〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月19日 『伊江島に降り立った日本降伏使節団』

伊江島の緑十字機 / 悲劇の開南中学学徒隊 / 魚釣島48日目の救助

 

米軍の動向

伊江島、日本降伏使節団を迎える

8月16日、マッカーサーは日本降伏使節団は正式降伏受理の打合せのため日本側の使節団をマニラに派遣するよう命じた。使節団一行は緑十字をつけた一式陸攻で、伊江島飛行場に立ち寄った。

陸軍代表河辺虎四郎中将に率いられた総勢16名の日本降伏使節8月19日朝緑十字のマークが付いている武装解除した海軍の中型爆撃機2機に乗り込み、東京湾の東岸にある木更津空軍基地から密かに出発した。 伊江島に着陸後マッカーサー元帥の指示にしたがい、日本の使節団は直ちにアメリカ陸軍の輸送機に乗り換えさせられ、同日18時マニラ南部のニコルス飛行場に降ろされた。

《「映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-マニラ会談に関する史料集」From MacArthur Report(Japanese Version Only)

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Japanese envoys headed by Lt. Gen. Torashiro Kawabe, vice chief of the Imperial General Staff, boarding a C-54 at Ie Shima Airfield in Ryukyus for trip to Manila, Philippine Islands to discuss surrender terms with representatives of Gen. Douglas MacArthur, Supreme Allied Commander.

帝国陸軍参謀次長の川辺虎四朗中将率いる日本側使節団が、C-54輸送機に搭乗している様子。伊江島飛行場にて。使節たちは、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥側の代表団と降伏条項について話し合うために、フィリピンのマニラに向かう。1945年8月19日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

この重爆撃機用に拡張された飛行場は、もとは日本軍が構築し、この日の5ヶ月前 (1945年3月13日) に自ら自壊した日本陸軍伊江島飛行場だった。

第32軍は、3月10日には伊江島飛行場の破壊を命令、さらに3月30日には読谷・嘉手納飛行場が米軍攻撃で使用不能になり特攻配備が絶望となるや浦添飛行場滑走路 (ブログ註・「南飛行場」現在の牧港補給地区) の破壊を命令した。このように心血を注いで建設された飛行場は当初の目的に使用されることはなかった。

沖縄県「旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」

米軍基地「伊江島飛行場」に降り立った陸軍参謀次長は何を感じたのか。

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AS JAP DELEGATION ARRIVES AT IE SHIMA - Some of the 16-man Japanese surrender arrangement delegation wait to board an American transport being readied for them as they arrived at Ie Shima on the first leg of their journey to Manila. Second from left is Lieut. Gen. Kawabe Takashiro, Vice Chief of the Imperial Staff and leader of the delegation.

マニラでの降伏文書調印式へ向かう途中伊江島に到着した日本軍代表は、アメリカ側が彼らのために用意する輸送機への搭乗を待つ。左から2番目帝国陸軍参謀次長でこの代表団の指揮官でもある河辺鷹四郎陸軍中将。1945年8月19日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

帝国陸軍参謀次長、河辺鷹四郎陸軍中将の回想:

沖縄島付近に近づいた頃、かねて彼側から通告されてあったとおり、誘導機が現れてわれわれの機を誘導した。午後一時半頃われわれは伊江島に無事着陸した。着陸ぶりは敵側将兵の目の前で、みっともなくない手ぎわであった。    

この飛行場は私がはじめて見るので、日本時代との比較はできぬが、滑走路の舗装状況や土地の掘開状況などを見ると、敵側の占領後に大いに手を入れたことがよくわかり、戦争間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工器材の偉勲をマザマザ見せつけられた

われわれの乗機がピストに誘導せられると、物見高く黒白の兵隊ども、戦争がすんでいかにも嬉しいというような顔付きで、大勢集まって盛んに写真機を向けている。覚悟をして釆たこととはいいながら、不快極まりない

《「映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-マニラ会談に関する史料集」(河辺虎四郎回想録より) From General Kawabe's Memoirより》


日本側の使節団を乗せて伊江島にやってきた、2機の日本軍一式陸上攻撃機の周囲に集まる米軍兵。1945年 8月 19日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

一行は、伊江島で日本軍の一式陸攻から米軍機に乗り換え、マニラに向かう。

帝国陸軍参謀次長、河辺鷹四郎陸軍中将の回想:

四発の堂々たる大型機、機内にゆったりした座席三十二、通路も広い。せせこましい軍用機内に窮屈な姿勢で、「これが大体空中旅行」というものと観念づけられていた私一日本の空軍将官には「すばらしいものを奴さん等使っていやがる」と、羨望やら反感やら自侮感やらわからぬ感じがひらめいた。しかも機内の奇麗なこと、各座席には新品と思われる水中救命具一式が整然とおいてある。数名の兵が機内にあってわれわれのサービスをする。あたかも空輸会社の飛行機に観光旅客として乗り込んだような感じだ。こうした待遇ぶりは、敵国の軍使にも丁寧な取り扱いをする文明国の態度でもあろうが、一面また余裕綽々たる戦勝国の威風を誇示するものとも考えざるを得なかった。午後二時過ぎ、この大型機は悠々と離陸した。離陸前に、要求されて着装した救命衣を、場周飛行の終わるとともに、取りはずした。当番兵は間もなくサンドウィッチとレモンジュースとをわれわれに配給した。今朝七時頃木更津で朝食をしたそのままの腹中であっただけに、非常な食慾で食い終わった。

《「映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-マニラ会談に関する史料集」(河辺虎四郎回想録より)  From General Kawabe's Memoir より》

この後、使節団はマニラで降伏文書を受け取り再び8月20日伊江島で緑十字機に乗りかえる。使節団は木更津に向かうが、途中遭難し、鮫島海岸に不時着する*1 も21日に調布に到着した。

 

第32軍の敗残兵 

戦場の学徒兵 - 開南中学通信隊

戦前、志喜屋孝信が開設した私立開南中学校からは、71人が動員され、67人が死亡した。生存者はわずか4人でありながら、その実態は把握できないとして、公式な記録上は動員数も戦死者数も「不明」とされている。

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Q+リポート 地元の歴史を学ぶ「志喜屋孝信物語」 – QAB NEWS Headline

沖縄戦で失われた中学の一つに、私立開南中学校がある。開校したのは、志喜屋孝信。彼は、戦後アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事、そして琉球大学の初代学長を務めた。しかし彼が戦前に開設した開南中学は、沖縄戦で学舎と多くの生徒を失い、消滅した。

沖縄戦から74年、今まで「不明」とされていた「開南中学校学徒隊」の資料が国立公文書館から「発見」される - Battle of Okinawa

開南鉄血勤皇隊

第62師団独立歩兵第23大隊に配属された開南鉄血勤皇隊

開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で一1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。開南鉄血勤皇隊の入隊先の第62師団独立歩兵第23大隊は、激戦地となった宜野湾-浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。

【開南中学校】開南中学通信隊 ~ たった4人だけの生還 ~ - Battle of Okinawa

開南中学通信隊

歩兵第32連隊に配属された開南中学通信隊

沖縄戦では開南中学学徒は71人が動員され、67人が死亡した(1959年編「沖縄戦における学徒従軍記」による)。当時2年生の金城一雄さん(55)=糸満市糸満=は数少ない生存者の一人だ。・・・

4人との最期は真栄里の大隊から国吉の大隊に向かう時だった。1人は頭がおかしくなっていた。「家族が来ている」「友だちが来ている」と昼間から壕を出ようとしていたから副官の准尉が付きっきりだった。他の3人は元気だった。・・・

金城さんら無線中隊や軍属の女性ら十数人は、その後、“食糧難”から真栄里に移される。“終戦”を迎えたのは8月29日だ。米軍との降伏調印もするなど、まだ連隊としての組織は残っていた。

【開南中学校】開南中学通信隊 ~ たった4人だけの生還 ~ - Battle of Okinawa

校長の志喜屋が「御真影奉護隊」に献身しているあいだ、開南中学の学徒は戦場に動員され、そのほとんどが戦死してしまう。戦後に志喜屋が知事や学長として華々しく活躍する一方で、開南中の学徒兵はその動員実態が確認できないとして「不明」認定を受ける。

沖縄戦鉄血勤皇隊や通信隊、学徒隊として生徒が動員された県内21の旧制中学や師範学校、実業学校のうち私立開南中学校の戦場動員の実態がほとんど分かっていない。慰霊碑建立に向けた名簿作成など検証作業を踏まえ、沖縄戦に動員され、犠牲となった在学生は190人と同窓会は主張する。しかし、これまでの学徒に関する研究では、犠牲者数など開南中学徒の事実関係の多くを「不明」と扱ってきた。沖縄戦から73年。高齢となった開南中の同窓生らは、亡き学友の無念を思い、開南中学徒隊の実態解明を待ち望んでいる。

開南学徒 友の死たどる 同窓生、解明へ検証 | 女性自身

2019年、おそらくは1955年以降に厚生省が作成していたと思われる学徒の名簿が出てくる。なぜ開南中学学徒兵の実態は「不明」のままとされてきたのか。

「戦死者数が分かって動員数は分からないというのも不思議だし、どう受け止めればよいか分からない」

沖縄タイムス 2019年11月13日 沖縄戦学徒 新たな名簿/大城教諭入手 厚生省作成か 開南中の記載も - 歴史の記録

 

 

やんばると護郷隊

北部の森やんばるには、敗走する国頭支隊 (宇土部隊)、運天港の第27魚雷艇隊 (白石部隊) や第二蛟竜隊 (鶴田部隊)、そして金武の第22震洋隊 (豊廣部隊) らと、遊撃戦に特化した陸軍中野学校の将校が率いる第一・第二護郷隊などが混在した。護郷隊は厳しい訓練で少年たちをゲリラ兵として利用した。

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第一護郷隊隊長村上治夫と第二護郷隊隊長岩波壽

住民の協力なくして秘密戦はできない。普通の住民たちが絶対に協力して軍の側についてくれて、一心同体になって裏切らず秘密も保持して、でもお互いに監視させて、最後は武器を持って戦わせるというところまで、住民を全部使っていかないことには勝てないんだ、と。こういう教科書を頭に入れて彼らは沖縄に来ているわけですね。

戦後75年 沖縄戦を生き抜いた人たちの思いをどう伝えるか? – 集英社新書プラス

第3遊撃隊 (第1護郷隊): 村上治夫大尉

野岳・久志岳を拠点とした第3遊撃隊(第1護郷隊)は、村上治夫大尉を隊長として兵員は約500人であった。第三遊撃隊は、主として名護・羽地方面の米軍を攻撃したが久志岳方面にも進出して東海岸一帯でのゲリラ活動を展開した。
このように、遊撃隊の活動によって、米軍の警戒は厳重となり、難民収容所に入った住民は、つねに不安な毎日を送った。7月以後は、遊撃隊は山中に散って解散し、北部出身の隊員たちは家族のもとへ帰っていった。第四遊撃隊の岩波大尉が米軍に投降したのは10月2日、第三遊撃隊の村上大尉が投降したのは1946年1月3日であった。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

「戦争が終わった」とは、私たちの部隊長は言わなかったです。それより、「本国の方から日本軍が逆上陸してくるから、その時はまた集まって、後方からゲリラ戦を仕掛けるので、あなたたちはその間、各家庭に帰って、家庭から食料などを持ってきて、陸軍中野学校の将校たちに食料を運んできなさい」という命令がありました。
戦争に負けたという話は聞きませんでした。周囲には「勝つ」という人もいれば「負けている」という人もいました。

学徒が経験した伊江島・本島北部での戦争 | 証言 | 戦世の記憶 戦争体験者多言語証言映像

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少年ゲリラ兵、マラリア、住民虐殺── 『沖縄スパイ戦史』が描く戦争の実相 - VICE

護郷隊の村上大尉や岩波大尉に関しては数々の逸話が語られている。

 第4遊撃隊 (第2護郷隊): 岩波壽大尉

岩波壽大尉のひきいる第4遊撃隊(第2護郷隊)は石川岳と恩納岳を拠点にして、恩納・金武・宜野座方面へ遊撃戦をくりかえした。兵員は隊長以下393人で装備は機関銃と擲弾筒、小銃で、橋や道路を破壊するために爆薬を携帯した。

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争

あれから台風も去来して、もう8月も末になっていた。さすが南国の山中にも朝夕はめっきり冷気が感じられるようになった。樹間からは気のぬけるような真青の空のなかを観測機がときおりおどけたように、ブルンブルンと飛び去ってゆくのが望まれた。脇腹の負傷もすっかり治った、雑草のように強じんであった私の身体にも、このころから得体の知れない変調のきざしがみえてきた、マラリヤに罹ったのである。毎日、日中になると微熱がでて、食欲もなく、体が震え、小屋に横たわる日が多くなっていった。手も足もいよいよ力がぬけて、だんだん衰弱してゆく敗残の身に、私はしみじみ悲しさを嚙みしめていた。

「死んではいけない、強く雄々しく生きるんだ」

耳の奥で、生命の本能だけが必死で叫んでいた。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 256-257頁》

 

そのとき、住民は・・・

尖閣諸島戦時遭難事件

6月末には組織的な戦闘が終止しているにもかかわらず、八重山に駐屯する兵士8,000人の食糧確保に懸命な八重山守備隊はさらなる島民の疎開政策を進めた。

沖縄本島での戦況がほとんど米軍の一方的な進撃と変わり、日本軍の敗北が決定的となった五月から六月にかけて、逆に八重山では避難命令や疎開命令が出され、住民は戦況の進展はいっさい知らされず、最後の決戦がやってくるとおびえながらその準備にあわただしく動いていた。

「尖閣列島遭難」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

一心丸と友福丸は6月30日に台湾に向けて出港、7月3日に米軍機の攻撃を受けた。

疎開人員はほとんどが婦女子と子供で、男は少数の六十歳以上である。

「遭難記 5」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

機銃掃射を繰り返す米軍機から、大勢の女性や子供たちの姿が確認されたはずだが、ピーミス中尉は「カメラにフィルムがなかった」と報告している。

与那国沖航行中の船舶に対する攻撃報告書 (7月3日)

この作戦の最後、この損壊と船から離れ水中を泳ぎ回る12-15名の日本人を写真におさめるため、ビーミス中尉は写真を撮りながら特別航行するが、運悪く、カメラにフィルムは残っておらず、その試みは無駄に終わった。この海域 を一掃する前に、乗組員はまだ燃えている2隻目の船が海中深く沈むのを見届け、絶対にこの船が救出されることのないようにした。それ から、われわれの軍機は巡回を続けた

《「沖縄県公文書館 常設展特別企画   米海軍資料に見る海の沖縄戦展」pdf より》

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日本の地形千景 沖縄県:尖閣諸島[魚釣島,北小島,南小島,久場島,大正島]

生き残った人々は尖閣諸島魚釣島に到着し、48日間の死闘を余儀なくされる。その間も米軍機はあきらかに民間人である魚釣島の遭難者を救助するどころか機銃掃射さえしていた。

その頃、敵はきまって一日毎に来て偵察していきました。時には機銃掃射して去っていくこともありましたが、誰もやられなかったことは幸いでした。しかし、日がたつにつれ衰弱して歩けなくなる者がでてきました。

「遭難記 1 」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

マッチが残り少ないとの事で、流木に火をつけておきました。空襲はないものと思って着たきりの服を洗って乾し物をしていたら、例のマーチン機が飛んできてボンボンやるのです。一日二回、朝八時頃と、午後三時頃です。定期便と呼んでいました。あわてふためいて、洞穴や、岩かげに逃げました。

「遭難機 3 」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 3 ) - Battle of Okinawa

8月14日、遭難者の決死隊が乗ったサバニが石垣島に到着。その5日後の、8月19日になってやっと救助船が到着した。

8月19日午後、救助船が石垣島に到着した。6月30日以来の石垣島である。遭難していた人々は、いずれも疲れ、やつれ果て形相が変わっていた。男か女か、若いのか年寄りなのか、見分けがつかないほど変わり果てていた。港に家族を迎えに行った人々は、自分の家族を見つけるのに、しばし時間がかかった。

各世帯に白米1升が配られたが、胃が受け付けず、口にしただけで戻してしまう人たちもいた。飢餓生活の後遺症は石垣島に生還したあとも続き、体力の回復には大分時間がかかった。中には弱った胃に食べ物があわず死亡した者、衰弱した体が回復せぬまま死亡した者も数多い。

尖閣諸島戦時遭難事件「一心丸・友福丸事件」 - Battle of Okinawa

しかし隣の南小島に食糧調達に行っていた6人が救助船から取り残され、そのうちの2人は死亡、親族が救助船を雇い、11月になってやっと最後の4人が救出された。この遭難事件での死亡者は80人以上とみられているが正確な数は未だわからない。

結局、日本軍も米軍も、疎開船の遭難者を見殺しにしたのである。

 

 

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