〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月25日 『捕虜になる』

暗いエゴイズム / 岸壁を焼く火炎放射器 / 白旗の少女

 

米軍の動向

掃討作戦

6月23日、米軍は北部の部隊に合流するため北上する敗残兵を阻止するための三段階の掃討ラインを計画した。

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米国陸軍通信隊 Map Work.
地図を使っての任務 1945年 6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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Only thirty-one men of ”L” Company, third Battalion, twenty-second Regiment, Sixth Marine Division out of a total of 240 who hit the beach at Okinawa. Twenty-five of the thirty-one were wounded but have been returned to duty.

沖縄の海岸を攻撃した総勢240人のうち、第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊所属の兵士はたった31人。31人中25人が負傷したが、任務に復帰した。(1945年6月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

那覇 - 武徳殿

那覇の武徳殿は10・10空襲や地上戦を奇跡的に免れた。

アメリカ軍は那覇にあった武術の総本山も占領し、捕虜収容所は無数の日本兵で溢れました。県庁の隣。現在は県議会棟が建っている那覇市泉崎の土地。沖縄戦当時は武術の総本山として、当時としては珍しいコンクリート造りの構造で建設された武徳殿がこの場所に建っていました。

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武徳殿には一時日本軍の司令部が置かれていましたが、5月下旬にはアメリカ軍が完全に占領。65年前のきょうの映像には高く掲げられたアメリカの国旗、煙草を投げ捨てて中へと入っていくアメリカ兵の姿が記録されています。

この頃、糸満では日本兵が白旗を掲げたり両手を挙げて続々とアメリカ軍に投降していました。荒野の中で一ヶ所に集められ、座り込む日本兵達。アメリカ兵は日本兵が手榴弾やナイフといった武器を持っていないか上着やズボンのポケットをチェックしています。捕虜となった日本兵たちはその後、大型トラックで収容所へと送られ、日本軍の敗戦をさらに身を持って感じることになります。

65年前のきょうは1945年6月25日(月) – QAB NEWS Headline

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An Official building in the city of Naha.
那覇市内の公共建築物(武徳殿) 那覇市 (1945年 5月)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍に接収された武徳殿は、1947年(昭和22)4月に将校クラブとして改修され、舞踏会も開かれた。1949年(昭和24)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用された。1959年(昭和34)からは、警察武道場となった。

武徳殿跡(ブトクデンアト) : 那覇市歴史博物館

 

第32軍の敗残兵

摩文仁司令部壕の遺体確認

米軍は6月23日に摩文仁司令部壕で自死した牛島司令官らの確認を行った。

6月25日、米軍は、捕虜となっていた沖縄憲兵隊副官(階級:中尉)を摩文仁へと連れ出し、自決した第32軍司令官の牛島満陸軍中将と同軍参謀長の長勇陸軍中将の亡骸を確認させた。この憲兵隊副官は、米軍が沖縄に上陸する数ヶ月前、首脳2人の自決を介錯した坂口勝中尉に、介錯の作法を教えていた。副官は、部下を率いて玉城村の壕内にいたが、6月3日に投降し、捕虜になって日本軍将兵に投降を呼びかける「帰順工作」に従事していた。

[41 最後の命令]「最後まで敢闘せよ」 - 琉球新報

沖縄憲兵隊副官 (鹿児島県出身) が遺体確認のため収容所から連行された。八原は28日の長参謀長のワイシャツの背の文字を「義勇奉公、忠則尽命」と記録している。

6月25日ごろになって、「牛島を知っているなら死体を確認できるか」と言い、萩之内さんを摩文仁へ連れ出した。「“首実検”に連れて行かれたのは海岸側司令部壕の下方3、40メートルのところ。同じ場所に並べるようにあり、くぼ地に石を積んで埋めてあった」と言う。沖縄戦を指揮してきた2人の軍首脳の最期の姿だった。遺体の一つは首がなかった。略章をつけた軍服に白い手袋。坂口中尉に介錯の作法を教えた萩之内さんは、それが故郷の先輩でもある牛島司令官と判断するのに時間はかからなかった。もう一方の遺体は敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠即忠報国 長勇」*1と書かれていた。そうした経験から萩之内さんは、米陸軍が撮影した両将軍の自決現場の写真を疑問視する。

「32軍司令部壕」 琉球新報 戦禍を掘る (1984年) - Battle of Okinawa

牛島満司令官及び長勇参謀長とされる遺体

World War II Database(投稿者注: 撮影日を1945年7月5日としている。また、この写真は牛島と長ではない人物の遺体である可能性も指摘されている。)

結局、最期にいたるまで「軍刀を振るって突撃」することのなかった首脳。「天岩戸」から動いたのは、南下と自決の時であった。

沖縄守備軍首脳は、いかにも武人らしい最期をとげたわけだが、軍命とはいえ無謀としか言いようのない沖縄戦を部下将兵ばかりか、住民まで道連れにして戦ったことへの批判を免れることはできなかった。岡本太郎氏は、個人的な人格がどうであれ、「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自分らのおかした惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまで虚栄の中に反省もなく〝帝国軍人らしく〟自刃した。その軍部を象徴する暗いエゴイズムに戦慄する」と述べている(「忘れられた日本」)。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 224頁より》

首里の司令部が南下する際、荷物などは通信隊などに任ぜられた学徒が徒歩で運んだが、参謀たちはこのような車に乗って南下した。

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In Southern Okinawa, many Japanese trucks were destroyed or captured, here MPs are shown inspecting one of the trucks which was run into a ditch and riddled with machine gun fire.

南部では、多くの日本軍のトラックが破壊または鹵獲された。溝にはまって機関銃でハチの巣にされたトラックを調べる憲兵(1945年6月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南部の掃討 - 火炎放射器

日本兵と住民が混在する南部の海岸沿いの壕を掃討する。

A flame-throwing Sherman tank of the 711th tank battalion, attached to the 7th Infantry Division, engulfs the entrance of a Jap cave with flame during the mop-up phase of the battle on Okinawa. This cave, with many others, housed Japs along the southe

沖縄戦の掃討段階で、第7歩兵師団所属の第711戦車大隊の火炎放射シャーマン戦車が日本軍の洞窟の入り口を炎で包み込む。この洞窟は、他の多くの洞窟と同様に、日本兵を収容していた。1945年6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

投降する日本兵

米国陸軍通信隊: Pfc. William C. Gilliam, Columbia, S.C., searches a Jap soldier who emerged from a cave during the mop-up of southern Okinawa. 

沖縄南部の掃討中に洞窟から現れた日本兵を捜索する。ギリアムは、第 7 歩兵師団第 32 連隊のライフル銃手です。1945年6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

米国陸軍通信隊: While 7th Infantry Division soldiers peer into a cave, Jap soldiers, convinced to surrender, walk to the rear toward a collecting point for prisoners of war, they were taken by the Tenth Army Troops during the mop-up of remaining Jap elements.

敗残日本軍部隊の掃討中に第7歩兵師団の兵士が洞窟を覗き込み、降伏を決意した日本軍兵士が、捕虜の集合場所に向かって後方に歩いている。彼らは第10軍部隊に連行された。1945年6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

6月25日の捕虜収容所の様子。

 

那覇市商工学校

那覇市商工学校鉄血勤皇隊と通信隊として動員された生徒数は不明であるが、学徒隊114名が戦死している。とくに通信隊として14歳~16歳の下級生から編成された学徒は砲弾が飛び交う戦場で連絡係を担わされ多くの学徒が犠牲となった。最後は摩文仁で多くの学徒が斬り込みをやらされた。

那覇市商工学校通信隊で唯一生き残った15歳の少年

 本部壕を見つけ、中に入ると、ものすごい熱気だった。奥の方で、炎が見えた。火炎放射でやられてしまったようで、あたりは黒こげとなった死体が散乱していた。国吉さんたちの壕が馬乗り攻撃で全滅したことを報告に来たのだが、大隊本部も人ひとり生き残っていなかったのである。

…「キビ畑の溝を見つけては、散乱している日本兵死体をいくつか引き寄せて隠れみのにしていました。米兵の近づく足音が聞こえ、どうやら生存者捜しをしているらしい。私は完全に“死体”になり切ったものです」腐乱した死体にはハエやウジがいっぱい。耳や鼻、さらに肛門にまで入り込もうとするので、必死だったという。

 このように逃げまどいながら、いつしか摩文仁までやってきていた。摩文仁には「鉄血勤皇隊」として結集された学徒兵たちの姿が何人も見られた。「彼らも私同様、必死で生き延びてきたのですが、“五体満足のものは突っ込め”との将校の命次々と敵に切り込みをかけ、散っていきました」。国吉さんもどさくさの中で気を失ってしまった。

 体中にはい回るウジで正気に戻った。ふと、足音が近づいてくる。とっさに手投げ弾に手をかけたが、その手のひらに激痛が走った。大きな靴で踏みつけられたのである。次の瞬間、引っ張り上げられた。見ると、目の前には米兵の顔。「小さい体でせいいっぱい“殺せ”と暴れたのですが、声になりませんでした」。

「那覇市商工学校」琉球新報・戦禍を掘る (1984年) - Battle of Okinawa

 

 

学徒兵の投降。

米国陸軍通信隊: Pfc. Marion G. Otis, Jerome, Idaho, talks with two Japanese soldiers after they had been captured by troops of company "E", 2nd Battalion, 32nd Regiment, 7th Infantry Division on Okinawa. Both Japs claimed they were 17 years old.Pfc.

沖縄で第7歩兵師団第32連隊第2大隊「E」中隊の部隊に捕らえられた2人の日本兵と話す。日本人は二人とも自分たちは17歳だと主張した。1945年6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

少年から中高年まで、根こそぎ「戦力」として動員されていた。  

米国陸軍通信隊: Two enemy soldiers who surrendered, on their way walking, to join group at collection point. A third soldier binds the feet of one who has difficulty negotiating the coral.

降伏し、集合場所に合流するために歩く2人の敵の兵士3人目の兵士は珊瑚の上を歩くのに苦労している1人の足に包帯を巻いている。1945年6月25日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

民間人捕虜になる -「白旗の少女」

(「白旗の少女」)(1945年撮影)/ No Caption.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

わたしは、一つのガマをみつけると、足音をしのばせ、姿勢を低くしてガマの入口に近づいていきました。そのとき、ガマの中から赤ちゃんの泣き声がしました。そして、その声がだんだん近くに聞こえてくるのです。わたしは、とっさに物かげに身をひそめて、ガマの入り口をじっと見つめていました。すると、大声で泣きつづける赤ちゃんをおぶった若いお母さんが、四五人の兵隊に押し出されるようにガマの入り口にあらわれました。お母さんは、ガマの中を指でさしながら、兵隊たちに何度も何度も頭をさげていました。きっと、中に入れてくださいとお願いしていたのだと思います。しかし、兵隊たちは、お母さんを入れるどころか手で追いはらい、とうとうお母さんは、ガマの外に追い出されてしまいました。お母さんは、ガマの入り口のところでしばらく立っていましたが、やがてあきらめたのか、首をうなだれて歩きだしました。危ないよ、そんなふうに立って歩いていては危ないよ。」わたしは、思わず心のなかでつぶやきました。そのとたんです。ダダダッと機銃の音がしました。お母さんの体が、クルクルクルッとコマのようにまわったかと思うと、バタッとたおれて、そのまま動かなくなりました。その背中では、赤ちゃんがまだ泣きつづけていました。そのとき、ガマから黒いかげがツッッと地面をはうようにしてあらわれ、たおれているお母さんのそばにかけよると、その背中から赤ん坊をひきはなして、岩かげに走りこんでいきました。赤ちゃんの泣き声がしだいに遠くなっていって、急に泣き声が聞こえなくなりました。

 … おじいさんに教えられたとおり、白旗をむすんだ木の枝を高くあげて歩きはじめました。まもなく、小高い丘と崖のあいだを通る道に出ました。そこで気づいたことは、わたしが逃げまわっているあいだじゅう、いつも聞こえていた砲弾や鉄砲の音が、まったく聞こえないことでした。

《「白旗の少女」(比嘉富子/講談社) より》

 

「轟の壕」からの救出 - 2日目

日本兵によって数百人の住民が封じ込められた轟の壕では、住民の救出活動が6月24日から2日間にわたって行われた。

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その後入ってきた日本兵に住民や県庁職員は壕内の湿地帯に追い立てられた。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。24日ごろ、約600名の住民が米軍に保護される。

轟壕 | 糸満市

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怪我をした民間人を壕から助け出す海兵隊(1945年6月25日撮影)

Marines help wounded civilians out of a cave.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本兵によって壕に閉じ込められていた住民。

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A group of wounded and dazed Okinawans who have surrendered.

投降した沖縄人のグループ。傷を負い、当惑している(1945年6月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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An Okinawan girl and father receive food for the first time in ten days.

10日目でやっと食べ物にありつけた沖縄の少女とその父親(1945年6月25日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Comforted by his wife, an Okinawan man wounded in the battle for the island is given aid by U.S. medical corpsmen.

褄に付き添われ、戦闘で負傷した沖縄人の男性が米衛生兵によって救護されている。

The Digital Collections of the National WWII Museum : Oral Histories

通訳兵らが聞き取りを行い男女別に収容所に送られる。住民に交じって多くの日本兵も収容された。

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捕虜に話しかける海兵隊のデグラッシー中尉(カリフォルニア州出身)。(1945年6月25日撮影)

Marine 1st Lt A.E. DeGrassi of 2030 of Lyon Street, San Francisco, Calif., talks to prisoners.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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投降してきた日本人と沖縄人の負傷兵の集団。(1945年6月25日撮影、場所不明)

A group of wounded Nips and Okinawans that have surrendered.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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*1:は「儘」の人偏がないもの