〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月4日 『宜名真・辺戸住民斬殺事件』

宜名真・辺戸住民斬殺事件やんばるの避難生活と飢餓

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

米軍は4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、日本軍の飛行基地を礎にして更なる基地拡大を進めた。1945年の沖縄戦で米軍は11の飛行場20の小飛行場を建設し、そのほか数多くの軍事施設を構築した。

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沖縄戦証言 中頭郡 - Battle of Okinawa

日本陸軍沖縄中飛行場(嘉手納飛行場・屋良飛行場)➔ [米空軍] 嘉手納飛行場

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《AIによるカラー処理》The 807th Engineer Aviation Battalion water point was about 50 yards from Kadena Strip B on Okinawa, Ryukyu Retto. The water was pumped from a creek about a quarter of a mile away to a sprinkling trailer pulled by a 6×6 truck. The sprinkler was used to wet down strips and roads continuously.

嘉手納飛行場B滑走路から約50ヤードの場所にある第807工兵航空大隊ウォーター・ポイント。6×6トラックに引かれた散水車に4分の1マイル離れた小川から水が汲み上げられる。水は滑走路や道路を乾燥させないように散水される。(1945年7月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本陸軍沖縄南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)➔ [米軍] 牧港補給地区

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Construction progress of 1166th Engr. Combat Group at the Machinato airstrip.

牧港飛行場の第1166工兵隊による基地建設工事。(1945年7月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

伊江島飛行場(伊江島東・中・西飛行場) ➔ [米軍] 伊江島補助飛行場

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This peculiar looking piece of apparatus called a ”wobble wheel packer” is used to work moisture out of coral on runways. The men at right is Pfc. Edward Zender of Chicago, Illinois. Ie Shima, Ryukyu Retto.

一見変わったこの機器は「ウォブル・ホイール・パッカー」と呼ばれ、滑走路の石灰岩から水分を取る働きをする。右はゼンダー一等兵伊江島(1945年7月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ このように石灰岩で舗装された滑走路は原状回復が難しい。See. 上本部飛行場 

 

日本軍陣地の調査 - 小禄の海軍陣地

海軍陣地と先原崎灯台

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那覇市にある那覇空港の滑走路の北側に、塔がそびえる小高い丘があります。ここにはかつて大きな灯台が立っていました。先原埼灯台跡です。先原埼灯台は、明治29年に沖縄で初めて建てられた灯台で、高さは12メートルでした。この純白の灯台の近くには日本軍の飛行場があり、昭和19年10月10日の空襲や、その後の地上戦でアメリカ軍の標的になり、灯台は跡形もなく姿を消しました。いまは台座だけが残っています。

那覇市 先原埼灯台跡|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

今回の取材では追い詰められた旧日本軍の傍若無人な振る舞いの記録も見つかりました。昭和31年の雑誌「灯光」です。沖縄戦当時、佐千原崎灯台に勤務した灯台長の手記が残されていました。戦況が悪化するなか、灯台長は旧日本軍の司令官に呼びつけられました。「君、今頃灯台の明かりをつけて何になるのかね。利敵行為と言われても仕方がないではないかね」さらに司令官は灯台の破壊までほのめかして脅迫します。「若い連中は元気が良いから、やっつけてしまいと言って聞かないんだよ、今後どんな事態が起きても私は責任を持てないからのう」威圧的な司令官灯台長は怒りを押し殺して命令に従わざるを得ませんでした。「まったくもって驚いた。今までたびたびの空襲に一度も姿を現さなかった軍が、弱いものに対してはいかに元気がよいか。味方の軍に爆撃されてたまるかと思ったが、その翌日より灯台の灯は消え、その後永久に灯すことはなかった。」敵味方なく人間性が失われる沖縄戦の姿です。

那覇市 先原埼灯台跡|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス 

日本海軍陣地の検証

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Main entrance to Corridor leading down into Barracks on Hill directly south of Sakibaru lighthouse. The entrance was near the crest of the hill. Note the base of the hill holding Sakibaru Lighthouse in the center background.

原崎灯台の真南の丘にある兵舎へ続く、通路の正面入り口。この入り口は丘の頂上近くにあった。後方中央に見える、先原崎灯台がある丘のふもとに注目。(1945年7月4日撮影、小禄半島)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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A view within the messhall in the hill directly south of Sakibaru Lighthouse. This messhall with barracks, office, and storage quarters was located [80] feet below the surface of the earth. Note the rifle racks, the length of the room, the logs used for buttressing purposes, and the tables in this elaborate underground dining chamber.

原崎灯台の真南に位置する丘の地下にある食堂内部。兵舎や執務室、貯蔵室も備えたこの食堂は、地下80フィートの場所にある。手の込んだ造りの地下食堂にある、ライフル用の棚や部屋の奥行き、補強に使われている丸太、テーブルに注目。(1945年7月4日撮影、小禄半島)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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屋良座の西にある敵の塹壕塹壕を補強するために珊瑚の岩を使用していることや、塹壕の長さ、正面の射界に注目。これらの塹壕は、互いに援護しながらこの一帯を攻撃できるように、ほかの塹壕や防衛陣地と連携がとられていた。(1945年7月4日撮影)

Enemy entrenchments west of Yaraja. Note the use of coral rock for the strengthening of the trenches, the length of the trench, and the field of fire to its front. These trenches were coordinated with other trenches and defensive installations to cause the fire in the area to be mutually supporting.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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120ミリ沿岸防衛砲。鉄筋コンクリート造の砲郭が見える。砲郭の外にある保管容器を除き、ほとんど全ての砲座は無傷の状態で捕捉された。(1945年7月4日撮影)

120mm coast defense gun. Showing reinforced concrete construction of the casemate. Nearly all of these emplacements were captured intact except for the storage cases outside the casemates.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

宜名真・辺戸住民惨殺事件「紫雲隊の伊沢」

国頭村の伊地、桃原、半地では、日本兵が住民をスパイとして惨殺する事件が相次いでいた。3地区で少なくとも計9人が日本兵に殺害された。「紫雲隊の伊沢」とは第56飛行場大隊紫雲隊・井澤清志曹長のことであり、わかっているだけでも7名の沖縄人の殺害に関与している。

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男女十数人は羽地(現名護市)の田井等収容所から解放され、県道を歩いて地元へ帰る途中、伊地の開墾地跡で、追い掛けてきた日本軍の「紫雲隊の伊沢」ら敗残兵グループに襲われた。女性らは逃げたが、男性4人が斬殺された。「伊沢」は「収容所に入った者はスパイだ」と話したという。

日本兵、国頭で住民虐殺 スパイ嫌疑で9人 事件詳細、村史に初記録 琉球新報

伊地では1945年7月4日、宜名真、辺戸の住民4人が斬り殺された

日本兵が沖縄・国頭で住民虐殺 証言複数、村史新刊に掲載 | 沖縄タイムス

(井澤は) 大宜味村喜如嘉の知名定一巡査、国頭村宜名真と辺土名の四人、浜の二人(読谷村からの避難民と見られる)の殺害に関与したとされる。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

 喜如嘉の当山には紫雲隊と称する十数名の敗残兵グループがたてこもっていた。隊長格の紫雲直道大尉の名からそう呼ばれたのである。紫雲隊はそもそも第56飛行場大隊に属し、紫雲大尉は補給中隊長であった。4月1日の米軍上陸、そして同日中に北、中の飛行場は占領され、飛行場大隊は沖縄戦の緒戦が壊滅し、大隊長以下ほとんどの将校が戦死し、部隊は四散してしまった。かろうじて生きのこった紫雲大尉は三、四十名の部下を率いて北部の山に敗走した。4月22日タニュー岳[多野岳]に到着、宇土大佐の率いる国頭支隊(宇土部隊)の隷下に入り、24日には宇土部隊と共に伊湯岳に転進した。国頭支隊は4月末に分散命令が出て小グループに分れて遊撃戦(ゲリラ戦)の名目で四散した。紫雲大尉の率いるグループは山づたいに喜如嘉の山にたどりついてそこに定着したというわけである。… 後に問題になる伊沢曹長もその一人である。鼻ひげを立てたこの伊沢曹長が喜如嘉周辺での残虐行為の中心人物であった。彼らは初めから住民を敵視していたらしく、スパイ容疑者の名簿をつくり住民から情報を集めたりして〝処刑〟の手はずをととのえていた。そして、よく知られているA氏の虐殺事件 (ブログ註・知名巡査) が起っている。

《福地曠昭『村と戦争―喜如嘉の昭和史』(1975年)》

読谷飛行場建設の際、設営隊の係だった井澤曹長は、荷馬車による土砂などの運搬回数を割増してくれたりして渡慶次の人に便宜を図ってくれた。それで、儀間※※班長を中心に渡慶次の人夫達が井澤曹長を招待して山羊料理をご馳走したこともあった。昭和20年3月頃、儀間※※と儀間※※の二家族は、井澤曹長が手配してくれた軍のトラックで国頭村辺土名に避難した。そんな関わりのあった井澤曹長が国頭の山中に逃げて来た時には、みんなで米を出し合って助けた。渡慶次に部隊が駐屯している間は、兵隊との間に大きなトラブルはなかった。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第二節 各字の戦時概況(字概況)

知名巡査の処刑直後に井澤は村のリーダーたちの会合にやって来て「挙動不審につき知名巡査を只今処刑してきた」とわざわざ報告したという。それは明らかに軍を裏切る者は処刑するという見せしめであったと福地さんは見ている。そしてもう一つの虐殺事例が、7月4日、収容所から解放されて家に戻る途中の、国頭村の辺土名と宜名真の住民の一団が伊地にさしかかったところ、後ろから追いかけてきた井澤ら敗残兵に襲われ男性4人が殺された。死体はそのままになっていたという。井澤らが言うには、収容所に入ったものはみなスパイということだった、と『村と戦争』に書かれている。… また、ほかにもいくつかの家族や個人がスパイ嫌疑をかけられた事例がある。医者の平良真順さんがスパイリストの41番目に載せられていて、しつこくつけ狙われたという顚末も書かれている。このままでは集落みんな餓死するからと、集落の幹部が紫雲隊の方にお願いに行って下山許可をもらった、というほど、紫雲隊は集落全体を掌握していたと福地さんは語っている。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)》

 

捕虜収容所の画家 - 金城安太郎

防衛隊として徴兵されていた金城安太郎は、芸術家としての絵の才能を認められ、広報局の要請で営倉の外に出て絵を描くことを許可される。

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かつて沖縄国防義勇兵で、画家の金城安太郎氏。第6海兵師団に捕らえられたが広報局の要請で絵を描くため営倉の外に出ることを許可された。(1945年7月4日撮影)

Various shots of Yasatura Kaneshiro, an Okinawan artist, former member of Okinawa home guard. He was captured by the 6th Marine Division and was allowed out of the stockade to paint pictures at the request of the 6th Marine Division Public Information Section.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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かつて沖縄国防義勇兵で、画家の金城安太郎氏。第6海兵師団に捕らえられたが広報局の要請で絵を描くため営倉の外に出ることを許可された。(1945年7月4日撮影)

Various shots of Yasatura Kaneshiro, an Okinawan artist, former member of Okinawa home guard. He was captured by the 6th Marine Division and was allowed out of the stockade to paint pictures at the request of the 6th Marine Division Public Information Section.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

9月3日に捕虜となり屋嘉収容所に送られた外間守善 (沖縄師範学校生) の証言 

私は作業員の人員点呼をする仕事のほか芝居小屋の美人画家だった金城安太郎さんたちといっしょに米軍将校宿舎の装飾用の絵を描くことをしていた。米兵たちは帰還する時のお土産用にといって下駄の台に富士山を描き、下の方にOKINAWAと書いてくれと注文した。沖縄に富士山はない、といっても彼らはきかなかった。注文は殺到し、代価はアメリカ煙草二ボール(一ボールはラッキーストライクなど一〇箱入り)だった。一日に一〇ボールくらい稼いだ。当時、学校の教員の月給二二〇円で煙草が二ボールくらい買えた。だから相当良い仕事だった。私は煙草は吸わないので兄守栄用にストックしたほかはみんなに上げて喜ばれた。

外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』角川学芸出版 (2006) 電子版》

 

そのとき、住民は・・・

遭難した石垣の疎開民 - 尖閣諸島

前日7月3日、米軍のB-24爆撃機による機銃掃射を受けた疎開船2隻のうち、沈没を免れた第一千早丸(友福丸)は、7月4日尖閣諸島魚釣島にたどり着いた。同船は、前日の攻撃で機関長を失ったうえ、エンジン故障を起こしていたが、炎上沈没した第五千早丸(一心丸)の機関長は無事で、懸命の修理によりエンジンが始動したていた。

船を台湾に向けるか、石垣に向けるかで意見が分かれたが、機関が故障しても黒潮にのって宮古久米島に漂着できるとして、石垣に引き返すことにした。そのうち尖閣諸島の島影が見えたので、船は尖閣列諸島をめざしたのだった。

米軍機の攻撃や沈没による水死を免れた疎開民らは、下船するよう指示された。前日に地獄を乗りきった人びとは、台湾にたどり着いたと思ったが、上陸したのは無人島の魚釣島。この日から、飢餓と闘う過酷な無人島生活が始まった。魚釣島における自給自足の生活は、50日近く続く事になる。

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) 214-215頁》

 

やんばるの避難生活 - 国頭村

国頭村奥間の証言者から

私の父は国頭国民学校の教頭をしていましたが、若い教員は兵隊にとられて、夜おそくまで残業が多く、また、軍部の宣伝を真に受けて、友軍は水際作戦で敵をせん滅するのだと信じて、また人にもそんな話ばかりやっていましたので、こんなに早く米軍がくるとは思っていなかったわけです。… (中略) ... 私の家だけが中南部からの避難民同様に食糧も持たずに着のみ着のままで逃げるハメになったわけです。… (中略)

私の家族も栄養失調で骨と皮になっていましたが、それよりもっとひどいのは町方からの疎開で、私たちが落した芋の皮を金蠅がたかっているのもかまわずに母親と女の子が争って食べていたのを覚えています。七月のはじめごろになると、山道には栄養失調で動けなくなった者、餓死した者がどろどろころがっていました。そこを通ると悪臭がたちこめて、銀蠅がブーンと飛び立って、いつかは自分もああなるだろうかとたまらない気持になったものでした。… (中略)

七月になっても沖縄戦が終ったということは全然わかりませんでした。日本軍の敗残兵が近くにたくさんかくれていましたが彼らはいつも勝った勝ったとしか言いませんでした。日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食糧徴発にやってきました。あと一週間したら連合艦隊がやってくるから隠してある食糧は軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手榴弾をふりかざしたりして乏しい食糧を奪っていくのがいました。私の家もやられましたが、床下から天井までさがしてもっていくわけですが、とくに米軍陣地から命がけで盗んできたカンヅメを途中で待ち受けてっていくのもいました。お前はスパイだろう、敵に通じているだろうと脅かして強盗を働くわけです。これは後で捕虜になってからですが、避難小屋に蒲団を取りに行く途中、日本兵の小屋の前を通りかかったんですが、そこは住民の小屋より四、五倍も大きいもので、二段式の寝台まで付いて十二、三名の敗残兵が住んでいるようでした。その小屋の後にアメリカのカンヅメ設が山のように積まれているのを見て憤慨したのを覚えています。私らがカンヅメを持っているのがみつかるとすぐスパイ扱いにされたのに、彼らはそれを取りあげてたらふく食っていたわけです。実際にカンヅメを持っているというだけでスパイ扱いされて処刑されたという話もありました。この兵隊たちが捕虜になったのは9月になってからですが、十四、五名が降伏してきました。なかには餓死寸前の様子で杖にすがって山を降りてきたものもいましたが、ある連中はまるまると太っていたものです。沖縄戦は6月23日に終ったと言いますが、私らは前から後から日本兵と米軍にはさまって、なお一か月もがんばっていたわけです。この一か月でとくに餓死者が増えました。日本軍のデマを信じたのがとくに犠牲を多くしたと思います。米軍が来てから一週間後に山を降りた人たちもいました。この人たちは早くから部落で畑を耕やして当時としては豊かな暮しをしていました。教育のある者がたいていバカをみています。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)及び同第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

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