〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月8日 『地域で異なる沖縄戦』

日本軍を追う米軍 / 日本軍に追われる住民 / 標的となる小禄の海軍 / 摩文仁の酒宴

 

米軍の動向

南進する米軍

米軍は南下した日本軍を追い、一気に糸満、与座、具志頭まで進攻する。

Chapter 10 | Our World War II Veterans

南への進撃を続けるアメリカ軍はこの日、ついに糸満の照屋付近まで到達します。現在の那覇空港の場所にあった小禄飛行場を制圧したアメリカ軍は、南部への進撃を確実に強化していきました。

65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline

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Mortar shells being fixed up to be dropped in front lines by TBM'S.【訳】TBM機から前線に投下する迫撃砲弾の取り付け。(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

八重瀬与座

米軍は6月4日に港川を占領、港川から物資を搬入する。

 … 米軍の前線と後方の与那原集積所とをつなぐ道路が狭く、装甲車や戦車が足りなかったことから、各指揮官とも、それぞれ、港川の小さな港から必要物資を集めていた。(467頁) … 6月8日には、かなりの量の物資が港川についた。中型戦車2個中隊が前線近くにあり、他の戦車も進撃していた。第7師団のアーノルド少将は、最初の第一槌を新しい日本軍前線に加えようと計画し、6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。(471頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 467、471頁より》

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Tanks advancing to the village of Yuza.【訳】与座集落へ進軍する戦車。(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Gun positions on a hill in Yuza, commanding view in all directions.【訳】与座の見晴らしのよい丘の銃座(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Remains of chemical factory of Yuza.【訳】与座 (糸満市) 集落にあった化学工場の残骸。(1945年6月8日撮影)

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小禄半島上陸: 5日目

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9

小禄半島

米軍は小禄の上陸拠点で船体の残骸引き揚げ作業を行っている。

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How the new beachhead looked to Marines making the inter-island landing on 3 June 1945 on the Oroku Peninsula on the outskirts of Naha on Okinawa. View shown Japanese wrecked landing barge and our own landing craft used as hospitals.【訳】海兵隊員の目に映った1945年6月3日那覇市小禄の上陸拠点。破壊した日本軍の上陸用はしけと米軍の上陸用舟艇(病院として使用)が見える(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Marines of the First Battalion, 4th Regiment, 6th Marine Division rest and watch our planes attack Jap positions on edge of Naha airport.【訳】那覇飛行場のはずれで休憩をとりながら、米軍戦闘機が日本軍陣地を攻撃するのを見る第6海兵師団第4連隊第1大隊の海兵隊員。(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

後方で進む基地建設

住民を収容所に隔離しながら、米軍は沖縄島を基地の島に作り変えた。海軍の建設大隊*1だけでも5万5千人の大隊が沖縄の基地とそのインフラ建設に関わった。

沖縄におけるシービーズの任務は実に計り知れないものだった。激しい砲撃によって物理的施設はほとんど破壊されたこの農地の島に、彼らは海洋港、道路のネットワーク、爆撃機と戦闘機の飛行場、水上飛行機基地、クォンセット村、戦車農場、貯蔵庫、病院、船舶修理施設を建設した。55,000人近くの建設大隊が4つの旅団に編成され、沖縄の建設作戦に参加した。1945年8月初旬までに、日本本土への侵攻を開始するのに十分な施設、物資、人員が手元にあった。

Seabee History - World War II

六芒星 (ユダヤ教) と十字架 (キリスト教) が掲げられたチャペル。

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7th Division Chapel.【訳】第7師団教会(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

日本軍の捕虜や収容所に収容された民間人は、米軍の補給や基地建設の軍労働力となった。

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Marines with Natives. Okinawa civilians are now working with a quartermaster section of a Marine Air Wing, assisting in camp construction. Carrying tiles for the floor of a tent are two natives, and l to r, Technical Sergeant Irvin J. Beirne, 26,37th St., Kansas City, Mo., and formerly of Dennison, Iowa, and Master Sergeant John W. Derouin, 24, 934 water St., Eau Claire, Wisc.【訳】地元民と海兵隊員。沖縄人は基地建設に携わっている海兵航空団の需品部将校とともに働いている。テントの床に使う瓦を運ぶのは2人の地元民。(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の動向

小禄半島の海軍: 大田実海軍少将

陸軍第32軍司令部によって5月28日小禄に差し戻された海軍は、いまや米軍に包囲され風前の灯火となっていた。

激しい艦砲射撃の跡が残る中、65年前のきょうまでに、日本軍は小禄地区に孤立部隊 (海軍)を残し、南部への撤退を続けました。一方、アメリカ軍は、小禄の孤立陣地に連日激しい攻撃を加えながら、この日、偵察部隊の一部が糸満の照屋付近にまで進みました。そそりたつ断崖がアメリカ軍の進軍を阻んだ、八重瀬岳の陣地を巡る攻防も激しさを増していきます。

65年前のきょうは1945年6月8日 – QAB NEWS Headline

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USMC Operations in WWII:  [Chapter II-9

何のための手榴弾か、しかも支援の時期が遅すぎて犠牲を増やすパターンである。

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

… 五航艦はこの夜、小禄戦線支援のため、陸攻機3機に榴弾1080発を空中投下させた。しかし、1機は投下前に撃墜され、2機分は友軍の位置が確認出来ず、沖根は入手出来なかった

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 433-434頁より》

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ESCAPE--Knee deep in the water’s edge along the seawall on Okinawa, a Jap sodier makes an attempt to escape from the pursuing Marines. One enemy soldier lies in the mud, killed by the Leathernecks.【訳】膝まで泥につかりながら防波堤沿いに海兵隊から逃れようとする日本兵。その横に米海兵隊員に殺された日本兵がぬかるみの中横たわる。沖縄。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者註: 米海兵隊の戦史では、写真の撮影場所を「小禄半島近くの堤防沿い」と記載している)

Trying in vain to escape and knee deep in the water's edge along the sea wall near the Oroku Peninsula, a Japanese soldier passes the bodies of two other soldiers.

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

小禄の海軍司令部壕、航空局職員の証言

米軍の沖縄進攻とともに沖縄派遣第32軍 (以下、沖縄軍総司令部と記す) の指揮下に入った沖縄海軍は激しく抗戦したというのに、沖縄軍最高司令官の所属する沖縄陸軍司令部はなぜか一カ月余りで首里を去り、南部の摩文仁の大きな壕に撤退していたという。いかにもイージーな、手っ取り早い話だ。相手にどれだけ出血を強いたのかさえも分からない。壕内での噂で聞いたが、沖縄軍の最高司令官が配下である沖縄海軍司令部を見捨てたまま後退してしまったのは、どう考えても無責任である。しかも沖縄軍総司令部内では、幹部は女を侍らせ贅沢三味だったと悪口を言う者がだんだん増えてきた。(42-43頁)

いよいよこの沖縄海軍司令部が標的になった。しかし、武器なしの無手勝流ではどうしようもない。標高数メートルしかない飛行場だから、上陸した米兵は戦車に乗り、広場を横断し、 苦もなくここまで到達できる。 こちらは武器がないから肉弾戦しかなかった。… 所詮力不足で、ほとんどこちらは無抵抗だから、二、三日で当司令部は占領されるだろう。悲しいかな、その細かい状況はわれわれにはよく分からなかった。 不安ばかりで苦悩の毎日であった。(51頁)

上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』(2008) - Battle of Okinawa

 

摩文仁: 司令部壕の酒宴

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

多くの人命を盾に摩文仁に南下した第32軍司令部では、首里から与座に送られた女性たち30人ほどが摩文仁の司令部壕に移ってきている。その中には辻の妓女もいたと八原作戦参謀が記している。八原は女性たちの帰還に「ははーん」を二回も繰り返している。

八原高級参謀の回想:

8日夜、砲撃のしじまを見て、洞窟を抜けだした私は、高地中腹に立って、通り雨に熱のある頬を気持ちよく冷やしていた。敵の照明弾が与座岳港川の空で、花火のように揚がっている。照明弾が空中でぱっと炸裂する瞬間、付近一帯の物、人の顔まで弁別できるほど明るくなるが、すぐ鼻をつままれてもわからぬ漆黒の闇にかえる。この明暗相次ぐ高地の麓から、蕭々として登ってくる一列側面縦隊の一隊がある。よく看ると、大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名だ。翁長さん!渡嘉敷さん!と呼び交わす声に、ははーん、例の一行だなと察したが、黙ってやり過ごした。
… 高級参謀殿!と挨拶されたが、私はわざと通り一辺の応答をしたのみであった。副官部には、彼女らのほか、数名の女性が働いていた。辻町の妓女もいる。私は、ははーんと思ったが、今さらなにをか言わんやである。最期に直面した人々の心理は、私にも解せぬわけではない。(385-386頁)

室の改造成って、住み心地の多少よくなった牛島将軍は、ロウソクの灯を頼りに、相変わらず感状の清書や読書に余念がない。そして、これに飽かれると、小刀で静かに鰹節削りを始められる。鰹節削りは、精神統一にもってこいの作業だ。

参謀室は、司令官のすぐ隣だ。将軍は必ず誰かを集めて酒宴を開き、気焔をあげておられる。そうでないときは例の通り、でっかいパイプに金鵄を詰めて吸いながら、そこはかとなく本を読んでおられる。そして、5月4日攻勢失敗後の口癖で、「高級参謀!戦略持久もそろそろ切りあげてくれ。この生活には耐え切れなくなった」と冗談とも、弱音ともつかぬことを申される。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 385-386、386頁より》

 

そのとき、住民は・・・

戦地の赤ん坊と子どもたち

乳飲み児は飢えのために真っ先に倒れた。母親の乳が出なくなると、つぶしたサツマイモを湯にといたが、赤ん坊はそれを吐き出してしまった。やがて、赤ん坊は「黄色い泥人形」になり、泣くのもやめ、冷たくなっていった。数人の母親は子供を胸に抱き続けたが、何の感情も示さなかった。母親たちも餓死の縁に立っていたが、通常、次に死ぬのは祖父母だった。

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 272-273頁より》

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《AIによるカラー処理》2nd Battalion, 22nd Marines, guide civilians found at front lines back to safety.

前線で見つけた民間人を安全確保のため前線より離れたところへ案内する第2海兵大隊第22部隊(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Civilian family. Small child was hit by shrapnel in both legs, father has shoulder wound.【訳】民間人一家。(炸裂した)榴散弾の破片を両足に受けた幼児と肩を負傷した父親(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

多くの住民が、日本軍に壕を奪われ、摩文仁へと追われて命を奪われた。家族を失った子どもたちは孤児となった。

子どもたちを殺すか、さもなくば、ここから出て行け!」。沖縄戦の時に国民学校(今の小学校)1年生だった私は、母と兄、2人の妹と一緒に隠れていた防空壕に、数人の日本兵が来て母に銃を突きつけ、脅し、食料を奪った光景を覚えています。小学3年の兄は、やけどを負って足が不自由な母に「妹たちを殺させないで」と言って肩を貸し、7歳だった私は1歳の妹をおぶって3歳の妹の手を引き、壕を出ました。

 海を埋め尽くしたアメリカの軍艦からの砲撃と戦闘機の爆撃が続き、火炎放射器も火を噴いて、空も地面も真っ赤に染まりました。逃げる住民は次々と倒れ、粉々にちぎれた人の肉片が顔に飛んできました。あてもなく歩く途中で、日本兵摩文仁方面は安全だから」と教わり、必死にたどり着きましたが、そこは地獄のようでした。

「お母さん、私たち死ぬしかないの?」と聞くと、母は土や砂で真っ黒に汚れた顔で、何も言わずに頭をなでてくれました。昼も夜も爆弾が降り注ぎ、辺りは煙で見えなくなりました。気づくと、母と兄の姿がありません。たくさんの死体を踏み越えて探すと、2人は崩れた岩の下敷きになって亡くなっていました。叫び声を上げて後ずさりし、我に返ると、今度はおぶっていた1歳の妹が冷たくなっていました。「起きてちょうだい!」と何度も揺さぶりましたが、動きません。妹のほおは紫色に変わり、目や鼻、口からウジがわき出して、払いのけても増えるばかりでした。 

やがて3歳の妹の胸に、砲弾の大きな破片が突き刺さりました。苦しそうな息で「お姉ちゃん、お水をちょうだい」と何度もせがまれましたが、戦場のまっただ中には、唇を潤す一滴の水さえありません。涙を浮かべながら、私の腕の中で息絶えました。 父も防衛隊として戦場へかり出され、亡くなりました。一人ぼっちになった私は、身も心も尽き果てて死体にうずもれ、遠のく意識の中で「今度は私が死ぬ番。これでみんなに会える」と思いました。どれほどの時間がたったのでしょう。目をさました時には、学校で「鬼畜」と教わったアメリカ兵に抱かれていました。助かったのです。

沖縄戦 7歳一人ぼっち 戦災孤児の戦後70年 沖縄タイムス

 

小禄半島で保護された住民

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Gathering up of civilians on Oroku Peninsula.【訳】小禄半島の地元民を集める(1945年6月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

海軍根拠地司令部を中心とする、附近一帯の壕からは、400人近くの住民が救出され、それらの住民が米兵の先導で、畦道を縫い丘の尾根を廻って一箇所に集められた。幾十日ぶりに仰ぐ太陽に、眩しそうに目を細めながら、呆然として立ちすくんだ。カサカサに乾いた顔や手足の皮膚は、黄色に萎え、目だけが異様に光っていた。老人の殆どは、手足が蒼黒く膨れ上り女の頭髪は、ささらのように乱れ、永い間の不潔からくる、軀からは、あかと膏のむせるような体臭が勾った。ボロボロのモンペが、その軀を形だけ包んでいる。若い女の掌は、しらみを潰した時の血がそまり、片腕や足首を失った負傷者は軽傷者の部類に属し、薬の代わりに化膿止めのつもりで塗った生味噌や葉タバコの下から、紫色の膿が、傷口一杯に溢れ、蛆が群がり湧いていた。機銃弾をまともに喰った、虚ろな眼窩に、ボロぎれを押し込んだ中年の男や、破片で尻の肉を半分削がれた女などがケロリとした顔で、米兵の応急手当を受けた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 175-176頁より》

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米軍心理戦リーフレット沖縄作戦 - Basically Okinawa

歩けぬ重傷者の中には、「たとえ非戦闘員であろうと、絶対に、敵に醜虜の身を晒すな」と叫んでいた兵隊や、軍服を脱ぎ捨て住民の着物を纏うた兵隊もいた。住民は、初めて、米軍が空中から撒いたビラの文句が、真実を物語っていることを知った。住民に紛れ込んでいた敗残兵は、すぐに米兵に見破られ、住民の群から引き離された。そのビラには、

「洞穴壕に隠れている住民は、直ちに壕を出ること。出る時は皆一緒に出ること。持ち得るだけの所有物を持って出ること。出る時には道に沿うて近くの海岸通りを選んで出ていくこと。昼間歩くこと、決して日本軍人と一緒に歩かぬこと。夜間歩いたり、或いは、日本軍人の相手をすると兵隊と間違われて射たれる危険がある。米軍を見たら敵対行動を取らぬこと。また逃げないこと。恐れずに、彼等を呼んで待つこと。米兵は皆さんを安全な場所へ連れてゆき、充分に食糧を与え、飲料水や薬や家屋を与える」と書かれ、裏には、ジープの走る大道を、延々長蛇の列をなして、安全地帯へ急ぐ、住民の避難状況を撮った写真が、刷り込まれてあった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 176-177頁より》

 

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*1:Navy Construction Battalion (CBs)