〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年7月22日 『爆撃機は、北へ、北へ』

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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那覇の北で建設中の新しい飛行場。(1945年7月22日撮影)

New airstrip under construction, just north of Naha town on Okinawa in the Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》第90及び第380爆撃群コンソリデーテッドB-24に燃料補給する第324及び第305飛行場中隊。沖縄。(1945年7月22日撮影)

Consolidated B-24's of the 90th and 380th Bomb Groups are seen here being refueled by the 324th and the 305th Airdrome Squadrons. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

恩納: 第44飛行場大隊

『私たちが放浪の末にやっと落ちつくようになったアジトは、谷茶部落から石川岳に通じている雑木林の中のだらだら坂道を登ってゆき、急坂になっている9合目あたりの左方に、琉球松やフク木の原生林に深くおおわれた、洞窟のように口を開けている険しい谷間であった。

谷間はすぐにまた、左右2つの沢に分かれていて、下方の谷間には住民の残していった避難小屋があり、すでに海軍の3人組が住みついていた。そこで私たちの2組は、上手の谷間をえらんで、奥まった断崖の中腹に木を切り倒し、木の枝や、草をおおって雨露をしのぐだけの小屋をつくっておさまった。

徴発のたびごとに往き来する見通しのよい谷間には、身の丈ほどもある羊歯やヘゴ、熊笹などが生い茂っていて昼なお暗く、おまけに大樹が数本、障害物となるように跨いで通るように切り倒されていたから、敵が入ってきてもドーッ、と急襲される心配はなかった。警戒してさえいれば事前に高所から俯瞰もできて、いち早く避難するに都合のよい灌木地帯が小屋の後方につづいていたから、私たちはまるで鷹が産卵のために住みついた巣のように、いままでにない安心感が得られたわけだ。それでも私たちは用心のために、徴発が終わったたびごとには、決って落葉をバラまいて足跡を消すことに気を配っていた。』(245-246頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 245-246頁より》

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アガティーダバンタ(安富祖区)から望む恩納岳

森林・林業 | 沖縄県恩納村 | 青と緑が織りなす活気あふれる恩納村

『前途になんの光明もない絶望のなかで、敵の掃討戦におびえ、飢と疫病とも戦いつつ生きねばならない兵隊たちは、もう誇りも理性もうしないかけていた。この人間性の崩壊したあとに残るものは、生きようとする動物的な本能だけであった。

髭はぼうぼうとのびて、もう長いこと髪も切っていない、戦いに疲れきった人たちの土と垢によごれはてた顔は、誰の目にも山賊のように見えた。

夜は食糧さがし、昼は犬を連れた米兵の掃討を警戒して、ジッと灌木内に潜伏していた私たちは、ピシッーと、下枝の折れる音ひとつにも「米兵ではないか」と判断しなければならない、生命の危険と隣り合わせ、緊張のほぐれる間もない日々が、私たちの精神をさいなんだ

その辺に生えているキノコやツワブキ、なんでも手あたり次第とって食った。また谷間をチョロ、チョロ流れているせせらぎの石や岩を片端からとり除いて、サワガニも捕った。沖縄には実は2種類の蛇が棲息していて、胴に丸く区切ったような模様のある、赤マタ、という毒性のない蛇も捕って食った。ハブは恩納岳で食ったのみで、ついに見つからなかった。もし見つかれば、たちどころに私たちに食われてしまったことだろう。』(247-248頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 247-248頁より》

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アカマタは毒蛇?噛まれたらヤバいらしいが特徴や生態は? | おもしろ生物図鑑 

『昼は敵の掃討を警戒して、じっと密林の奥に潜伏していた私たちも、夕暮れを待って食糧探しのために、ひそかにこの谷茶部落におりていった。これは後に投降するまで、日課のように続いたので、谷茶はなによりもなじみ深い部落となった。

沖縄北部の地形は海岸まで山がせまっていて、さすがに小さな平地には、敵の基地がなかった

私たちが活躍する夜にも、敵のトラックがライトを灯してときおり通る。それを見はからって軍用道路を越えると、潮の香がツーンとする。東シナ海の海だ。それが私の郷里横浜の海に通じると思うと、懐かしさがこみ上げてくる。…故郷の肉親もいまごろは、沖縄の玉砕をきいて、私の死を悲しんでいるにちがいない。その私がこんな乞食のような姿になって、まだ生き残っていようとは、夢にも思ってみないだろう。

…暁の空には、敵の大型爆撃機の編隊が爆音をとどろかせながら、日本本土の空襲に行くのであろうか、北へ北へ飛んで行く。菅原軍曹が「戦争は負けだ」とはっきりいって、彼はパーッと唾をはいた。もはや、だれも「神風」のまぼろしを信じる者はいなかった。』(249-250頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 249-250頁より》

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日本のある区域での爆撃任務を完了した後、読谷飛行場へ着陸準備に入る第7空軍第11爆撃群、コンソリデーテッドB-24リベレーターズ。

Consolidated B-24 ”Liberators”, 11th Bomb Group, 7th Air Force, preparing to land on Yontan Airstrip, after completing a bombing mission somewhere over Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

海軍特殊潜航艇隊・蛟龍隊 - 渡辺義幸大尉 

今帰仁で少なくとも住民5人の虐殺に関わったとされる渡辺大尉は、戦没者名簿には6月に死亡と記載されているが、米軍記録では、民間人をよそおい大浦崎収容所でかくまわれていたことが発覚している。

(1945年)7月22日対敵諜報隊(CIC=Counter Intelligence Corps)からの報告によれば、日本海軍将校のワタナベ大尉(Lt.)という者が、大浦崎キャンプ[辺野古]において匿われていたということである。地元住民から構成される政治組織の一部の者達も、ワタナベ大尉の存在を認識しており(黙っていようと)合意していたということである。(翻訳・保坂廣志)

彼は軍人として捕まることを恐れ、民間人を装って辺野古大浦崎の難民キャンプにいたのだ。しかも、命令を聞く住民のグループに、くれぐれも日本軍将校校であることを伏せるよう口裏合わせをし、地元民の格好をしてかくまってもらっていた。

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22) 》

 

そのとき、住民は・・・

軍作業 - 洗濯

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《AIによるカラー処理》太平洋地区で唯一、稼動が知られている「セメントミキサー」洗濯場で働く地元の女性。改造洗濯機で洗濯された衣類の中から白い衣類を全て、さらに洗ってすすぐ。(1945年7月22日撮影)

Native women, employed at the only ”cement mixer” laundry known to be operating in the Pacific, scrub and rinse all white clothes after they have been given the works in the converted washer.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米海軍設営隊と海兵隊のために設置されている洗濯場責任者の男性。1日の終わりに軍政府からの贈り物として沖縄の女性に石鹸を与える(1945年7月22日撮影)

Men in charge of laundry operated for Seabees and Marines give Okinawan women, paid by military government, a gift of soap at day's end.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米兵の「女さがし」

国頭村・奥間、女性の証言

上村さんと一緒に銃を持ったアメリカ兵が四、五名突然私らの小屋にあらわれました。七月下旬の午前十時ごろだったと思います。その時のショックといったら、初めて見るアメリカ兵が鬼のようにこわい顔をしていて銃も持っているし、こちらは声も出なくて膝はガクガクするし、腰を抜かしたような状態だったです。銃も持っているから当然殺されるだろうと思っていました。…(中略)…

河原に降りていくとそこには三〇〇名ぐらいの避難民が集められていて、座りこんで、ヒソヒソ不安そうに話し合っていました。私はたぶんそこで殺されるだろうと思っていました。アメリカ兵はビスケットやチョコレートをくれるんですが初めは誰も毒がはいっていると思って食べないです。アメリカ兵は自分で食べてみせたんですが私はそれでも食う気にはならなかったです。敵から物をもらって食べるということは恥だと思っていましたから、栄養失調で今にも倒れそうなんですが山を降りるまで食べませんでした。

そこから行列をつくって、二〇メートルおきぐらいに銃を構えたアメリカ兵が監視をして山道を宇良の部落につれていかれました。大雨のあとで道は滑りやすくてけわしい坂道を歩いたり大きな岩をよじ登ったりしましたが緊張のせいか子供をおぶりながらもよく倒れなかったと思います。

途中のできごとですが、私の前でも後でも女の人たちがアメリカ兵につれ去られていきました。列のなかには那覇から避難してきたジュリ(遊女)たちも混っていましたが、この人たちは色が白くてすぐ目立つのでとくに狙われたようでした。あっちこっちで「アキサミヨーゥ」とか「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえました。私の見ているところでも五、六名ぐらいつれ去られています。その人たちは私たちが捕虜になって部落に落ついてからも帰ってきたという話はありませんでした。後で私が蒲団を取りにまた山小屋に行ったとき、椎の木の下に十二、三体の白骨があったんですが、ジュリとわかるような女性の遺体も混っていました。

その時のこと、私のすぐ前を胃腸を思って今にも倒れそうな六十ぐらいの爺さんと年ごろの娘さんが歩いていました。たぶん孫だったと思います。女たちはたいてい顔に泥をこすりつけたり男物の著物をつけたりしていたんですが、その娘さんは若いので目立ったのだと思いますが、アメリカ兵に手首をつかまれてつれ去られようとしたわけです。すると爺さんが全身の力をふりしぼって体ごとアメリカ兵にぶっつかっていったんですね。アメリカ兵はよろめいて離れたんですが、銃を向けてきて安全装置をガチャンとはずしたんです。すると爺さんは胸を張って撃つなら撃てと立ちふさがり、これを見て避難民たちもアメリカ兵をとり囲むようにして無言でにらみつけたわけです。アメリカ兵はだんだん後ずさりして、とうとう娘さんをあきらめてしまいました。

十二キロぐらいの山道を歩いて宇良部落につきました。そこで一泊して、翌日一里ほど離れた自分の部落に帰されたんですが、そこでまず米と塩の配給がありました。皆は配給されるのも待ちきれずにワッと塩の方にたかっていきました。それほど塩に飢えていたんで、砂糖みたいにうまそうになめたものです。

私たちははじめて沖縄戦が終ったことを知らされました。しかし、それでもすぐ平和になったわけではなく、捕虜になってもまだ安心できませんでした。山から降りてきたその夜から毎晩のようにアメリカ兵が女さがしにきて、どの家でも女をかくすのにひじょうに苦労したものです。もう一つは、山から降りてきてからも食糧事情は悪く毎日のように栄養失調で倒れていく者がでたことです。とくに老人がバタバタ死にました。部落で葬式のない日はないといったありさまでした。米軍がくるまえ二月ごろ私の家には読谷から疎開してきた人たちが四世帯二〇名ぐらい住んでいましたが、山から降りてきたときは五、六名ぐらいしか生き残っていませんでした。あとはみんな山の中で栄養失調で死んでしまったそうです。

沖縄戦 国頭村 - Battle of Okinawa

 

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