〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月24日 『それぞれの食糧事情』

国頭突破国頭疎開民間人収容所の食糧事情と「戦果」

米軍による占領統治

経済の支配 - 配給と自給

1935年の沖縄

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戦前に那覇市内にあった雑貨店の店先の様子。庶民が日常的に生活物資を買い求めていた市場とは異なる品数の多さから、那覇市内にいくつかあった百貨店内の可能性もある。野外の市場の人出やにぎわいを撮影したものはあるが、店内の様子を撮ったものは数が少なく珍しい。着物姿の女性が店頭で、品物を買い求めているように見える。店内にはキューピー人形が置かれているほか、ボンタンアメの広告もあり、品ぞろえの豊富さがわかる。戦後のデパートのような雰囲気もあり、戦前の那覇の雰囲気を知る上での貴重な1枚。1935年当時から沖縄にモダンな品物を販売するような、商品経済の波が訪れていたことがわかる(沖縄タイムス・与儀武秀)

沖縄1935 写真でよみがえる戦前:朝日新聞デジタル

1945年の沖縄

沖縄の「戦後」は、沖縄戦と米軍による占領統治が同時に進行する中に始まる。米軍は沖縄上陸後、住民を収容するとともに、米国太平洋艦隊及太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長である米国海軍元帥C・W・ニミッツによって発せられた、いわゆる「ニミッツ布告」の米国海軍軍政府布告第4号「紙幣、両替、外国貿易及金銭取引」ならびに同第5号「金融機関の閉鎖及支払停止令」により貨幣取引に関する一切の行為の禁止金融機関の閉鎖、を指令する。米軍政府が沖縄を占領下において以降のおよそ1年間は、賃金の支払い、税金、商品の売買、金融など通貨に関するすべての経済事象は沖縄から姿を消してしまう。沖縄は、1946年3月25日公布の米国海軍軍政府特別布告第7号「紙幣両替、外国貿易及金銭取引」にもとづく第1次通貨交換まで、米軍政府による食糧品・衣類など無償配給の時代が続くのである。

沖縄の人たちは、無償配給の中にあったものの、それだけでは足りず、山のものであるソテツ・パパイヤ・ノビルなど、海のものである貝・海草を食糧にし、また農地を分け合っての耕作、米軍の上陸用舟艇を借りての漁撈に従事するなど、食糧の自給に努めるのであった。

無償配給と並んで、沖縄県内では物々交換がどのようにおこなわれていたのか。…収容所での配給物資では足りず、戦場を彷徨・避難しながらでも「命を賭して持ち続けて来た訪問着を手放して米2升」との交換、雷管、火薬を離島へ運び込み子豚や山羊などの家畜と交換して沖縄本島内への持ち込み、米と衣料品、肉類の交換、軍作業に出る時に自分で作った帽子と食糧やタバコの交換、などがあった。

《「沖縄  空白の一年  1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 53-54頁より》

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米海軍: Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。1945年7月 8日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

  

第32軍の敗残兵

捕虜になった高級参謀 - 八原博通の出頭要請

沖縄持久戦を作成した作戦参謀の八原博通大佐は、米軍の記録によれば7月15日に身バレし逮捕されたことになっているが、八原の手記はまったく異なる記述が続く。彼自身の手記によると、身柄を拘束されたのは7月26日だとしている。→ 7月18日参照。

7月23日ごろの夜、冨祖崎村の労務掛りの沖縄青年が駆けつけ、あなたは今夜CICの事務所に出頭するようアメリカ軍から命令が出ていますと告げた。私はぎくりとした。身分が暴露したのではないか、と不安になってきた。念のために、村の配給主任に様子を聞くと、彼は笑いながら、「心配することはありません。いよいよ市民も国頭へ移転することになりましたので、他府県人は一応調査されるのです。現に某氏の如きも、簡単に調査されて、直ぐ放免になりました」と力づけてくれた。私は事務所に出頭するのをサボって翌24日の朝を迎えた。

24日の朝を迎えた。… 人々は、ぽつぽつ移転準備を始め出した。私は努めて平然としていたが、それでも、出頭命令を受けたことは、家人に告げた。皆は多少気の毒な顔をしたが、いままでに数名の人が、この家から次々連行されたのを見ているので、心を動かす者はない。CICに行くのをそんなに重大とは思っていないのだ。私は残ったかん詰めや菓子などを、とにかく給養の悪い縁側下組に分配した。…きのうの労務掛りの青年が、早く出頭して早く放免になった方がよいと督促に来たが、まごまごしているうちに、武装したMPが2人、サイドカーで迎えに来た。私は再びこの家に帰ることを念じていたので、「すぐ帰って来ますから、またよろしくお願いします」と挨拶した。女や子供たちは全部門に出て、手を振って別れを惜しんでくれた。

CICには、2、300名の男が収容されていた。年齢はまちまちだった。早く検問をと頼んだが相手にされず焦心のうちに2、3日は過ぎた。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 477-478頁より》

 

遊撃戦を命じられた学徒たち - 鉄血勤皇師範隊

6月18日、第32軍最後の命令は、鉄血勤皇隊をひきいた遊撃戦を展開せよ、というものであった。摩文仁に潜伏した大田昌秀らは7月下旬、国頭突破のため北上する。

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2017年6月12日 元沖縄県知事 大田昌秀さんの後ろ姿 - ~その時、沖縄は~

大田昌秀の体験談:

… 仲地と山城と私に2人の兵隊の一行5名は、一緒に国頭突破を実行するため住みついた岩山を後にした。月の明るい晩だった。港川方面は危険だというので、八重瀬岳を目標に進んだ。目立つ行動は危険なので、1人ひとりが相当の距離を保って進んだが、少しでもまごついたりすると、すぐに前方の人を見失う怖れがあった。

… 夜が明けそめると、身を隠すのに腐心しなければならなかった。一行はちりぢりに分かれて草原やきび畠にかくれ、終日じっとしていた。そして夜になると再び一緒になって進んだ。そのうちに米兵は、片っ端からきび畠や草原にガソリンを撒いて焼き払うようになったので、うっかりきび畠にも入れなくなった。

行く手には、到る所に敵の野営地があり、電灯が煌々ときらめいていて、その傍を通る度ごとに命の縮む思いがした。二日二晩も敵中を突破すると、もう気力が続かない。明け方の薄明かりで見て草木が密生していると思って、身をひそめても、陽が高く昇るにつれてすっかり見通しが利く明るい所でしかない。その傍を米兵たちが何も知らぬげに笑いさざめきながら通る時は、思わず衝動的に飛び出したくなる。息を殺してじっとしていると、真夏の太陽がジリジリと地肌を焼き、顔から全身にかけて汗が流れた。いつまでも太陽の位置が移らない一日の長さ。しかも敵は畠の近くに銃を構えて坐りこんでいるので、少しでも動けばさとられてしまう。そのため用便もできぬしまつだった。

国頭突破へ出発して以来、3日間の食糧はわずかに甘蔗が2本あるだけだった。八重瀬岳に辿り着いたのは7月も中旬をすぎていた。途中、防衛隊の者が、野生の山羊を料理しているのにぶつかった。人のよさそうなその人は、痩せ細った私たちを見て、親切にも毛のついたままの足を一本こっそりつかませてくれた。山城と私は、歩きながらアメをしゃぶるように生の足に喰らいついた。交替でしゃぶった後、それを雑嚢に入れ、しばらく進んではまた取り出してしゃぶった。味も何もあったものではない。骨に付着して固まった血を、目をつぶって口にほうりこむだけだ。だが、生肉の摂取は、てきめんに胃腸を刺激した。私はしぼられるような腹痛と猛烈な下痢で身動きできぬようになった。

…入れるような壕は、すでに他の敗残兵が占領していて、絶対に入れてはくれない。昼になると、敵はあきもせず火器を動員して執拗に掃蕩戦にやってきた。やむをえず私は、岩間で焼き殺された死体を隅っこに寄せ、それらの間に交じって、ウンウンうなっていた。

敵の攻撃が激しくなるにつれて身をかくすすべもなく、従弟に引きずられて、東風平の方へと途をとった。つい、うっかり灯を消している敵の歩哨線に紛れ込み、それと知って度胆をぬかれ、畠の斜面を丸太のように転がり落ちたこともあった。…それでも時には、敵さんが遺棄した野戦食糧にありつけることもあって、腐りかけたクラッカーなどを呑みこんで何とか飢えをしのぐことができた。

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 198-200頁より》

 

そのとき、住民は・・・

国頭疎開 - やんばるの食糧事情

県民の疎開場所として指定されていた沖縄県北部のやんばるの森では多くの避難民が飢餓と直面していた。

沖縄戦当時10歳だった園さんは米軍が上陸する前、母ナルさんと、生後1年ほどだった京子さんと3人で、沖縄本島中部の読谷村から北部の国頭村辺土名に疎開した。馬車で2日かかったことを覚えている。集落から数キロ離れた山中の小屋で過ごした。母は食料を求めて集落と行き来し、京子さんの面倒を見るのは姉の園さんの役割で、いつもおぶっていた。

母は食料を探しに行き、米兵に撃たれて死亡した。「今日も行ってくるよ」と手を振る姿が最後になった。京子さんは母乳を欲しがった。園さんは夜の間もおんぶを続け、荷物に突っ伏すようにして眠った。京子さんは徐々にやせ細り、ぐったりした状態が続いた。やがて眠ったままになると、二度と目を覚ますことはなかった。

「70年間ほったらかし、ごめん」記録から漏れた幼い命 - 沖縄:朝日新聞

総面積の95パーセントが山で耕地の狭い国頭村には、中南部から続々と避難民や敗残兵が押し寄せ、村の農作物は一月もたたないうちに取り尽くされてしまった。山中の食糧難は、深刻をきわめていた。避難民たちは、野草、そてつ、椎の実、ヘゴ、川魚、青大将、やもり、みみずなど食べられるものは何でも食べた。5月になると、栄養失調で死ぬ者が続出した。私たちは、餓死か投降かという極限状況に追い込まれていた。

こういう極限状況の中で、真っ先に犠牲になったのは、老人と幼児であった。山奥の小川沿いに何十軒と続く空き家となった避難小屋の中には飢え死んだ老人や幼児の死体がいくつも見られた。なかには、道端に飢え死んだ人の腐乱死体が横たわり、その側を通ると、無数の銀バエがたかり、息もつけないほど悪臭を放っていた。自分たちもまた、やがてこういうみじめな死に方をするのかと思うと、餓死の不安が重苦しく胸をしめつけた。

7月中旬頃、部落内に陣地を構えていた米軍が海岸へ後退したので、私たちはようやく昼間の食糧捜しに行けるようになった。初めて真昼に恐る恐る山を降りてわが家に駆けつけてみると、住宅も納屋も畜舎もすべて焼き払われてしまい、屋敷には身の丈ほどの雑草が生い茂っていた。自分の田畑農作物は、すべて取り尽くされてしまい見渡す限り雑草におおわれていた。戦争のみじめさがひしひしと胸をしめつけ、しばらくは呆然として焼跡にたたずんでいた。

30分ほどたつと、三方の山から降りて来た親戚の人たちが7、8人本家の焼け跡に集まり、お互いの無事を喜び合った。昼間は、ときどき米兵がジープで回って来るというので、私たちは急いで野草を摘んだり、米軍陣地跡から罐詰を掘り出したりした。

1時間ほどたってから、山の畑にいた次郎じいさんが、「アメリカーどーい」と大声をあげて報らせた。みんなは、くもの子を散らすように山へ逃げた。5分ほどたってから銃声が4、5発聞こえて来た。この時、みんなを逃してやった次郎じいさんは、山の中腹を登る途中頭を撃たれて即死した。このように、米軍の捕虜狩りの方法は、生け捕りと銃殺の2つしかなかった。投降する者は生け捕り、逃げる者は老若男女を問わず銃殺した。

国頭山中の避難民は、6月23日の沖縄戦終了をまったく知らなかった。たとえ知らされてもデマだといって信じなかったにちがいない。私たちは、日本兵にさんざんひどい目に会わされ、餓死に直面しながらも米軍に投降しようとはしなかった。私たちは、沖縄戦終了後1ヵ月以上たってもなお、人州不滅という神がかり的な信念を堅持し、天皇の赤子としての誇りを死守しようとしていた。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 頁より》

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沖縄本島北部のやんばるの森。手前は米軍北部訓練場。堀英治撮影

沖縄の生物多様性「最大の脅威」は基地建設の土砂搬入だ - 桜井国俊|論座

 

民間人収容所の食糧事情

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南部で捕虜となった人々は、トラックに乗せられ、金武や石川や久志など様々な収容所に送りこまれた。また野高収容所など中部の収容所と後に拡張された北東部の収容所とでは食糧配給事情も異なっていた。

首里から南部に避難、摩文仁で捕虜となった女性の証言

船でテントが沢山はってある糸満の海辺に下りたのがたしか6月23日頃だったと思います。昼、その日の内に知念、山原、石川の各収容所に連れて行かれたのですが、それも各人の行先きが初めからきめられていた訳でもなくトラックが、三〇台位もずらりと並んでいて、そのトラックの何台日から何台目迄は知念それから石川という風にふり分けられたのです。

夕方の六~七時頃になって着いたのですが、どこへ行ったらいいかも分らず、皆思い思いの方へ散っていきました。むしろもなくかやを敷いてやすみました。夜が明けてびくりしたのですがそこは大きな金網の中で沢山の人が入っていました。そしてめずらしい事にこの石川の部落には家もてんてんとあって、いもを炊くにおいや湯どうふのにおいさえしているのです。収容所の中ではみんなはむしろもなくかやを敷いていましたが、大きなドラム縦の中に砂糖水といもが入っていてそれが配給になりました。この収容所はもう二~三か月も前からあったそうです。私が死ぬか生きるかと逃げ回っていた頃にもここにいる人達はちゃんと食事をして生活していたのです。

沖縄戦証言 首里 (1) - Battle of Okinawa

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Women and children cover the beaches at low tide getting clams and other sea food and fish.

干潮時、貝やその他海産物、そして魚を捕ろうと浜に出る女性と子供

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

子どもたちの「戦果」

伊江島から本部半島に疎開した家族の場合 (当時小学生) の証言

そのうち、アメリカ軍に捕まり、その指示で、今帰仁村の兼次部落に移住した。伊江島から持ち出してきた衣類などの家財は、何回もの移動のたびに捨ててきたので、そのころは全くの着のみ着のままになっていた。

今帰仁に着いて三日目の朝、部落の大通りに集められ、アメリカ軍によって久志村大浦崎に連行された。大浦崎 (注・辺野古) の何にもない野原で、数世帯に一つのテントがあてがわれただけで、そこに住むよう指示された。水もなく、米の配給はあったが、鍋も食器もなく、アメリカ軍の塵捨て場からの空き缶を拾ってきてそれを使った。その上、マラリアが流行した。沢山の人が死んだ。食糧も十分でなく、アメリカ兵にクギブ、ミー。ギブ、ミーんと物乞いをするありさまであった。

私たちは、久志から今帰仁まで片道二〇キロの道を歩いて食糧さがしに出向いた。往きに二日、探すのに1日、帰りに二日、計六日がかりだった。米、麦、みそなどが主だった。最初は欲ばってたくさん担いだが、重いので、途中で少しずつ捨てて減らしていった。また、名護の東江原あたりに来ると敗残兵にねらわれて、食糧を分けたりしてますます少くなった。家に持ち帰るのはごくわずかなので、また出かけるのだった。

三回目の旅のときだった。みそと塩をさがしての帰り道だった。仲間の老人が引いていた山羊が死んだので、山中でそれを料理して食べている間に、荷物を全部敗残兵に盗まれてしまった。

しばらくすると、名護から先の方が通行止めになったので、名護にあるアメリカ軍倉庫に物資を盗みに行った。その名護の物資がなくなると、今度は、久志から、恩納、読谷、嘉手納を経て、遠く牧港まで、盗みに行った。歩いて十日もかかった。

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

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Japanese people living under U.S. Military Government at Hinoko [Henoko], northern Okinawa, Ryukyu Islands.
米軍政府の管理下で生活する民間人。沖縄本島北部の辺野古にて。(1945年7月8日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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