北部の掃討 / 「皇軍」の神話と現実 / 7月12日の沖縄住民の状況 / 百名収容所から大浦崎へ / 子を失い、親を失う
米軍の動向
北部の掃討戦と偵察活動
何府の敗残兵の多くは、北部には健全な日本軍部隊がいるはずと信じたが、そもそもそんなものは存在しなかった。やんばるに残る敗残兵は食糧を求めてさまよい、一方、その敗残兵を追い詰める米軍の掃討戦が続いていた。
27th Cavalry Recon. Troop, Mech., display the map with the route of their RCN mission across the mountains of northern Okinawa.【訳】沖縄北部の山岳地帯での偵察作戦の道順を地図で示す第27装甲機動部隊・偵察隊の小隊長と軍曹達。1945年7月12日
Led by 1st Lt. V. Britt, Bronx, N.Y., a patrol from the 27th Cavalry Reconnaissance (******) leaves the village of Takazato on a reconnaisance mission that will take them across the mountain range of Northern Okinawa.【訳】沖縄北部連山を横切る偵察活動で高里部落 (註・大宜味村田嘉里?) を離れるブリット中尉率いる第27装甲機動偵察隊。1945年7月12日
A patrol of the 27th Cavalry Reconnaissance Troop Mechanized, fords a stream found during their reconnaissance mission which will load them across the high mountains of northern, Okinawa.【訳】本島北部の山林地帯の偵察活動中に見つかった小川を渡る第27機械化騎兵偵察隊。1945年7月12日撮影
第32軍の敗残兵
「皇国」の神話と現実
南部の敗残兵の多くは、沖縄島の北端「国頭」に存在する、あるいは再上陸すると信じられた日本の部隊に「合流」するため、「国頭突破」を目指す。
沖縄戦の末期、中学生兵士たちは首里から軍と共に南部へ撤退する。だがすぐに、そこは地獄の戦場となった。軍は解体され、中学生たちは“鉄の暴風”の下をさまよい、ある者は負傷、ある者は絶命し、ある者は国頭突破をめざす... 。
兼城一「沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録下」高文研 2005年
「皇国」の現実
菊の御紋章の三八銃。
6月21日頃、摩文仁で捕虜となった一中鉄血勤皇隊の山田義邦さん証言
軽迫 (軽迫撃砲) 、迫撃砲。こんな小さい迫撃砲、あれで戦車にボンとやるわけですよ。1発2発、わたしはそのそばで弾を運んでいたのがひっくり返されたんですよ。2発ぐらい、1発撃ったのかな。お返しですよ、バーンっていって真っ黒になって真っ赤になって (その時、右目の視力を失う) 、意味が分からなくなって吹っ飛んじゃったんですよ。あんな小さな軽迫で戦車を狙ったって、当たったって跳ね返ってきますよ。
日本軍の兵器なんて貧弱なもんでね。だって僕らが持っていた小銃は明治38年の小銃銃ですよ、三八銃って言って。あれを天皇陛下のマークが入っているからってね、もう首里にいるころからさび付いて動かないわけですよ。僕の銃剣なんか真っ赤な錆ですよ。もう抜こうとしても抜けないよ。あれは兵器じゃないですよ。飾りですよ、もう。小銃なんかさびで動かないですよ。僕は首里から逃げるときは、僕はもう弾倉から、弾の入った弾倉から小銃から全部ほったらかして来た。あれ昔だったら大変ですよ、あれ。天皇陛下の菊の御紋章が入っているからっていって大変なもんですよ。もう負け戦なんでそんなもんどうでもいいんですよ。捨てたってどうってことない。僕は軍司令官の、司令部の砲兵司令官の和田中将というのがいて、この人のニワトリ、あの人が食べるニワトリ、首里から持たされた。僕らは飯の食っていないのに、どうせあの人のもんですよ。ニワトリとあの人の小さなカバンを持たされて、お前先に行けといって行かされた。
近藤一さん「こんなバカな戦争にね、行った若い者はね、本当に、無駄死にというかね。あと5分、10分で自分は亡くなるんだと分かっていても、俺は切り込みにいくよと。これはお別れだなと。死ぬと言うことが分かっていても、命令されれば行くんだと。そういう思いでみんな亡くなった・・・そういう、最前線の苦しい想いとか、酷い戦争の状態は・・・今の日本国民は知ろうともしないし、何とも思っていない。」
250人の部隊で、生き残ったのは11人。近藤さんは、戦後、新聞や本で、沖縄戦が、本土決戦の時間稼ぎのための捨石作戦だったと知ることになります。
近藤一さん「我々は捨てられた兵隊だと。その考えは全然変わらないです。彼らが戦争を始めても、(彼らは) 犠牲にはならない。我々、貧乏の人、末端の人がみんな犠牲になる。こういう図式を絶対に変えなきゃいかんというのが私の本音なんです。」
6月17日、負傷兵の「後始末」を命じた隊長と、屋嘉捕虜収容所で再会する。
毎日、新たに捕虜になった日本兵がトラックで送り込まれてくる。知り合いはいないか。片山さんは柵にへばりついて、見知った顔を捜すのが日課となった。「そしたら、隊長を見つけたんですよ。具志頭の陣地で、斬り込み前にたばこをくれた隊長を。僕に『後始末』を指示した人やね。もうびっくりしたですよ。向こうも『片山、生きとったか』って言うてね。… ほかの兵隊がどうなったかは聞きませんでした。でも、生きていれば出会っているはずや。まさか隊長だけ生きてるなんてなあ。斬り込みの途中で負傷して、アメリカの治療を受けたらしい」
そのとき、住民は・・・
7月12日現在の沖縄住民の状況
鳥取県出身の米海軍軍医で情報将校であったスタンレー・ベネットは、7月12日現在において以下のように住民の状況を報告している。
7月12日現在の犠牲者数の算定
爆撃、砲撃、その他の戦争の緊急事態による民間人の死傷者数を正確に見積もることはできないが、特に戦闘中に日本軍の戦線の背後に閉じ込められた人々の被害が非常に大きかったことは間違いない。乏しい食料と劣悪な衛生環境で長期間洞窟に隠れていたため、特に幼児や高齢者、虚弱者に病気の被害が増えた。おそらく、一定数の民間人が洞窟に閉じ込められた状態にあったと考えられるが、民間人を壕から解放するための努力が今も払われている。
7月12日、沖縄では約26万5,000人の民間人が収容されている。まだ徹底的に調査されていない地域で統計から抜け落ちている人の数を考慮すると、30万人を超える沖縄人が島に生き残ったとは考えにくく、おそらく人口の4分の1にあたる7万5千人から10万人の民間人が死亡・行方不明になっている。この損失が未知の大規模な移民によるものでない限り、彼らのほとんどは戦闘行為から直接的または間接的に生じた何らかの原因で死亡したと結論づけざるをえない。
7月中旬時点で我々の戦線内にいた民間人のうち、12歳未満の子供と45歳以上の老人が総数の大部分を占めていた。成人女性の数は成人男性の数を 2 対 1 をはるかに超える数であり、家族を支えるような年代の男性はほとんどいなかった。
軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa
百名民間人収容所から北部東海岸へ
知念半島には最南端の百名 (Hyakuna) 民間人収容所がおかれていた。
米軍は12の民間人収容所地区を設置し、基地建設の都合で住民を転々と移送した。
7月11日から8月18日にかけ、米軍は知念半島を海軍拠点として基地化するため、南部の知念地区周辺に収容された人々を強制的に大浦崎収容所地区 (辺野古周辺) に移動させた。大浦崎地区には既に6月26日以降から本部半島の住民が最悪の状態で強制移送されており、米軍は沖縄南部の戦場をやっとのことで生き残った傷ついた住民に移送を強制し、飢餓とマラリヤが蔓延する中、移送先の劣悪な北部の収容所で多くの人たちが亡くなった。
7月10日頃から南部地区の知念半島の各収容所から北部の大浦湾周辺の久志村各部落(瀬嵩市となる)へ移動が始まった。この住民移動計画は、8月15日の日本軍降服によって中止となったが、7月10日前後から8月18日まで知念市から瀬嵩地区への避難民移動は数次にわたって行われた。南部地区からの避難民は山あいの小さい集落に押しこまれ、焼け残った民家に何世帯もいっしょに入り、山の木を伐り出して仮小屋をつくり、またテント張りの土間に草の葉を敷いて寝おきをした。野菜もなく食糧の配給も少なく、その上マラリアが猫搬した。多くの老人や子供が栄養失調とマラリアで山原の収容所で亡くなられた。
《『知念村史』知念村 (1994年) 》
Roy C. Carlisle, S1/c, USNR, watches and guards the civilian group as they prepare to leave on an LST to northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】民間人の一団を警護する海軍予備役のカーライル水兵。彼らは、戦車揚陸艦に乗って沖縄本島北部へ向かう準備をしている。(1945年7月12日撮影)
やんばるへの立ち退き
7月11日 佐敷村の収容所 540人
7月12日 玉城村垣花二区 (親豐原) 630人
7月15日 知念村知名・安座間 770人
8月13日 玉城村垣花一区 1400人
8月18日 玉城村垣花一区 2400人
Japanese people on 2nd deck of USS LST-1031 on their way to northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】戦車揚陸艦 LST-1031の第2甲板にいる民間人。沖縄本島北部に向かう途上にて。(1945年7月12日撮影)
Japs on Okinawa, Ryukyu Islands move along into the USS LST-1031 to be taken to the northern part of island.【訳】戦車揚陸艦 LST-1031に向かって移動する、沖縄本島の民間人。同艦によって、沖縄本島北部に運ばれた。(1945年7月12日撮影)
捕虜になった私達は全員字内の東側、セイサナ井戸(現在の大川)の上に集められ、焼けずに残っていた近くの民家に一泊し、翌朝直ぐ百名に連行された。百名から今度は知念の山里に移り、其処で一週間位暮らしていたが、その後、親慶原に入れるとのことで自分の家に舞い戻った。幸い、家は焼けずに残っていた。ところがやっと落ち着いた生活を取り戻せると思った矢先、親慶原住民に山原 (やんばる) への移動令が出され、村屋敷地(現在の公民館駐車場)に集めれた。字民は食糧と生活用品を思い思いに担いで集まったが、検査官によっては、点検が厳しく持ち運びを断られた物品もあった。私の家族も山原での食糧が心配で米二俵持ち込んだが断られ、合鑑も付けたまま村屋近くの空屋に放置したまま佐敷に下った。山原へは当添の海岸からLSTで出発し辺野古の浜へ到着した。辺野古から、今度は二見の東喜まで歩いての移動となった。重い荷物を担いでの移動である。私は途中、担いでいる荷物を放り投げようかと思ったが、放り投げてはいけないと諌(いさ)められ思いとどまった。あの時のきつさは今でも覚えている。
東喜に着くと、狭い地域の中それぞれの村ごとに玉城村、知念村と同村出身が集まって暮らしていた。狭い地域に鮨詰め状態に押し込められた大人数、当然のように食糧難に、みな苦しんだ。私達の関心事はどうやって毎日の食糧を確保するかという事だけだった。私は何人かの若者と一緒に二見から名護まで幾つも山を越えて食糧確保に※ と出かけた。名護の海岸近くには米軍の食糧物資が山のように積み上げられ、テントで覆われてある場所があった。其処に戦果をあげにと、何度か出かけた。
すでに大浦崎は過密で飢餓状態が広がっているにもかかわらず、さらに知念半島の住民が送り込まれる。老人は歩くこともできないほどだった。
Japanese people on 2nd deck of USS LST-1031 on their way to northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】戦車揚陸艦 LST-1031の第2甲板にいる民間人。沖縄本島北部に向かう途上にて。1945年7月12日撮影
この荒れ地に、手で持てるだけの荷物をもたせ、放り出した。沖縄南部の戦没者の多さは、6月23日から20日もたたないうちに、人命より基地建設を優先させ人々を強制移送した軍政府の収容所政策にも一因がある。
Japanese people carrying provisions from boats unto the wharf at northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】ボートから波止場に食料を運ぶ民間人。沖縄本島北部にて。1945年7月12日撮影
Japanese people carrying provisions from boats unto the wharf at northern Okinawa, Ryukyu Islands.【訳】ボートから波止場に食料を運ぶ民間人。沖縄本島北部にて。(1945年7月12日撮影)
喜屋武岬で兄弟6人を失い、母とはぐれた少女の証言
捕虜になってからはトラックに乗せられ、船のある港へ連れて行かれ、母とは別の船で、宜野座村にある収容所へと連れて行かれた。母とはどこではぐれたかは覚えていないが、宜野座の収容所で再会することができた。出会った時は私のことを死んだと思っていたのか、「生きていたんだね」と喜んだのを覚えているよ。
収容所での生活はとてもつらいものだった。ご飯もしょうゆと水を混ぜたようなスープとおにぎりが1日に一回出るだけ。栄養失調の人は飲み込めないから、食べることができない。たくさんの人が亡くなっていくのを見たよ。
疲れ切った人々と通訳官エリック・ソラクソン大尉 (左)。
At left is Lt. N. Erick Thorlaksson, USNR, acting as a supervisor and directing the people around northern part of Okinawa, Ryukyu Islands. He speaks their language very fluently.【訳】写真左は、監督として指示を与えている海軍予備役のソラクソン大尉。沖縄本島北部にて。ソラクソン大尉は、日本語を流ちょうに話す。(1945年7月12日撮影)
Japs at Okinawa, Ryukyu Islands carrying belongings to landing craft. Some are taken to the LC via truck. All headed for northern part of the island.【訳】揚陸艇に所持品を運ぶ沖縄本島の民間人。トラックで同艇に移送される者もいた。全員が沖縄本島北部に向かっていた。(1945年7月12日撮影)
知念半島から久志村東喜 (現在は名護市二見) へ
親慶原住民、ヤンバル東喜のマラリア戦争で家族を失う
やっと自分の家で家族一緒に生活できると思っていたら急に、親慶原の避難民にヤンバルへの立ち退き命令がでて、皆立ち退かされた。新里では村屋(現、新里公民館)に一晩泊められ、馬天の兼久側海岸から出発し、ヤンバルの久志に下ろされた。其処からトラックに乗せられ、二見の東喜に連れて行かれ、そこには破風屋が準備されていたが、マラリアと食糧難で大変だった。親慶原の家から食糧も持てるだけ持って行ったが、それを食べ尽くしてからが大変だった。僅かに配給はあったと思うが、全然足りなかった。虫が食べるような葉っぱは何でも食べた。栄養失調の上にマラリアが猛威を振るい敵の弾より怖かった。敵の弾には当たらないように逃げ隠れが出来、運が良ければ当たらなかったが、マラリアは誰に罹るのか分からない。マラリア戦争と言っていた。
私の家族は敵の弾では一人も死ななかったが、祖母と妹は東喜でマラリア戦争にやられた。毎日同じ時刻が来ると、人も突き飛ばすくらい寒さで震え、苦しみ、衰弱しながら死んでいった。木材もなく棺箱も作れず、地べたにそのまま埋葬した。
その後、私が草履作りの仕事についたら毎日、米二合ずつの現物支給があった。母はアタラサ(節約)して、あまり食べずに枕元の缶かんに貯めていた。母はマラリアを患い、余り体力もなく栄養が必要なのに食べようとしなかった。貯えて置かないと心配だったのだと思う。
昭和20年10月頃、やっと玉城村に帰れる日が来た。米も一斗缶二個に増え、トラックに載せて持ち帰ったが、衰弱しきっていた母はそのトラックの上で亡くなった。私達は悲しむ間もなく當山区に着いた。当時は親慶原には帰れなかった (知念半島に基地が作られていたため) 。急いで寄留場所の民家を探して、母をおろした。その後、荷物を取りに行ったが米は既になくなっていた。
敵の砲弾の合間をくぐり、あの壕からこの壕へと逃げ回るのも大変だったが、あの頃は家族全員無事だった。私の家族は戦争の弾でやられたと言うよりも、ヤンバル東喜のマラリア戦争でやられた。
Japs at Okinawa, Ryukyu Islands carrying belongings to landing craft. Some are taken to the LC via truck. All headed for northern part of the island.【訳】揚陸艇に所持品を運ぶ沖縄本島の民間人。トラックで同艇に移送される者もいた。全員が沖縄本島北部に向かっていた。(1945年7月12日撮影)
国民学校から兵隊へ - 息子を失って
息子たちは、中西の国民学校で石部隊に入隊して、浦添村の内間で壕を掘ったりなどしていたが、私たちはそこへ何回も面会に行ったことがある。また息子も、二日間だけ休暇があったといって、村まで帰って来たこともあった。そして家族と楽しく語り過ごして、二日目の午前三時頃にこちらを出発した。私は大浜の橋の近くまで送って行ったが、息子は「お母さんまた正月に来て下さい」と言いながら別れたものであった。あの時に、誰に何と言われようが引き留めておけばよかったものを、息子は「そんなことをして、もし戦争に勝つようなことがあれば、家族そろって大変なことになるというから」などと冗談を言って笑っていたが、とうとうあの時に別れたままになってしまった。
息子は、西原村の棚原で死んだとのことであるが、どこでどのようにして死んだのかさだかではない。それで私は、羽地の収容所 (田井等地区) にいた頃に、息子たちと一緒に戦闘に加わった人々には、一人ひとり尋ねて廻わった。するとその中に、息子の最後のもようを知っている人がいたけれど、私に向かって、「母親のあなたにそのことを教えたら、あなたはショックで寝込んでしまうだろう」などと言うので、私は「足が切れていようが、首が吹っ飛んでいようが、もうそんなことで驚きはすまい。きちんととむらってあげたいだけですから」と、何度も頼み込んだのだが、なぜか彼等は本当のことを教えてくれなかった。
浜元にも棚原で肉親を亡くした方がいたので、別の日にその方と一緒に再度行って頼んでみたが、やはり無駄であった。誰が誰やら見分けもつかないということであれば、それはそれで弔う方法はあるからと、熱心に頼み込んだのだけれど、ついに聞き出すことはできなかった。息子はとても健康体で、高等二年を卒業するまで一日たりとも学校を休んだことがなかった。それだけにその遺骨にさえ会えなかったことは、残念でならなかった。
国民学校とは
国民学校とは、支那事変後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。1941年の国民学校令によって設立される。教育勅語の教えを奉戴して皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を目的とし、国家主義的色彩が濃厚に加味された。
国民学校の目的は、国民学校令第一条の「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」という40字に要約されている。「皇国ノ道」とは、教育勅語に示された「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、「端的にいえば皇運扶翼の道」と解したのである。
コザ孤児院
65年前のこの頃、親や兄弟と離ればなれになった孤児たちがピークに達していました。
傷の手当を受ける子、カメラを寂しそうに見つめる子どもたち。65年前のこの頃、沖縄戦で親を亡くした乳児から20歳未満の子どもたちが孤児院に集められました。
神谷洋子さん「摩文仁の方でお母さんが亡くなってから、向こうから大型のトラックに乗せられ、孤児は孤児に分けられて」
当時8歳だった神谷洋子さん。アメリカ軍のトラックでコザ孤児院にやってきました。神谷さん「栄養失調して、母をなくして、飲むのも食べるのも何もないでないままここに来たものだから。これから熱は出るし、ここに何が月いたかもわりませんけど」
屋号・タードゥシー久場と呼ばれたコザの孤児院。ここでの生活は、寂しく苦しかったと神谷さんは言います。65年経った今も沖縄市住吉にそのままの形で残されています。家を提供したAさんは、現在この家で生活をしながら子どもたちの巣立った家を残したいと話します。
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