〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

絶壁の終わらぬ戦場 / 轟の壕からの脱出 / 宮城嗣吉夫妻

 

米軍の動向

掃討作戦

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《AIによるカラー処理》The rolls of barbed wire, strung up shortly before dusk, will help prevent an enemy counterattack during the night. The wire will make it difficult for infiltrating snipers.

夜間の敵の反撃を防ぐために日没直前に張り巡らされた有刺鉄線。これが敵の狙撃手の侵入を困難にさせる。(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本兵と民間人捕虜の収容

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山にこもる日本軍は住民と島の食糧を占領したが、厳しい食糧難を避けることができず、阿嘉島の野田隊は一部の住民と朝鮮人軍夫に投降をゆるした。

6月中旬には稲刈り取りがなされたが、作物はすべて軍の倉庫に保管され、住民には一日わずか一にぎりの配給がなされるだけであった。… 6月22日には軍民が一ヵ所に集められた。隊長自身、これ以上保護しても無意味と思ったのか「米軍へ投降してもよい。」という意味の命令が下された。つまり、米軍への投降は黙認されることになったのである。そのため軍民の半数以上と、朝鮮人の軍夫全員が山を下り投降し
ていった。

… 主計の見ノ木中尉は率先して部落民を指導、ソテツの製造製塩法、自然野菜の植え付けなどを行ったが、部落民にとって、この見ノ木主計は最も恐ろしい存在で、作業中に隊を離れたといっては罰し、とにかく、むちゃくちゃな程に住民をいじめぬいた。ある老人は釣りの帰りにちょっとしたことで半殺しの目にあい、子供泣きに泣きじゃくる程の仕打ちを受け、またある老婆は「じゃま者」ということで、石を投げられ傷つき、その傷から破傷風となり死亡するという事件も起きた。とにかく部落民は、この主計の横暴ぶりに恐れおののいた。人々の間からは、「見ノ木主計は犬畜生よ、天地人の罰」と唱える者もいた。

《垣花武栄『「敵」と化した日本軍』座間味村史・下巻 (1989年) 132-133頁》

座間味の捕虜収容所 (7月29日)

座間味村編集委員会座間味村史・上巻」(1989年) p. 376

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Jap prisoners of war arrive at stockade on Zamami Shima, Ryukyu Islands. Arriving in Ducks.

座間味島の収容所に到着した日本人戦争捕虜。水陸両用車”ダック”に乗って到着。(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

喜屋武岬で生きのびる

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【ワークシート付き】地域の沖縄戦知ろう! 本島南部編 - 琉球新報デジタル

摩文仁

多くの兵士が壕に潜み、終わらぬ戦争を生きていた。

中国戦線から嘉数の戦い、そして摩文仁を生きのびた兵士

45年6月、飯田さんらは他の日本兵や住民らとともに自然壕に身を寄せた。昼間は壕の奥にこもり、日が暮れると動きだす。海水で傷口を洗い、ネズミやマングース、バッタなど何でも捕食した。闇に紛れて米軍の陣地に忍び込み、食料を盗んだ。米兵に見つかり、肩を撃たれたこともある。

神奈川新聞「戦争だけは駄目だ ~ 沖縄戦で日本兵殺害 元日本兵の飯田直次郎さん」(2017年11月3日) - Battle of Okinawa

しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」

ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。

日本兵が日本兵を銃殺 当事者の元隊員95歳男性が記録に 「住民虐殺、強姦・強奪許せず」 - 琉球新報

ギーザバンタ (慶座絶壁)

ギーザバンタ (1961年)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

ギーザバンタには、死体があっちこっちに転がっていました。ただあそこには、水が岩の間から流れ落ちてくるところがあるんですよ。そのへん一帯には、岩の下あたりに穴を掘った壕や、小さい自然壕があって、避難民と友軍の兵隊がいり混って入っていました。ギーザバンタは、最後のどんづまりの地点で、眼の前の海には敵の軍艦が待ち構えていました。「私たちがその壕にいるとき、一緒にいた一人の兵隊がですね、沖縄人がスパイを働いたために、この戦争はこんなに無残な負け方になったんだ、と言って、気がおかしくなったみたいに怒って、沖縄人は小銃でみんな撃ち殺してやる、と騒いでいました。そしたら、ある小父さんがですね、沖縄人にスパイがいるもんか、友軍が必ず勝つ勝っいうもんだから、わしらもこんなに苦労してきたんだ、どれほどの沖縄人が犠牲になっているか、知っているのか、お前が撃ち殺したいなら殺してみろ、と言い返したんですよ。すると兵隊はね、小銃の木のところで、小父さんの顔を撲ったんですよ。それから、二人はとっくみ合いになったんですよ。そしたら、兵隊たちは、私たちに危いから早く出なさい出なさい、と言い、女子供はみんなそこから逃げて、近くの岩の間に隠れて見ていたんです。そしたら横から別の兵隊が出てきて、とっくみ合っている二人を分けて、戦争に追い詰められたからと言って、避難民をいじめるお前こそ悪いじゃないか、と言って暴れた兵隊を叱っていました。その喧嘩が終ってから、午後時一か二時頃に、海の方のアメリカの軍艦から、「デテコイ、デテコイ」と呼びかけるんですよ。拡声器で、安心して捕虜になった方がいいというようなことを説明していました。ところが私たちは、捕虜になったら米軍に殺される、ということを、兵隊たちから聞かされていましたから、避難民は誰も出たがらないんですよ。

そのうちに、喧嘩していた兵隊も他の兵隊たちも、突然、何もかも脱ぎ捨てて、フンドシも取って裸になってですよ、出て行ったんです。だから私たちは、唖然として眼をぱちぱちさせていました。

沖縄戦証言 東風平村 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・ 

轟の壕 - 日本兵に閉じ込められた住民

県庁壕となっていた轟 (とどろき) の壕は、6月16日に知事が摩文仁に出発後も、多くの県庁・警察職員と家族、住民が避難していた。島田知事と入れ替わるようにやってきた日本兵は壕の入り口に陣取り、壕を恐怖支配するようになる。

6月7日頃に島田叡知事以下の県庁首脳部がこの壕に移動。15日の夜、知事は県幹部を集めて県庁の活動停止を命じており、沖縄県庁最後の地とも言われています。知事は16日朝、摩文仁の司令部に向かいました。同じ頃、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み入り口付近を占領し、軍官民雑居の状態となりました。

6月18日頃から米軍によるガソリンや爆薬の入ったドラム缶落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、死傷者が出ました。手持ちの食料が尽きた住民の中には衰弱死するものも出ました。6月25日頃、先に米軍の捕虜となった宮城嗣吉さんらが投降呼びかけを再三行ったことから約500人から600人の避難民は壕を出ていきました。

「轟の壕」のパネルより

轟の壕: 糸満市字伊敷 (トゥルルチ、トゥルルシ)

http://www.tabirai.net/sightseeing/column/img/0006247/kiji1Img.jpg?uid=20170624132024

轟壕(とどろきごう) | たびらい

轟の壕の広い入り口を陣取った日本兵は、住民をおくに追いやり、食料を奪った。

…陸軍の大塚曹長を隊長とする15、6人の日本兵の一団がなだれ込んだ。全員、きちんとした軍服、銃剣などで武装しており、避難民は一瞬、自分たちや壕を守ってくれるのでは・・・と期待したが、それは大いなる錯覚だった。

兵らは避難民を全員、川下の湿地帯に追いやり、自分たちは川上の居心地の良い乾燥地帯に陣取った。さらに民間人の居る場所との境に石や木でバリケードを築き、出入口近くに歩哨を立て、だれも壕外へ出ないよう厳重に見張った。民間人が壕を出て米軍の捕虜になった時、軍人が壕内に居ることがわかるのを恐れたのである。避難民の受難が始まった。

県警察部の女性職員の証言:

「友軍の兵隊が避難民のところへ、食糧あさりに来るのです。住民は皆、虎の子の食糧を小さな包みにして持っていましたが、銃剣で脅して、それを取り上げて行くのです。おまけに住民はイモやサトウキビすら取りに出られなくなり、飢えに苦しみました

糸満のオバア(お婆さんの庶民的な呼び方)が上は7歳、下は4歳ぐらいの2人の男の孫を連れて川下にいました。孫は『ハーメー、サーターカムン(お婆ちゃん、黒砂糖が欲しい)』と言って泣いていました。オバアは手ぬぐいにくるんでいた命の綱の黒砂糖を少しずつ孫に与えていたのですが、食べてしまうと『ナーヒンカムン(もっと欲しい)』と泣くのです。すると、兵隊がやって来て『泣かすなッ。この壕に人が居るのが敵に知られてしまうじゃないか。今度、泣かしたら撃つぞッ』と脅しました。気配を察した子供は、その時だけは黙るのですが、また泣く。兵隊が再びやって来て『いくら言っても分からんのかッ。なぜ泣かすのだッ』と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が『これは僕らのだ』と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」

「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが『子供を泣かすなッ』と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、『たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ』というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科壕からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。『なぜ敵の居る方へ行くの?』と聞くと『友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし』と吐き捨てた言葉が忘れられません」』

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 380、380-381頁より》

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NHK ドキュメンタリー沖縄戦『出口なき戦場 ~最後の1か月で何が~ 』(2021年) ダイジェスト - Battle of Okinawa

…壕の狭い通路に、6、7歳位の男の子が、丸裸で、顔から体中泥だらけになって立って居た。…盲児らしかった。耳も聞こえないのか、声をかけても返事しない。あるいは気力さえ失っていたのかも知れない。まるで放心したように身動きせずに立っている。其の足許に男の死体が横たわっていた。死体の側から離れようとせぬのは、此の児の父親なのだろうか。泥だらけの顔も、泥にまみれた手で、なきじゃくった為でもあろうか。…其の児も次の日には足許の死体に折り重なるように死んで居た

弱々しい声で泣き続けていた嬰児の声も、何時のまにやら途絶えて居た。ボロに包まれた嬰児の死体が置き去られて、一緒に居たという、若い母親の姿はなかった。乳房の枯れた母親は、飢えて死んだ愛児の側にいたたまれなかったであろう。』

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)》

軍官民同居壕の運命。18日には馬乗り攻撃をうけ、餓死者も出始める。

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轟の壕(トルルシガマ・トロロンガマ)

それから3日後の18日から、この轟の壕は米軍の「馬乗り攻撃」をうけることになった。その攻撃をうけることは、もはや夜中であっても壕の外へは出られなくなるということである。4、5百人の避難民の食糧は底をつき、数日後に餓死者が続出し始めた。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 154-156頁「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)》

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NHK ドキュメンタリー沖縄戦『出口なき戦場 ~最後の1か月で何が~ 』(2021年) ダイジェスト - Battle of Okinawa

暗く、じめじめした壕内に閉じ込められた避難民は、食糧もなくなり、餓死する者、に倒れる者が続出した。当初はやかましい程だった子供の泣き声もしなくなり、壕内はシーンと静まりかえった。このままでは全員が死に絶えるのは時間の問題だった。大塚曹長に「女、子供だけでも出して頂きたい」と交渉した。大塚は「出たい奴は出せ。後ろから軽機(関銃)で撃ってやる」と頑として応じず、…「貴様たちは、それでも日本人か」と怒鳴りつけた。…「泥を食ってでも生きろ」

馬乗りされてから1週間が過ぎた。…県と警察職員はほかに出口を開けようと決心、…しかし、適当な個所は見つからない、で結局、この計画は実らなかった。

… いよいよ友軍との持久戦だ。…低いうなり声。水、水をくれ、とかすかな声が暗闇の中から聞こえる。水をのむために、やっと水辺にきてうつぶせになって死んでいる者。水の中に頭を突っ込んでこと切れている者。水をのみにはい出してきて死んだ母親の乳房にすがりついて、ぐったりしている赤ん坊。水中にうつぶせになった女の長い髪の毛が、ゆらゆらと生きもののように水中にゆれていた。壕の中は刻々と腐臭がみなぎっていた。腐肉とウジと血と糞便がどろどろに溶け合った泥水が、岩間を伝って下の方へ流れていた。

《伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』(1981年) 388頁》 

 

宮城嗣吉夫妻の脱出と救出活動

そんななか、空手の武闘家として知られる宮城嗣吉とその妻は壕からの脱出を試みた。

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船越義彰『スヤーサブロー・宮城嗣吉物語』沖縄タイムス社 (1991.7)

宮城嗣吉 (1912~2001) 元沖映社長。那覇市出身。1952年に那覇市牧志に沖映本館を開き、映画の配給、興業に乗り出した。映画興業が斜陽期に入ると「沖映劇場」を立ち上げ沖縄芝居の一時代を築いた。

宮城嗣吉 (みやぎ・しきち) - 琉球新報デジタル

空手家で沖特陸浜野部隊の宮城嗣吉上等曹長は妻のいる轟の壕へ身を寄せていた。二人は、壕の奥の水源を泳いで脱出に成功し、米軍の捕虜となる。

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《AIによるカラー処理》These five people were instrumental in influencing the 491 Okinawan civilians to come out of cave to safety.

壕から安全な場所へ出てくるよう491人の沖縄の民間人に働きかける助けとなった5人の人々。(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

夫婦で轟の壕から脱出に成功した宮城上等曹長の証言:

「私たちは最初、親しくしていた特高課長の佐藤さんらと一緒に地下2階の壕に居ましたが、米軍の馬乗り攻撃の気配が強まったので地下3階へ降りました。その時、佐藤さんを熱心に誘ったのですが、『島田知事から託された重要書類や機密費数万円(現在の数千万円に相当)を内務省に届ける密命を帯びているので、出やすい地下2階にいる』と頑として応じませんでした。仕方なく私たちは下へ降り、知事や警察部長が居られた所より、うんと川上の方に居ましたが、陸軍の奴らに閉じ込められてしまった。これでは野垂れ死ぬばかりだと、1週間ほど経ったころ、私たちは壕内の川を必死でさかのぼりました。梅雨末期の豪雨で川は水かさが増し、背が立たない。何度も潜って泳いで行ったら、突然といった形で伊敷の共同井戸に出ました」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 384-385頁より》

…宮城は青年時代から…空手の達人夫人はハワイで生まれ育った泳ぎの名手というスポーツマン夫婦であったことが、土壇場の脱出・救出劇で少なからず役に立ったようだ。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 383、384頁より》

…そこにも米兵がいて、捕まった家内がアチラ語でペラペラやったので、収容所へ連れて行かれた。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 161頁にある「隈崎俊武遺稿『手記ー沖縄戦と島田知事』(昭和47年9月20日記述、自家本)》

轟の壕への「デテコイ役」を名乗り出る宮城。

「妻が手なれた英語で『壕内に何百人もの避難住民が閉じ込められています。助けてやって』と必死に訴えますと、私たちは師団の情報将校ジェイムス・ジェファーソン中尉の前に連れて行かれた。中尉は『あの壕に日本兵が立てこもっているのは分かっている。いまダイナマイトで爆破する準備を進めているが、住民を巻き添えにしては可哀相だ。もし君が壕へ引き返し、連れ出すのなら、待つ』と言ってくれました。…その場で承諾し、決死の覚悟でまた壕へ引き返したのです。陸軍の奴らが撃つなら撃て、の心境でした。1日目は地下1、2階に居た人たちを出し、2日目は地下3階へ入りました。幸い大塚曹長ら陸兵は何処へ行ったのか姿はなかった。出入口付近に近づくなり『海軍上曹・宮城は死んだ。皆さん、出て来なさい』と叫びました。私は軍人としては死んだも同然だが、一県民として救いに来た、との思いを込めたのです」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

その時、パッと強い光が壕内に入りこんで来た。懐中電灯だった。いよいよ米軍がきたのだ。われわれは殺される、と一瞬恐怖におののいた。『私は宮城だ。みんな壕の外に出なさい。出てもちっとも危険はない。米軍がみなさんを救いにきたのだ』と聞き覚えのある声がした。

《伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』(1981年) 388頁》 

 

轟壕の避難民、約600人の救出が始まる 

ついに6月24日、宮城嗣吉の交渉で轟の壕が解放される。

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Overall view of pit with civilians emerging from cave, where some 500 were found hiding and held by Jap soldiers. Marines around crest keep a watchful eye for Jap Soldiers that might come out also.

壕から出てくる地元民であふれる壕入り口の全景。この壕には500人ほどの人が隠れ、日本兵に拘束されていた。頂上付近にいる米海兵隊員は地元民と一緒に出てくる可能性のある日本兵を注意深く見張っている(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍は6月24日、25日の両日にかけ、避難民約600人を救出した。

後方指導挺身隊・佐敷分遣隊にいた県庁職員の証言:

「米軍は女、子供から先に出し、衰弱の激しい者はトラックに積んで病院へ運びました。比較的元気な者は、…壕の出入口階段付近に集められました。そこへアメリカの将校がやって来て、片言の日本語で話しかけました。『下ニ日本ノ兵隊イマスカ?』。大勢の年寄りや母親が口々に『たくさんいる、たくさんいる』と答えました。すると、そのアメリカ将校は『日本ノ兵隊 生カシマスカ 殺シマスカ?』と聞いたのです。『殺せ!殺せ!』が一斉に、すかさず出た答えでした。皆が憎んだのはアメリカ兵より、日本兵だったのです。私も憎かった。しかし、日本人の口から、友軍の兵隊を『殺せ!殺せ!』という言葉が、敵兵に対して放たれる恐ろしさに気付いて、呆然としました」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385、386頁より》

※ 注 「クルセークルセー」とは沖縄語で「やっちまえ」ぐらいの意味。

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Okinawan civilians being assisted up steep hill from cave by Marines. After Okinawa was secured, 491 civilians abandoned their fright of the Americans impressed upon them by the Japs, and started a march out of this cave. Many were ill and wounded.

海兵隊に助けられながら傾斜地を登って壕からでてくる沖縄の民間人。沖縄が(米軍に)占領されたとき、491人の民間人は日本軍によって刻み込まれていた米軍に対する恐怖心を捨て、壕からでてきた。多くの人々が病気で、怪我をしていた。(1945年6月24日撮影)

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避難民の証言:

「…殺されるという恐怖のなかでガマを出ました。2週間も暗い洞窟にいたので、外の輝いている太陽のもとに出て頭がクラクラしました。たくさんの避難民がフラフラしながら壕から出るので、ゆっくりしかあがれません。それで、少しは目が慣れました。米兵が私たちを引っぱりあげてくれるのですが、はじめてアメリカ兵を見たとき、これは鬼だと思いました。なにしろ上半身裸で、見たこともないような胸毛がいっぱいで、猿のように手まで毛が生えていたのです。私たちはアメリカ兵を恐怖の目で見ていたはずです。

壕から出る直前、若い女は顔に鍋のススを塗れと誰かが指示しました。すると、綺麗な人は強姦されるという思いから、できるだけたくさん鍋のススを塗っていたのが印象的でした。

《「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 国内が戦場になったとき」(石原昌家/集英社新書) 192頁より》

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Marines removed civilians from a deep cave.

深い壕の中から地元民を連れ出す海兵隊(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawan civilians coming out of a huge cave in the Second Battalion area of 22nd Marines. After Okinawa was secured, 491 civilians abandoned their fright of the Americans, impressed upon them by the Japs, and started a march out of this cave. Many were ill, wounded, and dying. Civilians are being assisted by Marines.
第22海兵師団第2大隊付近の大きな壕から出てくる沖縄の民間人。沖縄が(米軍に)占領されたとき、491人の民間人は日本軍によって刻み込まれていた米軍に対する恐怖心を捨て、壕からでてきた。多くの人々が病気で、怪我をし、死にかけており、海兵隊の助けをかりる (1945年 6月24日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Okinawan civilians coming out of a huge cave in the Second Battalion areas of the 22nd Marines. After Okinawa was secured, 491 civilians abandoned their fright of the Americans, impressed upon them by the Japs, and started a march out of this cave. Many were ill, wounded, and dying.
第22海兵師団第2大隊付近の大きな壕から出てくる沖縄の民間人。沖縄が(米軍に)占領されたとき、491人の民間人は日本軍によって刻み込まれていた米軍に対する恐怖心を捨て、壕からでてきた。多くの人々が病気で、怪我をし、死にかけていた 1945年 6月24日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

中頭郡地方事務所長の証言:

「米兵は、日本兵が壕内に残っておるようだが、爆雷で殺していいかとみんなに諮ったのです。みんなは『いいですよ』と答えました。飲み物や食べ物をあてがわれたあと、われわれは車を3、4台連ねて北へ向かいました。トラックが伊敷から糸満街道におりるとき、ババーンという爆発音が、いま出てきた方向から聞こえました。『やったなぁー」と思いました。でも壕内であれほどいじめられていますから、何とも思わなかったです」

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 386-387頁より》

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《AIによるカラー処理》Part of the 491 civilians on Okinawa who surrendered from their hiding place in huge cave. In foreground, small child takes drink from little metal teapot.

隠れ家である大きな壕を出て投降した491人の沖縄の民間人の一部。手前は小さなやかんから水を飲む子供。 (1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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(1945年6月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

何百人もの避難民を死に追いやった大塚曹長日本兵の一団は、この爆破で全滅したと思われていたが、ずる賢くも別の出口から脱出して米軍の捕虜になっていた。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 385頁より》

その後、住民は、石川の民間人収容所で壕を恐怖支配した日本兵に出会う。

われわれの家のすぐ前に、徴用されていた慰安婦らがいた。彼女らは、ときどき肉などの入った大きな罐詰(米製)を持参し、われわれの家に遊びにきた。当時はひどい食糧難だったので、彼女らの来訪で大いに助けられた。
彼女らの中には、別府の花街朝鮮からきたのもいた。別府からきた女の旦那の名前を聞いて、私はびっくりした。何と、轟の壕でわれわれ散々苦しめたあの憎い、憎い大塚曹長だったのである。轟の壕で米軍が打ち込んだ爆雷でてっきり死んだものだとばかり思っていたから...。彼は変身して、米軍の宣撫班員になっていて、彼女をオンリーにしてぜいたくな暮しをしていたのだ。

《伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記』(1981年) 388頁》 

 

 

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