〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』

アメリカ世 / 摩文仁司令部壕の最期 / アダンの陰に

 

米軍の動向

アメリカ世(ゆ)の始まり

前日21日、米軍は摩文仁に到達、沖縄作戦の勝利を宣言し、アメリカ世(ゆ)が始まった。

合衆国がこの作戦に傾注された意志力、献身および物量により、また敵の死闘と相俟って … この戦いは戦史の上でもっとも激烈かつ有名な戦いとなりました … われわれは戦いに参加された貴国の全部隊ならびに各級指揮官に対して敬意を表します。

---1945年6月22日ウィンストン・チャーチル首相からハリー・トルーマン大統領へ

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 345頁より》

嘉手納基地星条旗掲揚式での公式宣言。しかし戦争は終わってはいない。

6月22日の朝、米第10軍本部では、第10軍の2軍団、各師団の代表が整列、軍楽隊が〝星条旗はひるがえる〟を奏でる中を、軍旗護衛兵がおもむろに沖縄島の上に米国旗かかげた。旗が上がり、ポールのてっぺんまできたとき、突然、一陣の微風が、さっと吹いて、旗はぱっと広がり、静かな青い空を背景にはためいた

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 514頁より》

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《AIによるカラー処理》A flag raising ceremony on 22 June 1945 announced officially that Okinawa, Ryukyu Retto, was under U.S. control.

1945年6月22日星条旗掲揚式で、琉球列島沖縄は米軍管理下にあることが公式発表された。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

ガイガー将軍は、6月21日の午後、沖縄の確保を宣言した。翌日、ステビンスの第22連隊第2大隊G中隊から出された小さな分遣隊が、最南端の荒崎の立木の枝に旗を掲げた。それは、2ヵ月前に北端に掲げられた同じ旗だった。分遣隊の一員であった衛生兵…は、自分たち分遣隊はLデイ以来83日間生き残ってきたのだから、精鋭だと思っていた。彼は、第10軍の広報部員たちが、アメリカのシンボルのひとつになっていた、硫黄島の有名な国旗掲揚の報道に匹敵する成功をここでも収めようとしているものと信じていた。ところが、アメリカ国民は沖縄の写真をまるで古いニュースのようにしか受け取らなかった。同じような場面を以前見ていたからである。硫黄島の場合と比べて、沖縄戦は全体的に報道不足で、最後まであいまいだった。もちろん写真では、断崖から飛び降りたり、どこへ行くという当てもなく海に入って沖へ泳いでいった日本の軍人や民間人たちの、ときには血まみれになっている衣類が散乱している場面は報道されなかった

銃後のアメリカ国民は、太平洋のどこかでの勝利を当て込んでいたが、殺し合いは続いた。歩兵たちは、こんな危険な地域がなぜ確保の宣言をされたのか不思議だった。もしかしたら、司令部の参謀たちが、必要なのは残敵の掃討だけだと本当に思っていたためかもしれない。ことによったら、司令部の高級将校たちが国民の士気を高揚したかったのか、あるいは「もうひとつ階級章の星が欲しいどこかの将軍」が自己宣伝をしたかったせいかもしれない。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 348-349頁より》

 

掃討作戦

前線にいた米海兵隊の部隊に沖縄作戦の終了が伝えられたが、同時に、敗残兵の掃討、敵兵死体の埋葬、武器等の収集も命じられた。

82日間に及ぶ戦闘で疲労困憊した部隊にとって、残党掃討というのは気の重い知らせだった。どう前向きに考えても、神経のすり減る仕事だ。われわれの遭遇した敵は、ただでは死なないとんでもなくしぶとい相手だった。「確率論」の網をかいくぐってどうにか生き抜いてきたわれわれは、怖じ気づいた。グロスター岬、ペリリュー島沖縄本島と生き延びてきて、最後の最後で、洞窟に追い詰められた日本兵の生き残りに撃たれてしまうこともあり得るのだ。われわれにとっては受け入れがたい命令だった。だが、受け入れるほかはない。こうして、敵の死体を埋め、戦場の薬莢や装備を拾っていくうち、われわれの士気の低下は決定的になった。

「まったくの話、こいつらをやっつけたおれたちが、なんだって臭い死体の埋葬までやらなくちゃならないんだ? 後方支援のろくでなしどもに一度、この臭いを嗅がせてやりたいよ。やつらは戦わずに済んだんだから」

「クソっ、薬莢拾いか。こんなにあほらしい、くだらん命令は聞いたこともないぜ」

敵と戦うことはわれわれの務めだが、敵の死体を埋めたり、戦場の後片づけをしたりするのは、歩兵部隊のやることではない。われわれはそう思っていた。みんな渋い顔で、不平不満を隠さなかった。こんなにも長く激しい戦いを続け、ついに勝利を収めた男たちの顔に泥を塗るような行為ではないか。われわれは納得できず、憤慨した。実際、仲間の古参兵数人が命令に従うことをきっぱりと拒否した。初めて目にする光景だった。私も含めた仲間たちが彼らを説得して、下士官との激論をやめさせなければ、命令不服従ということで厳罰を受けていたことだろう。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 458-459頁より》 

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日本兵の狙撃で負傷した海兵隊員を前線から後方へ運ぶ海兵隊員。サトウキビ畑と壕に隠れていた10人の日本兵は殺され、海兵隊員はこの1人が負傷しただけだった。(1945年 6月22日撮影)

Marines carry a Marine wounded by a Jap sniper back from the front lines. Ten Japs hiding in cane fields and in caves were killed and only this one Marine wounded.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

摩文仁の司令部壕 - 牛島・長両将軍の最期

投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関しては諸説あり、両将軍の「自決日」に関しては、米軍側が22日未明とし、日本軍側は23日未明となっているため、当ブログでは、両日に双方の記録、証言等を掲載する。米軍側の牛島司令官と長参謀長の自死の記録は、米軍の摩文仁壕の垂直坑の爆破記録と捕虜からの証言をもとにしている*1

自決日が1945年6月22日の説

月が登る直前の午前3時、集まっていた将校のほとんどが、生き残っていた司令部の者とともに丘の上の敵と戦って「名誉の戦死」を遂げるため、洞窟から出ていった。… それから1時間たって4時を過ぎると、両将軍のさらに短時間の出撃の用意が整った。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337-338頁より》

第32軍司令官牛島満陸軍中将 / 第32軍参謀長長勇陸軍中将 / 第32軍作戦参謀八原博通陸軍大佐

Military Leaders - World War II: Pacific. Period 5 

両将軍は立ち上がった。牛島は沖縄うちわを手にとった。その場に八原大佐の姿がないのが目立った。この冷徹な戦略家は、両将軍と最期をともにしたいと願ったが許されなかった。その代わりに、牛島と長は、軍の作戦の担当者であったこの高級参謀に、脱出して本土に帰り、アメリカ軍の戦法と技術について大本営に報告するように命じた。「貴官が死ねば、沖縄戦の実相を知っている者がいなくなる。一時の恥は忍び、それに耐えてもらいたい。これは、軍司令官としての命令だ」。長は、八原と意見が対立したこともあったが、これまでのロマンティシズムに反するような考え方で、若い参謀や参謀部付きの将校に対して、日本のためにその経験を活用するとともに、沖縄におけるゲリラ戦の指導者として活動することができなくならないように、彼らが自決を思いとどまることを切に望んだのである。それでも一部の参謀は軍司令官のもとにとどまったが、参謀部付の者を含む20数名が、すでに長の指示に従ってひそかに司令部の洞窟から脱出していた。

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 337-338頁より》

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沖縄県のガマと地下壕:第三十二軍司令部 摩文仁壕

第32軍で数少ない沖縄出身の高級将校の一人であったある少佐の義妹が、自刃の儀式に必要な白い敷布数枚と下着を用意していた。敷布のうち一枚は、岩棚に敷いた刺し子の布団の上に敷いてあった。司令部の下の方の動きを察したアメリカ軍は、これらの少数のグループの方向に向けてさらに手榴弾を低く投げてきた。しかし、牛島と長はまったく意に介することなく、東の空に向かって遥拝した。ジェイムズ&ウィリアム・べローテは、このときの様子について次のように記述している。

「2人は敷布の上に太平洋に面して座った。岩棚には、北方の皇居の方向に向かって礼式を行うだけの広さがなかったからである。彼らは無言のまま、各々自分の軍服の前をくつろげて、腹部を出した。牛島中将の側には、その副官の吉野中尉が、刃の部分の半分を白い布で巻いた短刀二振りを持って立っていた。高級副官の坂口大尉は軍刀を抜いて、牛島の右側に立っていた。吉野がひと振りの短刀を牛島に渡す。すると、牛島は両手でそれを受け取り、気合一声それを腹に突き刺した。その瞬間、作法どおり、坂口の軍刀が牛島の頸部に振り下ろされてこれを切断し、牛島の体が前方に傾いて敷布の上に倒れた。次いで、長中将の番となり、同じ儀式が繰り返された。」

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 338-339頁より》

 

第32軍の動向

摩文仁の司令部壕 - 馬乗り攻撃をうける

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

【投稿者注】第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将の最期に関して、前述のように、米軍側は22日未明とし、日本軍側は23日未明としている。日本側の記録としては、主に八原参謀の証言をもとにしている。

第24師団司令部の最期の伝令

八原高級参謀の回想:

22日未明第24師団司令部からの最後の下士官伝令が飛び込んできた。その報告によれば、師団司令部は、今や東、西、北の三方から近く包囲攻撃を受けているが、付近に陣する15サンチ榴弾砲が、なお活躍を続けているので、まだ当分は大丈夫だとのことである。この下士官に託された杉森参謀の私宛ての手紙は、藁半紙に鉛筆で大きな字で走り書きしたもので、「いよいよ最期も近づいてきました。参謀殿には、長らくご指導お世話になりました。今度は靖国神社でお目にかかります」とあった。…私は軍参謀の動静を簡単に記し、かつ無限の愛着をこめて、訣別の言葉を送った。そして

     砲声もやがて絶えなむ喜屋武    つわものどもの夢をのこして

の駄句をつけ加えた。伝令は22日の日没を持って、再び死地を師団司令部に向かったが、果たして無事帰還したかどうか知る由もない。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 425頁より》

米軍が記録する21日摩文仁の攻略と司令部壕の垂直坑の爆破を、八原は22日と記録している。

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摩文仁司令部壕

22日の夜が明けて間もなく、摩文仁の部落に猛烈な機関銃声が起こり、3時間ばかり続くと、はたと止んだ。松井小隊が全滅したのだ。さらば松井少尉よ!戦車の走る音が、手にとる如く聞こえ、戦車砲がわが洞窟に集中射を浴びせてくる。

… 正午やや前、参謀部出口で轟然数発の爆声が起こり、爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。それ!黄燐弾だと皆防毒面を装着する。よく見ると、出口の阻絶は崩れていない。敵兵の足音と、不敬な笑い声が聞こえる。私はきたな!と思ったので、「秋永中尉!ここは大丈夫だ。中央の山頂出口を固めろ!」と叫ぶ。声に応じて、秋永は駆け出した。

私が、随感手記を便所付近に落としたのを探しに行った勝山が息せき切って引き返し、報告した。「ただ今敵に山頂を占領されました。敵の爆雷が垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室のあたりには、死傷者がいっぱい転がっています」

秋永中尉が駆け出してから、まだ10分も経たぬのに、もうやられたか。垂坑道から敵に侵入されたのでは一大事だ。まず参謀長、軍司令官がいちばん危い。そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。私は蛍電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯血なま臭い。

電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に10数名の将兵が折り重なって倒れている。頂上からさらに攻撃を加えられそうな気がするので、十分周囲の状況を確かめた後、意を決して死体を乗り越え参謀長室に突進する。まだ絶命していないのか、私に踏まれた兵士が痛い!と叫んだ。

参謀長室は、無残に吹きとばされていた。長将軍は憮然として、隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。避退した将兵は、両将軍を囲んで総立ちになり、 まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。… 皆の話を総合すると、秋永中尉は山頂に達するや、直ちに数名の部下衛兵とともに榴弾を交えてことごとく殪れ、第2陣を承って駆け上がった池田少尉以下10数名は山頂に達するに先だち死傷して壕底に転落し、さらに手持ちの手榴弾が爆発して、損害を大きくしたようだ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 427-428頁より》

平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。

公園について - 沖縄県営平和祈念公園

 

摩文仁の司令部壕 - 最後の晩餐

ついに山頂は敵の有となった。敵はいつ垂坑道から侵入するかもしれぬ。唯一の残された副官部出口は、敵に海上から制されており、さらに山頂の敵から手の届くところとなった。容易に自決の日を示されなかった両将軍も、わがことすでに終われりと観ぜられたものか、今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、23日黎明摩文仁部落方向に玉砕突撃を敢行、牛島中将、長参謀長は山頂において自決するに決せられた。

… 参謀長は、司令部の最期を見届ける必要はない。機を失せぬうちに、早く出撃せよとしきりにすすめられたが、さすがに私もこの言には従い難く、ここに踏み止まっている。夕刻やや過ぎて、司令部衛兵の1人が泥にまみれてやって来た。彼は対戦車肉迫攻撃隊の一員として、今晩摩文仁高地東麓で、敵戦車を待ち伏せして、その2輛を爆破したが、戦友は皆死傷したという。… 確報ではないが、混成旅団、軍砲兵隊の両司令部は昨夜総員斬り込みをしたという。第62師団司令部は依然頑張っているだろうか? もとより知る由もない。最後の夕飯は、暗い洞窟のそこここでいつもと変わりなくひそやかに始まっている。泥水で煮た握り飯1つ、飲む水はすでに一滴もない

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 429-430頁より》

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米国海軍: Aerial of damage on Okinawa in the Ryukyus following heavy aerial bombardment. Taken by plane from the USS ESSEX (CV-9).
激しい空爆後の被害が写る沖縄本島の空中写真。空母エセックス(CV-9)の艦載機から撮影。1945年 6月 22日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

山頂を奪回しそこで自決する案は断念される。

私は参謀長に、残念ながら山頂の攻略は断念のほかなき旨を報告した。将軍はすでに酒の酔いが回っているらしく、なかなかの上機嫌だ。私の報告など歯牙にもかけず、「まあ一杯飲め」と酒を勧められる。「…お前も俺も横紙破りのわがまま者だったので、苦労を重ねたあげく、今日の運命を甘受するに至った。俺は着任の当初から、決してお前をこの島では殺さぬと言っていたが、今その約束を果たし得てまんぞくだ。お前の敵線突破は必ず成功する。…」と言って、…先だつものは金だからと、百円札5枚を渡された。… 夜半過ぎて、山頂奪回は断念し、両将軍は23日未明、副官出口で自決されるに決し、今両将軍ともお休み中との知らせがあった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 431-434頁より》

 

日本兵の行動

日本軍は、すでに敗北の運命も明らかになりながら、最後の防衛線が米軍の手におちるまで、おどろくべきほどみごとに、兵の士気や軍紀を維持していた。だが、それがいったん崩壊しはじめたとなると、あたかも悪疫がひろがるようにひろがっていった。多くの兵は、すでに首里を放棄したときから、〝最後の勝利〟に対するのぞみを失い、大砲の音も、4月の轟くような大音響が、6月12日までには、早くも、消えるような、かすかな音に変わっていた。小銃の数は兵員にも足りなくなった。ある将官は、「もし手榴弾などが戦場に落ちていたら、各自、それを拾って、自分の武器とすべし」という命令さえ出した。

兵も将校も、どうしてよいかわからないほど、混乱していた。ある捕虜の話によると、兵隊が、部隊名も将校の名前も知らずに隊に入ってくることは、ごくありふれたことだったという。また別の捕虜は、医薬品の欠乏がひどく、治療も、しまいには包帯で巻くだけに止まり、いきおい負傷兵の中には、そのまま自決を遂げる者も出てくる始末だったという。

兵の半分はめくら滅法に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると、強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。

だが、こういう最悪の状況下で、将校たちは、米軍の捕虜になったら死は免れぬ、と兵隊にいいきかすことによって、軍紀を維持していた。それと同時にまた、部下の兵に味方の逆上陸があるのだ、空挺隊がいまにやってくる、6月の後半には、総攻撃を行うんだといいつづけていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》

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米国海兵隊: Native boy who was held by the Japs for 22 days without food.
日本兵の下で、22日間も食糧もなく過ごした地元の少年 1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

師範鉄血勤皇隊 川崎正剛 (18歳) の証言

6月22日、米軍が摩文仁丘を馬乗りし垂直壕 に迫っている。海岸へ脱出せよ。安里曹長(教練教師 ) の声。わたしは知念眞一郎を壕入口に担ぎ出し必ず迎えに来るからなあ。と言い残し摩文仁部落からの 機関銃の狙い撃ちのなか五、六人の隊員らと丘を転 がるようにして海岸へ出た。数百人の兵士や住民いた。沖合の掃海艇から「兵隊さん戦争は終わりました」「早く出てきなさい」「心配ない」等 とマイクで投降を呼びかけてきた。低空飛行の観測機もビラで投降を呼びかけてきた。投降する者はいない。捕虜になるくらいなら死んだ方がいい。勿論、投降しようものなら仲間がこれを許さない。刃にかけられるか、銃殺は免れない。誰もがそう信じた。

南城市沖縄戦 証言編 -大里-

摩文仁(ヒル89)の丘がみえる海上から日本人に投降を呼びかける。上陸用舟艇から捕虜となった日本人が。投身自殺しないように拡声器で呼びかける。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

 

そのとき、住民は・・・

出口なき戦場

沖縄戦の絵】「家族の悲劇」

… 父、母、妹、弟とともに、西原町から沖縄本島南部へ避難した。砲火をくぐり抜け、やっとの思いで糸満市真栄平までたどり着いた時、1発の砲弾が近くでさく裂。弟は頭に破片を受け即死。父も腹部に破片が刺さり、お腹を押さえて倒れこんだ。母もけがをしたが、幼い弟を抱き上げ「アイエナー、チャースガヤー(どうしよう)」と言って泣きながら取り乱していた。弟のそばには妹が駆け寄り泣きじゃくった。…自身も破片を受け右腕が腫れて感覚が無くなっていたが、苦しむ父にしがみつき「お父ー死なんけー」と呼び続けた。父と弟を何とか近くの家に移し寝かせたが、2人は間もなく息を引き取った。父は死に際に「私に構わず早く逃げなさい。娘たちを頼む」と母に言い残し、母子3人は後ろ髪を引かれながらその場を後にした。3人はその後、糸満市の喜屋武岬付近で米軍の捕虜となった。父と弟が亡くなったのは昭和20年6月22日、日本軍の組織的な戦闘が終わる前日のことであった。

家族の悲劇 【豊永スミ子】|沖縄戦の絵|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

21日頃に米軍によって撮影された写真。兵の南下に伴い壕を追われた住民は、岩陰やアダンの陰に身をひそめるしかなかった。

那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』(1981年)

人びとが倒れていた場所は、高さ3mほどの斜面に囲まれた窪地。斜面に生えているのは、亜熱帯の植物アダン。海岸線に特徴的な植物だ。倒れていたのは17人。そのほとんどが、女性と子ども。当時、男性の多くは軍に動員され、家族と離れていた。

「大事にしている着物だと思いますよ。」 服飾の歴史を研究する、與那嶺一子さんは、女性の1人が着ている着物に注目。着物の柄は「敷瓦」と呼ばれ、都市部でしか手に入らない高級な晴れ着だった。大切にしてきた着物を身につけ、息絶えた女性たち。與那嶺さんは、そこに女性たちのある覚悟を感じると言う。「都市部に住んでいて、首里とか那覇、あるいはそういうところに住んでいて、巡り巡ってここまでやってきた。… 」

さらに写真を詳細に見ると、日本軍の手りゅう弾が、ピンが抜けた状態で写り込んでいた。そこから、人々が手りゅう弾を爆発させようとしていたことが窺える。

ドキュメンタリー沖縄戦 ~ 出口なき戦場 - Battle of Okinawa

夕方摩文仁には、夕食の準備のためか、あちらこちらのや岩かげから、おびただしい数の友軍の兵士たちがぞろぞろ出て来た。 その様子は、蟻が穴から這い出て来た有様によく似ていた。摩文仁が一番安全だと聞いてやって来たのに、民家や石垣は砲撃のため殆ど破壊されており、また、岩蔭等は兵士が一杯避難して、民間人の避難する余地など全くない状態であった。

外間和子 白梅学徒隊 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』(1981年)

 

 

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