1945年 6月18日 『バックナー中将の戦死』

バックナー中将の戦死

6月18日の昼すぎ、第10軍司令官バックナー中将は、真壁付近に布陣する第2海兵師団の前線観測所に立ち寄って海兵隊のさいごの進撃状況を視察中、日本軍の47ミリ対戦車砲の一弾が岩の下部に命中し、相次いで五発の砲弾がとんできた。砲弾の破片か、岩の破片かが同中将の胸にあたり彼は10分後に絶命した。』(201-202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 201-202頁より》

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バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。

LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『バックナー中将は、前線へおもむく途中、第6海兵師団第32連隊のH・ロバーツ海兵大佐から「日本軍陣地からかなりの側射弾が飛来するので前線視察は見合すよう」に警告されたばかりであった。しかも警告を発したロバーツ大佐も1時間ほど後に狙撃されて戦死した。その他、日本軍の砲撃で第96師団の副師団長C・M・イーズリー准将も倒れた。』(202頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 202頁より》

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中将の戦死——前線視察中に日本軍の砲撃により戦死した米第10軍総司令官バックナー中将の遺体が、航空後送センターに傷病者搬送ジープで到着。

A GENERAL DIES---The body of Lt. Gen. Simon B. Buckner, commanding general of the 10th Army, who was killed by enemy shellfire while observing in the front lines, arrives by ambulance jeep at an aerial evacuation collection center.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。…自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。

真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。

その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。

ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。

その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。』(332-333頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 332頁より》

ニミッツ司令部18日23時30分の公表:

『「米第10軍司令官中将バックナー(沖縄本島米軍陸上最高指揮官)は海兵第8戦闘連隊の先頭を観戦中、18日13時15分日本側砲弾により即死した」』(202頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 202頁に記載された「1945年6月20日付の朝日新聞(東京)第1面トップ左わき、三段見出しの記事」の内容より》

 

南進する米軍 

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On top of Yaeju-Dake 18 June, 96th Division infantrymen probe hidden enemy pockets. Yellow cloth (right) marks the front lines for American bombers and fighters.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

『沖縄南部における地下壕の幾つかは、八重瀬岳と与座岳にあった。第96師団の歩兵は、これらの陣地を手榴弾や爆薬を投げ込み、あるいは携帯用火炎放射器で焼きはらった。歩兵にとってこの戦闘は、日本兵のかくれ場所をさがすための戦闘であり、また、時としてそれは、数分間、息つく間もない戦闘ともなった。』(497頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 497頁より》

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多くの日本兵が隠れていると思われる壕を掃討する第29海兵連隊第2大隊の兵士。(1945年6月18日撮影)

Men of the 2nd Bn. 29th Marines flushing caves where many Japs are believed to be hiding.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米兵の行動

復讐という虐殺 ①

バックナー中将の戦死(銃撃または砲撃事件)は、一部の米兵に復讐心を与えたようで、その後、残虐な行為を犯す米兵が目立って出てくるようになる。

『アメリカ軍の間に、沖縄の民間人に対して残虐な行為を犯した者が生じたのは、この事件に対して復讐したいという気持ちがあったからかもしれない。6月18、19、20日の3日間に計60人を殺害した事件は、18日におけるバックナーの戦死直後に起きており、そのすべてが同じ地区で発生している。その中の数件は、観測所のあった稜線のすぐ下の真栄里で起きたのである。』(334頁)

沖縄本島の南端から北へ約3マイルの洞窟に、…第22聯隊の姉妹聯隊、第32聯隊の残った者の一部とともに、民間人が避難していた。6月18日、19日、20日の午後、約60名の民間人がその洞窟から押し出され海兵隊員にいっせいにつかまって射殺された。これらの海兵隊員はおそらく、戦争神経症の極限にあったのだろう。復讐の念にとりつかれていたのだろう。いずれにせよ、目撃者によれば、その60名は近接した3ヵ所で殺された。』(328頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 334頁より》

 

 

第32軍の動向

崩れゆく防衛線

八原高級参謀の回想:

6月18日、混成旅団司令部は敵戦車群の砲撃を受けるに至り、さらに溢出したその一部は、摩文仁東方1500メートルの鞍部付近に侵入、独立歩兵第12大隊と戦闘を始めた。

第24師団方面では、歩兵第89連隊の線を突破した敵海兵軍団の一部は、同師団司令部の東北側真壁付近に現出、また左翼いずれの方面から侵入したものか、数輛の敵戦車が、わが陣地内深く、米須付近を暴れ回っているとの報がある。従来の経験に鑑み、一部戦車の横行は敢えて驚くにあたらずといえども、全軍の崩壊は数日の後に迫りつつある感が深い首里戦線末期の場合と同様、この摩文仁軍司令部でも、彼我重機関銃の音が近く賑やかに聞こえ出した。各兵団との電話はまったく利かなくなり、無線がときどき思い出したように通じる。已むを得ず用いる徒歩伝令も必死である。暗くて陰惨な軍司令部洞窟に伝わる報告は、いまや「某連隊長戦死! 某大隊全滅!」といったものばかり。心も身も凍るばかりである。』(405頁)

『軍の八重瀬岳を拠点とする東部戦線保持のための躍起の努力にかかわらず、すでに屍にも等しき第62師団をもってしては、いかんともする能わず。ついに八重瀬岳を放棄して、与座岳を拠点とする藤岡中将の選定した展開線をもって、軍右翼の抵抗線とするの已むを得ざるに至った。この線における師団の部署は、具志頭、米須道の右が独立歩兵第12大隊を第一線とする歩兵第63旅団の2個大隊、左方が独立歩兵第15大隊を第一線とする歩兵第64旅団の3個大隊ということとなり、混成旅団は、与座、仲座を拠点とし全滅するまで抗戦すべく決定された。そして師団司令部が、摩文仁に到着したのは、6月18日夜と記憶する。』(403-404頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 403-404、405頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

『我々はいまやなすべきをなし尽くした手元には一兵の予備もない。喜屋武陣地の戦闘は思ったより脆かったような気がせんでもない。軍司令部が摩文仁に退った直後、軍兵器部長梅津大佐は全軍の士気を鼓舞するような軍司令官訓示を出す必要ありと私に忠告した。またその後間もなく訪れた荒井警察部長は、「首里戦線におけるわが軍は士気すこぶる旺盛であったが、退却以後士気頓に衰えた」と所見を述べた。もちろん戦勢かくなる以上、士気の落ちるのは自然の勢いであるが、両将軍も、私もさほどには感じていなかった。喜屋武陣地の戦闘は結果的に見れば多少脆かったかも知れぬが、既述の如き貧弱なわが戦力を思えば、最大限によく戦ったと断言し得る。

参謀長は両翼概ね同時に崩れつつあるのを見てこれでよいのだと独言し、満足そうである。軍の統帥が至当に実施された責任感よりする喜びだ。今や一々軍命令を発して、諸隊を指揮するには戦線はあまりにも混乱している。通信連絡もまたこれを許さない。軍司令官は麾下各部隊に下すべき最後の命令の起案を命ぜられた。』(405-406頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 405-406頁より》

 

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

6月18日の朝を迎えた。伊東たちが移った壕にも、敵は爆薬を投げつけてきた。伊東は入口から7メートルほど入った洞窟の曲がり角に爆風除けを造り、小銃兵を配置して来襲に備えた。…昨日の昼には無線機が破壊されている。、聯隊本部へ伝令を出したが、戻ってこなかった。最後の命令を受領すべく、さらに伝令を出した。その日の夜も、また次の夜も、4度伝令を出したが、誰も帰ってくることはなかった。この頃になると、配属されていた経理や衛生などの後方部隊は霧散していた。彼らは戦闘訓練も受けていないのだ。無理からぬことだった。

米軍は、国吉台を攻撃の最重要点として精強の第1海兵師団をあてていた。第1海兵師団の攻撃は当初、伊東大隊の猛射を受けて失敗した。そこで重点を西に寄せて、隣接大隊との境界に変更し、多数の戦車を投入、29機の飛行機で弾薬・食糧・飲料水を投下補給して猛攻を続けた。しかしこの国吉台をめぐる戦闘では戦車21両、死傷者1150名という損害を出していた。』(247-248頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 247-248頁より》

 

鉄血勤皇隊を遊撃戦に投入

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

6月18日、牛島中将は、第32軍最後の文書による命令書を出し、「鉄血勤皇隊をひきいて部隊の戦闘終了後はゲリラ戦に出よ」と一将校を、その指揮官に任命した。同時に、沖縄北部でも、わずかながら、ゲリラ隊がまだ戦っていることになっているので、牛島中将はそこに血路を見出そうと北部に進むよう残存部隊に命令を出したのである。

部隊移動は、数日にわたって行われることになった。兵は、2人あるいは5人ずつ組んで、民間人の服に着がえ、なるべく交戦しないように移動せよという命令だった。』(499-500頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 499-500頁より》 

八原高級参謀の回想:

6月18日の朝、木村、薬丸両参謀は摩文仁を脱出し、木村参謀は沖縄本島南部地区、薬丸参謀は同北部地区において、遊撃戦に任ずべく、また三宅、長野の両参謀は、本土に帰還し、戦況戦訓を報告し、さらに奉公を励むべく命ぜられ、私にもほぼ同様の内意を含められた。

以上の命令は、後日の証のために、参謀長自ら通信紙に書いて各人に渡された。

各参謀の出撃を機とし、18日夜軍首脳部最後の晩餐会が催された。出席者は両将軍、私、木村、薬丸、三宅、長野の各参謀、葛野、坂口、吉野、真崎の各副官ならびに参謀部付き松原、西野両少佐の13名、場所は参謀部洞窟。非常に狭いので、先任者半数が鍾乳石で怪我せぬよう首を曲げて座し、他は通路上に立つ。ロウソク2本が、薄暗く洞窟内を照らしている。ご馳走は、鰤、魚団、パインアップルのかん詰め少々、恩賜の賀茂鶴1本、それに若干の琉球泡盛があった。』(415頁)

『参謀らは、出撃を19日夜に定め、それぞれ準備を始めた。行動は各人各個とし、随行者は各参謀に2名ずつとした。随行者として選ばれたのは、鉄血勤皇隊の16、7歳の少年たちであった。薬丸を除くほか、皆軍服を脱いで変装した。ショート・パンツ、沖縄服等々珍奇ないでたちである。偽名も必要だし、敵を欺くための似つかわしい職業もなければならぬ。三宅は学校の剣道教師、長野は自動車の運転手といった類だ。薬丸はあくまで敵に捕らえられぬ主義で、捕らえられたときは即ち死ぬるときと観じ、偽りの名も職も要らぬと言った。携行品は白米一升、鰹節2本、乾パン2日分、かん詰め1個、塩若干、その他薬品等である。

敵状地形を研究の結果、一般の脱出方向は、具志頭と決まった。爾後海路を知念半島に出るか、八重瀬岳方向に進むかは、時の状況による。』(416頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》 

 

敵将軍の死

『第32軍の若い参謀たちは、東京から無線でバックナー戦死のニュースが届いた時、歓声を上げた。沖縄県民でこれを目撃したある者は、長が喜んで万歳するのを見たという。牛島だけは、自分の幕僚がこのように喜び浮かれている様子を見て当惑し、沈黙していたが、後で自分と同様の地位にあった敵の軍司令官の冥福を祈ったといわれる。これは、ただの噂に過ぎず、それがそのままいい伝えられているのかもしれないが、日本軍の指導的地位にあった2人の人物の死をめぐっていわれている。』(334頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 334頁より》

一等兵による狙撃

『沖縄攻撃の米軍最高指揮官、第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年(昭和20年)6月18日に戦死した。場所は糸満市真栄里。米軍の公式発表は、日本軍の砲撃によるものとしているが、「私の部下の狙撃によるものだ」…。』(200頁)

歩兵第32連隊の見習士官の証言:

『「その日の午後1時すぎ、昼食をすまして壕を出ようとした。久しぶりの好天、新鮮な空気が吸いたかったからだ。壕内の陰気さったらないのだ。監視兵の小野一等兵に声をかけた。軽い冗談でもいいたいような気になっていた。小野は口を閉じ、右手の人さし指を、右前方百数十メートルの小高い丘の上に指した。見ると、ジープから3人の米軍将校が降り立った。『小野、鉄帽(鉄カブト)をかぶれ』と林良広主計中尉。『撃っちゃいましょうか』と小野。『命令がなければ撃つな』と私。3人の米軍将校の中で、一番かっぷくのいい、年配の人が左手で帽子をぬぎ、右手でズボンのポケットからハンカチを取り出した。頭を下げ、顔から額の汗をぬぐい上げながら頭を後ろにそらした。一瞬、小野は撃ったその将校はどうと倒れた。2人の若い将校がかけ寄って抱き上げ、ジープにのせて、さっと立ち去った」

「小野一等兵は東京出身、翌19日戦死した。快活な男で、私は彼とは一週間行動を共にした。狙撃兵ではない。使用したのは99式砲兵銃だ」』(200-201頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 200-201頁より》

 

捕虜になった日本兵

海兵隊員たちの証言:

「われわれは日本兵に降伏の機会を与えることは好きではなかったんだ。でも、命令は命令だ。」

「…戦友に対して彼らがやったことは、誰もが憎んでいた。いろいろなことをやった。そのうえ、彼らは手を挙げておきながら、いろいろな汚いごまかしの手を使おうとした---決して彼らを信用することはできなかった。」』(307頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 307頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/13-09-4.jpg

沖縄本島南部から数百ヤ-ドのところで前線に捕らえられたばかりの5人の日本兵捕虜。海兵隊翻訳官が彼らと話す間、海兵隊第22連隊第2大隊隊員が厳しく監視する(1945年6月18日撮影)

Five Jap prisoners just captured in the front lines, a few hundred yards away in southern Okinawa. Marines of 22nd Regiment, 2nd Battalion, guard their prisoners with a watchful eye while Marine interpreter speaks with them.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

民間人は、米軍が日本最後の防衛線攻撃を開始していらい、米軍戦闘部隊にとっては大きな負担になった。そして、戦線が落ちつくまでは、いわば足手まといとなった。

沖縄の約8万人の民間人のうち、およそその3分の1から半分までが傷を負い、やっと6月の最後の2週間に、彼らは島の南端の洞窟の中から匍い出してきた。ほとんどが子供老人、あるいは女の人で、五体満足な男の人はごく少数だった。彼らは長い隊列をつくって、前線の後方へ歩いていった。女の人はたいてい赤児を背に、衣類を束ねたものや、食料品、食器類、鍋釜など、持てるだけの財産を頭にのせてとぼとぼと歩いてきた。そして、途中で見つけしだい、砂糖キビを噛んで歩いていた。そのほかにも、幾千という民間人の死体が、溝の中、キビ畑、荒廃した村落内に散乱し、あるいは壕の中に、そのまま入口を密封されて生き埋めになっていた。』(509-510頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 509-510頁より》

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糸満の通りを抜け、憲兵の護衛で前線を離れる地元民(1945年6月18日撮影)

Natives being escorted to rear by M.P's, going through streets of Itoman.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『喜屋武岬の洞門を出たのは6月18日の深夜であった。誰が先に立ったか、指揮をとったか一切不明である。私の記憶も、まず、人の波にもまれて歩いていたことからよみがえる。この集団行動は、降伏勧告の「港川へ行け」という指示にしたがったもので、誰からともなく動き出したのであろう。

私の家族が動き出したのも、この勧告を誰かが聞いていたからであろう。…避難民の群れは黒いうねりになって動いていた。口を利く者はいない。黙々と珊瑚礁の磯を速足で渡っていた。側に誰かがいるか確かめない。だから、祖母や母とは離れ離れになっても気がつかなかった。私は完全にうねりの一部として動いていたようだ。

波打ち際に死体が転がっていた

寄せ返す波に、それぞれの位置で揺れた。

駆け寄って  そのポケットや雑嚢を探ったり

水筒を振って水を確かめたりする

敗残の習性さえ忘れた人間達が

黒いうねりになって流れていた

間断なく打ち上げられる照明弾が

海岸線の輪郭を照らし出す

青白い光が人々を包む』(76-77頁) 

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 76-77頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail26_img.jpg

沖縄戦の絵】「海に浮かぶ死体」

『山中の壕から下りて捕虜になった時に見た、八重瀬町の海岸の光景。昭和20年6月ごろは海いっぱいに米軍艦が連なり、激しい艦砲射撃のせいか海岸にはたくさんの死体が浮いていた。左側に描かれた日本兵の死体は赤く腫れて膨れていた。右側に描かれている死体は、避難者だったのか、着物を着ていた。住民も兵士も無残な姿となった。』

海に浮かぶ死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『攻撃は海の中に逃げた住民たちにも容赦なく加えられた。

「息ができるだけ顔を出しておこうと思ってですね。そうすると山からですね、ひゅんひゅん、もう雨が降るみたいに弾が飛んでくるのが見えるんですね。まわりの人に当たって、もうばちゃんばちゃん、みんな倒れていくんですよ。見えますからね、死んだ人が流れていくのが」』(152頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 152頁より》

  

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バックナー中将戦死之跡 | 糸満市