〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年7月20日 『宜野座野戦病院』

宜野座収容所宜野座野戦病院と洗骨禁止令

米軍の動向

北部の掃討戦

宇土部隊や護郷隊が潜伏する北部でも、掃討戦は続き、難民収容所に収容されてもなお住民は不安な毎日を送っていた。

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《AIによるカラー処理では火炎の色が再現できていない可能性があります》A cave is blasted with a 200 pound charge of TNT discovered along the Oi-Kawa River near Nakasone, Northern Okinawa to prevent further use of the cave by the enemy during mopping-up operations on Northern Okinawa.

沖縄本島北部の掃討作戦中、敵の壕の継続使用を阻止するため仲宗根付近の大井川沿いで見つかった壕に200ポンドのトリニトロトルエン爆弾を装着し、爆破した。1945年7月20日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設 - 読谷

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日本軍の飛行場があったため上陸地点となった読谷村では、沖縄戦で村土の約95%が占領され、全村域で基地化されることとなった。

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読谷飛行場に降り立ち、歓迎の出迎えを受ける “ハップ” アーノルド陸軍大将。(1945年7月20日撮影)

General view of Army General ”Hap” Arnold being welcomed as he stepped down from plane on Yontan Airfield, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍陣地の調査が行われる。

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沖縄北部の“レッドビーチ1”を防御する重機関銃の小さなトーチカ(1945年7月20日撮影)

Small pillbox used for heavy machine gun covering Red Beach #1 northern Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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砂袋を積み補強が施された日本軍の兵員用待避壕(1945年7月20日撮影)

Sand bagged and rivetted Japanese dugout for personnel.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Dummy AA Revetment and trenches Hill 52 overlooking Yontan Airfield.

読谷飛行場を望む52高地にある疑似対空砲の防壁と塹壕(1945年7月20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Link of heavy AA emplacements on edge of Yontan Airfield---Note heavy construction of revetment.

読谷飛行場の端に設置された大型高射砲列。大型建造物の擁壁に注目。(1945年7月20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Side ports for anti-boat gun and heavy M. G. In strong point, covering Green Beach #2.

グリーンビーチ2の堅固な陣地にある対艦砲および重機関銃射撃用副砲門(1945年7月20日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

沖縄島からの脱出 - 警察特別行動隊(警察別動隊)

沖縄県の荒井警察部長は5月11日、8人の部下を選抜し、警察特別行動隊を編成。彼らの任務は、軍とは別に、内務省沖縄県民の現状を直接報告するというものだった。翌5月12日、脱出を計画し。6月7日、知念村に集結し北部を目指した。

3つの班に分かれた警察別動隊は、6月8日、それぞれ知念村を出発したが、そのうちの1つ班にいた者は10日に与那原で米軍に捕らわれ、もう1班では6月17日に中頭郡中城村で米軍と銃撃を交え、殉職者が出た。残りの1班は、15日かけて沖縄本島北部の久志村に辿り着いたが、そのときには、日本軍の組織的抵抗が終了していたため、6月25日、辺野古で米軍に投降していた。

しかし、1945年7月20日、警察別動隊の1つの班にいた警部補1人は、沖縄北端に近い国頭村奥集落からサバニで脱出することができた。荒井警察部長の命令を遂行できたのは、この警部補だけであった。警部補は、海路、与論島沖永良部島ー徳之島ー奄美大島を経て日本本土を目指した。

警部補が千葉県の東京留守業務部沖縄班にたどり着いたのは、敗戦から2か月後の10月である。警部補は「住民や官公吏の沖縄戦への協力の実情、戦況等について、内務省で詳しく報告した。沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた、という流言を打ち消すことにも心を砕いた」と語っている。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 366頁》

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《AIによるカラー処理》The thatched-roofed homes of civilians on Okinawa in Ryukyus damaged by US aerial and naval bombardment.

沖縄本島にある藁葺き屋根の民家。米軍の空爆と艦砲射撃によって被害を受けた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

与那原で米軍に捕らえられた班にいた巡査の体験談: 1945年6月10日以降

砂糖キビを杖にしてよたよた夜道を歩いているうちに、また照明燈をつきつけられた。その瞬間、私は無意識に、足元にあった罐詰の空罐を取る真似をしながら、ピストルを側の溝の中に突っこんだ。彼らが手招きしたので、私は覚悟を決め、オーバーにビッコを引きながら近づいたら、彼らは声高らかにゲラ、ゲラ笑いながら、これをのめと、大きなコップを私の鼻の先につき出した。それは暖かいコーヒーであった。私はお代わりをした。また彼らは笑った。

2人の米兵に抱きかかえられるようにしてジープに乗せられた。最初は名城の金網に入れられたが、すぐ百名の収容所 (知念地区) に連れて行かれた。そこでまた金網に入れられ、MPと2世(米兵)に調べられた。私は、防衛隊でもない、また兵隊でもない、自動車の運転手で、那覇、国頭間の物資運んでいたが、那覇にいたときちょうど「10・10空襲に遭い・・・と嘘をついた。彼らは一応納得したように思ったが、そうではなかった。

…「君は嘘をついているからついてこい」、と山の麓に連行された。そこで、本当のことを言わないとここで射殺するとおどされた。私は本当のことを正直に話した。…銃を突きつけられ本部に連行された。私はしばらく金網の中にいたら、通訳と元日本軍憲兵隊長がきて、首実験をした。私はその隊長を知っていた。特高課長の名も聞いた。よし間違いなく警察官であると太鼓判を押した。そしてすぐここから出て好きな所に行け、と追い出された。結局MG本部(米軍政府)にいた…氏を頼って、そこに行ったら、そこには警察官が大勢いた。警察官の経験年数の一番長かった糸満の…刑事がそこのCP隊長になった。私は、傷を治療するために、しばらく病院に入院した。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 462頁より》

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正面を向いているのは、地元の警察署長。沖縄本島下原にあるC-3軍政府チーム事務所にて。

Facing front, chief of native police at office (Shimobaru) of Military Government C-3, Okinawa, Ryukyus.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

宜野座収容所 - 中川初等学校の設立

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65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。

県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜になった住民たちを集めた収容所も作られ、宜野座村は多くの戦争難民で混乱状態に陥りました。

1945年の敗戦当時、宜野座村の人口は最大で10万3000人沖縄県の人口のおよそ32パーセントが宜野座村集まっていました。田里友伸さんは、当時宜野座村にあった福山収容所沖縄市から移動してきました。

田里友伸さん「もとは避難壕に入っていた。そこにいた人と一緒に捕虜にとられて、島袋に収容された。そこの収容所から福山に移動した」

65年前のこの日に宜野座村に誕生した中川初等学校。この時期、宜野座村では多くの収容所に学校がつくられましたが、田里さんは学校があったことすら知らなかったのです。

田里さん「あっちはほとんど学校あったかわからなかったぐらいです。食べるものもないんだから。イモなんか植えても生えないんです。枯地で」子どもたちの教育のため作られた学校ですが、戦争難民であふれ、食べるのもやっとだった混乱のなか、学校は誰もが通える場所ではなかったのです。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月20日(金)

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砂辺から島袋、そして宜野座収容所へ

中部の米軍基地建設の開始に伴い、北谷の住民は4月4日には島袋へ、さらに6月末からは宜野座収容所の福山に移送された。

砂辺→島袋→宜野座に移された北谷女性 (39歳) の証言

宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました。そこの土地の人たちは、避難民だといって軽蔑して、同じ沖縄人同士なのに、どんなに冷たい仕打ちをしたことか。イモの薬っぱですね、カンダバー一っもくれようとしませんでしたよ。私は島袋から味噌やお米を少し持ってきていましたから、最初のうちはそれで凌げたんです。あとからは食べるものがなくて、大変でした。カンダバー(サツマイモの薬やお米や豆類が、ほんの少しずつ配給があったんですけれど、それだけではとても足りなくて、いつもひもじい思いをしていました。おばあさんたちや子供たちから、栄養失調でつぎつぎと死んで行きました。それでも土地の人たちは、カンダバーが畑に沢山あるのに、私たちにはゆずってくれませんでしたよ。

沖縄戦証言 北谷町砂辺 - Battle of Okinawa

北谷町砂辺出身の二十歳の女性の証言

漢那 (漢那収容所) からは、どこにも行けなかったんですよ。中川(金武村)めたりに、米軍のキャンプができていて、それから先には通れませんでした。金武や石川(旧美里村)は、食盤事情がとてもいいという噂を聞いていたんですが。漢那では、一人一週間分として米二合しか配給がありませんでした。私たちは、私とおじいさんと子供の分の配給でしたけど、それだけではとても足りないもんですから、私は毎日イモ掘り作業に出掛けていました。惣慶(伯金武村)に五名でイモ掘りに行ったとき、私だけが危険な目に逢ったことがありました。私たちがイモ掘りを畑の中でしているときでした。突然ジープに乗ったアメリカ兵が来たんですよ。

沖縄戦証言 北谷町砂辺 - Battle of Okinawa

 

宜野座野戦病院の遺骨

7月10日には中南部の診療所から宜野座野戦病院に移送された患者が、1日で1,500人に達した。90%が外傷患者で、あとの10%は栄養失調、寄生虫結核、下痢その他の疾病だった。

玉城村から国頭に疎開しヤンバルから収容された16歳少女の証言

1983年7月1日の沖縄タイムスに「野戦病院跡から遺骨ぞくぞく、宜野座村体育館の建設現場」という見出しで三十八年ぶりに戦病死者の遺骨が発掘されたという記事を見て、我が目を疑いました。それはまがいもなく私達が米軍の野戦病院で看病をし空しく死んでいった人たちの遺骨だったからです。...  (中略)  ...

数日たったある日、班長さんから「明日島尻から大勢の負傷者が運ばれてくるので、若い娘たちは看護のため病院に行くように」との伝達を受けました。島尻からと聞き、もしや父もその中にいるのではと、たかぶる気持ちを抑えて米軍の野戦病院に急ぎました。

病院とは名ばかりで、畑の上に長いテントが張られ野戦用ベットが並べてあるだけです。その長いテントが10棟程あったと思います。間もなく負傷者を乗せたトラックが次々到着しました。トラックから降ろされベットに移された患者のあまりのむごたらしさに怖さを感じました。衣服も包帯も血にまみれ傷の痛さに呻いています。手や足を失い或は体中傷だらけでが沸いている者、全身火傷の者、家屋の下敷きになった者、三歳位の子供から国民学校子供学徒隊防衛隊一般避難民とほとんどの人が家族と離れ一人で収容されていました。私は第五テントに配置され患者の食事の世話や便の世話をしました。収容された人に知った人はいないか、何よりも我が村や父の消息が知りたくて捜しまわりました。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

写真は糸満の臨時救護所で。

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海兵隊: Jap nurses take care of wounded civilians as they are brought to Itoman. The nurses work very fast and do very good work.

負傷して糸満に収容された民間人を手当する日本人(地元の)看護要員。彼女たちの働きぶりは敏速、且つ有能である。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

傷の治療は米軍の衛生兵が担当していましたが、時には私達も手伝いました。ガーゼを替え消毒し白い粉薬をふるだけの簡単な治療でした。手術室は他にあって腐った手足の切断や破片の摘出をしているようでした。私たちは夜間も交代で患者の世話にあたりましたが、毎日のように死亡者がでました。朝になるとベットの上やテントの外に出て死んでいるしかばねが見つかります。制服を着て髪を三つ編みにした女学生が破傷風にかかり引きつけを起こして死んでいきました。

死体を担架に乗せ死体置場まで運ぶのも私たちの仕事でした。死体置場には沢山の死体が並べられていました。祖国の勝利を信じ祖国防衛のため戦闘に参加し傷を負い屍となって並べられている姿に無念の涙を禁ずることができませんでした。

私たちのテントから少し離れた病棟で異様な光景を見ました。若い女性が全裸になり大声でわめきながら土の上を転げまわっています。その側に一歳位の男の子が座っています。衛生兵や看護婦が見守っているようでした。そんな状態が二、三日続いた頃、看護婦がその女の体をきれいに洗っていました。しばらくして、その場所を通りかかった時には病院着を着せられ静かになっていました。注射を打たれたのだろうとの話でした。若い美しい母親の死顔でした。

野戦病院構内の一棟のテントに朝鮮から連れてこられた慰安婦が収容されていました。その数は4、50人位いたと思います。...  (中略)  ... 朝鮮から徴用で沖縄に送られ日本兵相手の慰安婦にされていたそうです。そして悲惨な沖縄戦に遭遇した彼女らは米兵に保護され一ヶ所に集められていてひたすら故郷へ帰る日を待っているのであろうか。同じ女性として彼女らの境遇を気の毒に思いました。

沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) - Battle of Okinawa

11月に米軍は住民に遺骨の掘りおこしを禁止した。

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収容所から戻るときに家族の遺体を掘り起こすケースが多発したため、アメリカ軍は65年前の今日、密葬や洗骨の禁止令を出しました。

宜野座小学校の敷地にあったアメリカ軍の野戦病院。当時7歳で、左腕の骨が見える大けがをしていた高嶺騏一さんは二人の従妹と共に運び込まれました。

騏一さん「中の骨が見えよったです」

大やけどをしていた従妹の姉妹は三日目に亡くなりました。

騏一さん「皮膚は焼けただれてかわいそうでした。水を飲ましたらいかん、死ぬといわれた。あげたかったんですけどね。一晩中水、水って・・・」

病院の隣にあった埋葬地では穴掘り作業が間に合わず、一つの穴に3、4体を一緒に入れる状態。ここに、幼い従妹も埋められました。

これは、目印におかれた石です。土葬の習慣がなかった沖縄では、土に埋められるのは豚や牛のようだと嫌がられ、必ず掘り出したいと印をつけたのです。

11月。墓を掘り起こし連れ帰ろうとする人や岩陰に遺体を隠す人が続出したため、アメリカ軍は衛生上の理由で「墓の掘り起こしや洗骨」を禁止しました。

昭和58年、宜野座体育館を立てるときに埋葬地の一部が発掘されました。現場には連日多くの遺族が詰めかけましたが、墓標が見つかってもほかの人の骨と混ざっていて、結局、誰も持ち帰ることはできませんでした。騏一さんも従妹の手掛かりは探せませんでした。

65年前のきょうは1945年11月11日(日) – QAB NEWS Headline

 

 

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  1. 沖縄戦収容所 共同墓地跡から遺骨「まだ多く残っている可能性」 | 沖縄タイムス

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