言う。そして、「奥の方にも学生がいるぞ」と教えてくれた。

 奥にいたのは水産通信隊の上前寛市、当間嗣冠の2人と、爆風で失明した開南中学生だった。4人で脱出の計画を立てたが、開南中学生は「足手まといになるから3人で行ってくれ」と応じない。「行けるところまで行こう」の瀬底さんの説得も無駄だった。 やむなく3人で脱出したが、最後の1人が壕を出る時、「がんばれよ」と壕の奥の方から声がして、手りゅう弾がさく裂する音が聞こえた。「神州不滅」を信じながら、また若い命が自らの手で断たれた。

 下の海岸は人であふれていた。安全な壕など探せない。波打ち際をよく見ると死体が無数に漂っている。瀬底さんらの目は、月の光に照らし出されたそんな死体より、その間に浮かんでいる果物、玉ねぎ、ニンジンなどに向けられた。米軍の捨てた残飯だ。手当たりしだいに拾った。死体の衣服も探してみた。安全な岩場は、すでに敗残兵が入っており、海岸を移動しながら3日ほど暮らした。米須海岸まで来た時、清水のわく絶好の場所を見つけたが、“先客”の兵隊らは3人を見るなり「どこかに行け」と怒鳴り、短剣を抜いて威嚇した。

 その時、そばから「学生さん、こっちに来い」と誘ってくれる伍長がいた。3人に食事までくれる。谷島秀敏といった。聞けば、学生を率いて戦闘をしていたと言い、戦友も学生も多く失ったと話していた。「谷島伍長に今でも感謝するほどありがたかった」。当時、敗残兵らの食糧の奪い合いはすさまじかった。食糧を壕の中に大量に保管している敗残兵2人が、周囲の評判だった。ある日、この壕に手りゅう弾が投げ込まれ、2人は即死。もちろん食糧はなくなっていた。

 そのうち瀬底さんら水産通信隊の3人は他のグループと合流、一緒に生活するようになった。民間人の娘3人、夫婦連れと知念という1等兵、それと工業1年生の具志堅と名乗った生徒。米軍と戦う軍隊などもう存在しなかったが、敗北を信じることのできない集団が、海岸沿いに無数に生きていた。

 

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日本兵捕虜の病院にあるX線撮影テント。沖縄本島にて。テントの外にいるのは、先ほど担架で運ばれてきた、日本軍の負傷兵2人。(1945年6月26日撮影)

X-ray tent at hospital for Japanese prisoners on Okinawa, Ryukyu Islands. Two recently arrived wounded Jap soldiers are outside on stretchers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

そのとき、住民は・・・

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拾いだした日用品を持って廃墟となった集落を後にし、米軍政府の収容所に向かう地元民。沖縄本島にて。(1945年6月26日撮影)

Civilians on Okinawa, Ryukyu Islands, leaving ruined village with their salvaged articles for U.S. Government Military camps

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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沖縄決戦 高級参謀の手記 (中公文庫) [ 八原博通 ]